紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

オバマはどこへ向うのか?

2009-03-31 20:49:19 | 政治・外交

卒業式が終わったと思えば、まもなく新学期が始まる。私がアメリカ政治・社会の授業を本格的にスタートしたのが2001年からだったので、丸々、ブッシュ政権の8年間と重なっている。アメリカに留学していたのはクリントン民主党政権の時代で、教員として講義するようになったのはブッシュ共和党時代ということになるが、新学期からの授業では、この8年間とは全く一変した「オバマのアメリカ」を論じることになり、講義も大幅な模様替えを迫られている。

オバマについてはすでにメディアでも多くのことが語られ、日本でも多くの出版物が出された。オバマの英語の演説集が日本でベストセラーになったのは驚きだ。昨年、演習形式の授業で、2008年大統領選挙を取り上げて、学生にもオバマとマケインを比較してもらったが、オバマの方は何冊も本が出ているのに対して、マケインについては結局、日本語ではまとまった本も出ることもなく、選挙戦終盤はあらゆる世論調査の結果を見ても、敗色濃厚で、そのまま選挙戦を終えることになった。

2008年9月―10月に行われた3回のテレビ討論を見ていても、冷静に相手の質問に答え、回を重ねるごとに技術を上げていくオバマに対して、感情的な部分を隠しきれなかったマケインは見劣りしたし、共和党の副大統領候補となったペイリンを最初は面白がっていたメディアもまもなく、そのあまりの適性のなさに焦点を当てるようになった。より決定的には第1回目のテレビ討論の直前の9月に起こった、リーマン・ブラザーズの経営破たんが引き金を引いた世界金融危機により、「減税」くらいしか経済政策を打ち出していなかったマケインは圧倒的に不利な戦いを強いられるようになった。

オバマ当選の政治的意義は、すでに様々なところで論じられているが、何と言ってもアメリカ政治を「脱カテゴリー」「脱イデオロギー」の方向へと転換したことを指摘できるだろう。クリントン時代もブッシュ時代も、従来はイデオロギー的な距離が西欧の政党ほど離れていないと言われたアメリカの民主党、共和党のイデオロギー的な対立が深まり、両者の政治的主張は競って正反対になりがちであった。特に減税といった経済政策をめぐる対立、アファマーティブ・アクションの是非をめぐる対立、中絶や同性愛、遺伝子工学を含む生殖技術といった家族やリプロダクティブ・ヘルスをめぐる対立、など、いわゆるキリスト教保守派なども絡みながら、様々な社会的な問題をめぐる価値論争がかなり単純化され、二極化される傾向にあった。

またアメリカ政府が公民権法により、公的に人種差別撤廃に本格的に乗り出してから、既に40年を経過したにも関わらず、依然として様々な争点が「人種」の視点から考えられ、論じられる傾向が変わらなかった。ケニア人の父とカンザス州出身の白人の母をもち、ハワイで生まれ、インドネシアで育ったオバマは、2004年の民主党全国党大会で「黒人のアメリカでもヒスパニックのアメリカでもなく、あるのはアメリカ合衆国だけだ」と演説して喝采を浴びたように、人種やイデオロギーを超えて、アメリカを「再統一」しようとする姿勢を示すことで、社会的亀裂を強調し、対立を煽ってきたブッシュ政治に嫌気がさしたアメリカ人に大きくアピールしたことは言うまでもない。

ブッシュ政権がイラク戦争など単独行動主義的な外交政策で世界のアメリカに対するイメージを悪化させ、フランスやドイツといった同盟国の離反を招いたことや、京都議定書からの離脱など、環境政策に後ろ向きな態度を示して、世界の信頼を失ったのに対して、アメリカ人が国際協調や環境対策などで世界から再び尊敬されるような知的なリーダーを求めたことも、オバマ当選への力強い後押しとなった。まだ大統領候補に過ぎなかったオバマのベルリンでの演説に聴衆が20万人も集まったことは欧州での期待の大きさをよく表していたし、それがアメリカの有権者の判断にも影響を与えたと思われる。キューバのカストロ、イランのアフマニネジャド、ベネズエラのチャベスといった、アメリカと「対立」していたリーダーたちでさえ、オバマの登場を歓迎した。

より直接的には、サブプライムローン問題に端を発する金融危機とアメリカ経済の悪化に対して、党派対立を超えた対応を求められたことが、ブッシュ的な新自由主義政策から脱却を標榜するオバマへの期待を高める決定打となった。環境対策による雇用創出や設備投資の増加を狙った「グリーン・ニューディール」がどこまで成功するかは今後の展開を見守らなければならないが、IT/住宅バブルを前提としていたブッシュ・新自由主義経済政策の時代が完全に終わったことは間違いない。

オバマについては既に多くの本が出ているが、選挙後、比較的早い段階に出版され、しかも目配りが効いている一冊に渡辺将人氏の『オバマのアメリカ』(幻冬社新書)がある。渡辺氏は『見えないアメリカ』(講談社現代新書)でも、通説的・概説的なアメリカ研究書では見えてこない、合衆国の現状について光を当てていたが、本書も民主党議員の選挙スタッフとして働いた、インサイダーの目線が随所に生かされていて、人種問題にばかり焦点を当てたオバマ論に飽きた読者に新しい視座を提供してくれる。

論点は多岐に渡るが、読んでいて特に面白かったのは、メディアの選挙戦での活用法についてである。従来、アメリカのメディアと選挙の関連では、選挙広告やネガティブ・キャンペーンの内容やその費用に注目する傾向があったが、渡辺氏は「有料広告」中心の選挙戦はもはや古く、有料広告に投入する予算は縮小傾向にあり、むしろ広告をセンセーショナルなものにしてニュースなどで取り上げさせることによって、「無料広告」としての報道を活用していくのが重要になっているということだった。マケイン陣営が、パリス・ヒルトンやブリットニー・スピアーズと一緒にオバマを登場させて、「オバマは世界一のセレブだが、指導力はあるのか?」と批判したCMを流したことは日本のニュースでも取り上げられたが、このCMも実はオンライン向けの限定的な広告で、そのCMそのものを見せることよりも、CMがその後、ニュースやyoutubeなどで取り上げられる効果や反響を狙ったものだったという。「無料広告と有料広告の併用」というのは、今まで無かった視点なので渡辺氏の現場ならではの感覚が説得的だった。

またオバマを「トランスファー(編入)大統領候補」と評している点も興味深かった。この点も他のオバマ論ではあまり強調されていないが、オバマは、カリフォルニアのオクシデンタル・カレッジという小規模のリベラル・アーツ・カレッジに入学した後に、3年次からニューヨークのコロンビア大学に編入し、社会経験を経てからハーヴァード大学のロースクールに入学したという意味で「編入エリート」なのだという。その意味で前回の民主党大統領候補で、東部の名門家族出身でイェール大学卒のジョン・ケリーとは違って、むしろコツコツ成績を上げて、ステップアップしていく「編入型」である点で庶民性をアピールできたのだという。これも説得力のある主張であった。

ただしオバマの政治的キャリアを見ていて、気になるのがまさにこの点である。オバマはシカゴの黒人貧困地区サウスサイドでコミュニティ・オーガナイザーとして活動した後に、イリノイ州上院議員を1期務めて、連邦下院議員に立候補して落選。その後、イリノイ州上院議員をもう1期務めて、連邦議会上院議員に当選。1期目の3分の1を終えた時点で大統領選挙への立候補を表明し、見事、当選を果たした。鮮やかなステップアップであるが、今までのキャリアを見ていると常に2、3年単位くらいで次の政治的ステップを目指して上昇していく。世界の政治キャリアでアメリカ大統領を上回る地位はほとんどないので、次に何を目指すべきか、目指しているのか、わからないが、コミュニティ・オーガナイザーとしての活動も、イリノイ州議会議員としての活動も、あくまで一つのステップとしてしか考えていなかったのではないかという証言はオバマ周辺にも多いようだ。

さてオバマはをどこまでじっくり腰を据えて、世界全体に多大な影響を与えるアメリカの政治・経済を改革できるだろうか?2010年の中間選挙までは2年を切っているし、2012年の大統領選挙もそれほど先ではない。政治的上昇移動力ではなく、政策実行力で評価される大統領に成長してほしいと、こちらは外部からの観察者ではあるが、願わずにはいられない。


「中国脅威論」の虚実

2009-03-22 23:58:25 | 政治・外交

中国の国防費が21年連続で二桁の伸び率を示しており、全国人民代表大会の李肇星・報道官は3月4日午前、北京の人民大会堂で記者会見し、2009年の国防予算が前年実績比14.9%増の4806億8600万元(約6兆8257億円)になると明らかにしたという(『読売新聞』2009年3月4日)。経済成長に伴って、人件費も当然上昇しているわけだが、GDP成長率の方は2009年度は、目標の8%に達するのは難しいと見られているだけに、経済成長率のほぼ倍に当たる軍事予算の増加率はいかにも突出した印象をうける。

また1月20日に2年ぶりに発表された中国の『国防白書』で海軍力の増強を打ち出したことは大きく報道されたが、とりわけ注目されているのが空母の建造着手であり、3月20日に行われた浜田防衛相と梁光烈国防相との日中防衛会談でも梁国防相が「大国で空母を持たないのは中国だけで永遠にもたないというわけにはいかない」と発言し、空母建造の姿勢を示したと伝えられている(『朝日新聞』2009年3月22日)。「専守防衛」の日本は当然ながら空母を持たないが、戦闘機を大量に搭載できる空母を持つということは、本格的なパワー・プロジェクション(戦力投入)能力をもつということであり、端的に言えば、戦争を「仕掛ける」能力を高めるということを意味している。

 そうした動きも含めて、「公表額でも英国を抜き、米国に次ぐ世界2位になる可能性がある」(『日本経済新聞』2009年3月4日)、中国の急速な軍拡は日本を初めとする周辺諸国の警戒感を招き、「中国脅威論」の一つの根拠となっているが、こうした疑問に答える企画として、先週、大阪のアメリカ総領事館で開催された東アジア安全保障フォーラム、「中国の外交・安全保障政策:東アジア・太平洋地域の影響を探る」、に参加した。スピーカーは、ハワイのシンクタンク、イーストウェストセンターでシニアフェローを務めるデニー・ロイ氏だった。ハンドアウトは一切なかったので、ロイ氏の英語での講演内容を聴きながら取ったメモを元にまとめてみると以下のようになる。

中国は依然として国家建設の途上にあり、内部に多くの不安定を抱えている。経済発展と国内の治安の維持は共産党政権が支配の正統性を維持する要であり、国内の秩序を維持するために軍事力を維持する必要もあるが、外部からは「攻撃的」なものとして見られがちである。

中国のグランドストラテジーとしては、第1に、いわゆる「平和的台頭」、つまり世界経済に積極的に関与することで中国人民の生活水準を向上させ、経済発展を目指すこと、第2に中国に対する国際的な反発や反対をできるだけ少なくすること、第3に「上海協力機構」のような中国を軸にした国際協力の枠組み作りを推進すること、第4に東アジアサミットのような、アジアにおける多国間協力のフォーラムを構築し、アジア地域における、日本やアメリカ、インドなど、中国以外の大国の影響力を相対的に低下させることが挙げられるだろう。中国にとっては、日本は国際社会においては現在のように軍事的には積極的な役割を果たさず、経済的には中国に協力し続けることが望ましい。そのために必要に応じて、過去の戦争責任や靖国参拝問題などを持ち出す「歴史カード」を使って、日本を牽制することもあろうが、1998年の江沢民訪日の時にように歴史問題を持ち出しすぎるのは、日本国民の反発を買い、逆効果であることは中国共産党の幹部は学習済みである。

中国政府は、日本を軍事的に積極的にさせないために、北朝鮮の非核化やそのためのアメリカの宥和政策を引き出すことなどは重要だと考えている。また台湾についても従来のように統一を目標とするのではなく、むしろ台湾独立を避けるという消極的な目標設定をしている。

さて結局のところ、「強い中国は脅威か?」という点については、空母建造で制海権を強めることは、アメリカが台湾有事の際に介入しにくくなる可能性があるし、現在起こっているように石油やレアメタルなど様々な資源をめぐる米中間の競争が激化することも予想できる。しかし中国がリージョナル・パワーにすぎなかった時代とは違って、グローバルな大国として成長するに従って、たとえばアフリカなどの紛争地域への武器輸出が国際社会や中国の国際的な信用に与える負の影響など、国際社会のルールを次第に学習していくはずである。

また中国国内の言論・結社の自由など、市民的自由はまだ貧しい状況にあるとはいえ、共産党が把握していない、一種の消費者団体や住民団体のような、非登録の市民団体なども増えてきており、「市民社会」の萌芽も観察できる。もちろん「反動」的な動きが起こる可能性も否定できないが、あと30~60年のうちにさらに「自由主義」化が進む可能性は十分にあるだろう。

国際秩序との関連では、中国は冷戦期から「第3世界のチャンピオン」を自任してきたこともあり、また近代以前においては、「侵略的」というよりもむしろ比較的、「寛大」な大国だった伝統もある。また今後、仮に中国の「脅威」が現実的なものとなれば、反中国連合が国際社会に形成される可能性もあるので、結果的には中国政府としてはバランスをとった外交政策をとっていかざるを得ないのではないだろうか。ただし中国国民が政府以上にナショナリスティックになる傾向も見られ、政府と国民の温度差や国民のフラストレーションをどうコントロールするのかも大きな課題となるだろう。

以上のように、アメリカの東アジア安全保障問題の専門家の分析としては、極めて穏当なもので、むしろ日本人参加者からの質問の方が、中国の軍事的野心への懸念や国内少数民族問題への非妥協的な姿勢への批判、市民的自由の制限に対する疑問などを呈するものが多かった。

しかし私自身も大学の講義で米中関係を議論する場合にいつも強調しているのだが、アメリカにとっても中国にとっても、もちろん日本にとっても経済的な利益を最優先に考えれば、台湾問題にせよ、中国国内の人権問題にせよ、チベット問題にせよ、現状を大きく変更するような事態が起こり、それに対処せざるを得なくなることが一番望ましくないという点においては共通している。従って中国が極端に冒険主義的な外交政策をとる可能性は、特に中国が世界経済で最重要のプレーヤーとなりつつある今日では、低いと考えられる。その点ではロイ氏の現実主義的な見方に共感できた。ただしアジアやグローバルな地平でアメリカと覇権を競うことになると、結局のところ、お互いを口実とした軍拡競争が始まりかねないので、日本としてはアジア地域における軍備縮小を戦略的にも訴え続ける必要があるだろうし、変に中国の軍備拡張に「理解」を示す必要はないのではないかと講演を聴きながら、考えた。


踊る国際人、伊藤道郎(2)

2009-03-18 12:25:01 | 芸術

伊藤道郎という人物に興味をもったので、古本で藤田富士男『伊藤道郎 世界を舞う:太陽の劇場を目指して』新風舎文庫、2007を入手して読んでみた。こうした評伝にありがちな思い入れ過剰の文章とはほど遠く、NHKのドキュメンタリーよりもむしろ淡々と道郎の生涯を事実に基づいて追いかけている点がよかったが、道郎の私生活上の問題点などがテレビよりも詳しく書かれていた。特に道郎の次男で、後に日本でも俳優として活躍したジェリー伊藤が太平洋戦争により父と離れ離れになり、アメリカ兵として横須賀に配属され、アーニー・パイル劇場に父を訪ねてくる場面が印象的だ。

「ドアを開けると一斉にフラッシュが焚かれ、道郎はジェリーを強く抱きしめた。親族と挨拶を交わす間もなくインタビューが始まった。道郎は『東京は僕の街だ。なにかしたいことがあればなんでも言いなさい』と大風呂敷を広げた。ジェリーはその言葉を聞くと、変わらぬ父を嬉しく思うとともに、しばらく会わないうちにあまりに父を理想化していた自分に気づいた。部屋に静けさが戻り、外にサービスを振りまきすぎた父は黙ってしまった。それはショーはこれで終わりだ、と言わんばかりの様子に思えた」p.19)

ショー・ビジネスで生きる人間としての性なのか、息子との再会もメディアを呼んで、「演出」してしまう。その息子も同じ世界で生きていくことになるのでやがては理解しただろうが、公人としての派手なパフォーマンスと、家庭人としての道郎の限界を感じさせるエピソードである。だが、あくまで評伝の描写なので、道郎本人の心を知る由もない。

伊藤道郎が国際人として成功した要因は何だろうか?ダルクローズ学院の教育がいかにすぐれていたと言ってもその期間は1年強にすぎない。この評伝を読むと、道郎が10代の頃から待合通いをして、浄瑠璃にはまっていたことやドイツ留学前から帝国劇場歌劇部に所属して舞台に立っていたことがわかる。家庭教師ものちのプリマドンナ、三浦環だったり、登場する人物が超一流である。こうした日本で培った基礎が海外で認められるのに大きな要因となったのだろう。伊藤は写真に載せたように坂本龍一似の、明治生まれとは思えないモダンな風貌だが、日本的なもの、オリエンタリズムを逆手にとり、能や日本舞踊、歌舞伎の手法を取り入れて、エキゾチズムをアピールする一方で、西欧の伝統的なオペラやバレエの様式に倣って、メジャーなクラシック音楽を演奏するオーケストラをバックにして、モダンダンスを披露したことも特にアメリカでの成功の要因だったと思う。ロサンゼルスで2万人もの観客を集めた力は相当のものである。また戦時中は日本の陸軍や財界から和平交渉を依頼されたり、戦後はすぐにGHQから米軍兵向けの劇場作りを依頼され、最後は東京オリンピックの演出を任されるというように政治力があることも彼が芸術家として成功する上で重要な要素だったのだろう。

日本的なものをベースとしつつ、西欧の文法の上でプラスアルファを提供し、かつ時代の変化に即応して、挫折しても立ち直るタフさがある、日本人が国際的に成功するカギを凝縮しているように見ることもできる。また道郎の才能に破格の教育投資をした両親の存在も大きいだろう。子供が興味を持つ歴史教育のやり方もいろいろあるだろうが、日本社会が今ほどグローバル化していなかった時代にすでに活躍していた国際人の話をもっと紹介してもいいのではないかと改めて思わされた。


踊る国際人、伊藤道郎(1)

2009-03-18 12:13:30 | 芸術

メジャーリーグでの日本人選手の活躍や映画「おくりびと」のアカデミー賞受賞、小澤征爾のウィーン国立歌劇場音楽監督としての活躍などなど、スポーツや芸術面で国際的な成果を挙げている日本人のことは、グローバル化が進んだ今日でも大きく取り上げられ、称賛される。しかし実は、第二次大戦以前から世界の最前線で活躍した日本人は少なくない。戦後の日本より富の分配が不均衡だった社会でけた外れの富豪がいて、子弟を海外で優れた教育を受けさせていた例も少なくなかったから、そうした恵まれた環境で才能の花を咲かせた人たちもいるのだ。ヨーロッパに8年も留学し、サルトルに家庭教師をさせて、ハイデッカーに師事していた九鬼周造(1850-1931)も九鬼男爵家の出身だったし、最近、流行りの白洲次郎(1902-1985)も芦屋の貿易商の息子で、ケンブリッジ大学に留学して、車を乗り回し、イギリス英語を身につけ、戦後、占領したGHQの民政局長コートニー・ホイットニー准将に対して、「あなたももう少し勉強すれば英語がうまくなるでしょう」と言い返して絶句させたのも有名である。

舞踏家・伊藤道郎(1893-1961)もそんな戦前日本が生んだ国際的才人の一人である。以前、何気なくつけたテレビで、「NHK-BS-hi:ハイビジョン特集:異国と格闘した日本人芸術家 夢なしにはいられない君 舞踊家 伊藤道郎の生涯」というドキュメンタリーを見たのが伊藤を知るきっかけだった。ドキュメンタリーで紹介された伊藤の生涯の概要は、こういうものである

発明家の父と高等女学校出身の教育熱心な母の間に生まれた道郎は、19の時に本格的に声楽を学ぶためにドイツに留学するが、声量などの点でヨーロッパ人には敵わない点などを認識し、山田耕筰の助言もあり、進路転換し、舞踏家を目指すようになり、リトミックなど新しい教育法を行っていたライプチヒのダルクローズ学院に入学する。ところが第1次世界大戦の勃発で、ロンドンへの脱出を余儀なくされる。ロンドンでは貧窮生活をしていたが、衣類や指輪を質入れして出入りしていたサロン、カフェ・ロワイヤルで、ショパンの音楽に合わせてダンス・ソロを踊ったところ、喝采を浴び、ホスト役のドイツ語を話す紳士と親しくなるが、それが当時のハーバート・ヘンリー・アスキス首相(自由党)であった。詩人エズラ・パウンドはその様子を詩に書き留めている。

ミチオはガス代のペニーもなく、真っ暗な中に座っていた。

しかし彼は言った。「あなたはドイツ語が話せるか」と。

1914年、アスキスに。

その頃から様々な芸術家のパトロンから声がかかるようになり、エズラ・パウンドと協力して、アイルランド神話と能を融合したイェイツ(アイルランドの詩人、ノーベル文学賞)の『鷹の井戸』の制作に尽力し、それを初演する。

イギリスで成功をおさめた道郎はさらにアメリカに移って、舞踏家、演出家として大活躍するようになるが、やがて日米関係が悪化し、開戦やむなしの機運が高まる中で、一時帰国し、日本の軍関係者や経済界の人物と接触し、和平工作への協力を求められる。しかし努力も空しく真珠湾攻撃の翌日、拘束され、モンタナの日系人収容所に入れられ、捕虜交換船で昭和18年に帰国する。戦後は、GHQに要請されて、接取された東京宝塚劇場で米軍人向けにスタートしたアーニー・パイル劇場の総演出兼顧問を務めることになる。戦後復興が進んでくると、アメリカでの経験を生かしてミス日本コンテストの演出やファッションモデル養成などの分野で活躍し、最後は東京オリンピックの開会式・閉会式の演出を担当する予定だったが、オリンピックを待たずに脳溢血で死去した。ドキュメンタリーの最後は、現在、アメリカで暮らしている道郎の孫娘が、道郎のダンスの弟子と会い、ダンスを習うという場面で締めくくられていた。


2008年に聴いたコンサート(3)

2009-03-12 00:32:39 | 音楽・コンサート評

さて何といっても昨年聴いたコンサートのメインはベルリン・フィルの来日公演である。ベルリン・フィルを生で聴くのは、カラヤン時代の来日公演以来なので、実に24年ぶりだった。間にクラシックをほとんど聞かなかった時期があったせいもあり、それだけ空いてしまった。ベルリン・フィルはカラヤン時代も今も世界最高のオーケストラという呼び声が高く、非常に高価なチケットもほとんど即日完売である。ウィーン・フィルのように毎年来日せず、今回も3年ぶりだったということもあるし、関西で2公演するのも珍しいので、贅沢だとは思ったが関西初日の1129日(於 シンフォニーホール)と30日(於 兵庫県立芸術文化センター)の両方に行ってみた。

 まずシンフォニー・ホールでの曲目は、ハイドンの交響曲第92番「オックスフォード」、マーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌」(独唱 マグダレア・コジェナー)、そしてベートーヴェンの交響曲第6番「田園」である。現在の音楽監督は、サー・サイモン・ラトル53歳のイギリス人指揮者である。クラシックを聴き始めた中学生のころ、ラトルといえばカーリーヘアの若者というイメージだったが、今は大分貫禄が出てきた。ベルリン・フィルという伝統のオーケストラで、ジャズを演奏したり、現代音楽の曲目を増やしたりとレポートリーを広げる一方で、バロックなどの古楽にも造詣が深い才人指揮者である。ただ才人が聴衆を満足させるとは限らないので、カラヤン的な絢爛豪華でかつ分厚いサウンドを求めるファンには批判されることも少なくない。カラヤン自身もある意味でフルトヴェングラーの「亡霊」との戦いを強いられたから、それが名門ベルリン・フィルの音楽監督の宿命なのかもしれない。

今回のハイドンは、ラトルらしい選曲かつ演奏で、小規模で風通しの良い演奏だったが、室内楽を聴いた気分で、やはりせっかくベルリン・フィルだからフルオーケストラを聴きたいという気持ちは押さえられなかった。続くマーラーは、チェコ出身のメゾ・ソプラノ、コジェナーのホール全体に響き渡る中低音が素晴らしかった。物憂げなマーラーの旋律をラトルは絶妙に伴奏していった。後半は、ベートーヴェンの『田園』で、やや聞き飽きた感もあって私の場合は、普段はあまり聞かない曲だ。往年のブルーノ・ワルターやカール・ベームのよる定番のCDを聴き返してももはや何の発見もないので、むしろ奇抜な演奏を聴きたい。ラトルへの期待もそこにあった。しかしラトルの演奏は、「都市部の近郊の郊外を早歩きで散歩するようだ」と評されたカラヤンの『田園』よりも、むしろワルター&ベーム的な落ち着いたテンポの伝統的演奏で、かつ随所に瑞々しい響きを引き出していて、とても良かった。伝統的なベルリン・フィルを期待する日本人聴衆も満足したことと思う。東洋人女性がトロンボーンを吹いているので、そんなメンバーがいたかと思い調べてみたら、清水真弓さんというベルリン・フィルアカデミーの学生さんがサポートで入っていたようだった。

関西2日目は、兵庫芸術文化センターで、この日の席は3階席だった。3階席でも「S席」として売れるのはベルリン・フィルくらいだと思うが、芸文センターは3階からでもステージがよく見える作りになっていた。ただ音は下から上がってくる感じになってしまい、「風呂場」のような余計な残響が聞こえてしまうのが難点だ。この点は音響のいいシンフォニーホールに聞き劣りがする。初日の公演で残念だったのは、日本人コンサート・マスターである安永徹を初め、テレビで知っているベルリン・フィルの顔ぶれがほとんど見当たらなかったことだ。しかし2日目の公演では、安永はもちろん、清水直子(ヴィオラ首席)、エマニュエル・パユ(フルート首席)、ラデック・バボラック(ホルン首席)、サラ・ウィリス(ホルン)など、中継やDVDで知っている顔ぶれを見つけることができて、ミーハーな言い方だが、初日と違って「本物の」ベルリン・フィルを聴いている気になった。

曲目は、ベルリン・フィルの日本公演の定番、ブラームス「交響曲第1番」と「交響曲第2番」である。24年前に聞いたカラヤンのコンサートもブラームスの交響曲第1番だったから、その意味では感慨深かった。シンフォニーホールでは、ハイドンやマーラーの、ある意味でフルオーケストラ全開で演奏しない曲目が中心だったので欲求不満が残ったが、この日のラトルは、最初から全力投球でブラームスの分厚い響きをベルリン・フィルから引き出した。フルートのパユのようにベルリン・フィルのメンバーはそれぞれがソリストとして活躍できる技能を持ち合わせているから、まさに「多様性の中の統一」を地で行くオーケストラで、ラトルは激しく盛り上げるところは盛り上げ、各楽器のソロを引きたてる場面ではうまく引き立てていく。ウィーン・フィルの時に感じた不満とは違って、ベルリン・フィルは日本公演でも持てる力を全て出して、最高の演奏力をもつ集団であることを実証したと思う。その印象は、ブラームスの1番でも2番でも変わらなかった。2番は5月に聞いたフランクフルト放送交響楽団も名演だったが、ベルリン・フィルの演奏は、大きな室内楽とでもいうべき各奏者の個性を生かしたブラームスになっていた点が良かったと思う。

年末最後に聞いたコンサートは、1225日の「レニングラード国立歌劇場管弦楽団」の公演(於 シンフォニーホール)で、曲目は、グリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」(ピアノ ウラジミル・ミシュク)、ショスタコーヴィチの交響曲第5番(「革命」)だった。このコンサートはあらゆる意味で「反則」の連続だった。まず「レニングラード国立歌劇場」というのが、日本公演向きの名称で、本当の名前はミハイロフスキー・オペラ・バレエ劇場だが、往年のファンには前述のムラヴィンスキーの威光があり、レニングラード亡き今も「レニングラード」の名称を使い続けている。またピアノ協奏曲のソリストのミシュクの演奏がお粗末だった。1990年チャイコフスキーコンクール2位と書いているのが疑わしいほどで、難しい箇所になるとすぐにテンポを落とすので、バックのオーケストラの方が、ちょうどNHKのど自慢で、お年寄りが歌う時にバックバンドが伴奏を遅くしたり早くしたり歌に合わせるように、苦労しながらピアノに合わせていた。5月のグリモーのミスタッチなどは可愛いもので、この「皇帝」は難しい曲なのだなと改めて実感した。最も「反則」だと思ったのは、ショスタコーヴィチでこの曲の演奏時には3-4割日本人のサポートメンバーを増員していた。いわば半分くらいは日本の別のオーケストラ団員が演奏していた感じである。それで来日公演といえるのだろうか?演奏自体は水準以上で、大音響で心おきなく激しい演奏をするという意味ではストレス解消になるものだった。カレル・ドゥルガリヤンというアルメニア出身の指揮者はよく頑張って、謎の「混成」オケを指揮していたと思うし、メンバー表によるとアレクサンダー・キムという東洋系のティンパニー奏者はセンターでなかなか存在感がある、いい音を出していた。7月に聞いたルツェルン交響楽団と比べると割高な気がした演奏会で、バレエにしてもオペラにしても自称「レニングラード国立歌劇場」は避けた方がいいと思った。最後は締まらなかったが、ウィーン・フィル、サンクトペテルブルク・フィル、そしてベルリン・フィルと今秋は世界のトップ・オーケストラを堪能できて、また読売日響のような日本でも実力のあるオーケストラの演奏も楽しめて、良かった。(写真はベルリン・フィル)。


2008年に聴いたコンサート(2)

2009-03-12 00:28:04 | 音楽・コンサート評

2008年後半に聞いた最初のコンサートは、9月15日のリッカルド・ムーティ指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団大阪公演(於 フェスティバル・ホール)だった。ウィーン・フィルを生で聴くのは実は今回が初めてで、毎年元日にテレビでニューイヤー・コンサートの中継を見たり、中学生のころから数知れないLPやCDで聞いてきたオーケストラを生で聴けるのは感慨深かった。イタリア出身の67歳のムーティは、ズービン・メータやダニエル・バレンボイム、小澤征爾などと同世代で、ニューイヤ―コンサートも4回指揮し、ウィーン・フィルとの来日も今回で4回目と関係が親密である。この世代の指揮者は、現在のクラシック演奏の主流となりつつあるピリオド奏法(作曲された時代の楽器や奏法をなるべく忠実に再現しようとする奏法)を採用することなく、20世紀前半までのように現代楽器を使いながら、大人数でベートーヴェンやモーツァルト、さらにはバッハやハイドンといった古典派を演奏するのが特徴的だ。個人的には今まであまりピンとくる指揮者ではなかったが、今回は、ヴェルディの珍しい曲目とチャイコフスキーをウィーン・フィルで聴きたいということもあって行ってみた。

ステージの右端の最前列の席だったので至近距離でムーティの指揮やウィーン・フィルの演奏を聴くことができた。一番印象的だったのは、日本人にもおなじみのコンサート・マスターのライナー・キュッヒルのヴァイオリンの音色がまるでソリストのようにはっきり聞き取れたことだった。ムーティの指揮は、楽団員の自発性を尊重しているようで、細かい指示はあまり出さず、振らない時もあったりしながら、要所要所は締めて、盛り上げるというような余裕を感じさせた。 曲目は、前半はヴェルディの『ジョヴァンナ・ダルコ』序曲、『シチリア島の夕べの祈り』からバレエ音楽「四季」で、どちらもムーティは録音しているが他にはCDはほとんどない珍しい演目で、もちろん今回初めて聞いた。前者はジャンヌ・ダルクを、後者は1282年のフランス人支配者によるシチリア島民の虐殺を描いたオペラということでテーマとしては悲劇的な史実を含んでいるようだが、音楽的にはムーティ得意のイタリア・オペラで、ウィーン・フィルの柔らかく優美な響きがマッチしてよかった。前半を聞く限りはさすがに世界トップレベルのオーケストラだと感心した。

後半は慣れ親しんだチャイコフスキーの交響曲第5番で、こちらは率直に言って、最高の出来とは言えなかった。金管でミスも少なくなかったし、ウィーン・フィルの特徴といえば特徴だが、エッジが甘いというか、ソフトフォーカスというか、もともとチャイコフスキーのムード音楽的なところがウィーン・フィルの緩い演奏で悪い意味で強調されてしまった感があった。アンコールは、ムーティが2000年のニューイヤー・コンサートで取り上げたヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「マリアの思い出」で、これも珍しい演目で、最後にウィーン・フィルによるウィンナー・ワルツを聞けて、聴衆一同大満足だった。

 9月21日は、東京芸術劇場で読売日本交響楽団のコンサートを聴いた。指揮はポーランド出身のスタニスラフ・スクロヴァチェススキーで85歳と高齢ながら、テンポの速く、スマートな演奏で人気の巨匠である。彼のベートーヴェン交響曲全集やブルックナーの全集は、カラヤンとはまた違うが同様に現代的でスマートな魅力あるセットだ。今回の演目は、前半が、ブラームスのピアノ協奏曲第1番(ピアノ ジョン・キムラ・パーカー)、後半がブルックナーの交響曲第0番だった。

ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、ブラームスが25歳の時の作品で、クララ・シューマンとの恋愛やその夫で恩師のロベルト・シューマンの死、自分自身の作曲家としての将来に悩んでいた時期の作品で、ブラームスとしては情熱的で若々しい、制御しがたい感情をストレートに表現したものである。ブラームスの曲ではあるが、ある種、ロック的な要素を含んだ名曲で、若いクラシック・ファンにも人気がある曲だと思う。今回のピアニストのパーカーは、49歳の日系カナダ人でジュリアード音楽院出身。まさに肖像画のブラームスを連想させる髭と堂々たる風貌で、とても男性的な迫力のあるピアノを聞かせてくれた。もともと「ピアノ付き交響曲」と評されるように、オーケストラの部分が伴奏ではなく、主役級の扱いになっており、その一方でピアノにも高度な技巧とパワーが求められる曲なので、コンサートで聴く機会はそれほど多くないが、パーカーのパワフルで情熱的な演奏は、この曲に求められる諸条件を全てクリアしていた。

後半のブルックナーの交響曲第0番は、単一楽章でも20分を超えるような長い交響曲ばかり書いたブルックナーとしては短い、全体で45分程度の習作で、ベートーヴェンの第9番の影響を強く感じさせる点では、ブラームスの第1番に似たところもある。敬虔なカトリックのオルガン奏者だったブルックナーについて、日本の音楽評論家は何かと「神への祈りが…」、「森での逍遥を連想させる云々」といった、ある種のステレオタイプ的な方向性から演奏の良しあしを論じがちである。しかしブルックナーはもともとはドラマティックなワーグナーの影響を強く受け、現代的な管弦楽法を用いて、華やかな演奏効果を持つ部分も多い。スクロヴァチェフスキーの演奏はむしろ「都会派」の演奏とでもいうべきで、素直にオーケストラの技術の高さとブルックナーの管弦楽としての面白さをテンポよく表現するものだった。読売日響も練習やリハーサルを念入りに行ったことが推測されるような安定した、実にプロフェッショナルなアンサンブルを保っていて、安心して聴けた。

10月に聞く予定だったアイスランド交響楽団は、珍しいアイスランドのオーケストラを聴けるのを楽しみにしていたところ、金融危機によるアイスランドの銀行口座の凍結という事態で来日中止となった。シンフォニーホールに払い戻しに行ったついでにまだ良い席が残っていたサンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団のチケットを買った。今回、聞いたのは11月2日の公演で、チャイコフスキーの交響曲第4番と第5番というチャイコフスキー・チクルスの一環だった。サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団は、往年のクラシック・ファンにはソ連のレニングラード・フィルとして名高かったオーケストラの後継楽団である。ムラビンスキー指揮のレニングラード・フィルは、鉄壁のアンサンブルと重厚なブラス・セクションで鳴らしたオーケストラで日本にも何度か来日し、おそらくはまだソ連信仰が健在だった1960-70年代には半ば神格化された存在だったようだ。残っている録音はソ連録音が多いため、音の状態も貧しく、生で接した人しかおそらくは真の姿は知ることはできないが、DVDやCDでも十分、その「凄さ」を理解できる面もある。チャイコフスキーやショスタコーヴィチといった専門のレパートリーはもちろん、ベートーヴェンやブラームスといったドイツものでも、贅肉をそぎ落とした、ストイックで鋭角的な演奏が魅力的だ。

現在の音楽監督は、70歳のコーカサス生まれのロシア人指揮者ユーリ・テミルカーノフでレニングラード音楽院出身、ムラヴィンスキーの正統な後継者だが、前任者が偉大すぎたことや、ちょうどソ連崩壊の混乱期にオーケストラを率いなければならなかったことで、「レニングラード・フィルを西欧化させて、『普通』のオケにしてしまった」などと批判されることも少なくないようだ。 今回、実際に演奏に触れてみるとそんな先入観は一気に吹っ飛んでしまった。ソ連のプロパガンダを背負った、ムラヴィンスキーは「西欧人指揮者による軟弱で、センチメンタルなチャイコフスキー演奏をいかに否定するか」を自分のアイデンティティとしていたようだが、テミルカーノフにそんな力みはない。しかし9月に聞いたムーティ&ウィーン・フィルには絶対に出せない、ロシアの「大地の歌」とでもいうべき、地響きのようなブラスや低弦を聞かせてくれた。「本場の演奏」という形容は安直で嫌いなのだが、まさに「ロシアのチャイコフスキー」としか言いようがない交響曲第4番と第5番を堪能できた。いいオーケストラの場合でも本番では、弦セクションはいいけど、金管がいま一つといったことや、反対に金管は上手いが、コンサートマスターなどの弦のソロがよくない、という風にバランスを欠く場合がむしろ多いが、どちらも不満なく、調和が取れていた点も往年のレニングラード・フィルに引けを取らない水準にテミルカーノフが鍛えていることがよく伺われた。アンコールは予想に反して、なぜかエルガーの「愛のあいさつ」、さらに定番のチャイコフスキーの「くるみ割り人形」からトレパックをやってくれた。席はところどころ空席も目立ったが、最後は聴衆が一体となって盛り上がった。(写真はテミルカーノフ)

 


2008年に聴いたコンサート(1)

2009-03-09 00:18:41 | 音楽・コンサート評

年内にとりあえず昨年聴いたコンサート評をまとめようと思っていたが結局できず、1月に書こうと思っているうちに3月になってしまった。コンサートの感想は印象が新鮮なうちに書かないと意味がない気がするが、「結晶作用」(スタンダール)もあるかもしれないので、とりあえずざっとまとめてみたい。

2008年2月には、ドイツの名門オーケストラ・ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の公演に行く予定だったのだが、首席指揮者のリッカルド・シャイーの急病で来日中止になってしまった。その結果、昨年、最初に行ったコンサートは、3月のBBCフィルハーモニックの大阪公演(3/15 フェスティバル・ホール)となった。曲目は、ストラヴィンスキー「妖精の口づけ」よりディベルティメント、シベリウス「ヴァイオリン協奏曲」(ヴァイオリン ヒラリー・ハーン)、そしてベートーヴェン「交響曲第7番」だった。指揮は、まだ33歳のイタリア出身の首席指揮者ジャナンドレア・ノセダだった。

何故だが説明することはできないのだが、私にとってイギリスのオーケストラはどれもピンと来るものがなくて、ロンドン交響楽団とか、フィルハーモニア管弦楽団とか、世間で名盤と呼ばれるものはいくつも出ているのだが、個人的に心を惹かれるものがほとんどない(あえて言えば故クラウス・テンシュテット指揮のロンドン・フィルによるベートーヴェンやブラームスくらいだろうか)。それでも今回、イギリスの公共放送のBBCがもつ三つのオーケストラの一つで、マンチェスターをベースとするBBCフィルの演奏を初めて聞いて、十分堪能できた。

ストラヴィンスキーのこの曲は初めてで、チャイコフスキー風の曲だなと思ったが、講演プログラムを見てみると「チャイコフスキーの書法を真似て・・・」と解説してあり、印象通りであった。シベリウスの独奏は女性の若手ヴァイオリニストとしては実力ナンバー1といってもいいかもしれない、ヒラリー・ハーンだったが、彼女の特徴であるのだが、技巧は完ぺきだが、情緒的な表現を避けた、ドライでハイスピードなヴァイオリンで、シベリウスとしては少し物足りなく感じた。あまり演歌調の情緒過剰もよくないかもしれないが、この曲はもっとロマン主義的に演奏した方が私の好みには合うと思った。その点は、昨年12月に来日したフィルハーモニア管弦楽団と共演した諏訪内晶子の演奏の方が(FMで聴いただけだが)、ハーンより情熱的で魅力があるように聞こえた。ノセダの伴奏もやや暴走気味で独奏にうまく合わせているとは言い難かった。ただハーンがアンコールで演奏したバッハの無伴奏のシャコンヌは凛とした響きで、次回は独奏で聞いてみたいと思った。

後半はベートーヴェンの交響曲第7番で、この曲もTVドラマ「のだめカンタービレ」の主題歌になったせいか、来日オケはこればかりやるので困りものだ。しかしノセダの若々しく力強いタクトの下で、疾走感のあるベートーヴェンを聞かせてもらって、普段は自分で進んではあまり聞かない7番を楽しめた。

5月には小澤征爾指揮の新日本フィルの演奏会に行く予定だったが、こちらも小澤の急病で大阪公演は中止となった。25日は、名実ともに世界一の弦楽四重奏団といってもいい、ウィーンのアルバン・ベルク弦楽四重奏団の解散ツアーの大阪公演(於 シンフォニー・ホール)に行った。私にとっては生で聴く最初のアルバン・ベルク四重奏団のコンサートが解散公演となってしまったのは残念だが、解散する前に聞けたことはとてもよかった。曲目は、ハイドンの弦楽四重奏曲第81番、ベルクの弦楽四重奏曲、そしてベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番という渋いプログラムで、ベートーヴェンのラズモフスキー第3番とか、ハイドンの「皇帝」(77番)とか、入門的な曲ではなくて、直球勝負の演奏会だった。古典派と近代の新ウィーン楽派、そして王道のベートーヴェンを組み合わせることによって、弦楽四重奏というジャンルの歴史も概観できるし、この四重奏団の歩みや実力も示せるプログラムだったと思う。

プロの四重奏団の演奏会を聴くのは実はこれが初めてだったのだが、ハイドンを聞いて、なるほど四重奏というのは、第1バイオリンとその他の3人が、ちょうどヴァイオリン協奏曲における、ソリストとオーケストラの掛け合いのように競合しながら演奏していくのかとか、いまさらながらに気づかされた。ベルクの曲も決してとっつきやすいものとは言えないが、弦を積み重ねていく手法で現代人の不安をうまく表現しているように感じられた。ベートーヴェンもこの後期の作品は晦渋な印象を受けるが、オーケストラと違って、4人だけで深遠な思想空間をよくこれだけ表現できるものだと感心させられた。ただ室内楽を大ホールで聴くだけに聴衆のノイズが気になった。オーケストラの入門的な曲をやるコンサートとは違い、こういう渋いプログラムの時は、コンサート初心者は来ないはずなのだが、無神経な咳払いで演奏の音が消される場面も何度かあり、解散コンサートにふさわしくない聴衆のマナーが気になったのが残念だった。

5月30日にはフェスティバル・ホールで、フランクフルト放送交響楽団の公演を聴いた。2007年に聞いた北ドイツ放送交響楽団やバイエルン放送交響楽団など、ドイツの放送オーケストラは実力派ぞろいだが、このフランクフルト放送交響楽団もエストニア出身の若手実力派パーヴォ・ヤルヴィの下で注目を集めている。今回の曲目は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」(ピアノ エレーヌ・グリモー)、ブラームス「交響曲第2番」だった。

グリモーは、俗な言い方をすれば才色兼備のフランス人で、野生のオオカミの保護活動をしているという個性派でもある。フランス人だが、ラヴェルとドビュッシーといった曲目は見向きもせず、バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、シューマンといったドイツ音楽をレパートリーにしていて、新鮮な演奏を聞かせてくれる。 今回の皇帝もドイツ・グラモフォンから新譜をリリースしての披露ツアーだったが、まず印象に残ったのは、演奏前にとても緊張している様子だったことだ。ロシアのプーチン首相に似ている指揮者のヤルヴィは、プーチンさながらにオーケストラを完全に掌握して、一糸乱れぬバックを務めていたが、グリモーは必死にベートーヴェンに取り組んでいるといった印象だった。CDで聴いているとグリモーの演奏は、躍動感があって、軽やかなのだが、実演で見ていると(当たり前だが)ミスタッチもあって、余裕があまり感じられなかった。見ている方がハラハラさせられた。「皇帝」という曲の難しさも理解できた。

後半は、ブラームスの2番だったが、この曲はブラームスの「田園」交響曲などと評されるように、どちらかというとノンビリ、ゆったりと演奏される傾向があり、4曲あるブラームスの交響曲の中では一番、素朴で地味な曲でもある(もちろん異論はあるだろうが)。中学時代にブラームスにはまった私の場合も、当時はこの曲は苦手だった。 フランクフルト放送交響楽団の演奏で、印象的だったのは、弦セクションが、往年のソ連のムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルのように一糸乱れず、正確で分厚い演奏を展開していることだった。ブラームスの2番がこれほど男性的で力強い曲だとは思っていなかった。アンコールのシベリウスの「悲しいワルツ」も絶品で、思い入れたっぷりの哀愁を帯びた演奏だが、上品さを失わず素晴らしいものだった。ぜひもう一度聴いてみたいと思う指揮者だった。

6月は、まず8日にベルギーのロイヤル・フランダース・フィルハーモニー管弦楽団のオール・モーツァルト・プログラムを聞いた(於 シンフォニー・ホール)。曲目は、いずれもモーツァルト作曲で、歌劇「イドメネオ」序曲、ピアノ協奏曲第20番(ピアノ リーズ・ドゥ・ラ・サール)、交響曲第40番、第41番「ジュピター」と、モーツァルト好きにはたまらない充実したプログラムだった。指揮者のフィリップ・ヘレヴェッヘは、バッハやバロック音楽の研究者としても知られていて、風貌も学者のようで、指揮姿もおよそスター性やはったりはない、地味でそっけないものだが、NHKでも放送されたベートーヴェンの交響曲全集のように、飾らないが説得力のある演奏で定評があるようである。今回の演奏会を聴いてもその印象は変わらなかった。

序曲は今となってはどういう演奏だったか、あまり思い出せないくらいの印象だったが、ピアノ協奏曲20番はとてもいい演奏だった。この曲はモーツァルトでは数少ない短調の曲で、しかもカデンツァはベートーヴェンが作ったものが一般演奏される、モーツァルトのピアノ協奏曲の中では最も「ベートーヴェン」的なもので、人気曲の一つである。 今回のソリストのリーズ・ドゥ・ラ・サールは、初めて聞く演奏家だったが、まだ20歳のフランス人ピアニストで、いかにも「美少女ピアニスト」として売り出しそうな風貌だったが、演奏が始まると、力強く前進し続けるような迫力に圧倒された。5月にみたグリモーが、キャリアでは彼女よりずっと先行していても、ステージ上ではとても神経質で危うかったのとは対照的に、ドゥ・ラ・サールは堂々たるもので、モーツァルトの世界に集中して聴くことができた。

後半はモーツァルトの人気シンフォニーの40番41番だが、どちらも奇をてらわず、やや小編成のオケでオーソドックスな演奏を聞かせてくれた。41番の第4楽章は、「つらいことがあっても頑張ろう」という勇気をくれる、応援歌のような楽章だと勝手に解釈しているのだが、ヘレヴェッヘはアンコールではその楽章の一部を2回演奏した。別の曲をやらないところがヘレヴェッヘの朴訥とした雰囲気によくあっていたと思う。

6月29日には同じくシンフォニー・ホールで、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団によるブラームス・チクルス(全曲演奏会)の後半を聞いた。指揮者はスペイン出身の75歳の巨匠ラファエル・フリューベック・デ・ブルコスだった。ブラームスの交響曲第4番と第2番が曲目だったが、4番は以前、ボストン交響楽団で聴いた演奏がどちらかという不協和音と高音を強調する演奏だったのに対して、ドレスデン・フィルの演奏はごく伝統的なドイツ的なブラームスで安心して聴くことができた。新しい発見はないが、気持ちよくメロディを聴く感覚である。後半は、2番で、こちらは5月にフランクフルト放送響の熱演を聞いたばかりなので、率直に言って聞き劣りするのは否めなかった。また4番についても2番についても弦はいいのだが、ホルンやトランペットなどの金管楽器の演奏でやや不安定な部分があった。アンコールは予想通りの「ハンガリー舞曲第5番」で、確かにみんな知っていて喜ぶし、時間も短いので手ごろなのかもしれないが、たまには「悲劇的序曲」とか「大学祝典序曲」とか、同じブラームスでももっと聞きごたえのあるアンコールをして欲しいところだ。

夏休み前に行った最後のコンサートは7月13日のスイスのルツェルン交響楽団の演奏会(於 神戸文化ホール)で、率直に言って、あまり期待はしてなかったのだが、初来日の珍しいスイスのオーケストラであるし、近くのホールでチケットも安かったので行ってみた。曲目は、ウェーバーの歌劇「魔弾の射手」序曲、グリーク「ピアノ協奏曲」(ピアノ ニコライ・トカレフ)、ベートーヴェン「交響曲第7番」である。指揮は、フランクフルトのヤルヴィと同じくエストニアのタリン出身の37歳、オラリー・エルツで、眼鏡をかけた、憎めないオタク風の風貌で、一生懸命指揮するのが微笑ましかった。

スイスのルツェルンはワーグナーもお気に入りの音楽都市として有名で、ルツェルン音楽祭のためのルツェルン祝祭管弦楽団は戦前のフルトヴェングラーとか、戦後のカラヤン、最近ではアバドといった錚々たる指揮者が指揮しているのだが、今回聞いたルツェルン交響楽団は、歴史は長いがどちらかというと脇役的な存在だったようだ。しかし演奏は期待をはるかに上回る充実したものだった。

ウェーバーの序曲を危なげなく終えた後のグリークだが、ソリストは、25歳のロシア出身のイケメン・ピアニスト、ニコライ・トカレフで、明らかに彼目的で来ている聴衆も多かったようだ。ルックスだけでなく、演奏も完璧で、テクニックを誇示するところはこれ見よがしに誇示し、弱音部は弱音で美しく鳴らして、もともと芝居がかった通俗性のある、このグリークの曲をとても効果的に演奏していた。バックのオーケストラもそれをよく支えていた。後半のベートーヴェン交響曲第7番は、3月のBBCフィルで聴いたばかりで、こちらも別の曲を聞きたいところだったが、エルツの溌剌とした指揮のもと、明るいベートーヴェン像を提示して楽しく聞くことができた。ドレスデン・フィルで感じた管セクションの不安定さもなく、安心して音楽に浸ることができた。コスト・パフォーマンスが高い演奏会だった。

ヴァイオリン協奏曲は聞くことができなかったが、2008年の前半は、ベートーヴェン、モーツァルト、グリークの人気ピアノ協奏曲を、いずれも華のあるピアニストの演奏で聴くことができたし、イギリス、ドイツだけでなく、ベルギーやスイスといった、あまり普段は聞けない国のオーケストラの演奏を聴くことができて、充実していた。アルバン・ベルク四重奏団は解散する前にもっと聞いておくべきだったのだけが残念だが、お別れコンサートに参加できただけでもよかったと思う(写真は指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ)。


ブログ、引っ越しました!

2009-03-09 00:09:28 | 日記
半年くらい放置したこともあるブログで、どのくらいの方が読んでいらっしゃるのか、分かりませんが、前のサイトが調子が悪いのでこちらで私のブログ「紅旗征戎」を再開します。よろしくお願いします。不調の旧ブログは、こちらです。前のブログに書いた記事も少しずつこちらに移動させていこうと思っています。