紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

「二重言語」のシンフォニー:ショスタコーヴィチ交響曲全集を聴く

2006-01-16 23:15:10 | 音楽・コンサート評
かつてソビエト政治の専門家は、ソ連共産党本部がおかれたクレムリン宮殿の名をとって、「クレムリノロジスト」と呼ばれていたが、彼らは秘密主義の体制を限られた情報で分析するため、独特のテクニックを駆使していた。例えば集合写真における共産党幹部たちの立ち位置の変化に注目して、権力関係の微妙な変化を読み取ったりしていた。共産党幹部の演説を分析する時も、マルクスやレーニンの著作の引用が多い場合は、そうした主義に忠実なのではなく、むしろ改革路線を打ち出したいときにこそ、自らが「修正主義者」ではなく、主張の根拠がレーニンやマルクスにあるかのごとくアピールするため、引用を多用しているのだと読まねばならなかったそうだ。ゴルバチョフ書記長の演説もそのパターンに当てはまったようだが、そうした独自の「裏読み」がクレムリノロジストたちには求められたのである。

ソビエト音楽界のみならず20世紀を代表する作曲家ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906-75)の交響曲全集を、昨年、出版された若きショスタコーヴィチ研究者の千葉潤氏の『作曲家:人と作品 ショスタコーヴィチ』(音楽之友社)などを参照しながら聴いていて、そんなソビエト・ロシア政治研究者の苦闘を思い出した。ショスタコーヴィチの音楽はソビエト現代史そのものであるといっても過言でなく、彼の作品を純音楽として楽しむには政治的エピソードがあまりにも多すぎるかもしれない。

オペラ作曲家として成功しながらも、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1934)を共産党機関紙『プラウダ』紙上で無署名の(スターリン自身によるとされる)「論説」により「音楽の代わりの支離滅裂」と批判され、その後も度重なる党による弾圧や検閲に耐えながら、時に妥協して社会主義や共産党を礼賛するプロパガンダ音楽を数多く作曲し、一方では批判や風刺精神を内在させた作品を生み出し続けた。高等学校のブラスバンドでもよく取り上げられるようになった交響曲第5番は、十月革命20周年記念演奏会で演奏され、「『革命』交響曲」という俗称で知られているが、ベートーヴェンの『運命』を20世紀に移したようなドラマティックで分かりやすい曲で、サイレント映画『戦艦ポチョムキン』復元版のサウンドトラックとしても利用されたので、ご存知の方も多いと思う。ロシア革命のドキュメンタリーでもBGMとしてしばしば流されている。

この曲で名誉回復したショスタコーヴィチだが、その後も交響曲第6番は「形式主義」と批判を受けているし、独ソ戦におけるソ連軍の勝利を祝う第7番「レニングラード」、第8番に続く「戦勝賛美」3部作の完結編を期待された第9番を軽妙な作品に仕上げてしまって、ふたたび共産党当局の不興を買った。かと思えば、1905年「血の日曜日」事件を描いた交響曲第11番「1905年」、レーニンに捧ぐとされた第12番「1917年」といったプロパガンダ的な作品も書き、西側諸国からは「体制に妥協した作曲家」として評価を下げたりもしている。しかし帝政ロシアによる民衆弾圧を批判した第11番ははからずも同年(1956)のソ連軍の武力介入による「ハンガリー事件」と重なったり、ウクライナにおける、ドイツ軍によるユダヤ人虐殺を批判したエフトゥシェンコの詩に基づく、交響曲第13番「バビ・ヤール」も、その詩の内容がスターリン体制批判とも読めることから改作を要求されたりと、体制と体制批判の間で作品も絶えず彷徨い続けた。そうした過程でショスタコーヴィチは歌詞や音階に裏の意味を込める「二重言語」の技術を磨いていったようである。

彼の作品を演奏した人々も数奇な運命をたどっている。「プラウダ」批判を受けて、発表できなかった交響曲第4番を25年後に敢然と初演した指揮者キリル・コンドラシン(1914-81)は後に亡命し、その3年後、アムステルダムで急死し、KGBに暗殺されたのではないかと噂されるなど、ショスタコーヴィチの曲も演奏家もソ連政治史の暗部と切り離して考えることができなくなっている。「私の交響曲は墓碑銘である」の名台詞で知られる『ショスタコーヴィチの証言』は、千葉氏の研究によると、ソロモン・ヴォルコフによる「偽書」だそうだが、「粛清」の恐怖に怯えながらも、魂を完全に体制に売り渡すことなく、批判と風刺の精神を秘めて作曲し続けたショスタコーヴィチにとってのシンフォニーは、まさに生きながら記した「墓碑銘」だったのかもしれない。

このような政治的なメッセージ、歴史を背負いすぎたショスタコーヴィチの音楽を純音楽として鑑賞することは容易でないかもしれない。私がもっているのは、オランダの名指揮者ベルナルド・ハイティンク指揮コンセルトへボー管弦楽団&ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(英デッカ盤)による全集だが、協奏曲の伴奏や数々の交響曲全集の「中庸」で手堅い演奏で知られるハイティンクらしく、政治色やプロパガンダ色を薄めて、誇張の少ないバランスの取れた演奏を心がけているようである。どの曲においても金管の多用も決して下品には聞こえない、極めて端正な演奏である。

最初にショスタコーヴィチに触れたのは確か中学生の時で、ご多分に漏れず、交響曲第5番だったが、当時、心を惹かれたレナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルの劇的で能弁な演奏に比べると、ハイティンクの第5番は大人しすぎるようにも感じられたが、ソビエトのプロパガンダ映画音楽を数多くものしたショスタコーヴィチらしく、描写力のあるメロディが魅力的で、「レーニン!」というシュプレヒコールで終わる第2番「十月革命」や、第3番「メーデー」、第11番「1905年」、第12番「1917年」など、一連のロシア革命を描いた曲はどれも面白く聞くことができた。『展覧会の絵』のムソルグスキーや『序曲 1812年』のチャイコフスキーなどロシア標題音楽の伝統が脈々と受け継がれている印象を受けたし、ロシアン・ブラスと呼ばれる重低音の金管楽器の多用もドイツ・オーストリア的な交響楽に慣れた耳には新鮮だった。交響曲第13番の『バビ・ヤール』の歌詞は「ユーモアは殺せない」と歌っていて、長年の圧政の中で、「アネクドート(小話)」として知られる独自の権力風刺を生んだ、したたかなロシア民衆文化が思い出された。

ベートーヴェンの交響曲全集を聴き通すと意気高揚となるだろうが、ショスタコーヴィチの全集を聴くと、重苦しい沈痛な作品の連続で憂鬱になることは間違いないのだが、インターネットを検索してみると、熱烈なショスタコーヴィチ・ファンのサイトが数多く開設されており、日本のクラシック人口の裾野の広さを改めて実感させられた。LP時代は交響曲全集は数万円もして一部の好事家しか縁がなかったはずだが、輸入CDもインターネットで簡単に購入できる今は、例えばルドルフ・バルシャイの全集など、輸入盤ならば三千円強でショスタコーヴィチ交響曲全曲を入手できるようになったことも大きいのだろう。共産党指導部から批判されて、「わかりやすさ」を求められたショスタコーヴィチだが、体制に順応させられる過程で、純芸術的で前衛的な現代音楽だけでなく、国や体制や時代を超えて、幅広く聞かれる音楽を残すことができたのは、結果だけ見れば、僥倖だったのかもしれない。

関東モンの鎌倉贔屓

2006-01-10 23:24:48 | 歴史
一昨日、母校の高校が全国大会の決勝戦で京都の高校に敗れた。東西対決というのは何かと盛り上がる話題だが、今までブログでは「関西と関東の比較」を話題として取り上げてこなかった。意識的に避けてきたのかもしれない。関東で生まれて30年以上過ごしてきて、関西で暮らすようになってまだ5年ちょっと、親戚縁者がいるわけでもない未知の土地だったが、いつの間にか慣れてしまった。

当初は関西人と関東人の気質の違いとか習慣の違いとかに気付いて興味をもったが、グローバル化や新幹線的な全国画一化が浸透した今日、むしろあまり変わらないなと思うことの方が多かった。関西人が関東に対して偏見をもっているように、東京人もまた関西にステレオタイプを抱いていて、上京した折などに時々、面白おかしく聞かれたりするようになったが、今では心も体も関西に基盤を置いているので、そんな時は関西を擁護している。

それでも時々面白いことに気付く。大学の広報誌に原稿を書く時に参考にバックナンバーを眺めていて、他学部の日本史の教授が寄稿されていた文章が目に留まった。その文章いわく「従来、平安貴族の生活が堕落した退廃的なものとして捉えられてきて、鎌倉以降の武士文化が『質実剛健』などと賛美され、武士道が日本精神の中心だなど賞賛されてきた。慢心した貴族が武士の世に取って代わられたという見方である。しかしベトナム反戦運動を経験した世代としては、そうしたミリタリズム的な歴史観に賛成できない。戦争しないで貴族のような平和な生活を送れるほうが楽しいではないか」。大体、そんな内容だったと記憶している。

ベトナム反戦世代が他の事を議論するのを聞くのは食傷気味だったが、「武士文化」賛美の歴史観が軍国主義だという批判は面白かった。と同時に、貴族・国風文化を支えてきた自負を持つ関西人として、政治経済の中心がいつの間にか江戸・東京に移ってしまったことへの怒りの叫びを上げているようにも読めた。

振り返ってみると、私自身もその先生が批判するような歴史観を小学校~高校くらいまで何の疑問もなく、抱いてきた気がする。先祖が桓武平氏につながるといったような話をいくら聞かされても、驕る平氏を倒して鎌倉に新政権を樹立した源氏の方を好意的に見ていたし、その潜在的な実力を警戒した豊臣秀吉に未開の江戸をあてがわれながらも、苦労に耐えて、江戸を世界都市に成長させる基盤を作った徳川家康は偉いものだと思っていた。知らず知らずに東京で受けた歴史教育の価値観を刷り込まれていた気がする。

自分が育った土地に対する愛着・誇りを涵養することと先人に対する敬意を抱かせるというのは、どこの国のどの社会でも、いつの時代でも「歴史」書や歴史教育が担ってきた、大きな役割の一つであったに違いない。関東・東京で小学生~高校時代を過ごした私と、関西で育った学生たちや同僚が無意識に違った歴史観を抱いていても不思議ではない。同じ国の中でもそれだけ違うのだから、近隣諸国と同じ「歴史観」を共有しようとする試みがいかに無謀であるかはいうまでもないだろう。

武家文化中心主義と同時に何気なく身につけてきた見方は農業の発展を中心に日本の歴史を見る見方だった。奈良時代の租庸調、荘園制、年貢、士農工商、地租改正・・・と高校までの日本史のキータームを並べてみても、農村社会の発展が社会経済の基盤を成してきたとする見方、大部分の「国民」が農民であったという捉え方に何の疑問も抱いていてなかった。こうした従来の日本史学の「農本主義」的なバイアスを批判したのが、故・網野善彦氏で、「網野歴史学」のファンも数多い。網野氏の一般向けの通史である『日本社会の歴史(上)(中)(下)』(岩波新書)にもそうした農民中心史観批判が集約されているし、前述した関東、関西に関する歴史的偏見についても『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫)で分かりやすく解説されている。こうした本を読むと、関西人の関東・東国に対する偏見(常識)の一つである「西国=文化的先進地、東国=辺境、文化的後進地」という見方が必ずしも正しくなく、古代以来、東国においてもかなりの程度の文化的発展が見られたことが指摘されている。未開の地・江戸を大都市に改造したのは、家康の手柄だと関東の小学生は習いがちだが、それも家康の神格化をはかった江戸幕府の公式史観によるところが大きく、最近の研究では、江戸開府以前にかなりの程度、江戸も発展していたということである。

多文化主義的な史観に立つ、網野氏の『日本社会の歴史』は、同じく岩波新書から三巻本で出されていた『日本の歴史』(1963-66)の後継本として企画されたそうである。井上氏の本は、唯物論的発展史観にがっちり乗っかって書かれた本である。そのため、例えば明治維新=絶対王政という位置づけがなされているのだが、「西洋の絶対王政と違う点は」として4つも例外項目が挙げられている。4点も重要な点が異なれば、「絶対王政」と位置づけること自体が無理というか、西欧との比較図式に当てはめることにどこまで意味があるのか疑問になるはずだが、マルクス主義史観では、絶対王政→ブルジョワ革命→プロレタリア革命という順番に、歴史が「発展」する法則になっている以上、途中の段階は飛ばせないので、無理にでもそう位置づけなければならなかったのだろう。

「歴史家の仕事は一般理論を否定することである」という格言があったが、細かい例外を捨象し、法則性を発見しようとする社会科学者と違って、歴史学者は詳細な事実を発見していくことを最重要視する。そうなると、一つの社会の発展を一つの見方で見るのは到底無理で、実際の歴史は「例外」の積み重ねにしかならないはずだ。ある歴史観を事実をもって否定することはいとも簡単であろう。しかし「東国に古代政権があったこと」、「江戸が一定の発展を遂げていたこと」、「自由民権運動がブルジョア革命でなかったこと」などなど、「・・・・でなかったこと」を次から次へと明らかにしていくのは簡単だろうが、全ての「神話」を壊した後に何が残るのだろうか?「正しい歴史認識を!」と連呼する、内外の政治家や運動家たちの尊大さに辟易すると同時に、歴史学が発展していく行く先に何が待っているのか、歴史家たちがどう考えているのか、歴史の門外漢としては大いに疑問を抱いている。

闇の鑑賞

2006-01-05 23:20:59 | 芸術
まだあまり美術館で絵を見る習慣がなかった頃、美術を習っていた友人が、絵の見方として、「画家がどんな気持ちで書いたのかを想像しながら見ればいい」とアドバイスしてくれた。以来、絵画を見るたびに画家の心象風景を想像するくせがついてしまった。クラシック音楽を聴くときは、いわゆる「絶対音楽」というか、標題性の無い音楽が好きで、ヴィヴァルディの『四季』とか、ムソルグスキーの『展覧会の絵』といったあからさまに標題的な音楽はあまり好きでないのだが、絵をどう見たらいいのか、わからなかった時にこの鑑賞法はとても有益だった。

芸術作品を芸術家と結びつけて鑑賞するスタイルにはもちろん批判もある。作家の村上龍がランボオの詩集『地獄の季節』(集英社文庫版)に寄せた解説で、「ランボオの詩から、ランボオのことをイメージするのは不可能だ」として、「私達日本人は、ヒマをもてあましているため、作品と作者の生き方を重ねるという、センチメンタルな愚を犯すのが大好きだ。作品は、作者の人生と何の関係もないのだが、根がセンチメントで非科学的なので、ランボオやヘミングウェイに憧れてしまうのだろう」(235頁)と書いていたのを見て、妙にギクリとした。このブログでもそんな文章をいくつか書いたと思う。

それでも懲りずに芸術に芸術家を重ねて楽しみたい人にうってつけの本がある。一冊はもう絶版となった本だが、ドイツの精神医学者ルドルフ・レムケが著した『狂気の絵画―美術作品にみる精神病理』(福屋武人訳、有斐閣選書、1981)である。この本は精神病理学の立場から、様々な精神障害の傾向が表れていると思われる絵画を分析しており、ゴヤ、デューラー、ムンク、シャガール、ピカソ、エルンスト、クービン、クレー、ゴッホなどの、合計109もの絵画が解説されている。抑うつ、異常嫉妬、嗜癖、性的異常、夢幻体験、知覚障害など、様々な病理現象が絵解きされていき、フロイト的な解釈が加えられているのだが、はっきりと異常性を感じられる、不気味な絵画ばかりとりあげられているのが残念なところで、「狂気の絵画」でない、普通の絵画の深層心理の分析の本があれば、なお面白いかもしれない。右に掲げたのは、本書で取り上げられているアルフレッド・クービン(1877~1959)の『人間』(1901)という作品で、レムケによると「夢幻様の典型的な状態である『放心状態』、『抑えがたい状態』、『心の騒擾状態』といったものを表現しようとしている」(113頁)とのことである。ムンクの『叫び』のような誰でも知っている絵もいくつか取り上げられている。

もう一冊はまったく別のテーマだが、同じく作者の心の闇を解明していると言う点で、梅原猛の『地獄の思想』(中公文庫版、1983)を挙げてみたい。文庫版でも20年前、最初に公刊されたのは1967年というから、ここで取り上げるまでもなく、読まれた方も多いと思うが、表向きは日本における「地獄」思想の展開を追うというテーマでありながら、実質的には梅原流の日本文学史となっている。

仏教学や日本宗教史の研究者の間では実証性の点で、梅原仏教学に対する批判が根強いらしいが、よい書評の条件が原書を読む気にさせることだとしたら、これほど刺激的な古典のガイドブックは無いかもしれないと思うほど、思い入れたっぷりの文学史になっている。

梅原はここで、『源氏物語』、『平家物語』、世阿弥の能、近松の浄瑠璃、宮沢賢治、太宰治の小説などのよく知られた作品を取り上げながら、それぞれに描かれた煩悩と我執と、それによってもたらされた心の中の「地獄」像のあり方を読み取っている。文学作品の現実的な「効用」の一つが、心の苦しみを登場人物に投影し、疑似体験することで、人生において実際に体験する苦悩への耐性を涵養していくことだとすれば、カビの生えたような日本の古典作品も十分「役立つ」ことを実感させられる名解説ぶりである。

若い読者が読むと、梅原の太宰への強すぎる共感や行間に垣間見られる恋愛、というか女性に対するルサンチマンの深さに違和感を覚えるかもしれないが、本書を読むと、高校の古文や大学の一般教養科目(今の言い方では「全学共通科目」だが)で習って、枯れ切ったイメージしかない日本の古典作品や小説が生々しく、鮮やかな光を帯びて見えてくるに違いない。

絵画にしても、古典文学にしても、芸術作品は必ず何らかの「毒」をもつもので、その「毒」は人の心の闇に根ざしている。そうした点に心を巡らしながら鑑賞する道しるべとして、『狂気の絵画』も『地獄の思想』も大いに役立つだろう。

反時代的考察の難しさ

2006-01-03 23:17:16 | 社会
帰省した折に本棚を眺めていて、古い雑誌やムックに目が留まることがある。大学に入って国際政治学を勉強し始めた頃に買った『国際政治学入門』(法学セミナー増刊 1988年4月30日発行、日本評論社)もそんな一冊だが、冷戦終結直前の激動期に刊行された本だけに、載せられている論文、解説記事の内容も今から見ると感心するもの、疑問を感じるもの、様々である。木戸蓊氏の「国際政治と均衡感覚」(81-90頁)のように、

「キューバやニカラグアを研究しているわが国のラテン・アメリカ研究者は同地の革命運動がほぼ無条件に『反米親ソ』傾向をもつことから強い影響を受けているものが多く、他方、わが国のポーランド研究者は、『連帯』運動が強烈に『反ソ親米』的であることを反映しているものが多かった。国際政治を客観的、総合的に観察しようとする場合には、それでは困るのである」(89-90頁)

と時流に流されないバランス感覚の必要を強調する論考がある一方で、1987年11月の金賢姫による大韓航空機爆破事件の直後であるにもかかわらず、あるいは直後であるため、かえってなのかもしれないが、「金日成著作集」を必読書として勧めたり、「北は主体思想にもとづいた社会主義社会建設を主目標にして、自立的な経済の発展と分配の平等を目指してきた。必要なものから平等に満たしていくという哲学が貫徹されている。ピョンヤンのデパートを覗いても、たしかに生活必需品は潤沢である」(多賀秀敏「新しい地球の読み方」、253頁)といった今から見るとナイーブすぎる記述もある。このような論者による幅の大きさも、多様な見方を提供する、大学生向けの「国際政治学」入門としては的確だったのかもしれない、というのは皮肉すぎるだろうか?

情報が限られた現在進行形のことを、特に外国の出来事や国際情勢を的確に判断・評価するのは難しい。冷戦期には、「平等」と「自由」という、必ずしも相容れない二大価値観の間にあって、前者を重視する論者は、たとえ表現の自由や結社の自由が制限されていても、社会主義体制による「平等」の実現の可能性を何より大切なことと考えていたし、政治的自由や選択の自由をより重視する論者は、社会主義体制下における政治的・社会的自由の制限こそを問題視し、資本主義社会における格差の存在をある程度止むを得ないものと考えていたのだから、同じ事件や事実に直面しても、まったく正反対の結論や評価を下したとしても不思議ではない。今から振り返れば、論壇の両陣営の間でのかみ合わない議論だったのかもしれない。ただ、どちらか一方の結論だけを大学や高校の授業で押し付けられ、その通りに答案を書かなければ、悪い成績をつけられてしまったとしたら、「冷戦」の害悪は教育現場にも持ち込まれていたといわざるを得ない。

こうしたイデオロギーの違い、入手できる情報の限界によって、社会評論や政治評論は、後から読むと的外れな議論の方がむしろ「当たり前」なのかもしれない。それでも時々、「おお、こんな時にこんなことを言っていたのか」と意外な発見があるのが興味深い。アメリカ「建国」200周年の1976年3月の『時事英語研究 創刊30周年記念特大号』(研究社)にもそんな論文が載っていた。硬派のTV司会者・田原総一朗氏が東京12チャンネル・ディレクターの肩書きで、ベトナム戦争を扱ったドキュメンタリー『ハーツ・アンド・マインズ』の映画評という形で書いているのだが、その中で

「日本で目にするルポルタージュや映像によると、ベトナム人たちは、アメリカ軍に家を壊され、田や畑をメチャクチャにされ、殺しに殺されながら、じっと耐えているあいだに、いつの間にか戦いに勝ってしまったように思えるが、もちろんそんなはずはない。アメリカ軍に破壊され、殺されながら、そのアメリカ軍を打ち破り、殺しに殺したから勝ったのである。戦うとは、殺戮に殺戮で応じるものであり、戦争に勝つのは正しいからではなく強いからである。ところが日本で目にするルポルタージュや映像は、この戦い抜きの、ベトナム人の正当性とアメリカ軍の不当性のみを主張するものが多い」 (162頁)

とはっきり書いているのが目を引いた。ベトナム戦争当時を扱ったドキュメンタリーも国際政治を勉強するようになってから見たに過ぎず、リアルタイムでは報道の雰囲気は知らない私だが、田原氏が言う事情は容易に想像がつく。田原氏はさらに

「戦争を放棄した日本人が、たとえベトナム人の正当性と、その抵抗ぶりを評価しても、その戦いぶり、戦力は認めにくいという事情はわかる。しかし、認めにくいからといって見ないふりをするというのは事実を歪めてしまうことになるだろう」(163頁)

と指摘しているのは、報道の最前線に立つ者として、しかも今から30年前の、現在よりもはるかに反戦平和主義の呪縛が強かった時代の記述としては大したものだと感心した。

19世紀のドイツの哲学者ニーチェ(1844-1900)の有名な著作に『反時代的考察』(1876)がある。ニーチェは「反時代的考察」の重要性を以下のように説いている。

「私は、時代が正当に誇りとしている或るもの、すなわち時代の歴史的教義をここで、はっきりと時代の害悪、疾病、欠乏として理解しようと試みるからであり、それどころか、われわれすべてが身を焼き尽くす歴史熱に罹っており、これに罹っているを少なくとも認識すべきであると信ずるからである。われわれはわれわれの徳と同時にまたわれわれの欠点をも栽培するとゲーテは言ったが、これが本当に正しいならば、(中略)一応、私の思うままを述べてよろしいであろう」 (小倉幸祥訳『ニーチェ全集 第4巻 反時代的考察』理想社、p.100)

ニーチェの「反時代的考察」は、現代批判や歴史主義批判であると同時に、ショーペンハウアーやワーグナーを論じた文化、芸術、教育論であるが、時代とシンクロしていかざるを得ない時事評論、政治経済論にこそ、時代の価値観に流されない「反時代的考察」が必要だと痛感させられる。だが言うは易し、行なうは難しで、評論対象である現在の価値観に流されないとしても、自分が今まで生きてきた時代の価値観、教育に知らず知らずに拘束されている面があるはずだから、「時代」を超えることは難しい。少なくともそうした緊張関係の中で考えていくバランス感覚だけは失わないようにしないといけないだろう。