紅旗征戎

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2007年に聴いたコンサート

2008-01-06 22:09:33 | 音楽・コンサート評
ブログも放置したまま、一年を振り返ることもなく、越年してしまった。あまり良いこともなかった2007年だったが、例年よりもいい生の音楽に触れた1年だった。忙しいといいつつ、かなり無理して時間を作ってホールに足を運んだ。年内に書くべき内容だが、ブログ復活の意味も込めて、昨年一年間に聞いたコンサートについて振り返ってみたい。

2月にアメリカに出張した際に聞いたボストン交響楽団の演奏会についてはすでにブログでまとめた。3月には大阪のシンフォニー・ホールでズービン・メータ指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を聴いた。曲目は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」とドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」で、アンコールはヨーゼフ・ヘルメスベルガーのポルカ「軽い足どり」とヨハン・シュトラウスの「雷鳴と稲妻」だった。メータは2007年のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートの指揮を務め、3月のコンサートはまだその記憶も新しい頃だったので、ニューイヤーでも取り上げたアンコール・ピースの2曲は大変盛り上がった。

イスラエル・フィルは、ワーグナーを取り上げないといった政治的な側面や弦セクションに名手が多いことがとかく注目されがちだが、男性的で大らかな演奏を求めるメータの指揮の下、「ツァラトゥストラ」でも「新世界」でも大規模オケの魅力全開で大いに鳴らしていた。「ツァラトゥストラ」冒頭部のオルガンによる低音の提示は、レコードやCDで聞くとあまり気付かないのだが、シンフォニー・ホール自慢のパイプオルガンでの演奏だったので地響きするような音でまず度肝を抜かれた。「新世界」は、メータが若い頃、ロサンゼルス・フィルと録音したCDもスマートな名演で愛聴していたが、あまり感傷的でない、さらっとした演奏で、第2楽章の有名な「家路」のメロディも望郷の念たっぷり、というよりも、早足で帰宅するような印象の演奏だった。メータは恰幅もよく、比較的、舞台から遠い席から眺めていても存在感満点で、一流オーケストラの演奏として不満な点は何もなかった。

5月には同じくシンフォニー・ホールでハンブルク北ドイツ放送交響楽団の演奏を聞いた。このオーケストラは、古くはフルトヴェングラーなどの名指揮者も指揮し、またより最近ではギュンター・ヴァントによるブルックナーの演奏などでクラシック・ファンには有名なドイツの中堅名門だが、一般的な知名度はやや落ちるかも知れない。現在の首席指揮者のクリストフ・フォン・ドホナーニもオーケストラ同様、クラシックファン以外には馴染みがないかもしれないが、昨年聞いた演奏会の中では1、2を争う出来だった。

一昨年に聞いたマゼール指揮ニューヨーク・フィルの演奏会でも感じたことだが、コンサートの最初に演奏される「序曲」はどちらかというと肩慣らし的な演奏の場合は少なくないのだが、この日のドホナーニ&北ドイツ放送交響楽団の演奏では、ウェーバーの「魔弾の射手」序曲からオーケストラ団員が全力投球で弦セクションも管セクションも分厚い音を出していて、いかにも「ドイツ」らしい演奏を堪能できた。前半は諏訪内晶子がソロを務めたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲で、聞く前はそれほど期待していなかったのだが、諏訪内も往年の名手ハイフェッツを連想させるような超絶技巧で演奏で、とかく感傷的で陳腐な演奏になりがちな、この曲を鋭角的に颯爽と弾ききって、聞き応えがあった。休憩を挟んでの後半はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」で、もともと好きな曲だが、ドイツ・オケによるシンフォニックなチャイコフスキー演奏の典型ともいうべき、重厚で完璧なアンサンブルを保った演奏で素晴らしかった。これもまた感傷的になりすぎず、交響曲としての構成の魅力を前面に出した演奏だった。特に第三楽章の「行進曲」で全員が一糸乱れぬユニゾンで強奏する姿は圧巻だった。アンコールはドヴォルザークのスラブ舞曲第10番(第2集第2番)だったが、メランコリックなメロディで人気のあるこの曲を実に丁寧に演奏し、スラブ舞曲はこんなに内容のある曲だったのかと再発見させられるような名演だった。

7月もシンフォニー・ホールで、イタリアのオーケストラ、ローマ・サンタ・チェチーリア国立音楽院管弦楽団の演奏会を聴いた。この演奏会は当初は天才女流ピアニスト、マルタ・アルゲリッチがソリストとして同行するはずだったのがキャンセルになったため、払い戻しをする客が多かったようだが、私は中止になってからむしろ珍しいイタリアのシンフォニー・オーケストラを聴いてみたくてチケットを買って聴いた。結果は大正解だった。大阪公演での曲目は前半がベートーヴェンの交響曲第5番「運命」で、後半がマーラーの交響曲第1番「巨人」という超有名交響曲を二つ組み合わせたプログラムだった。私の席はパイプオルガン前のバルコニーで、ちょうど指揮者の正面で向かい合って演奏を聞く形になっていたので、迫力満点で、指揮ぶりをじっくり見ることができて満足した。「運命」は無駄が無い骨格だけのシンフォニーだが、この日の演奏もイタリア・オケらしくカンタービレで歌うところは歌うのだが、弦奏者たちの弓がみんなほつれてくるほど激しく情熱的な演奏をしていたのが印象的だった。

今まで聞いてきた指揮者は60~70代の巨匠と呼ばれる人たちだったが、今回の指揮者アントニオ・パッパーノは指揮者としては上り坂にある47歳で、その意味でも勢いに溢れていた。東京公演の曲目だったレスピーギのローマ3部作で、2007年のレコード・アカデミー賞を受賞したのも納得である。パッパーノは、オペラ指揮者として定評があるので、後半のマーラーではマーラーの交響曲がもつドラマ性のようなものをうまく引き出していたが、「運命」と「巨人」を続けて聞くと、「巨人」はマーラーの作品では一番簡潔な交響曲なのだが、それでも無駄の無い「運命」と比べると、冗長というか、主題が彷徨する曲だと改めて認識させられた。アンコールはプッチーニの歌劇「マノン・レスコー」第三幕への間奏曲だった。

9月はコンサートには行かなかったが、バーデン市立歌劇場によるヴェルディの歌劇「椿姫」公演を神戸文化ホールで見た。マンガであらすじを説明する解説書が配られたり、値段もオペラとしては手ごろで毎年日本全国で公演している入門的なオペラ企画のようだが、歌手陣は演技でも歌唱でも好演であった。しかし歌劇場専属ではなく、若手(学生?)による小規模のオーケストラが非力すぎて、名旋律の宝庫の「椿姫」が台無しにされている気がして、残念だった。値段が高くてもオーケストラがしっかりした舞台を見ないとオペラの魅力が半減してしまうのだと納得させられた。

11月には2006年のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートの指揮を務めた、ラトビア出身の指揮者マリス・ヤンソンス指揮のバイエルン放送交響楽団の演奏会を大阪フェスティバル・ホールで聴いた。曲目はリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」とブラームスの交響曲第1番だった。「ツァラトゥストラ」は、イスラエル・フィルの演奏会と被っていたし、ブラームス1番は学生オケのコンサートでもよく取り上げられる入門曲で、ブラームスの曲の中ではあまり好きな曲ではなかったのでどうしようかと思ったのだが、ドイツ国内ではベルリン・フィルに次ぐ実力と言われるバイエルン放響とヤンソンスの組み合わせに惹かれて、行ってみた。席は最前列から4列目でかぶりつきといってもいい席で、見上げる形ではあったが、至近距離でオーケストラと指揮者を見ることができた。しかし肝心の演奏のほうは3月によりコンディションのいいホールで、「ツァラトゥストラ」を聞いたばかりで、冒頭も今回はパイプオルガンではなく、電子オルガンだったので、率直に言って聞き劣りした。オーケストラの演奏もあまり緊密なアンサンブルを保っているとは言い難かった。

後半のブラームスも、素人の私が言うのも難だが、コンサートマスターのヴァイオリンが半音高いような印象を受け、ボストン交響楽団の演奏会でも感じたようにブラームスがむしろシェーンベルクら新ウィーン楽派のような響きをしているように聞こえた。アンコールはブラームスのハンガリー舞曲第5番と、リヒャルト・シュトラウスの歌劇『バラの騎士』から「ワルツ」で、後者は、ニューイヤーコンサートでも名演を聞かせたヤンソンスらしく、ワルツ指揮者としての本領を発揮していたが、ハンガリー舞曲は凡庸な演奏だった。聴衆の人気は凄まじく、終演後も拍手が止まないため、オケのメンバーが全員下がった後、ヤンソンス一人が舞台に再登場するサービスぶりを発揮していたが、肝心の演奏が一流オケとしては全力投球とはいえない、平凡な出来だったような印象を否めなかった。

昨年最後に聴いたのは12月のシンフォニーホールでの金聖響指揮オーケストラ・アンサブル金沢(OEK)によるブラームス・チクルス第3弾コンサートだった。曲目はいずれもブラームスによる「ハイドンの主題による変奏曲」、「交響曲第3番」、「ピアノ協奏曲第2番」だった。オーケストラ・アンサブル金沢は、故岩城宏之氏が創設した室内オーケストラで、演奏には定評があったので一度聞いてみたいと思っていた。金聖響も一部では漫画『のだめカンタービレ』の指揮者・千秋のモデルともささやかれる若手人気指揮者でどんな指揮者なのか聞いてみたかった。

最初のハイドンの主題による変奏曲は、オーケストラの各独奏パートが活躍する曲で、それだけにオケの実力がはっきり分かる怖い曲だが、室内オーケストラとしてのソロの旨さを生かして、美しい演奏だった。交響曲第3番も、金と同世代の若手指揮者ダニエル・ハーディングの演奏を髣髴させる各パートと曲の構造が分かりやすい、室内楽的なすっきりした演奏で、弦もバイエルンの時のようにヒステリックに響くこともなく、ブラームス的な厚みと滑らかさを感じさせてくれて、いい演奏だった。またバロック・ティンパニーを強打しているのも今回の演奏で印象に残った。後半は清水和音ピアノ独奏による協奏曲第2番だったが、ブラームスの作品の中で最も好きな曲の一つなので大いに期待して聞いたが、まずまず満足できた。清水和音は私が中学生でクラシックを聞き始めた頃はアイドル的な売り出し方をしていたが、しばらく見ないうちにすっかり中年男性化していたのも驚いた。演奏はミスタッチも無く正確で、ブラームス特有の詩情にはやや欠ける気もしなくもなかったが、物足りなさは感じない演奏だった。「ピアノつき交響曲」と呼ばれるようなピアノとオーケストラの融合も十分できていたと思う。演奏会全体として、バイエルンの時よりもはるかに満足度が高かった。アンコールはなかった。

一年間を通じて、ブラームスについて言えば、交響曲第1番(バイエルン)、第3番(OEK),第4番(ボストン)と、第二番以外全て生で聴くことができたし、ドイツを代表する放送オーケストラである北ドイツ放響とバイエルン放響の両方を聴くことも出来た。レヴァイン、メータ、ドホナーニ、ヤンソンスといった世界のトップ指揮者たちの演奏をまとめて聞くことができたし、またアメリカ、イスラエル、イタリア、ドイツ、日本と国籍も様々なオーケストラを聴き比べることができたのもよかった。2008年にどのくらいコンサートに行くことができるかわからないが、ホールにいる時間は全てを忘れて音響美に浸りたいと思っている。