紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

アファーマティブ・アクションの歴史的意義と問題点

2005-01-24 15:31:57 | 社会
アファーマティブ・アクション(affirmative action)とは、「積極的差別是正措置」と訳されることが多いが、過去に差別や不利益を受け、社会的に過少代表されてきたエスニック・マイノリティや女性、障害者を雇用や昇進、入学試験などにおいて積極的に優遇することによって社会的差別の撤廃をはかる政策である。行政命令や裁判所命令など法律で執行される場合と企業・大学などが自主的に行なう場合の2つのケースが存在する。アファーマティブ・アクションは、1964年の公民権法と、連邦政府との事業契約者における雇用差別を禁じた1965年の大統領行政命令以降、活発に行なわれるようになった。女性はアクションの対象となっていなかったが、全米女性機構(NOW)の運動を経て、1967年の大統領行政命令以降は女性も対象となるようになった。

アファーマティブ・アクションにより、黒人などのマイノリティの大学進学率が高まり、それまでごく少数に限られていた、マイノリティの医師・弁護士・大学教授などの専門職も増加し、また企業役員や経営者なども増加した。例えば黒人の大学進学率は、1964年時点ではわずかに7%に過ぎなかったが、1985年には20%に達するようになった。このようにアファーマティブ・アクションは、黒人などのマイノリティの中産階級の創出に貢献し、後に続く世代に希望と機会を与えることになったが、反面、白人層などマジョリティの側から「逆差別」であるとの反発を生み出すようになった。1978年に、黒人学生より高得点を取りながらカリフォルニア大学デーヴィス校医学部を不合格になった白人学生バッキーが、黒人のための特別枠は合衆国憲法の修正14条「平等保護条項」に反すると訴えた事件(「アラン・バッキー対カリフォルニア大学理事会事件」)で、連邦最高裁判事の間で意見が分かれたが、パウエル判事は、人種割り当て制は違法であるとしてバッキーの入学を認める一方で、選抜にあたって人種を考慮することは違憲とはいえないとしてアファーマティブ・アクションの妥当性を支持した。これ以後もアファーマティブ・アクションに関する訴訟が相次ぐことになり、「機会の平等」から一歩踏み込んで、人数割当によって「結果の平等」を保障しようとするアファーマティブ・アクションは、白人のマイノリティに対する反発を強め、かえって人種関係を複雑化するというマイナスの側面ももつようになった。

同時に成長してきた黒人中産階級の中からも実力主義の立場からアファーマティブ・アクションを批判する声もでるようになった。1995年にカリフォルニア大学理事会は、入学者選抜において「人種、宗教、性、肌の色、出身民族および出身国・地域」を判定基準としないことを決定したが、このアファーマティブ・アクション廃止提案したのが黒人理事であったこともこの問題の複雑さをよく示している。しかし2001年のカリフォルニア大学理事会では再び1995年の決定を覆して、アファーマティブ・アクションの復活を決定するなど事態は流動的である。例えば2003年の「グラッター対ボリンジャー事件」判決では、ミシガン大学の入学者選抜におけるアファーマティブ・アクションの是非が争われ、連邦最高裁は、ロースクールが学生の多様性を確保するために人種を考慮すること自体は5対4で「合憲」であると判断したが、同時に争われた「グラッツ対ボリンジャー事件」では、ミシガン大学文理学部が入学選抜に当たって、マイノリティ志願者には150点満点のうち、自動的に20点を加算していたことを6対3で、「平等保護条項」違反で「違憲」と判断した。この2003年の判決は、アファーマティブ・アクションの合憲性を認めつつも、割当制は認めず、差別是正措置の限定的な適用を求めたものだと言えるだろう。

アファーマティブ・アクションを容認するか否かは、結局、貧困や社会的不利益を社会全体の構造的な問題と捉えるか、個人の資質と努力の問題と捉えるかの相違によるものであり、過去の不正義とそれによって構造化した差別と社会的不利益を是正しようとすれば、アファーマティブ・アクションを支持することになるが、マイノリティの中産階級も一定の成長を遂げた今日、個人の自助努力をより重視する立場からすればアファーマティブ・アクションは縮小・撤廃すべきだと主張することになるだろう。アメリカ社会におけるアファーマティブ・アクションの動静は以上のような哲学論争も含めて、時の政治的情勢にも影響を受けながら今後も様々な議論を呼び起こしつつ、推移していくことになるだろう。なお日本の大学でも、現時点では唯一の例かもしれないがミッション系の四国学院大学がアファーマティブ・アクション入試を実施している。東京の主要大学でも返還前の沖縄の学生向けの推薦入試を行なっていた時代があるようだ。

アール・ウォーレンに見るリベラリズムと反共主義

2005-01-12 15:39:50 | 政治・外交
アメリカの最高裁の歴史や憲法史を学んでいると、アール・ウォーレン(1891~1974)が連邦最高裁首席判事を務めた時期(1953~1969)は、最高裁がもっともリベラルだった黄金時代として「ウォーレン・コート(=法廷)」と呼ばれて高く評価されている。しかしウォーレンは、カリフォルニア州の司法長官(1939~43)時代には、日系アメリカ人の強制収容を主張したこともあり、またケネディ暗殺を調査した1963年のウォーレン委員会の報告書では、狙撃犯とされたオズワルド単独犯行説を主張したため、単独犯説を否定しているオリバー・ストーン監督の映画『JFK』などではどちらかといえば悪役的に描かれている。その意味でもアメリカ政治の光と影を考える上で興味の尽きない人物である。

1953年にアイゼンハワー大統領は、共産主義に批判的で保守的なイメージをもっていたカリフォルニア州知事(1943~53)のウォーレンを最高裁首席判事に任命したが、彼は黒人と白人の人種別学を初めて「違憲」と判断した「ブラウン判決」をはじめ、一連の政教分離判決など、当時の社会常識を覆すリベラルな判決を行なった。このことは意外なことと捉えられがちだが、ウォーレンの伝記的研究によれば、ノルウェー系移民の子だった彼は敬虔なクリスチャンであったが、リベラリズムの原則に立てば、公立学校が宗教に深入りすることは妥当でないと考えていたし、また「ブラウン判決」についても、憲法の精神を忠実に解釈すれば「人種別学」は違憲としか考えられないと考えていたという。彼は、個人の自由を制限し、国家=共産党の権限を最大限拡大する現実の共産主義国家に対して強く反対していたが、同時に、人種隔離政策が厳然と存在した当時のアメリカ社会が自由主義の原則に反していることを認識していたので、言ってみればアメリカを真の意味で「自由主義国家」にするために尽力したのであり、彼自身の中では矛盾がなかったのである。

アメリカ政府自体は冷戦期に「民主主義」擁護の名の下に、独裁国家でも、ソ連や中国と対立していれば支援するような「矛盾」した外交政策をしばしば取っていた。そういう態度とはウォーレンは異なるということである。ブラウン判決から昨年で50年たったが、公立学校での人種統合も人種による住み分けのために十分に進まず、また公立学校における祈りの禁止などの政教分離判決も、判決に反発したキリスト教保守派の団結と組織化をかえって促進することになるなど、皮肉な結果になっているが、アメリカの自由主義の理念を体現した人物としてのウォーレンの評価は揺るぎ無いだろう。
 

CIAとは

2005-01-05 15:37:57 | 政治・外交
年が変わって最初の更新だが、昨年、このブログをはじめた時は、アメリカ社会や政治についての講義でよく聞かれる質問について自分なりにまとめたもののストックがたまってきたので、それをネットで公開しようと考えていた。しかしいつの間にかエッセイや社会批評的な内容が多くなってしまい、更新も滞りがちになってしまった。今年は用語解説的なものとエッセイとを織り交ぜながら定期的に更新してゆきたいと思う。

年末年始のテレビ番組で、戦後日本のさまざまな事件をすべてアメリカの陰謀で説明する、安直な娯楽番組があった。その中でもクローズアップされていたのが、アメリカの諜報機関であるCIA(中央情報局)である。冷戦時代に存在感が大きかった組織だが、今の学生たちにはあまり身近でないためか、授業と取り上げると質問されることが多い。アメリカの政治制度と日本で大きく違うのは、日本の官僚制は公務員試験で選ばれた人が官僚機構のトップまで昇進するが、アメリカの場合は、幹部クラスは政治的に任命される(political appointment)ということである。これはかつて選挙運動で貢献した人を高官に任命した猟官制(spoils system)の名残でもある。従って、官僚機構のトップは、共和党から民主党、またその反対に政権交代した場合は、入れ替わることになる(日本の場合は仮に自民党から民主党へ政権交代しても官僚人事、例えば事務次官などの人事が影響されることはない)。

ロナルド・レーガン大統領の選挙運動に貢献したウィリアム・ケイシーがCIA長官になったのは、猟官制的な人事である。CIAは大統領直属機関で長官は、大統領が任命し、職員の任免権は長官が握っている。イラン革命学生グループが1979年11月4日にテヘランのアメリカ大使館を占拠し、52人のアメリカ人が人質となった「米国大使館人質事件」に関連して、後のレーガン政権で副大統領となったジョージ・H・W・ブッシュ(父、前CIA長官)とレーガンの選挙チーム責任者ウイリアム・ケイシー(後のCIA長官)は、大統領選挙運動中の1980年10月18/19日にパリで密かにイラン政府関係者と会談し、ホメイニを含むイラン政府関係者に賄賂と武器供給を約束し、人質解放時期を翌年1月の新大統領就任時まで延長するように交渉したという疑惑がある。このイラン米大使館人質事件とその解決の遅れはアメリカの威信を傷つけ、カーター民主党政権に大打撃となり、結果的にカーターは、「強いアメリカの復活」を誓ったレーガンに大敗し、再選を果たすことができなかった。

CIAは、冷戦期には親米政権の樹立や反米政権の転覆のための秘密工作などを行ってきたが、基本的にどれもうまくいかなかった。その活動の中心は情報収集である。世界の諜報機関としては、最近ではアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどが参加している通信傍受システム・エシュロンが有名だが、アメリカのCIA、007で有名なイギリスのMI6(秘密情報局)、ドイツのBND(連邦情報局)、フランスのDGSE(対外保安総管理局)、イスラエルのモサド、ロシアのSVR(対外情報局)、プーチン大統領が勤めていた旧ソ連時代のKGBなどが有名である。日本の場合は、首相直属の内閣官房に属している内閣情報調査室や公安調査庁が諜報活動を行っている。韓国の場合は、1961年にアメリカCIAをモデルにKCIA(韓国中央情報局)が設置されたが、1981年に国家安全企画部に改称され、さらに1998年には国家情報院(国情院)に改称されたが、かつてKCIAにより拉致された金大中が大統領に就任した折にはテコ入れされ、南北首脳会談の実現にも国情院が積極的な役割を果たしたとされている。