アファーマティブ・アクション(affirmative action)とは、「積極的差別是正措置」と訳されることが多いが、過去に差別や不利益を受け、社会的に過少代表されてきたエスニック・マイノリティや女性、障害者を雇用や昇進、入学試験などにおいて積極的に優遇することによって社会的差別の撤廃をはかる政策である。行政命令や裁判所命令など法律で執行される場合と企業・大学などが自主的に行なう場合の2つのケースが存在する。アファーマティブ・アクションは、1964年の公民権法と、連邦政府との事業契約者における雇用差別を禁じた1965年の大統領行政命令以降、活発に行なわれるようになった。女性はアクションの対象となっていなかったが、全米女性機構(NOW)の運動を経て、1967年の大統領行政命令以降は女性も対象となるようになった。
アファーマティブ・アクションにより、黒人などのマイノリティの大学進学率が高まり、それまでごく少数に限られていた、マイノリティの医師・弁護士・大学教授などの専門職も増加し、また企業役員や経営者なども増加した。例えば黒人の大学進学率は、1964年時点ではわずかに7%に過ぎなかったが、1985年には20%に達するようになった。このようにアファーマティブ・アクションは、黒人などのマイノリティの中産階級の創出に貢献し、後に続く世代に希望と機会を与えることになったが、反面、白人層などマジョリティの側から「逆差別」であるとの反発を生み出すようになった。1978年に、黒人学生より高得点を取りながらカリフォルニア大学デーヴィス校医学部を不合格になった白人学生バッキーが、黒人のための特別枠は合衆国憲法の修正14条「平等保護条項」に反すると訴えた事件(「アラン・バッキー対カリフォルニア大学理事会事件」)で、連邦最高裁判事の間で意見が分かれたが、パウエル判事は、人種割り当て制は違法であるとしてバッキーの入学を認める一方で、選抜にあたって人種を考慮することは違憲とはいえないとしてアファーマティブ・アクションの妥当性を支持した。これ以後もアファーマティブ・アクションに関する訴訟が相次ぐことになり、「機会の平等」から一歩踏み込んで、人数割当によって「結果の平等」を保障しようとするアファーマティブ・アクションは、白人のマイノリティに対する反発を強め、かえって人種関係を複雑化するというマイナスの側面ももつようになった。
同時に成長してきた黒人中産階級の中からも実力主義の立場からアファーマティブ・アクションを批判する声もでるようになった。1995年にカリフォルニア大学理事会は、入学者選抜において「人種、宗教、性、肌の色、出身民族および出身国・地域」を判定基準としないことを決定したが、このアファーマティブ・アクション廃止提案したのが黒人理事であったこともこの問題の複雑さをよく示している。しかし2001年のカリフォルニア大学理事会では再び1995年の決定を覆して、アファーマティブ・アクションの復活を決定するなど事態は流動的である。例えば2003年の「グラッター対ボリンジャー事件」判決では、ミシガン大学の入学者選抜におけるアファーマティブ・アクションの是非が争われ、連邦最高裁は、ロースクールが学生の多様性を確保するために人種を考慮すること自体は5対4で「合憲」であると判断したが、同時に争われた「グラッツ対ボリンジャー事件」では、ミシガン大学文理学部が入学選抜に当たって、マイノリティ志願者には150点満点のうち、自動的に20点を加算していたことを6対3で、「平等保護条項」違反で「違憲」と判断した。この2003年の判決は、アファーマティブ・アクションの合憲性を認めつつも、割当制は認めず、差別是正措置の限定的な適用を求めたものだと言えるだろう。
アファーマティブ・アクションを容認するか否かは、結局、貧困や社会的不利益を社会全体の構造的な問題と捉えるか、個人の資質と努力の問題と捉えるかの相違によるものであり、過去の不正義とそれによって構造化した差別と社会的不利益を是正しようとすれば、アファーマティブ・アクションを支持することになるが、マイノリティの中産階級も一定の成長を遂げた今日、個人の自助努力をより重視する立場からすればアファーマティブ・アクションは縮小・撤廃すべきだと主張することになるだろう。アメリカ社会におけるアファーマティブ・アクションの動静は以上のような哲学論争も含めて、時の政治的情勢にも影響を受けながら今後も様々な議論を呼び起こしつつ、推移していくことになるだろう。なお日本の大学でも、現時点では唯一の例かもしれないがミッション系の四国学院大学がアファーマティブ・アクション入試を実施している。東京の主要大学でも返還前の沖縄の学生向けの推薦入試を行なっていた時代があるようだ。
アファーマティブ・アクションにより、黒人などのマイノリティの大学進学率が高まり、それまでごく少数に限られていた、マイノリティの医師・弁護士・大学教授などの専門職も増加し、また企業役員や経営者なども増加した。例えば黒人の大学進学率は、1964年時点ではわずかに7%に過ぎなかったが、1985年には20%に達するようになった。このようにアファーマティブ・アクションは、黒人などのマイノリティの中産階級の創出に貢献し、後に続く世代に希望と機会を与えることになったが、反面、白人層などマジョリティの側から「逆差別」であるとの反発を生み出すようになった。1978年に、黒人学生より高得点を取りながらカリフォルニア大学デーヴィス校医学部を不合格になった白人学生バッキーが、黒人のための特別枠は合衆国憲法の修正14条「平等保護条項」に反すると訴えた事件(「アラン・バッキー対カリフォルニア大学理事会事件」)で、連邦最高裁判事の間で意見が分かれたが、パウエル判事は、人種割り当て制は違法であるとしてバッキーの入学を認める一方で、選抜にあたって人種を考慮することは違憲とはいえないとしてアファーマティブ・アクションの妥当性を支持した。これ以後もアファーマティブ・アクションに関する訴訟が相次ぐことになり、「機会の平等」から一歩踏み込んで、人数割当によって「結果の平等」を保障しようとするアファーマティブ・アクションは、白人のマイノリティに対する反発を強め、かえって人種関係を複雑化するというマイナスの側面ももつようになった。
同時に成長してきた黒人中産階級の中からも実力主義の立場からアファーマティブ・アクションを批判する声もでるようになった。1995年にカリフォルニア大学理事会は、入学者選抜において「人種、宗教、性、肌の色、出身民族および出身国・地域」を判定基準としないことを決定したが、このアファーマティブ・アクション廃止提案したのが黒人理事であったこともこの問題の複雑さをよく示している。しかし2001年のカリフォルニア大学理事会では再び1995年の決定を覆して、アファーマティブ・アクションの復活を決定するなど事態は流動的である。例えば2003年の「グラッター対ボリンジャー事件」判決では、ミシガン大学の入学者選抜におけるアファーマティブ・アクションの是非が争われ、連邦最高裁は、ロースクールが学生の多様性を確保するために人種を考慮すること自体は5対4で「合憲」であると判断したが、同時に争われた「グラッツ対ボリンジャー事件」では、ミシガン大学文理学部が入学選抜に当たって、マイノリティ志願者には150点満点のうち、自動的に20点を加算していたことを6対3で、「平等保護条項」違反で「違憲」と判断した。この2003年の判決は、アファーマティブ・アクションの合憲性を認めつつも、割当制は認めず、差別是正措置の限定的な適用を求めたものだと言えるだろう。
アファーマティブ・アクションを容認するか否かは、結局、貧困や社会的不利益を社会全体の構造的な問題と捉えるか、個人の資質と努力の問題と捉えるかの相違によるものであり、過去の不正義とそれによって構造化した差別と社会的不利益を是正しようとすれば、アファーマティブ・アクションを支持することになるが、マイノリティの中産階級も一定の成長を遂げた今日、個人の自助努力をより重視する立場からすればアファーマティブ・アクションは縮小・撤廃すべきだと主張することになるだろう。アメリカ社会におけるアファーマティブ・アクションの動静は以上のような哲学論争も含めて、時の政治的情勢にも影響を受けながら今後も様々な議論を呼び起こしつつ、推移していくことになるだろう。なお日本の大学でも、現時点では唯一の例かもしれないがミッション系の四国学院大学がアファーマティブ・アクション入試を実施している。東京の主要大学でも返還前の沖縄の学生向けの推薦入試を行なっていた時代があるようだ。