新学期が始まったとたん、ブログの更新がすっかり滞ってしまい、いったん止まると何を書こうか迷ってしまうが、最近出会った本からはじめてみたい。作家の城山三郎氏と東京電力の会長を務めた経済界のドン、平岩外四氏が若い時代に読んだ小説を再読しながら、対談しているのが講談社から二月に出された『人生に二度読む本』である。夏目漱石の『こころ』から始まり、『老人の海』(ヘミングウェイ)、『変身』(カフカ)、『山月記』(中島敦)、『車輪の下』(ヘッセ)といったところから、『間宮林蔵』(吉村昭)、『ワインズバーグ、オハイオ』(アンダソン)といったやや意外な本も含めた計12冊が取り上げられている。対談自体は二人の年齢を合わせると170歳近いこともあり、穏やかであまり意外性のない内容で、小説の描写や人間観よりも、「中島敦は京城中学で4年間トップだった」とか、「カフカが労働者傷害保険協会に10年間務めていた」とか、世間的な点に関心をもっているのがこの二人らしい。同じ対談(鼎談)形式でも上野千鶴子らの『男流文学論』の方が、「こういう読み方もできるのか」という面白さがある。しかしこの『人生に二度読む本』も「あらすじ」と「解説」が簡潔で要を得ていて優れているし、戦後経済の一線で活躍した平岩氏の小説をめぐる思い出話も興味深い。
この本でも最初にとりあげている、漱石の『こころ』だが、日本人だと高校時代に国語で習う定番の小説だろうが、これほど学校で教わる内容と小説の深さがかみ合ってない例も少ない気がする。たまたま実家に帰ったとき、高校時代の『現代文』の教科書を見たが、授業で習ったことがメモしてあり、「『先生』→Kに恋愛の勝負では勝ったが人間としては負けたので自殺した、『K』→道を貫くことができずに死んだ」などと書いてあったが、これほど皮相な読み方もないだろう。学校で習うと、明治天皇崩御と乃木大将の殉死の後書かれた小説なので、「『明治の精神』に殉ずるとはどういうことか」といった建前的な部分が強調されがちだが、長い書簡という形をとっているこの奇妙な小説が若い読者を時代を超えてひきつけるのはそんなところではないはずだ。
高校生ぐらいの時は、「お嬢さん」をめぐるKと「先生」のライバル関係にばかり注目して読んでしまうが、後から考えると、下宿先の「奥さん」が、資産家の息子である「先生」に目をつけて、Kを当て馬にして、「お嬢さん」とくっつけたような面もあり、それによって「親友」を失ってしまったという思いがあるから、「先生」は妻となった「お嬢さん」にKの自殺の真相を語らなかったと読むこともできるだろうし、土居健郎の『「甘え」の構造』が分析しているように、小説の語り手である「私」と「先生」、そして「先生」とKとの間に同性愛的な感情があり、そうした世界を女性である「お嬢さん」に意識的に共有させていないと読むこともできるだろう(漱石より後の武者小路実篤の『友情』でもそうした傾向が顕著だが)。
アメリカの大学の日本文学の授業で取り上げると、「なぜこの「先生」は奥さんに告白して許しを請わないのか?そうすれば必ず許してもらえるはずなのに」という質問が必ず出るそうだが、いかにもアメリカ人らしいspeak up至上主義だが、「言わない・言えない」ところにこの小説の妙味があるのだろう。そこまで読み込むと人間の「心理」を解明するというこの小説の醍醐味も分かる気がするのだが、高校の国語の授業ではその面白さが分からなかった。
小説はある程度人生経験を経ないと分からないことも多く、高校生には理解できない部分も多い気がする。読書感想文コンクールの入選作品などを見ると、早熟な女子学生の入選作などは、自分などはもう少し大人になるまでわからなかったような人間観察が含まれているものもあって感心する。成熟度によって小説の理解度も違うだろう。高校の古文の授業では『源氏物語』の比較的穏当な部分を読まされるが、『宇治十帖』の「浮舟」の心理なども純情な高校生にはわからないだろう。そう考えていくと作品に出会うという点は高校の国語の授業もいいかもしれないが、皮相な解釈を教えて、小説の本当の魅力を伝えきれず、興味を奪っている弊害もあるかもしれない。特にお仕着せの読書感想文の宿題はその傾向が強い気がする。
インターネット上には読書感想文のネタ元になるようなサイトも少なくない。先日も「小中学生のための自由に使える読書感想文」なるページを見つけた。このページの作者は、学校での読書感想文教育に批判的で、パロディとしてこのページを作っているようだが、「小学生向き」と題して、適度に下手な文章で、先生が喜びそうな実例を並べているところに鋭い批判精神を感じさせられた。大手出版社に勤める友人によれば、夏休みの小中高の読書感想文の宿題は出版社にとって稼ぎ時で、定番の小説文庫はドル箱であるらしい。学校時代に無理やり読まされた小説も、授業での読み方や何かわりきれないものを感じたら、社会人になったらまた読み直してみればいいだろう。学生の頃に発見できなかった面白さや、直面している悩みへの指針が見つかることもあるかもしれない
この本でも最初にとりあげている、漱石の『こころ』だが、日本人だと高校時代に国語で習う定番の小説だろうが、これほど学校で教わる内容と小説の深さがかみ合ってない例も少ない気がする。たまたま実家に帰ったとき、高校時代の『現代文』の教科書を見たが、授業で習ったことがメモしてあり、「『先生』→Kに恋愛の勝負では勝ったが人間としては負けたので自殺した、『K』→道を貫くことができずに死んだ」などと書いてあったが、これほど皮相な読み方もないだろう。学校で習うと、明治天皇崩御と乃木大将の殉死の後書かれた小説なので、「『明治の精神』に殉ずるとはどういうことか」といった建前的な部分が強調されがちだが、長い書簡という形をとっているこの奇妙な小説が若い読者を時代を超えてひきつけるのはそんなところではないはずだ。
高校生ぐらいの時は、「お嬢さん」をめぐるKと「先生」のライバル関係にばかり注目して読んでしまうが、後から考えると、下宿先の「奥さん」が、資産家の息子である「先生」に目をつけて、Kを当て馬にして、「お嬢さん」とくっつけたような面もあり、それによって「親友」を失ってしまったという思いがあるから、「先生」は妻となった「お嬢さん」にKの自殺の真相を語らなかったと読むこともできるだろうし、土居健郎の『「甘え」の構造』が分析しているように、小説の語り手である「私」と「先生」、そして「先生」とKとの間に同性愛的な感情があり、そうした世界を女性である「お嬢さん」に意識的に共有させていないと読むこともできるだろう(漱石より後の武者小路実篤の『友情』でもそうした傾向が顕著だが)。
アメリカの大学の日本文学の授業で取り上げると、「なぜこの「先生」は奥さんに告白して許しを請わないのか?そうすれば必ず許してもらえるはずなのに」という質問が必ず出るそうだが、いかにもアメリカ人らしいspeak up至上主義だが、「言わない・言えない」ところにこの小説の妙味があるのだろう。そこまで読み込むと人間の「心理」を解明するというこの小説の醍醐味も分かる気がするのだが、高校の国語の授業ではその面白さが分からなかった。
小説はある程度人生経験を経ないと分からないことも多く、高校生には理解できない部分も多い気がする。読書感想文コンクールの入選作品などを見ると、早熟な女子学生の入選作などは、自分などはもう少し大人になるまでわからなかったような人間観察が含まれているものもあって感心する。成熟度によって小説の理解度も違うだろう。高校の古文の授業では『源氏物語』の比較的穏当な部分を読まされるが、『宇治十帖』の「浮舟」の心理なども純情な高校生にはわからないだろう。そう考えていくと作品に出会うという点は高校の国語の授業もいいかもしれないが、皮相な解釈を教えて、小説の本当の魅力を伝えきれず、興味を奪っている弊害もあるかもしれない。特にお仕着せの読書感想文の宿題はその傾向が強い気がする。
インターネット上には読書感想文のネタ元になるようなサイトも少なくない。先日も「小中学生のための自由に使える読書感想文」なるページを見つけた。このページの作者は、学校での読書感想文教育に批判的で、パロディとしてこのページを作っているようだが、「小学生向き」と題して、適度に下手な文章で、先生が喜びそうな実例を並べているところに鋭い批判精神を感じさせられた。大手出版社に勤める友人によれば、夏休みの小中高の読書感想文の宿題は出版社にとって稼ぎ時で、定番の小説文庫はドル箱であるらしい。学校時代に無理やり読まされた小説も、授業での読み方や何かわりきれないものを感じたら、社会人になったらまた読み直してみればいいだろう。学生の頃に発見できなかった面白さや、直面している悩みへの指針が見つかることもあるかもしれない