紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

「政治」嫌いの弁明

2008-03-21 12:52:35 | 歴史
私の父は歴史学者で、子供の時から歴史の本に囲まれて育ち、歴史を研究する父の姿は日常的なものだった。父はもともと口数が少ないこともあり、自分から積極的に何かについて語ったり、教えたりするタイプではなかった。中学や高校に通っていた時に「歴史」について質問しても、直接、答える代わりに、ただ本を貸してくれるだけだった。自分で読んで調べろといういかにも学者的な姿勢だった。その父が珍しく歴史について正面から語ってくれた言葉の一つは、「歴史的評価は後付けでするな」ということだった。例えば人権概念が発達していなかった封建時代の人権状況について、現在の基準でいい、悪いを論じることは不毛だというようなことである。

江戸時代の研究だったら、江戸時代の時点でどう評価できるのかを考えるのが歴史学の姿勢だということなのだろう。逆に言えば、丸山真男のように荻生徂徠など江戸時代の儒家を政治思想として捉えなおそうというのは、あくまでも「政治学者」の仕事だということになる。

父が歴史学を学び、また教えてきた時代が、マルクス主義的な唯物史観に則った社会経済史的なアプローチが全盛だったことが、父をして、解釈や理論先行型の歴史ではなく、史料に沈潜し、史料をして語らしめるような歴史学を追求するようになったのではないかと推測している。

私自身は、父がやっていたような、明治の政治家の書簡のくずし字をせっせと読んだり、マイクロフィルムで地味な公文書を読み続ける歴史学を避けて、政治学を選んだが、史料を淡々と解釈するのが「本当」の歴史学だと刷り込まれているところがあり、妙に政治的な解釈をしたがる歴史家がどうも信用できない癖がついているのも育った環境が影響しているのかもしれない。

この4月に来日し、一緒に大学院の授業を教えることになっている米国人教授の指定図書である、ジョン・ダワーの『容赦なき戦争-太平洋戦争における人種差別』(平凡社ライブラリー版)を読み返していて、目を引いた記述があった。この本の前書きでダワーは、本を出版するに当たって友人である日本人の歴史家から、「連合軍の人種主義と残虐行為を取り扱うのは、戦争について研究している日本の反動的な修正派に弾薬を与えるだけのことになるのではないか」(p.22)と反対されたと書いている。いかにもありそうなことだが、ダワーに助言した「進歩」的歴史学者というのは、歴史研究を政治的な「勝ち負け」でしか行っていないのだと思う。ダワーの本は、太平洋戦争において、アメリカ側にも日本側にも「人種偏見」があったことをさまざまな資料を使って明らかにしていて、「異文化接触」論からみた太平洋戦争論ともとらえられる興味深い研究だが、ダワーの本に反対したという日本人学者はおそらくは、日本の戦前の体制やそれを「継承」した戦後の保守政治を「告発」するために歴史研究をしているのだろう。多面的な側面から虚心に過去の実像を明らかにしようという姿勢ではないからそんなことを言うのではないかと思わされた。

学生だった時分にも思わないでもなかったが、大学で働き始めてから、社会や政治現象について、政治家以外の学者や教育者、メディア関係者が政治的にあまりにも党派的でご都合主義的な言動をしているのが気になって仕方なくなってきた。自分自身が「右」でも「左」でもなく、中央に立っていようとしているだけに余計にそうなのだが、政治家でもない教育者や学者がどうしてそれほど政治的に振舞おうとするのか理解できないことが多い。

この数年、食品の安全について様々な形で問題になっているが、例えば普通の消費者からすれば、狂牛病の牛肉を輸入するのは困ると同時に、農薬入りの冷凍餃子の輸入も困る、安全じゃない食品には断固たる対応をとってほしい、単にそれだけだと思う。しかし狂牛病の牛肉輸入は米国産だから禁止を主張し全頭検査を要求するのに、農薬入り餃子は中国産だから「冷静な対処」を望むという人はあまりにも政治的だといわざるを得ない。

チベット問題でも、あるニュース番組では日本人コメンテーターが、「中国政府の政策により、チベット自治区の道路も舗装され、鉄道も引かれ、経済状況も改善したが、漢民族とチベット族の経済格差が広がったことが不満の原因だ」と語っていた。キャスターが「今回の事態をどう思いますか?」と問うたのに対して、「胡錦濤さんをはじめ、中国政府指導部はショックを受けているでしょうね」と、チベットの住民ではなく、完全に中国共産党政権に同情的な口調で語っているのにも驚かされた。中国特派員を経験し、日本の戦争責任には厳しい論評をする解説者だが、この主張は、戦前の日本の植民地支配を部分的でも擁護する論者が、「日本は朝鮮で鉄道を引き、大学を作り、ダムを作り、経済発展に貢献した」などと語るのとほとんど同じ論理である。経済の論理のみで政治的支配を肯定し、文化的支配の問題を無視している。「右」と「左」はコインの裏表なのかもしれないが、同じ論理で対象が違った場合に意見を使い分けているのが、納得できないことが多い。

そのように見てくると、日ごろ学校で接している「政治」嫌いの若者たちの気持ちがわかるような気がする。アメリカに留学した時に、アメリカという国に興味をもったのは、人種問題にしろ、進化論教育にしろ、中絶問題にしろ、同性愛者の権利にしろ、金利政策にしろ、様々な争点について、政治家だけでなく、普通の学生も議論し、国が何について議論しているかが明確な点がダイナミックな印象を受け、政治学を専攻する学生として刺激的だった。しかし裏を返してみれば、共和党と民主党がほとんどすべての政治的社会的争点について、敢えて反対の立場を明確に打ち出して、世論を分断しているとも言える。2008年大統領選挙の主役の一人のバラク・オバマがそうした価値対立を煽る政治を批判し、「分裂より統一を」とアピールするのがブッシュ政権下の「文化戦争」に辟易した有権者に評価されるのはよく理解できる。またとかく意見の対立点を明確にして、自分の立脚点を明らかにし、その立場から他の論者を批判する、政治に対して、若者がある種の嫌悪感をもつのももっともである。

大学にいたり、政治的なメディアの報道を見ているとわからなくなってくるのが、普通の市民が望んでいるのは、景気や物価の安定だったり、争いがない世界だったり、安全な食品だったり、平和な日常生活だろう。それに対して政治や社会を研究し、教育している立場にある人間は、「政治に関心を持たないと駄目だ。放っておいたら世の中や環境は悪くなる。世界が平和にならない。貧困はなくならない」などと不安を煽り、無知を責め、警告を発し続けている。その一方で「人が人を殺してはいけない」、「人をだましてはいけない」、「危険な食品をばら撒いてはいけない」、「独立したいという人々を無理やり押さえつけてはいけない」、「独裁政治はいけない」・・・などといった理屈を一貫して主張し続けている人は驚くほど少ない。ケース・バイ・ケースで意見を使い分けている。そういう矛盾に自己嫌悪を覚えないのだろうか?といつも疑問に思う。

幼児退行ではないが、素朴に「おかしい」と思う気持ちを大切にしないと結局、ある種の政治的陣営に立って、主張の勝ち負けを争うだけになってしまいかねない。議論ゲームであるディベートと同様に、政治的思考を鍛えることは、説得力を高める上でも大いに役立つし、知的にも大いに意味があることだが、ゲームの勝ち負けにとらわれるのではなく、社会の矛盾や問題点を開かれた眼をもって眺め、少なくとも自分と自分の意見がどこに立っているのかを確認することを常に忘れてはならないだろう。過度に政治的な言動に嫌悪感を覚えつつ、「政治」について語ったり、教えたり、考えたりすることは誠に難しい。そう思っている間にまた新学期が始まる。