紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

「しゃべり場」の効用

2005-10-25 16:42:18 | 教育・学問論
今学期はゼミ形式の授業を多く担当している。3人の教員によりリレー式で数回だけ担当するはずだった授業に受講希望者が集まりすぎて、結局、別々にフル開講することになって、1年生向けのゼミが二つになり、3年生向けのゼミも二コマ連続でやっているし、大学院の授業もゼミ形式なので、合計5コマもやっている計算になる。

以前、ブログで書いたこともあるが、私は教員が一人でしゃべるゼミは講義と変わらず良くないと思っていたので、なるべく多くの学生が発言する機会を増やそうと努めてきた。それなりに効果を挙げてきたという自負もあった。今学期の授業でもその姿勢に変わりはないのだが、しゃべり放しのゼミが良いのかどうか、最近、疑問も感じてきた。

講義形式の授業のメリットは知識を体系的に効率よく伝達できることである。こちらがきちんと準備すれば一学期の間にかなりの情報量を詰め込むことができる。もっとも受動的な講義でどこまで実際に学生が理解できるかどうかは別問題である。大学の授業は「目次」に過ぎず、実際に自分で本を読むのにはかなわないと、私が教わったある先生は言っていた。確かにその通りである。以前、私の講義課目のアンケートで、「自分では到底調べられない情報量のレジュメがよかった」と書いている学生がいたが、自分で調べようという意欲があるのを頼もしく思った。実際、学生自身が何冊か代表的な本を読めばカバーできるような内容の講義も少なくないのだろう。

ゼミ形式の授業のよい点は学生が主体的に調べたり、発言できることである。しかし大人数のゼミだと必ずしもそれがうまく行かない。発表するのも数回に一回だったり、場合によっては一学期に一回しかないかもしれない。発言もよく発言する学生はどうしても限られてしまうし、黙って聞いていても何かを学ぶに違いないとはいえ、座っているだけじゃ本人も楽しくないだろう。かといって知識がないまま好き勝手な発言をして終わってしまってもあまり生産的ではない。学生主導の議論に批判的な同僚は、本を読まない、言い放しのゼミは、NHK教育で放送している人気番組の「真剣10代しゃべり場」みたいなものだと言っていた。

今学期、学生に議論を促すばかりの毎日に少し疑問を感じていたある日、たまたまこの「しゃべり場」を見てみた。すると10代のレギュラー出演者が好き勝手に発言するだけでなく、大人が議論を一応仕切っていた(私が見たときは、ラッパーのYOU THE ROCK氏だったが)。話題提供者の10代の男の子が中心になって話し、それに他の子たちが批判的にコメントし、YOU THE ROCK氏が一見、物分りのいい兄貴的なコメントを挟むという図式だった。実際の10代の子達の間でこの番組がどの程度見られているのかわからないし、ここでの議論が迷える10代にアドバイスになっているのかどうかもわからなかった。何となく大人が今の子が考えていることを知りたくて見る番組のような気もしなくもなかった。

自分自身の経験を振り返っても、短時間で相手の言うことのポイントを掴み、文章のようにポイントをまとめて適切に発言し、他の参加者の質問にきちんと答えるというトレーニングはゼミ形式の授業で発言し続けることでしかできないと思う。それは難しいことだ。授業中には上手く発言できずに、他の学生の発言や授業形式に対する不満を後で研究室に言いに来る学生が毎年、必ずいる。その度に、「ここで言うくらいなら授業中に頑張って言ってごらん」とアドバイスするのだが、それがうまく行かないから言いに来るのだろう。言いたいけど上手くいえない、そんな気持ちをもつこともゼミ形式の授業の効用であるに違いない。

議論のし放し、本の一部の丸写しの発表を聞いているだけでは意味がないと思い、最近は映像教材を用意したり、プリントを用意したり、講義的な情報伝達の要素を混ぜるようにしている。それでも何かが欠けている気がしてならない。複数のゼミを取れることになったのはいいことだが、ゼミが単なる一授業科目になってしまって、学生生活を賭ける特別なものでなくなってしまって、それほど準備もしないで臨むものになってしまったことにも原因があるのかもしれない。他の学生の発表には興味がないといわんばかりに簡単に欠席する学生も珍しくない。私が大学時代の別のゼミの先生は「親の葬式と本人の入院以外はゼミを欠席するな」と通達していたが、今思えば、もうその当時からゼミを簡単にサボる学生がいたからこそ、わざわざそんなことを言わなければならなかったのかもしれない。

人前で話したいという欲求に応えつつ、聞くに堪えるだけの議論をできるように教育していくのがゼミの課題であるのだろうが、そのためにはゼミの教師だけではなく、学生たち本人のもう少しの努力も必要であるに違いない。

自立支援を考える

2005-10-16 16:40:25 | 社会
大分前の話だが、日本の先端企業を扱った英語テキストを使っているクラスで、将来、入社してみたい企業への志望動機書を英語で書いてみるという宿題を出したことがあった。企業についていろいろ調べて、なぜ自分がその業界や企業に興味をもったのかを書いてもらったのだが、その中で目を引いたのが一人の学生の出した志望書だった。彼の父親は全盲らしく、家族の手助けなくしては一人で食事をすることもままならないらしい。しかし父親はなるべくなら家族に助けられずに万事を自分で行なおうともがいていて、そうした姿を見るのが息子としてつらく、将来は障害者のための補綴具メーカーに就職したいと書かれていた。心を動かす内容であり、おそらく企業もきっと採用してくれるだろうと思われるような志望書だったが、自立支援のあり方についていろいろ考えさせられた。

その後、8月にアメリカ人の政治学者を囲む研究会があった。彼は自分の政治学のクラスをとっていた学生のエピソードとしてこんな話を紹介した。「過度の援助は自立の妨げになる」と政治学のクラスで習ったある学生の前である日、杖をついた老人が倒れていた。優等生だった彼は授業で習った内容をバカ真面目に反芻して、老人を助けるべきか否か、逡巡していると、通りかかった中年の男がその老人を助けて、「若いくせにぼっと突っ立って何やってるんだ!それでも人間か」と怒ったという。次の日からその学生は政治学の授業に来なくなったというのがオチだった。出来すぎていて作り話じゃないかと思うが、その位、アメリカ政治のクラスでは定番の議論なのである。

アメリカの大学院で福祉をめぐる政治を勉強し始めた時に一番衝撃を受けたのは「援助に値しない貧困層 Undeserving Poor」という言葉だった。ペンシルバニア大学の社会史学者マイケル・カッツ教授の1990年の著書『援助に値しない貧困層-「貧困」に対する戦いから「福祉」に対する戦いへ』で有名になった言葉であるが、日本で「福祉」というと恵まれない人を助けるものであり、助けることがいいことだというのが暗黙の前提になっていた気がしたので初めて耳にしたときはどういう意味かすぐに理解できなかった。1980年代後半からアメリカでは、高齢者や障害者などの「援助に値する」貧困層と、未婚の母などの「援助に値しない」貧困層を区別し、後者への補助金を廃止・削減しようという動きが保守派を中心にさかんだった。特に槍玉に挙げられていたのが、シングルマザーを対象にしたAFDC(要扶養児童世帯補助金)で、10代で妊娠して未婚の母となった黒人女性が主な受給者になっていたため、この補助金があるせいで、かえって若年で未婚の出産が増えているなどと共和党保守派に批判されつづけ、クリントン民主党政権も1996年の「福祉改革法」で廃止し、就労を原則とし、一時的にしか援助しないTANF(貧困世帯一時補助金)へ切り替えた。これにより各州の福祉給付受給者数は激減したが、貧困問題はもちろん解決されなかった。

「援助に値しない貧困層」というネーミングは、自由主義的市場競争を重視し、北欧・西欧諸国と比較して「弱い」福祉国家であるといわれるアメリカらしいが、アメリカよりも福祉国家であることにコンセンサスがあると考えられてきた日本の福祉行政のあり方も一方では、厚生官僚など、行政による「保護」「収容」「給付」といった、国家による後見性を前提とした「措置」行政だと批判されてきた(例えば新藤宗幸『福祉行政と官僚制』岩波書店、1996)。国民の生存権や生活権を実質的に保障するために行政の役割が不可欠であるとしても、福祉サービスの主体が行政である限り、社会的スティグマ(烙印)や市民の自主性を阻害するという問題を免れない難しさが存在している。

郵政民営化法案に隠れてしまったが、先の通常国会で廃案になり、現在の特別国会で成立見込みの法案に「障害者自立支援法」がある。10月14日に参議院本会議で与党賛成多数で可決され、衆議院に送られた。同法案は、1.身体、知的、精神と各障害によって分かれていた施策や制度を一本化する、2.就業支援として職業訓練や創作活動の事業を促進し、空き店舗や空き教室などを活用できるよう規制緩和する、3.障害者が利用する福祉サービスについて国の財政負担を義務付けた上で、介護保険と同様、原則1割の自己負担を求めることを柱としているが、障害者団体を中心に、「一割負担」を求める点や、障害者の所得保障がない点などが批判されている。国の財政事情を鑑みると、「自立支援」よりも、障害者の「自己負担」の強化にポイントが置かれていると疑われるのも無理ないだろう。しかし第2のポイントである、障害者の就業支援や社会参加の拡大のための政策が重要なことは言うまでもない。この機会に真の「自立支援」とは何かを改めて問うてみる必要があるだろう。

日本の障害者行政は、障害者を健常者と区別し、親の庇護の元におくか、施設に入所させる方法を主流としてきたが、今日の障害者政策のあり方は「ノーマライゼーション」、つまり障害者や高齢者が社会の他の構成員と出来る限り同様に活動し、生活できる環境を作ることが重要だと考えられるようになってきた。この「障害者自立支援法」のコンセプトもそうした「ノーマライゼーション」の方向性に沿っているものだと言えるだろう。「健常者」に比べて就労機会や就労「能力」に限界がある障害者に所得保障することは一見「正しい」ように思われるが、行政による「施し」という社会的スティグマを押されたり、差別されるという問題点が残る。社会において異なる背景・条件を抱えた人々が共生するためには、ただ単に社会的に不利な立場にある人々に援助するだけでなく、そうした援助をすることが当然であるというコンセンサスが形成されること、もっと言えば自分もその立場になりうるということを心から理解する必要があるだろう。裏を返して言えば、自分も障害者になりうると思うと同時に、障害者が自分と同様に社会の担い手となりうると考える必要があるのである。その意味で就労支援や職業訓練の充実することや、可能限りの自己負担を求めることは決して間違っていないはずだ。

先ほど述べたように、「助けることがいいことだ」とは必ずしも思われてないアメリカで、障害者福祉を考える際によくなされている説明は、車社会のアメリカでは誰もが事故で車椅子に乗る可能性があり、障害者の問題は他人事ではなく、自分の問題なのだ、ということだった。こういう説明を聞けば、最も保守的で個人主義的なアメリカ人でも納得することだろう。

「援助」や「支援」という言葉自体にも、援助する側、支援する側の「優位」性や「優越」観が内在しており、「援助」される側、「支援」される側からすると、不公平感、被差別意識、スティグマを感じやすい構造になっている。そうした「タテ」の関係ではなく、自分の問題として、対等な市民間の相互扶助として障害者行政の問題を捉える意味でも、単に「自己負担」の増加を批判するのではなく、実効的な「自立支援」のあり方は何かを考える方に議論の力点をおくべきではないかと今回の法案をめぐる議論を聞いていて思った。


洋書店の思い出

2005-10-04 16:36:42 | 日記
このブログの読者の一人である、ゼミのK君が、「先生のこの前のブログ、難しすぎましたよ」と言ってきた。説明変数の話はなかなか分かりやすく解説しにくく、学生に読んで欲しくて書いたのだが、あまりうまく行かなかったようだ。K君は村上春樹の小説を貸してくれて、「先生、これでブログ書いてください」とか、イギリスからふざけた絵本を買ってきて、「これをネタにしてください」とか、いろいろリクエストを出してくるのだが、注文されて書けるほど器用ではないので、今日はたまたま目にした、洋書専門店の危機について書いてみたい。

毎日新聞-MSNニュースの10月4日の記事によると、ネット書店の普及で老舗の洋書専門店が苦戦しており、東京・神田・神保町の北沢書店も売り場を縮小したそうだ。この北沢書店にはいろんな思い出がある。一階は天井が高く、各種専門書が身長の二倍くらいある本棚に所狭しと収まっていて、ここに入ると外国に来た気分になれた。二階は革表紙の貴重本を販売していて、さらに格調高い雰囲気が味わえた。アメリカが「新世界」と分類されているのも古いイギリスの書店に来ている錯覚に陥らせてくれた。私の研究テーマであるアメリカ政治やアメリカ社会に関しての新刊本は、新宿の紀伊国屋書店の方が品揃えがよかったので、紀伊国屋書店か、東京駅前の八重洲ブックセンターを主に利用していたのだが、北沢書店を訪ねるのは本を買うより、洋書を眺める気分を味わう意味が大きかった。森鴎外など明治期の小説にも登場する丸善は、バーバリーや文房具の売り場の方が充実していて、院生が必要とするような専門書は少なかった。しかし文明開化の時代から舶来品を総合的に扱うのが、丸善の特長だったようだ。

修士論文のテーマが決まらず悩んでいた時、博士課程で何か新しい研究書を定例報告で紹介しなければならなかった時、ネタ探しに洋書店をよく訪れ、そこで何時間もつぶしたものだった。博士課程の時代には既にアマゾン・コムやバーンズ・アンド・ノーブルなどのオンライン書店も利用していたのだが、洋書はタイトルや紹介文だけで選ぶと、ハズレを掴まされる可能性が高い。特に日本の洋書専門店が発行しているカタログは日本語の紹介タイトルをつけるのがうまく、それに騙された教員も数知れないことだろう。大学の図書館に同じ洋書が何冊も入っていて、肝心な基本書が抜けていたりするのも、洋書店のカタログの説明の効果ではないかといつも疑っている。実際に店舗で手にとって選ぶと、値段はオンラインで買う倍くらいしても、確実に必要な本を選べるので、やはり出来れば店頭で見たいと思う。

国立大学は注文の手続きが面倒なので大学出入りの洋書専門店が繁盛したが、今はネットで出来るようになったので、値段の割高な洋書屋よりも、オンライン書店を使うようになったと記事では分析している。全くその通りで、新刊動向を多忙な毎日の中、チェックし、かつ繁雑な注文入力作業をするのは大変なので、校費や研究費で買う分は、ついつい出入りの洋書店に頼ってしまっているが、私費で買う本はほとんどオンラインで注文している。いずれにしても身近に洋書専門書の品揃えがいい本屋がないのは寂しいもので、北沢書店が懐かしく思い出される。

大学院時代の指導教授は、「自分の学生時代は、洋書を読まされるのが嬉しくて仕方なかったが、今の院生諸君は、洋書を嫌がって日本語でごまかそうとするんだな。洋書を使ったとたん、確実に不人気ゼミになる」などとよく嘆いていた。外国に関心がある学生や留学する学生が多いせいか、うちの学部生たちはイマドキの学生にしては英文や外国語を読もうと努力しているように感じられるが、大学院生たちは研究者予備軍でありながらもあまり原書を読もうとしない。確かに外国ニュースや外国の情報もインターネットを使うと日本語でかなり手に入るのだが、二次情報でなく、少しでも自分でオリジナルな情報に当たろうとしないのは残念な傾向だ。私が院生の時は、指導教授に日本語の本は使うなと言われた。日本語の本を全く使わないのも先行研究を無視することになるし、どうかと思うが、いわば退路を断って、英語を読まざるを得なくしたのだろう。それだけ日本でも英書を読まされていても、留学生活の1年目はただひたすら辞書ばかり引き続けていた記憶がある。未だに知らない単語も多いし、単語は覚えても覚えても一方で忘れる。ざるで水をすくっているようなものだ。洋書を読まない院生というのは、そうした努力全てを放棄していることになろう。

洋書専門店対オンライン書店の対決も深刻だろうが、大学の教員だけでなく、院生自体が洋書をますます読まなくなったら、ますます洋書店の経営が苦しくなっていくに違いない。大学院生の数は爆発的に増加しているはずだが、それに見合うだけの洋書の売上が上がってないのは想像に難くない。今、別の大学で教員になっている友人とは修士課程時代に、どっちが先に新しい洋書を読むのかを競って、読んでいた気がする。先輩学者たちにもその手のエピソードが多い。大学院というものは全く変わってしまったのかもしれない。

洋書の専門書を読むのは、日本語の専門書を読んでいる時のように「分かった気になる」ごまかしがきかない。日本の学術・研究水準もあらゆる分野で高くなってきたし、日本語でも読まねばならない先行研究が山積しており、輸入学問を脱してきたことは喜ばしいことではあるが、外国語の専門書と格闘することで得られる知的刺激や論理トレーニングは今でも修行時代の大学院生には必要な不可欠なはずだ。毎年、大学院の授業のテキストを選ぶ際に、「英語が嫌だ」、「教材の論文が長すぎる」と言った学生たちの声を聞くたびに何しに大学院に来ているのかと思うと同時に、洋書店で新しい学問に触れる原初的な喜びをまだ知らないのが可哀想だとも思う。