紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

ハリケーンと市政改革:テキサス州ガルベストン市

2005-09-23 16:08:18 | 都市
ハリケーン「カトリーナ」がニューオーリンズに壊滅的な打撃を与えたことは日本のテレビニュースでも連日報道されているが、新たにメキシコ湾に近づいている、同規模のハリケーン「リタ」のニュースも大きく報じられている。このニュースを聞いていて思い出したのだが、リタが近づいているテキサス州ガルベストンという町は、アメリカの地方自治の教科書ではおなじみの都市なのである。

ヒューストンから50マイル南に位置し、写真に見るようにまさにメキシコ湾に面した人口6万人の町ガルベストン市は、夏には海水浴客で賑わい、漁港としても知られている街だが、約100年前の1900年9月8日、ハリケーンの襲来で壊滅的打撃を受け、3000世帯の家屋が全壊し、8千人ものの死者を出した、アメリカ史上、最大規模の自然災害の一例として記憶されている。

アメリカの場合、市町村レベルの自治体は州によって設立・承認されることになっているが、ガルベストン市政府はこの災害にうまく対処できず、機能不全に陥ったので、テキサス州知事が州議会に圧力をかけて、全く新しいタイプの市政制度が同市で施行されることになった。それが市委員会制度というものである。アメリカの地方自治を日本人の感覚で捉えると分かりにくいが、日本の場合の市町村は全て、アメリカで言う「市長-議会制 mayor-council form」という仕組みをとっている。つまり市長も市議会議員もともに選挙で選ばれる二元代表制である。
 
それに対してアメリカの市町村の約半数(48%)が、市議会がシティ・マネージャーと呼ばれる行政責任者を任命して、行政全般を統括させる「マネージャー-議会制 manager-council form」というしくみをとっている。「市長-議会制」でなく、非公選のマネージャーが行政を統括する方がよいと考えられたのは、19世紀末から20世紀初頭のアメリカ大都市では移民の急増により、移民に仕事の斡旋などをする見返りに、選挙での特定の候補への投票を呼びかける、いわゆる「政党マシーン」が市政を支配しており、市長は「マシーン」を支配するボスの意にままに動かされていた。こうした政治腐敗を一掃するために、選挙によらない行政管理のプロを選んで、効率よい都市運営を行なうことが期待されたのだった。それがいわゆる「市政改革運動」と呼ばれるものである。ガルベストンの場合は、災害が転機になり、新たに「市委員会制度 city commission form」が導入されて、1904年までに市の完全再建を成し遂げたのだった。

この市委員会制度とは、有権者が例えば5人の委員を投票で選び、彼らがそれぞれ公共安全、公共事業、財政、公園管理、地域開発といった市の行政各部の分担責任者となる仕組みである。委員が市議会議員と行政各部門の長の役割を兼ねることになる。市長と議会の対立が都市政治の主要な側面だとすれば、この委員会はそうした「政治色」を極力排除したものである。ガルベストンでの成功の後、テキサス州内のヒューストン、ダラス、フォート・ワースといった主要都市や他州のピッツバーグ(ペンシルべニア州)、バッファロー(ニューヨーク州)、ナッシュヴィル(テネシー州)、シャーロット(ノースキャロライナ州)など一時は全米160の自治体でこのしくみが採択された。

しかし政治に興味がある方なら容易に想像がつくと思うが、強力な政治的リーダーシップを発揮する市長不在で、行政各部門の代表が合議して決めるこの仕組みは、それぞれが自分の部門の利害の代弁者となってしまい、総合調整機能が働かないため、話し合いがまとまらず、また行政部と立法部を兼職するため、チェック機能も働きにくく、市政制度としては問題が多いことが判明し、やがて廃れていった。
 
国際シティ・マネージャー協会(ICMA)の2005年の調査によれば、人口2500人以上の全米7112自治体のうちで、委員会制度を採用しているのは、わずかに2%(145自治体)に過ぎない。ガルベストンの場合も、災害復興という明確で短期的な目標があったからこそ機能したのだろう。このガルベストンも現在では委員会制ではなく、マネージャー-議会制を取っている。人口10万人以上で現在でも委員会制を取っている都市としては、オレゴン州ポートランド市(人口約53万人)がある。ポートランドでは現在、4人の委員と1人の市長、会計検査官が選挙で選ばれ、このうち市長と委員が行政を担当すると同時に、市議会構成員を兼ねている。「市長 mayor」という名称が使われているが、「同輩中の首席」委員という意味に過ぎず、強市長制の都市のようにリーダシップを発揮できる訳ではない。

イラク戦争に対する国際的な批判にも反応が鈍かったアメリカ国民だが、州兵をイラクに大量派遣しているために、「カトリーナ」に対する対応がうまく行かなかった事実に直面して、ようやくブッシュ政権批判を強めるようになった。日本の場合も阪神大震災の際に、政治的な理由で自衛隊出動要請が遅れたことが被害の拡大につながったと後に指摘されたが、大災害は日頃、見過ごしがちな政治システムの問題点を容赦なくあぶりだしてしまう反面、911テロで活躍したジュリアーニ前ニューヨーク市長が、共和党の次期大統領候補と目されるまで政治的知名度を向上させたり、中越地震の被害地の旧山古志村村長が今回の総選挙で衆議院議員に当選したりと、災害が(結果的にかもしれないが)政治家個人のキャリア・アップの手段となってしまうこともあるのが何とも皮肉だといえる。

災害が起こったときに、被害の拡大を安易に「人災だ」、「行政の責任だ」と決め付けるメディア報道も少なくないが、個人の住宅が仮に一定の安全水準に達してなかったとしても、行政サイドが建て直しを命令することはできないし、台風やハリケーンが来た場合に土砂崩れが起こりそうな地域の住民に対して、災害も起こってない段階で安全な地域への引越しを命じたりすることもできない。移動や居住の選択の自由や財産権の保護などの観点に立てば、私権の制限を伴う、日常の防災には自ずと限界があるだろう。日頃から市民の防災意識を高めておくと同時に、一旦、事が起こった場合の危機管理対策を充実させておくことこそ行政の任務であり、行政にできることと、市民が日頃から自らの安全は自ら守る意識を高めることが相補いあわなければ、防災行政の効果はあがらないに違いない。

大都市が作る政治社会学-シカゴ、ニューヨーク、ロサンゼルス-

2005-08-17 09:25:20 | 都市

大都市は政治経済のみならず、文化の中心地であり、多くの場合、その国を代表するような大学も大都市に集まっている。政治学や社会学といった社会科学のあり方が必ずしもそれを担う学者が所属している大学やその大学が所在している都市の態様に規定されるわけではないのだが、多かれ少なかれ、どのような都市に基盤を置いて研究するかによって研究のあり方も左右されることになるだろう。今年の大学の公開講座で、シカゴ、ニューヨーク、ロサンゼルスの三大都市を比較して、グローバル化とアメリカ都市の関係を考える講義を行なったが、各都市の現状を振り返るよりも、それぞれの都市が生み出した政治社会学についての話が中心になってしまった。

20世紀初頭の急速な都市化と南欧・東欧から移民の流入により大都市に成長したのが、シカゴだったが、そうした都市化の観察によりシカゴ大学を中心に、後に「シカゴ学派」と総称されるような政治学、社会学者のグループが形成された。1950年代末まで強い影響力をもったシカゴ学派の都市論は、都市は中心部から郊外へと同心円的に発展していくのを前提としていた。また「人種のるつぼ」論を背景にした社会科学的理論として、アメリカ社会に流入した移民は当初はアメリカ社会の価値観と衝突・対立するがやがてはそれに対応するようになり、最終的にはアメリカ的生活様式を受け入れて「同化」するという、直線的な「アメリカ化」の過程を経て、移民たちが農夫から近代人へと発展するものと想定されていた。

シカゴ学派の社会学も、アメリカ大都市が直面した、最初のヒトのグローバル化のインパクトを研究したものだったが、あくまでもシカゴならシカゴという一都市において、移民がどのように社会化されるのか、また移民の流入によって都市がどう変化するのかを研究したものだった。こうしたシカゴ学派式の一都市・定点観測型の都市社会学ではグローバル化が都市社会の態様をどのように変化させているのかを全体像として把握しきれていなかったのだが、世界システム論の視点を生かして新しい都市社会学を発展させたのがサスキア・サッセンだった。

彼女自身もいくつかのポストを経験した後、最終的にはシカゴ大学の教授となったのは興味深いが、サッセンは、ニューヨーク、東京、ロンドンを取り上げながら、特にニューヨークに着目し、アメリカの都市が高い失業率を抱えながら、大量の移民労働者を受け入れているという矛盾を犯しているのは、①製造業を中心とした分散化が主要都市における中所得職種の雇用供給を減少させる一方で管理専門職といった高所得の職種と、ビル清掃のような低賃金所得の両極端の職種の雇用を増大させていること、②増大した高所得層の生活様式が、住宅清掃のような低賃金職種の雇用を増大させていることによると説明した。こうして世界をリードする巨大企業の本社や金融サービス会社と、発展途上国並みの下請け工場、スラムが同居する「二重都市(dual city)」がニューヨークなどの「グローバル都市」において成立することになったのである。こうしたサッセンらの新しい都市社会学は、グローバル化がもたらす世界規模での、また都市内部での階層格差の成立に着目している点で、従来のシカゴ学派の都市社会学と異なっている。

一都市をグローバル資本主義システムの中で位置づけることでシカゴ学派的な定点観測を克服しようとしたのがサッセンだったが、移民の態様そのものと都市づくりのあり方の違いに着目するのがエドワード・ソージャなど、カリフォルニア大学ロサンゼルス校や南カリフォルニア大学などロサンゼルスに基礎を置く研究者たちである。

シカゴとロサンゼルスの違いをいくつか列挙してみると、第一に、20世紀初頭のシカゴでは現在の韓国・インド・イラン系移民のような最初から高いスキルをもった移民がいない一方で、現在のロサンゼルスのように世代を超えて職業・所得階層で低位に留まるメキシコ系移民のような集団もいなかった。ヒスパニック系は家政婦、単純機械操作、組立工・検査工、建設労働者、農業労働者など特定業種に集中しているのが問題視されている。第二に、現在の移民は20世紀初頭の国際移動が困難だった時代とは異なり、特に中南米諸国からの移動は容易であり、またアジア系移民は出身国との経済界とのつながりも密接である。第三にロサンゼルスは自動車所有が一般化してから発展した、車による移動を前提にした都市であり、シカゴ学派の「同心円型」の発展モデルが当てはまらない、「中心なき」都市である。第四にシカゴは白人、黒人などの割合が高く、しかもそれぞれ人口減少しているが、ロサンゼルスは白人、黒人、アジア系、ヒスパニック系のいずれの人口も増加し、特にアジア系とヒスパニック系の増加が著しく、白人は過半数を切っている。

このようにグローバル化を先取りしてきた都市であるシカゴと、現在その真っ只中にあるロサンゼルス、ニューヨークとの間には様々な相違があり、ロサンゼルスは「21世紀都市」、「ポストモダン都市」などと目されることも多いが、ヒスパニック系人口の「多数派」化とそれに伴う反移民立法の制定や英語公用語化運動、アファーマティブ・アクション廃止などグローバル化に伴うネイティヴィズム的な運動の震源の一つともなってきたし、1992年のロサンゼルス暴動では、韓国系と黒人というマイノリティ同士の衝突という新たな人種対立も顕在化するなど、古くて新しい問題を示す都市でもある。こうしたロサンゼルスを基盤とする研究者たちが二十世紀のシカゴ学派に代わる、「ロサンゼルス学派」を形成できるのか否かはまだ明らかではないが可能性は十分にあるだろう。

アメリカ系多国籍企業も最大の受益者の一つとなっている経済グローバル化の影響により、アメリカ国内でも、恩恵をうけ成長続ける中心都市と、グローバル化への対応へ苦慮する地方・周辺都市の格差が広がり、また同じ都市内部でもサッセンが指摘した「二重」構造が形成されているのが今日のアメリカ都市をめぐる状況であり、その意味では特殊アメリカ的な側面と日欧の都市に共通する側面をもっている。様々な矛盾を抱えつつも、多文化主義やマイノリティの権利運動で世界をリードしてきた観のあるアメリカ社会は全体としてみれば、同質性の高い日本や、基本的人権や政治的市民的権利の実現の面で遅れをとっているアジア諸国と比べて、人口のグローバル化への強い「耐性」を有しているとは言えるのではないだろうか?その傾向自体は、911テロや様々な戦争により一時的に「不寛容」のムードが繰り返し現れてきたアメリカ史の展開を考えても支配的基調であると言って過言ではないだろう。その意味でアメリカ都市をベースにしたアメリカ政治学や社会学はアメリカで形成されたという文化的な「存在被拘束性」を持つことは否めない反面、同時にグローバルな性質を内在させていると言えるだろう


アンクル・トムとトヨタ:ケンタッキー州オーエンズボロ市

2005-07-23 17:11:56 | 都市
ここ2、3日心に残るアメリカの小地方都市について書いてきたが、中西部~南部をタイ人の友人と旅行していた時に宿をとるため、たまたま立ち寄ったのがこのケンタッキー州オーエンズボロ市である。毎年5月に、国際バーベキュー・フェスティバルが開かれるらしく、"BBQ capitial of the world(世界のバーベキューの中心地)"と半ば無理やりなキャッチフレーズをつけていたが、人口5万4千人の何の変哲もない地方都市で特に見るべきものもなかった。

偶然見つけたのは『アンクル・トムの小屋(1852)』のモデルになった黒人奴隷ジョサイア・ヘンソン(1789-1883)がカナダに逃亡する前に最後に奴隷として奉公させられていた家の跡地があった。といっても碑文が経っていただけで、同行のタイ人学者は教育行政学を学ぶためにアメリカに留学していて、アメリカ文化や文学には何の関心もなかったようで、「ん?有名な奴隷か?」と全く興味なさげな様子だった。子供の頃に読んだストウ夫人のこの小説はとても感動的で、リンカン大統領が「南北戦争を起こした小さな婦人」と語ったというエピソードとともよく思い出していた。しかし長じてアメリカについてもう少し勉強するようになると、「アンクル・トム」という英単語は「白人に従順で媚を売る黒人」という悪い意味で使われていることを知った。映画『マルコムX』でも黒人分離主義者のマルコムXがキング牧師など穏健派の公民権運動指導者のことを「アンクル・トム・リーダー」と罵っている演説が印象的である。最近では独裁国と名指しされて激怒した、ジンバブエのムガベ大統領がアメリカのライス国務長官を「アンクルトムの小娘」と罵ったのも記憶に新しい。

またこの小説自体に対しても、トムと並ぶ、もう一組の主人公であるジョージとエライザというカップルがカナダへと逃亡して、さらに幸福を求めてリベリアに旅立つという筋なので、黒人のリベリア植民を美化・礼賛・推奨した(言い換えればアメリカに留まる限り、黒人に明るい未来はないとした)プロパガンダ小説だという批判があることを知った。トムのモデルになったジョサイア・ヘンソンはカナダに逃亡してから聖職者として活躍し、自伝を書いているのだが、ストウ夫人の小説は彼の自伝(1849)の剽窃だという批判もあるようだ。「偶像破壊」も文学研究の大切な仕事なのかもしれないが、子供の頃の感動まで破壊されたような複雑な気持ちになったことは否めない。ちなみにヘンソンのカナダの家は観光地として整備されている。黒人として初めてカナダの切手に登場した人物と言うことで、「トム」と違い、幸せな晩年だったのかもしれない。
 
オーエンズボロの街中をタイ人の友人とその甥、そして私と三人三様の訛った英語で会話しながら食事したり歩いていると、アジア系が少なさそうなその町でジロジロ見られた。だが実はトヨタ自動車がケンタッキー州に工場を作っているように日本企業のケンタッキーなど南部進出が進んでおり、このオーエンズボロにも2001年にトヨタ自動車系列の豊田鉄工進出していることも後で知った。アメリカ諸州が連絡事務所を東京などに設置し、州知事たちが相次いで来日し、自州への日本企業誘致活動を行なっていることはよく知られるようになった。たまたま立ち寄った町がきっかけになり、子供の頃読んだ『アンクル・トムの小屋』の知られざる側面も知ったり、日本企業のアメリカ進出の実態を知ったのは嬉しい驚きだった。知らないところを訪ねるのは必ず何か発見がある。特に特徴もない地方都市も訪問者として何らかの形で楽しめると思った。

山間の祖国:イリノイ州ガリーナ

2005-07-22 17:08:14 | 都市
シャーロッツヴィルが退屈だと言っていたあなたの気持ちが今になるとよくわかります。家族も親戚も知り合いもいない異国の田舎の町で暮らすのは心細いものですね」とむこうの大学で知り合い、卒業後、北海道の農村にJETプログラムで中学校の英語補助教員として来日していたアメリカ人に言われたことがある。彼女は「アメリカの町は田舎でも文化がある」と言って日本の田舎暮らしをぼやいていたが、そういう言葉を聞くといかにもアメリカ人らしい傲慢な物言いだと思うかもしれない。だがアメリカでドライブしていて、何もない田園地帯に忽然とメインストリートを中心に整った町並みが現れたりすると一瞬、そんな気になることもある。

北イリノイ大学に留学していたタイ人の大学教員と一緒にドライブして訪ねた、イリノイ州とアイオワ州の州境の町、ガリーナもそんな町だった。シカゴから車で3時間程度。英語でweekend getaway(週末の行楽地)という表現があるが、仕事から「脱出」して土日に訪れるのにちょうどいい町かもしれない。

19世紀中盤に鉛鉱業の町として栄え、ミシシッピー川など交通の便もよかったことから多くの移民労働者が集まり、当時は2万人近い人口を抱えるようになったそうだ。現在は約3500人の住民しかいない、日本で言えば村の規模だが、1960年代から歴史的町並み保存に力を入れて観光地化し、年間130万人もの観光客が訪れるという。南北戦争で北軍を指揮し、18代大統領となったユリシーズ・グラントの家があることで知られているようだが、シカゴやウィスコンシン州に住む人たちはともかく、日本人も知り合いのアメリカ人もガリーナの名前を知らなかったので、知る人ぞ知るリゾートなのだろう。

美しいヨーロッパ風の町並みを眺めながら感じたのは、旅行者としての一方的な感傷に過ぎないかもしれないが、ドイツやフランス、スイスなどの母国を遠く離れてきた移民たちがどんな思いで山の中に祖国を再現するようなこの町を作ったのだろうかということだった。アメリカのスモールタウンはヨーロッパの町のミニチュア・コピーで、日本で言えばハウス・テンボスとか(今はないが世界の建物を縮小再現した)ユネスコ村の中でそのまま生活しているような観がある。日本でも歴史的町並み保存をしている地域は増えてきたし、実際そういう町で生活している人も少なくないのだが、移民国アメリカだけに出身国の町並みを何もない土地に再現している様子が訪れるものにある種の感慨をもたらすに違いない。

シャーロッツヴィル、ヴァージニア

2005-07-21 17:06:03 | 都市
13回程度のアメリカ論の講義で毎回、違ったアメリカの都市を取り上げて、その街の背景や現在抱えている問題点などを浮き彫りにしてみたいという夢というか、構想はあるのだが、毎週徹夜で準備しなければならないことが目に見えているのでなかなか踏み出せない。とりあえずブログでまず気になる都市について語ってみたい。第一弾は留学先だったヴァージニア州シャーロッツヴィル市である。

東京以外で暮らしたことない私が人口4万人で大学と大学の創立者で3代大統領トーマス・ジェファソンの私邸モンティチェロ以外何もないこの町で暮らし始めた時のカルチュアショックはとてつもなく大きかった。写真のダウンタウンも歴史的建造物を再建して一見瀟洒だが、15分もあれば一周できる小さな規模である。アメリカの都市らしく都市中心部よりも郊外のショッピングモールなどが発展しているという典型的なスプロール型の発展をしていて、裕福な住民はシャーロッツヴィル市内ではなく、シティリミッツ(市域)外のアルバマール・カウンティの方に住んでいた。ヴァージニア州は全米で唯一、独立市制と呼ばれる、カウンティ(郡)とシティ(市)の財源の完全分離を行なっていたため、こうしたスプロールのとばっちりで州の下部組織であるカウンティの方にばかり高い固定資産税や消費税が入ってしまい、公共支出の多いシャーロッツヴィル市の方は税収が減少し、財政赤字に苦しんでいた。そのため、留学当時には名より実をとって市の「自治権」を捨てて、「市」から「タウン」へと「降格」し、カウンティの一部になってしまおうとする運動が盛り上がっていた。吸収合併して「市」に昇格しようという運動が一般的なので、Town Reversionと呼ばれたこうした動きは全米でも珍しいものであったが、その後はストップしてしまった。

ワシントンDCから車で2時間半程度、緯度で言えば「東部」であるが、文化的には「南部 Dixie」の雰囲気が濃厚な街で、フランス公使を経験をしたジェファソンの影響で18世紀末~19世紀初頭のフランス風の街の面影も残っている。東部で成功した人が引退後に住む住宅地としても人気があるようで、また大学もあったことから人口規模のわりには文化的な街で、画材店や骨董品店等も多かった。ダウンタウンのみやげ物店でLPレコードのような巨大なオルゴールを眺めていると、客は私一人しかいなかったのだが、総演奏時間20分程度かかるそのオルゴールをわざわざかけてくれた。古本屋ではアジア系の風貌の私がアメリカ史の本やアメリカの地方自治関係の本を探しているのが珍しかったのか、丁寧に解説してくれて、割引もしてくれた。何が原因か忘れたが、レストランで注文が来るまで、(たぶんいかにも)一人で落ち込んでいるように見えた私に他の客が慰めの言葉をかけてくれた。いずれも些細な思い出だが、そうした思い出の積み重ねが歴史の教科書にしかでてこないようなこの小さな町を私にとって特別なものにしている気がする

新宿オン・マイ・マインド

2005-07-19 17:03:42 | 都市
離れてみるとよく分かることがある。東京、というより新宿という街の存在は自分にとってはとても大きいものだと思う。私自身は都心育ちではなく、物心ついてからは新宿からは30分以上電車に乗らねばならない都下で成長したので、そんな私が「ふるさと」のイメージとして、新宿の高層ビルを挙げたら、「都会っ子」ぶりっ子と非難を受けそうだ。しかしアメリカ・バージニア州の片田舎の大学町で過ごした時も、現在暮らしている神戸の街並みを眺めていても、新宿の高層ビル街の夕日を思い出すことが多いし、JR新宿駅西口や東口前の雑踏が私にとっての都会の原風景であることには変わりはない。ボードレールの「群衆にひたるのは誰にでもできることではない。群衆を楽しむのは一種のアートである」(「群衆」『パリの憂鬱』)というフレーズを読んでも新宿駅前の光景を思い出す。

新宿には子どもの時から思い出が多い。何度か引越しをしたが、いずれも京王線沿線だったり、今のように府中や立川といった郊外に次々とデパートができる時代でもなかったので、買い物というと新宿に出ることが多かった。大学も大学院も新宿に程近く、何かイベントがあると新宿で飲み会をやっていた。大学野球の晩にコンパをして酔った学生が歌舞伎町を汚すというので、大学は新宿区に清掃費を払っていたらしいが、その位、私の大学と新宿の関わりは深かった。新宿と比較的縁が薄かったのは、横浜市の高校に通っていた時くらいである。

ある人は「新宿区の西口は欧米で、東口はアジアだ」と語ったが、二重性とでもいうべきか全く違った姿を見せてくれるのもこの街の魅力である。西口の高層ビルやオフィス街、東京都庁に見られる効率主義と洗練、モダニズムと、東口の歌舞伎町に象徴される猥雑な欲望と消費と暴力の集中、ゲイタウンの新宿2丁目、静寂の(そして昼夜で全く様子の違う)新宿中央公園、新宿御苑など都会の本音と建前を力強く見せてくれる街である。大都会であるのに、生活感に溢れているのも魅力の一つだろう。

新宿に住んだことはなく、新宿は出かける場所、通学する場所でしかなかったが、新宿で会った人々、新宿でした会話、飲んだ酒、買った本、見た映画、食べたもの、(厳密には新宿ではないがその周辺で)習った英語などが10代、20代の自分にとって大きな位置を占めている。同僚で京都という街に特別な思い入れをもつ人たちが少なくないが、学生時代を過ごすというのはそういうことなのかもしれない。そうしたものと切り離して都市は語れないのだろうが、単に思い出の街としてではなく、新宿が与えてくれた都市のイメージをいい意味で克服して、自分なりの都市論・都市像を考えてゆきたいと思っているのだが、離れた今でもこの街は自分の中で大きすぎる存在なのかもしれない。

メインストリートの再生

2004-11-03 17:03:39 | 都市
「メインストリートは文明の極致である」と半ば皮肉を込めて書いたのは、20世紀初頭のアメリカの作家・シンクレア・ルイスである。彼の1920年の小説『メインストリート』は都会から田舎町に嫁いだ娘の地方での格闘と幻滅を描いている。またほぼ同時期の1919年に出版されたシャーウッド・アンダーソンの小説『ワインズバーグ、オハイオ』も中西部の架空の田舎町の奇妙な住人たちとその日常生活を描きながら、地方生活の因習や孤独をテーマにしている。この小説でもメインストリートが舞台として効果的に登場する。

アメリカの街を旅行した方はご存知かと思うが、どの都市に行っても「メインストリート」や「ステートストリート」という名前を冠した通りがある。ちょうど日本の地方都市で中心地に「栄」という地名が多いのと似ている。20世紀初頭から第二次世界大戦までの時期には、アメリカ各都市のダウンタウンと呼ばれる中心市街地はメインストリートを中心に繁栄し、各都市の政府諸機関や大学・博物館・美術館などの文化施設、そして各種の店舗やレストランを中心とする商業施設が集中し、文字通りコミュニティの中心地となっていた。ルイスやアンダーソンが描いたのはまさにそんな時代であった。しかし第二次大戦後、モータリゼーションの進展、全米高速道路網の整備や郊外化の急速な進行によって、商業の中心はダウンタウンから郊外のスーパーマーケットやショッピングモールへと移り、メインストリートを中心とする中心市街地の空洞化と荒廃が進んだ。「メインストリート」が往年の輝きを失って名ばかりになってしまった町も多くなった。

1960年代までは開発・成長一辺倒だったアメリカ諸都市も、1970年代に入ると、交通渋滞や大気汚染、オープンスペースの喪失、新たなインフラストラクチュア建設のための税負担増、安価な住宅の不足といった都市成長に伴う諸問題が顕在化し、開発や成長の質を問い直し、持続可能な街づくりをしてゆこうとする動きがでてきた。これが「成長管理(growth management)」と呼ばれる政策であるが、その一環としてダウンタウンの歴史的景観を保護または復元して、観光客や市民、そしてビジネスを誘致し、中心市街地を活性化して、再び商業と文化の中心にしようとする試みが全米規模で行なわれるようになってきた。全米歴史的景観保護協会(National Trust for Historic Preservation)は、全米メインストリートセンターを設置し、合衆国全土でのこうしたダウンタウン再生運動を支援している。このセンターは、Great American Main Street Awardという賞を設けて、街並み保存と中心市街地の再生に成功している諸都市を毎年、表彰している。

アメリカ市民にとってダウンタウンとは、地域社会のリーダーや政府関係者が日常的に接触する場であると同時に、商業や文化施設を中心に一般市民が集まり、交流する場所であり、低賃金労働者に住居や公共サービスを提供する役割も果たしてきた。市民にとってコミュニティへの帰属意識や一体感を実感できる場所であった。メインストリート再生運動は、スプロール型の都市発展の弊害を抑制し、中心市街地を経済的に活性化しようという動きであるが、同時にそれはこの半世紀の間に揺らいできたコミュニティにおける市民の社会的な結びつきや交流を取り戻そうという運動である。

日本でも街並み保存運動が次第に盛んになってきたが、観光誘致だけでなく、地域社会再生の視点が必要であることをアメリカでの経験は示唆しているように思われる。(写真は2002年度のGreat American Main Street Awardを受賞した、ヴァージニア州スタントン市のダウンタウン。第28代合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンの生地であり、全米で最初にシティ・マネージャー制を実施した都市でもある。)