卒業式が終わったと思えば、まもなく新学期が始まる。私がアメリカ政治・社会の授業を本格的にスタートしたのが2001年からだったので、丸々、ブッシュ政権の8年間と重なっている。アメリカに留学していたのはクリントン民主党政権の時代で、教員として講義するようになったのはブッシュ共和党時代ということになるが、新学期からの授業では、この8年間とは全く一変した「オバマのアメリカ」を論じることになり、講義も大幅な模様替えを迫られている。
オバマについてはすでにメディアでも多くのことが語られ、日本でも多くの出版物が出された。オバマの英語の演説集が日本でベストセラーになったのは驚きだ。昨年、演習形式の授業で、2008年大統領選挙を取り上げて、学生にもオバマとマケインを比較してもらったが、オバマの方は何冊も本が出ているのに対して、マケインについては結局、日本語ではまとまった本も出ることもなく、選挙戦終盤はあらゆる世論調査の結果を見ても、敗色濃厚で、そのまま選挙戦を終えることになった。
2008年9月―10月に行われた3回のテレビ討論を見ていても、冷静に相手の質問に答え、回を重ねるごとに技術を上げていくオバマに対して、感情的な部分を隠しきれなかったマケインは見劣りしたし、共和党の副大統領候補となったペイリンを最初は面白がっていたメディアもまもなく、そのあまりの適性のなさに焦点を当てるようになった。より決定的には第1回目のテレビ討論の直前の9月に起こった、リーマン・ブラザーズの経営破たんが引き金を引いた世界金融危機により、「減税」くらいしか経済政策を打ち出していなかったマケインは圧倒的に不利な戦いを強いられるようになった。
オバマ当選の政治的意義は、すでに様々なところで論じられているが、何と言ってもアメリカ政治を「脱カテゴリー」「脱イデオロギー」の方向へと転換したことを指摘できるだろう。クリントン時代もブッシュ時代も、従来はイデオロギー的な距離が西欧の政党ほど離れていないと言われたアメリカの民主党、共和党のイデオロギー的な対立が深まり、両者の政治的主張は競って正反対になりがちであった。特に減税といった経済政策をめぐる対立、アファマーティブ・アクションの是非をめぐる対立、中絶や同性愛、遺伝子工学を含む生殖技術といった家族やリプロダクティブ・ヘルスをめぐる対立、など、いわゆるキリスト教保守派なども絡みながら、様々な社会的な問題をめぐる価値論争がかなり単純化され、二極化される傾向にあった。
またアメリカ政府が公民権法により、公的に人種差別撤廃に本格的に乗り出してから、既に40年を経過したにも関わらず、依然として様々な争点が「人種」の視点から考えられ、論じられる傾向が変わらなかった。ケニア人の父とカンザス州出身の白人の母をもち、ハワイで生まれ、インドネシアで育ったオバマは、2004年の民主党全国党大会で「黒人のアメリカでもヒスパニックのアメリカでもなく、あるのはアメリカ合衆国だけだ」と演説して喝采を浴びたように、人種やイデオロギーを超えて、アメリカを「再統一」しようとする姿勢を示すことで、社会的亀裂を強調し、対立を煽ってきたブッシュ政治に嫌気がさしたアメリカ人に大きくアピールしたことは言うまでもない。
ブッシュ政権がイラク戦争など単独行動主義的な外交政策で世界のアメリカに対するイメージを悪化させ、フランスやドイツといった同盟国の離反を招いたことや、京都議定書からの離脱など、環境政策に後ろ向きな態度を示して、世界の信頼を失ったのに対して、アメリカ人が国際協調や環境対策などで世界から再び尊敬されるような知的なリーダーを求めたことも、オバマ当選への力強い後押しとなった。まだ大統領候補に過ぎなかったオバマのベルリンでの演説に聴衆が20万人も集まったことは欧州での期待の大きさをよく表していたし、それがアメリカの有権者の判断にも影響を与えたと思われる。キューバのカストロ、イランのアフマニネジャド、ベネズエラのチャベスといった、アメリカと「対立」していたリーダーたちでさえ、オバマの登場を歓迎した。
より直接的には、サブプライムローン問題に端を発する金融危機とアメリカ経済の悪化に対して、党派対立を超えた対応を求められたことが、ブッシュ的な新自由主義政策から脱却を標榜するオバマへの期待を高める決定打となった。環境対策による雇用創出や設備投資の増加を狙った「グリーン・ニューディール」がどこまで成功するかは今後の展開を見守らなければならないが、IT/住宅バブルを前提としていたブッシュ・新自由主義経済政策の時代が完全に終わったことは間違いない。
オバマについては既に多くの本が出ているが、選挙後、比較的早い段階に出版され、しかも目配りが効いている一冊に渡辺将人氏の『オバマのアメリカ』(幻冬社新書)がある。渡辺氏は『見えないアメリカ』(講談社現代新書)でも、通説的・概説的なアメリカ研究書では見えてこない、合衆国の現状について光を当てていたが、本書も民主党議員の選挙スタッフとして働いた、インサイダーの目線が随所に生かされていて、人種問題にばかり焦点を当てたオバマ論に飽きた読者に新しい視座を提供してくれる。
論点は多岐に渡るが、読んでいて特に面白かったのは、メディアの選挙戦での活用法についてである。従来、アメリカのメディアと選挙の関連では、選挙広告やネガティブ・キャンペーンの内容やその費用に注目する傾向があったが、渡辺氏は「有料広告」中心の選挙戦はもはや古く、有料広告に投入する予算は縮小傾向にあり、むしろ広告をセンセーショナルなものにしてニュースなどで取り上げさせることによって、「無料広告」としての報道を活用していくのが重要になっているということだった。マケイン陣営が、パリス・ヒルトンやブリットニー・スピアーズと一緒にオバマを登場させて、「オバマは世界一のセレブだが、指導力はあるのか?」と批判したCMを流したことは日本のニュースでも取り上げられたが、このCMも実はオンライン向けの限定的な広告で、そのCMそのものを見せることよりも、CMがその後、ニュースやyoutubeなどで取り上げられる効果や反響を狙ったものだったという。「無料広告と有料広告の併用」というのは、今まで無かった視点なので渡辺氏の現場ならではの感覚が説得的だった。またオバマを「トランスファー(編入)大統領候補」と評している点も興味深かった。この点も他のオバマ論ではあまり強調されていないが、オバマは、カリフォルニアのオクシデンタル・カレッジという小規模のリベラル・アーツ・カレッジに入学した後に、3年次からニューヨークのコロンビア大学に編入し、社会経験を経てからハーヴァード大学のロースクールに入学したという意味で「編入エリート」なのだという。その意味で前回の民主党大統領候補で、東部の名門家族出身でイェール大学卒のジョン・ケリーとは違って、むしろコツコツ成績を上げて、ステップアップしていく「編入型」である点で庶民性をアピールできたのだという。これも説得力のある主張であった。
ただしオバマの政治的キャリアを見ていて、気になるのがまさにこの点である。オバマはシカゴの黒人貧困地区サウスサイドでコミュニティ・オーガナイザーとして活動した後に、イリノイ州上院議員を1期務めて、連邦下院議員に立候補して落選。その後、イリノイ州上院議員をもう1期務めて、連邦議会上院議員に当選。1期目の3分の1を終えた時点で大統領選挙への立候補を表明し、見事、当選を果たした。鮮やかなステップアップであるが、今までのキャリアを見ていると常に2、3年単位くらいで次の政治的ステップを目指して上昇していく。世界の政治キャリアでアメリカ大統領を上回る地位はほとんどないので、次に何を目指すべきか、目指しているのか、わからないが、コミュニティ・オーガナイザーとしての活動も、イリノイ州議会議員としての活動も、あくまで一つのステップとしてしか考えていなかったのではないかという証言はオバマ周辺にも多いようだ。
さてオバマはをどこまでじっくり腰を据えて、世界全体に多大な影響を与えるアメリカの政治・経済を改革できるだろうか?2010年の中間選挙までは2年を切っているし、2012年の大統領選挙もそれほど先ではない。政治的上昇移動力ではなく、政策実行力で評価される大統領に成長してほしいと、こちらは外部からの観察者ではあるが、願わずにはいられない。