紅旗征戎

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ボストン交響楽団の「交響曲講座」

2007-02-24 19:23:51 | 音楽・コンサート評
2月10日から一週間ほど出張でボストンに行ってきたが、15日にボストン交響楽団の定期演奏会をシンフォニー・ホールで聞いてきた。ボストン交響楽団は、1881年創設で、ニューヨーク・フィル(1842)についで、アメリカでは2番目に古いオーケストラであり、この二つのオーケストラと、シカゴ、クリーブランド、フィラデルフィアがアメリカの五大オーケストラ(Big Five)と言われてきた。本拠地のボストン・シンフォニー・ホールも落成は1900年と100年以上前で、シートもそのままだという。格式ある古いホールだが残響効果もよく、いかにもクラシックのコンサートに来た気分になった。現在はウィーン国立歌劇場の音楽監督である小澤征爾が2002年まで30年近く音楽監督を務めていたので、日本人にもおなじみのオーケストラである。

コンサートは、午後8時からだったが、コンサートの前にチケットを持っている人は、「プレ・コンサート・トーク」というその日の曲目について、交響楽団のプログラム部長が解説するイベントに参加できた。それが6時45分から30分くらい行なわれた。日本でも啓蒙的なコンサートをやっていることは多いが、定期公演の前に解説を入れるのはあまりないのではないだろうか?この辺が、アメリカらしい、親切心というか啓蒙精神だと思った。この種のイベントはボストンに限らず、例えば近年、成長著しいロサンゼルス・フィルハーモニックなどでも行なわれていて、iTunes向けの配信であるポッドキャストで、"Upbeat Live"という解説を無料で聞くことができる。もっともロサンゼルス・フィルの場合、コンサート前の前座の解説しか聞けないのが残念だが、もっと気前がいいのがニューヨーク・フィルでこちらは毎週、一公演ずつ定期公演をネットに掲載し、誰でも無料で解説・演奏そのものをストリーミングで聴くことができる。こうした鷹揚さが、いい意味でアメリカ的だと思う。クラシック音楽の普及にも大いに貢献することになるだろう。

さて私が聴いた2月15日の演目は、ハイドンの初期の交響曲第22番「哲学者」と、1938年ニューヨーク生まれのアメリカ人作曲家チャールズ・ウォーリネンの新作・交響曲第8番「神学上の諸見解(Theologoumena)」の世界初演、そして休憩を挟んでブラームスの交響曲第4番だった。コンサート前の解説では、例えばベートーヴェンで完成された交響曲の基本的な形式は、第一楽章 アレグロ(急)→第2楽章 アダージョ、またはアンダンテ(緩)→第3楽章 スケルツォ(急)→第4楽章 アレグロ(急)というパターンが一般的だが、その日、演奏するハイドンの交響曲第22番は、アダージョ(緩)→プレスト(急)→メヌエット(緩)→プレスト(急)という珍しいパターンになっていることや、同じ「シンフォニー」という言葉を使っても、ハイドンやモーツァルトの時代のように漠然と管弦楽をさしていた時代から、後期モーツァルトからベートーヴェンにかけて、管弦楽によるソナタ形式が完成し、やがて19世紀のブラームスで爛熟期を迎え、ブルックナー、マーラーを経て、20世紀のショスタコーヴィチへとつながり内容も複雑になり、声楽も加えた大規模なものとなり、混沌としていく歴史が簡単に振り返られた。

実際にCDでその日聞かせるブラームス4番やハイドンなどをかけながら解説していたのだが、やや意外だったのは、今回の公演の指揮者であるボストン交響楽団の現在の音楽監督ジェームズ・レヴァイン(写真)のCDではなく、「マエストロ・レヴァインのじゃなくてごめんなさい。でも僕のお気に入りなんです」などと言って、聴衆を笑わせながら、ニコラウス・アーノンクールのCDをかけたことだった。ウォーリネンに関しては、その日の演奏会が初演なので当然CDはないからどうするのだろうと思っていたら、なんと途中から作曲者本人がステージに登場し、解説を始めた。ウォーリネンは芸術家というより大学教授のような風貌で体系的な話し方をするなあと思って聴いていたら、実際、現在、ニュージャージーにあるラトガーズ大学の作曲科の教授を務めているようだった。

今回、初演されたウォーリネンの交響曲第8番はボストン交響楽団創設125周年を記念して書かれた委嘱作品であるが、このように現代音楽(主にアメリカ作品)と古典的なレパートリーを定期公演のプログラムで組み合わせるのは、アメリカのコンサートではよくあるようだ。実際、現代音楽だけだったらチケットは売れないだろうが、ハイドンやブラームスを聞きに来た伝統的なクラシック・ファンの思わぬ興味を引けば収穫なのだろう。ウォーリネンは、解説では「古典性」の重要性を説き、ポストモダン音楽が様々な実験を試みた結果、聴衆を遠ざけてしまうという失敗をしたことを指摘し、自分としては交響曲というジャンルに拘って書いてみたと熱く語っていたので、演奏が楽しみになった。

30分ほどのトークが終わり、少し間をおいて開演した。ジェームズ・レヴァインは、クリーブランド管弦楽団でハンガリー出身の名指揮者ジョージ・セルの薫陶を受けたアメリカ人指揮者で、ウィーンやベルリン、ミュンヘンなど欧州楽壇で活躍する米国人としては、レナード・バーンスタイン(1918-90)以来のスターである。米国の主要オーケストラの音楽監督の大半はヨーロッパ人か、ヨーロッパ楽壇での経験が長い人なので、ボストンの音楽監督もレヴァインがアメリカ人では初めてだった。ニューヨークのメトロポリタン・オペラの音楽監督を長く務めており、オペラでも広いレパートリを誇る他、ピアニストとして室内楽のCDも数多くリリースするなど才能に溢れた人である。ただ残念なことに、スマートな容貌で聴衆を魅了したバーンスタインやカラヤンとは違って、体重100キロを超える巨漢で、現在63歳と指揮者としては決してまだ高齢ではないが、昨年怪我をしたためか、座ったままの指揮であり、ヴィジュアルとして魅せる要素にはおおよそ欠けていた。

指揮ぶりも決して派手ではなく、楽譜をさかんにめくりながら生真面目に指揮していたが、鈍重といっては悪いが、そうした風貌に似合わず、紡ぎ出される音はとても美しかった。ボストン交響楽団は、クリーブランド管弦楽団などと並んで、「ヨーロッパ的な音質」としばしば形容される。何が「アメリカ的」で、何が「ヨーロッパ的」か、というのは曖昧な表現であるが、例えば往年のユージン・オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団、ゲオルグ・ショルティ指揮のシカゴ交響楽団、レナード・バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルなどの演奏は、わかりやすいメロディ・ラインと、強靭な合奏力の強調、派手に鳴らす金管セクションなどが特徴的で、人によってはハリウッドのBGM的であるという。そういうものを「アメリカ的」だとすると、「ヨーロッパ的」というのは、オーボエやフルート、ファゴットなどの繊細な木管楽器と弦楽器との掛け合いや、柔らかい弦による中低音の強調、金管でもトランペットではなく、ホルンの馥郁とした響きを重視するようなイメージだろうか。今回のボストン交響楽団の演奏でも、確かに昨年秋に来日公演を聴いたマゼール・ニューヨーク・フィルと比べると乾いた響きだが、厚みのある弦合奏と木管陣の上手さが際立っていた。

レヴァインは、ウィーン・フィルとモーツァルトの交響曲全集を完成しているが、古典派にリズムと新しい生命を吹き込む上手さが今回のハイドンでも生かされていた。ハイドンは私自身は普段それほど聞くことはない作曲家だが、レヴァインが振ると現代性も出てきて面白く聞けた。今回、特に印象に残ったのは、ボストン交響楽団が夏のシーズンオフにボストン・ポップスオーケストラとして模様替えしている際にコンサートマスターを務めていている、ロシア出身の女流バイオリニスト、タマラ・スミルノバがこの曲でのコンサートマスターを務めていて、華やかなソロを聞かせて、交響曲というよりもあたかもバイオリン協奏曲のような様相を呈していたことだった。

さて世界初演となったウォーリネンの交響曲第8番だが、開演前の作曲家本人の解説から新古典主義的な作品なのでは?と勝手に考えていた期待は見事に裏切られ、不協和音が耳を劈く、いかにも現代音楽然とした曲だった。一応、3楽章構成ということだったが、第一楽章はストラヴィンスキーの「春の祭典」を一層、ラジカルに強奏したような音楽であった。今回、私は1階のほぼ中央の前列から5列目というかなり舞台に近い席で聞いていたが、周りはほとんど常連風の白人の老夫婦ばかりだったが、このウォーリネンの曲に対しては明らかに困惑の表情を浮かべていた。曲が終わって、ブーイングが起こるのではないかと思っていたが、さすがに最後は作曲者本人もステージに登場したので、きちんと拍手をもらっていた。しかし翌日の地元紙『ボストン・グローブ』のコンサート評を読んでみると曲の力強さを褒めつつも、「聴衆が儀礼的な拍手しかしなかったのもやむをえないだろう」とコメントしていたのも納得だった。ウォーリネンの曲の後、インターミッションに入ったので、席を立つと、横にいた人が、「まあ今日はブラームスを聞きに来たからいいんだ」と言っていたのも正直でよかった。

休憩後のメインディッシュとも言えるブラームス交響曲第4番は、私自身もクラシックの曲で一番好きな曲の一つだが、交響曲史上に残る名曲である。第1楽章に見られる不協和音を重ねつつも、ため息のような美しいメロディを織り成していく手法は、19世紀のロマン主義を引き継ぐ面と20世紀以降のマーラーやシェーンベルクにつながる新しい要素の両面を持ち合わせているし、第4楽章はバロック時代の舞曲であるパッサカリアを主題として活用していて、バッハからの西洋音楽の継承を示す古い側面ももっている。外面はがっちりとした古典様式で固い殻に守られているが、内部にはロマン主義的な熱い情念が燃えているような、ブラームス音楽の特徴が凝縮した曲である。しばしば「枯淡の境地」と形容されるように、人生の秋にさしかかり、過去の情熱をどこか冷めて回顧しているような、しかしまだ完全に諦めきれないような、感情の揺らぎと強靭さとを同時に感じさせるようなメロディが魅力的な音楽だ。

ブルーノ・ワルター指揮のコロンビア交響楽団による演奏やフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルの演奏などは上に書いたようなブラームスの特質を強調した演奏だったが、1980年代になるとカルロス・クライバー指揮のウィーン・フィルの演奏のように、ブラームス的情念のようなものにあまりとらわれずに、むしろこの楽曲のもつ構成上の美しさをあっさりと瑞々しく表現する演奏も増えてきた。より最近の演奏で言えば、若き指揮者ダニエル・ハーディングの演奏もそうである。今回、聴いたジェームズ・レヴァインも、シカゴ交響楽団とウィーン・フィルと、二度、ブラームス交響曲全集を完成しているが、どちらも比較的速いテンポで、あまり細部には粘着せず、力強く推進して行くような演奏だった。今回のボストンの演奏もその点ではCDでの印象とあまり変わらなかった。枯れたブラームスやロマンティックなブラームスを期待する人には合わない演奏かもしれない。

ただ面白かったのは、コンサートマスターが目の前にいるような席に座っていたからかもしれないが、第一コンサートマスターのマルコム・ローウィが、ウォーリネンの現代音楽と同じようなテンションで、ヒステリックな、というと言いすぎかもしれないが、絶叫するようなヴァイオリンをブラームスでも奏でていたことで、現代音楽に続けて演奏されたためかもしれないが、その余韻がオケに残っていて、ロマン主義のブラームスではなく、現代を向いたブラームス4番になっていたのが新鮮だった。こういう演奏に触れられるのがライブの醍醐味なのかもしれない。

ブラームスが終わったときに10時を回っていたのでアンコールはなかった。来日公演となると、会場の外でCDやプログラムを販売していたりと商業的な要素が目に付くが、いかにも地元に根ざしたオーケストラの平日の定期公演の聴衆の一人になれたのはよかった。UBSというスイスに拠点をおく大金融グループがコンサートのスポンサーになっていたが、有名オーケストラの来日公演のようにプログラムは有料かと思っていたら、無料で配布され、広告が多いとはいえ、64ページもある冊子に、指揮者や作曲家、楽曲の解説はもちろん各曲のCDリストもつけられて非常に充実している点にも感心した。定期公演だったが、プレコンサート・トークから参加していたので、ボストン交響楽団による交響楽講座に参加し、単位を取得したような気分になって、ホテルへの帰路についた。