紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

人は自分に嘘をつくため、他人に嘘をつく-「嘘」と「言い訳」の間-

2005-09-20 15:37:28 | 世間・人間模様・心理
どの国に生まれた子供でも「嘘はついちゃいけないよ」と親から教えられて育つはずだ。にもかかわらず私たちは日々、嘘に囲まれて生きている。嘘をつくことを覚え、嘘を見抜く術も学び、大人になっていく。しかし嘘をつかれるのはいくつになっても愉快ではない。分かりきった嘘や言い訳を平然とする人に直面すると、「こんな嘘で騙せると思っているのか」と腹が立つと同時に、すぐにばれるような嘘をつく相手を哀れに思ってしまうこともある。「平気で嘘をつく人」とインターネットで検索をかければ、大体、「嫌いなタイプ」「嫌いな人」のところで挙げられている。それでも平気で嘘をつき続ける人たちは一向に減る気配がない。

研究室にいても常に怪しげな投資勧誘の電話がかかり、電子メールではミエミエのスパム・メールが毎日舞い込む。オレオレ詐欺や振り込め詐欺のニュースも絶えることがない。テレビでは何故かホストの生態を年中放送している。いったい嘘を職業にしている人たちはどんな思いなのだろうかと考えてしまう。昔の感覚で言えば、地獄に堕ちて閻魔様に舌を抜かれるのだろうが、宗教的モラルも良心の呵責も感じない人にとっては平気なのだろうか?昔、結婚詐欺で捕まった男が、「騙したのではない、『夢』を売ったのだ」とうそぶいたそうだが、まさにそうやって正当化し、自分をも騙し続けているのかもしれない。

最近、『言い訳』本が売れているという。本屋に行くと様々な言い訳本が並んでいる。大学を卒業して、ゼミ仲間で最初に飲み会をやった時に、銀行に勤めた友人が『言い訳』本を買っていたのを思い出した。学生時代、歓楽街の客引きにも怖がるような生真面目な男だったから、上司に上手く言い訳する術が見つからなかったのだろう。しかし今、ベストセラーになっている本を見てみると、大体、悪い言い訳の例を列挙しているか、または言い換え表現を載せているのだが、言い訳する相手との信頼関係がない限り、結局、できなかったことやできないことについて釈明せざるを得ないのだから、どんなに上手く言い訳しても解決しないどころか、かえって誠意のなさを感じさせるだけだろうと思った。「巧言令色少なし仁」という言葉がまさに思い浮かぶ。

そんな「言い訳」と「嘘」にうんざりしていたある日、本屋で、チャールズ・V・フォード『嘘つき-嘘と自己欺瞞の心理学』(草思社)という本と出会った。アラバマ大学の精神科の教授が書いた本で、いわゆる『言い訳』本とは一味違ったアカデミックな分析が載せられていて、大変面白い本だった。今回、タイトルで掲げたように、この本では他人につく「嘘」を、自分を騙す「自己欺瞞」との相関関係で分析し、その功罪を論じている。

「自己欺瞞」と嘘とは必ずしも同一でないが、嘘のメリットとして、自己欺瞞が出来る人はうつ病にかかる率が低いという結果が示されている。自分を責め続け、反省ばかりしていると鬱になりがちだが、ポジティブ・シンキングと言うべきか、将来を楽観し、自分の能力を信じ、自尊心を高める能力が高い人は精神障害にかかりにくいのだろう。これを「自己欺瞞」と呼ぶのは日本語の語感からすると抵抗があるが、なるほどと思った。しかし「下方的自己欺瞞」という、自分の能力や可能性を低く思い込むこともあるようなので、いい方に自分を騙す場合にのみ、評価できることなのだろう。

また集団思考を集団的な自己欺瞞として捉えている点も興味深かった。官僚主義的な組織がその組織内部でしか通用しない考え方を、「これが正しい」「こういうやり方しかない」「今までやってきたから間違いない」と思い込んで、間違った結果や過失につながっている例は歴史上後を絶たないが、結局、「だます」ことは「真実」でない以上、いろいろ無理が出てくるのは否めないのだろう。そう考えるとポジティブな自己欺瞞でもどこかで破綻してしまうのではないかと思わずにいられなかった。

嘘は一般に非道徳的なものだと考えられがちだが、本書はその点にも反論し、「真実の道徳性が一般大衆の間に広められるのは、それが権力構造の体制維持に役立つからだ」と指摘している。権力の座にあるものの「嘘」は組織や体制の利益のために役立つと正当化されるのに、一般構成員の「嘘」は組織にとって有害とみなされるのだと言う。プライバシーや個人の権利を権力者から守るための「嘘」は必要不可欠という立場から、著者のフォードは、「個人、社会、および人類にとって最も大きな危険は嘘ではなく、相互に強化される自己欺瞞」だと結論づけている。

しかし嘘が広まった社会は人間間の相互不信が高まった社会であり、それによる社会的紐帯の弱体化の可能性は否定できないだろう。近年、政治学でキーワードとなっている言葉に「ソーシャル・キャピタル(人間関係資本)」がある。これはロバート・パットナム・ハーバード大教授が提唱した概念だが、自治や行政が上手く作用する前提条件として、人々の間の信頼のネットワークやその蓄積が重要だというものである。日頃、お互いに嘘ばかりつきあっている人々の間で果たして、いざという時に助け合えるような「信頼」関係が築けるだろうか?実際、このフォードの著書で紹介されている対人心理学の実験では、会話中の人間のいずれか一方が嘘をついている時には、相手方がその嘘を気付いていないのに関わらず、互いの印象が悪化するという結果を示したとのことである。嘘に伴う非言語コミュニケーションが嘘をつく側にも、相手側のいずれにも親密な感情が生じるのを妨げるのだという。嘘をついた人にもつかれた人にもよく思い当たる知見だろう。

「人間は、自分のいうことを自分で『信じている』時により効果的に嘘をつく」と著者は言う。嘘ばかりついているうちに、いつの間にかそれが自分にとって「真実」になり、まさに自己欺瞞に成功し、さらにそれを信じて嘘をつき続けてしまうのは恐ろしいことだと思う。著者が言うように、「嘘」は本能的なもので、それ自体は道徳的でも非道徳的でもない、と自然科学者の立場からは言えるかもしれないが、社会的動物である人間を考える場合に、自己防衛的、緊急避難的な「嘘」はともかく、不必要な嘘、自己利益だけを考えた嘘、信頼関係を損なうような嘘は「非道徳」的として非難されても仕方がないのではないかと本書を読んでも思わずにいられなかった。それは「権力者の側に都合がいい」からではなく、「ソーシャル・キャピタル」論が言っているようにむしろ権力者に過度に頼らず、人々が自治的に協働関係を築くためにこそ、嘘のない信頼関係が重要なのではないかと思う。

江戸時代の五人組制度にせよ、イギリスやフランスがアフリカや東南アジアでの帝国主義的支配で活用した「分割統治 Divide and Rule 」方式にせよ、民衆の間の相互不信と対立を煽った方が、権力者や支配者にとっては好都合である。権力者に対抗するためには、ただの嘘つきになるのではなく、権力者に対しては嘘をついても、仲間内では嘘をつかない姿勢が必要なのだろう。本書は、「嘘」という身近だが、学問的に論じにくいトピックを体系的に論じている興味深い研究であり、心理学のみならず社会学、政治学、経済学など人間行動に関わる他の分野にも様々なヒントを与えてくれるものであろう。

カラオケという悪徳

2005-09-06 14:31:12 | 世間・人間模様・心理

者の中でカラオケを全く経験したことがない方はほとんどいらっしゃらないだろう。老若男女を問わない国民的娯楽だといっていい。どんな地方都市に行ってもカラオケボックスがあるし、温泉旅館もカラオケは必ず備えている。

私自身のカラオケ体験は大学に入ってからだった。大学1年のときはまだカラオケボックスはなく、駅前に安料亭を改造したカラオケ屋があり、そこで同級生たちと歌ったものだが、もともと和室で防音設備もなく、隣の部屋とは襖で仕切られているだけだったので、互いに張り合って大声で歌ったり、よその部屋に乱入したり無茶苦茶であった。飛び跳ねていると階下に響くので、仲居さん?がよく注意しに来たが、歌うよりも暴れるのを目的にしていたような同級生たちは怒られると余計面白がって騒いでいた。歌うというよりそういうバカ騒ぎは大学に入った当初は確かに楽しかった記憶がある。ネットで検索するとまだあの店は居酒屋として存在しているようだ。今はどうなっているのだろうか。

大学2年になると現在のようなカラオケボックスがあちこちに建ち始め、だんだんカラオケのレパートリーも増えていった。しかし改造旅館カラオケでバカ騒ぎしていた頃と違って、お互いに人の歌っているときはあまり聞かないで、うつむいて曲目リストで歌える歌を必死に探すという、今のカラオケのスタイルになった。大手出版社に勤める編集者の友人は、小説があまり売れない反面、文学賞への応募者が増えている現象を同業者内では「カラオケ小説家」と呼んでいると話していた。つまり先人の小説は読まないで、自分ばかり書いているそうだ。カラオケはお酒を飲んだ2次会で行く場合が多いと思うが、初対面だったり、あまり共通の話題がなかったりすると、普通の居酒屋に行くよりもカラオケで適当に歌って盛り上げたようにしているほうが無難なようだ。会話を避けているといってもいいかもしれない。

同年代の友人で、流行を共有している同士で気軽にカラオケに行っている分には、ボックスで徹夜しようがどうしようが、大学生くらいなら全く構わないと思うが、ゼミで教員を交えていったり、あるいは会社でも年齢差や上下関係があるグループでカラオケに行くのはどうなのかと思うことが多い。そうした場合、どうしても年長者に気を遣ってしまうだろうし、若い人たち同士だけで知らない歌で盛り上がっていると年長者が機嫌が悪くなるのはまず間違いないだろう。

私自身も年長の先生たちとカラオケに行く機会が多かった時は古い流行歌を覚えて歌ったりしたが、学生の中にも気を使って、我々が大学生だった頃に流行った歌を歌ってくれる場合があって、それがあまりにピッタリだとかえって複雑な思いをしたものだ。若者の真似をして最新ヒットチャートを歌うのもどうかと思うが、かといって古い歌を歌って自己満足しても仕方ないという屈折した気分なのかもしれない。古い歌を歌うと自分が古くなった気がしてならない。懐メロを歌っている人たちはそう思わないのだろうか?

純粋に若い人たちがバカ騒ぎをしているのを眺めているだけで嬉しいという人なら、若いグループに混じってカラオケに行ってもいいだろうが、接待というか盛り上げてもらったり、デュエットしてもらいにカラオケに行くくらいなら、学生や会社の部下と行かずにスナックに行けばいいのではないかと思ってしまう。若い人とカラオケに行きたがる中年男性や中年化しつつある男性は大部分、自分の歌を聞かせたい人だと思って間違いない。実際、共通の話題がない人たちと飲むのはかなり神経も気も使うし、話題も一ひねりしなければならないだろう。だから面白いのであって、それが出来なかったり嫌だったら、飲みに行かないとか、二次会に行かなければいいのではないだろうかと私は思う。

「二次会、カラオケで」というと最近、あまり乗らないことが多いので、学生に「先生はカラオケ嫌いなんですか?」と聞かれるのだが、嫌いなのではなく、変に気を遣ってもらうのは嫌だったり、また飲み会は教室では話せないようなことを学生と話したり聞いたりする貴重な機会だと思っているので、カラオケで話も出来ず歌っているだけじゃもったいないと思うからである(その態度が逆に気を遣わせているかもしれないが・・・)。

アメリカ人と話した時に、アメリカでは老人から子供まで何かの機会にはダンスをするという話を聞いて、「日本人は踊れない人が多いけど、カラオケがそれに当たるでしょうね」といったら妙に納得していた。「Shall We ダンス?」のような映画がアメリカでもヒットしたからなおさら日本人のダンス下手は納得したことだろう。小泉首相が登場するまで、首相が短期間で交代する時期が続いた時は、日本政治は(歌の順番を待っている)「カラオケ政治」だと揶揄されたこともあった。良くも悪くも現代日本文化の一翼を担っているのだろう。

あまり気乗りがしないカラオケに付き合った時はスクリーンをぼうっと眺めていると、世相を上手く捉えた歌詞が面白いと思うことが多い。洋楽はサウンド重視で歌詞は二の次だと言うが、日本人は歌詞に特別の思い入れを抱いているようだ。詩集が売れないというが、その分、Jポップ(これも死語だろうか)の歌詞が昔の詩集の代わりを果たしているのだろう。

烏賀陽弘道氏が『Jポップの心象風景』(文春新書)という本で分析されているが、少し小難しく考えすぎているような気もしたが、歌謡曲やJポップの歌詞は時代の空気から遊離してしまったら売れなくなってしまうのだろう。1970年代を風靡した作詞家・阿久悠氏が沢田研二に提供した歌詞(例えば「カサブランカ・ダンディ」)などは今の目から見るといかに時代錯誤で男尊女卑的か、歌ってみるとよく分かるが、当時はそれがカッコよかったのだろう。「ウーマンリブ」が言われ出した時代だから敢えてあのような歌詞にしたのかもしれないが、世相の変化が反映されていて面白いものだ。

ともあれカラオケという空間は本来、唱和して一緒に盛り上がることが目的とされているのかもしれないが、集まった人たちの性格や価値観、世代のギャップなど、むしろ「個」が露呈する場である。カラオケを非常に楽しんでいた時期もあるし、一概に否定できない、いい面もあると思うが、やはりお互いに気を遣わない同士で行って、気兼ねなく時を忘れて盛り上がるべきものなのではないだろうか?


兄弟構成と血液型が性格に影響するのだろうか?

2005-08-26 10:11:24 | 世間・人間模様・心理
私のゼミにはなぜか一人っ子でAB型の学生が多い。ある日、研究室で話していて判明したのだが、血液型や兄弟構成がそんなに性格に影響するのだろうかと終始、懐疑的な私に対して、当の彼ら彼女らは「いやお互いになんとなくわかりますよ」と勝手に納得し合っていた。しかし試しに私の血液型と兄弟構成は分かるかと聞いてみたのだが、誰も当てられなかった。そんなものなのだろう。血液型による性格判断や相性判断が大流行で、中にはテレビ番組のせいでいじめられるから、やめてくれと放送局にクレームがつき、わざわざ因果関係を否定するテロップを流さないといけないほど一時は過熱化していたようである。

学生たちに聞いても、周りを見回しても確かに一人っ子が増えてきたと思う。自分が小学校や中学校に通っていた時は同級生に一人っ子はほとんどいなかった。少子高齢化は目に見える現象になってきた。血液型に比べると兄弟構成というべきか、兄弟や親子関係のあり方は、後天的なものであるがゆえに人格形成に少なからぬ影響を与えることは否めないだろう。
 
私の場合は男兄弟で長男なのだが、長男や長女は親と弟・妹たちとの仲介者的な役割を果たす場合が多いのではないだろうか。「大人の論理」と「子供の論理」に片足ずつ突っ込んで成長するような気がする。しかし自分自身が長男だったせいで、兄や姉の存在と言うのはどういうものなのか、弟から見た兄というのはどう見えるのかは実感としてはよく分からない。兄として我慢したり、弟に譲る場面も多々あったが、弟が我慢していることもおそらく沢山あったのだろう。その辺は聞いてみないとわからない。
 
一人っ子の場合はおそらく親との距離が近い分、大人ぽく育つか、あるいは家庭外の子供同士の友人関係を早い段階から積極的に求めるか、どちらかになりそうだ。一人っ子で両親が働いたりしているとさびしがりの性格になるかもしれないが、逆に兄弟が沢山いる、にぎやかな家庭で育つ方が、一人暮らしをしたりするとさびしく感じるかもしれない。

このように、いろいろ推測されるのだが、子供を子供らしく育てる家庭もあれば、全く放任する家庭もあるし、大人と同等の話をする家庭もある。勉強を厳しくやらせる親もいれば、スポーツに力を入れる親もいる。男兄弟なのか、姉妹なのか、混合なのか、子供部屋は個室なのか共同か、地方で育ったのか都市部で育ったのか、おじいさん、おばあさんは同居しているのか、両親の仲はいいのか悪いのか等など、人格形成に与える諸要素は数え切れないほどあり、複雑に絡み合っているので兄弟構成だけではとても説明できないだろう。
 
しかし太宰治の小説などは分かりやすく書いているが、家父長制が確立していた、戦前の封建的な家庭では一家の跡取りとなる長男と次男以下の扱いが全く違ったようだ。主人と家来くらいの違いがあったとも聞く。これも太宰のような大地主の家庭と、庶民の家庭では事情はかなり違ったのだろうが、太宰にしろ、島崎藤村にしろ、武者小路実篤にしろ兄に対するルサンチマンや屈折した思いが小説の随所に現れている。戦前の家庭で育った世代にはある程度共通する長男像や長女像、次男、三男、次女、三女像があるのかもしれない。

血液型はどうなのだろうか?外国人と比べて、日本人は血液型に関心が高いようだが、そもそも四割を占めるA型人間の間でも様々な違いはあるはずだし、「AB型は二重人格だ」などと安直に決め付ける人もいるが、誰でも多かれ少なかれ二面性があるので、もしAB型の当人が血液型占いを信じているとしたら、それは自分の持つ二面性を抑制しないで楽しんでいるのに過ぎないのだろう。血液型をモチーフにした小説もあるのだろうか?ありそうだが、私は読んだことがないし、読んでもたぶん感情移入できないだろう。

ゼミの学生たちとの話は結論がでることなく、うやむやに終わってしまった。いずれにしても性格は後天的に変えられるし、ましてや仕事や責任から、性格のせいにして逃げることはできない。AB型だからといっても矛盾した言い訳をしたら怒られるし、B型だからといってわがままが許されるわけでもないし、A型に仕事を任せても几帳面にこなす保証はない。一人っ子だからといってリーダーや幹事が出来ないはずはない。こういう話は相性占いで楽しむレベルに留めておきたいものだ。

電子メールの落とし穴

2005-08-13 08:34:41 | 世間・人間模様・心理
郵政民営化をめぐって大揺れした国会だが、携帯電話や電子メールの普及、コンビニの宅配システムの一般化により郵便・通信・コミュニケーションのあり方がこの10年の間に根本的に変わってしまったことを無視して議論できないだろう。
 
若い学生諸君と違って、パソコン通信などをやってなかった私がはじめて電子メールを使うようになったのは大学院時代にアメリカに留学してからだった。当時は私立大学でも日本の大学は学生全員がメールアドレスをもっているということはなかった。2年間の留学を経て、帰ってくると日本の大学でも電子メールが当たり前になっており、隔世の感があった。
 
そのうちパソコンによるメールのやり取りではなく、携帯電話でのメール交換が一般的になってきた。今では学生から届くのは携帯メールが主流で、レポートなどの大きな添付ファイルを送ったり、長文の相談を受けたりする時のみパソコンから電子メールが送られてくる。それもプロバイダーのアドレスではなく、ヤフーやホットメールといったオンラインのフリーメールから送られてくることがほとんどである。
 
電話しかなかった時代と比べるとメールはやはり便利だ。大学生の頃、関東、関西をまたぐ複数の大学の研究会が参加している組織のまとめ役をやっていた時は、電話連絡が本当に面倒で、電話自体も年中朝から晩までかかってくるし、連絡したい相手はなかなかつかまらず何度もかけ直さないといけなかった。私の父も大学の教師だったが、学生への連絡で、バイトその他の理由で夜でも下宿の学生がなかなかつかまらないのを常にこぼしていたが、私も今、もしメールがなければ学生たちに連絡するのがどれだけ面倒だっただろうかとおそろしく思う。

しかし私自身も全く偉そうなことは言えず、あちこちから非難されるのを覚悟して書いているのだが、電子メールにはいろいろ問題点が多い。まず電話でつかまればとりあえず何らかの返事をしなければならないが、メールなら無視することも可能だ。私も催促のメールに返信できないことがしばしばあって、特に今年はあちこちにご迷惑をおかけしたが、、もちろん私自身も返事をもらえず困ることが少なくない。第二に職業柄、質問や問い合わせのメールを受け取ることも少なくないが、忙しい中、手間暇かけてきちんと調べて返信しても、何の音沙汰もない人も多い。手紙の場合と違って、メール一本返事を書くのは、しかも質問に答えてもらって御礼を言うのは全く難しくないはずだが、何故かそういう人も少なくない。中には答えるまで何度か催促のメールを送ってくるのだが、いざ答えると全く返事がないという人さえいる。若い学生が礼儀を知らないのはある程度仕方ないと許せるが、いい大人だと何だろうかと思ってしまう。
 
第三に文面の問題である。メールは電話の即時性と手紙の情報量の多さ・(電話と違って確認して書けるので)相対的な正確さを兼ね備えている点、一度に複数の相手に安価で連絡することが出来る点などが特に優れている。しかし手書きで手紙を書く場合は自ずと推敲して、あまり感情的な手紙をそのまま出す人は少ないのに対して、メールの場合は、特にタイプが得意な人は手紙と違ってすぐに書いて送ることが出来るので、その時の感情の赴くままに舌足らずな文章を書いて送ってしまいかねない。しかも電話と違って、感情のニュアンスが伝わりにくいので文章の言葉だけが一人歩きしてしまう。「売り言葉に買い言葉」的なメールの応酬になってしまうことも珍しくなく、メールをやり取りしている相手との間で信頼関係が十分でないと無用な誤解や摩擦の元となりかねない。また最近増えてきたのは、同封メールで全員向けに送られているので、当事者同士がメール上で「喧嘩」や激しい議論をしているのを第三者も見せつけられることである。さらに携帯メールの場合は字数がどうしても限られているため、なおさら一方的で言葉尽くさずになりがちだ。

結局のところ、メールをどう使いこなすかは、書く人の他人への思いやりにかかっているのだろう。メール自体が問題なのか、人々が自己中心的になってきて、自分のことしか考えられなくなっているのが問題なのか、どちらか考えてみれば、おそらく後者が原因である場合が多いのだろう。こちらから連絡しても何の音沙汰もないのに、自分が突然メールを送っても必ずすぐに返事がもらえると思っている人や、面倒な用事を頼む時にしかメールを送ってこない人などもいるが、そういう人は根本的な思いやりに欠けている気がする。
 
心やさしいメールで励まされることも少なくないが、メールを使い始めた頃に比べると最近はビジネスライクなメールのやり取りばかりで書くのも読むのも億劫になってきた。私の父はとても筆まめで、英語で言えば今やsnail mail(カタツムリ・メール)と呼ばれるようになった手紙や葉書をせっせと書いていたが、忙しい中、その時間をどこで見つけていたのだろうかと思う反面、父に返事を書かなければならなかった人たちに同情を禁じえない。自戒を込めてだが、メールでトラブルを起こさないように気をつけたいと思うと同時に、そもそもの根底にある人間関係を「ジコチュー」な関係でなく、常に互恵的で思いやりのあるものにしてゆきたいものだとしみじみ思う。

器用貧乏になれないのは

2005-07-17 17:00:49 | 世間・人間模様・心理
宮沢賢治の誰でも知ってる詩に「雨ニモマケズ」がある。人に評価されなくても不器用に誠実に生きることの大切さを説き、「サウイウモノニ ワタシハ ナリタイ」と終わる国語の授業でも定番の詩である。後でこの詩は出版用に書かれたものではなく、賢治の手帳から死後発見されたことだとか、南無妙法蓮華経という言葉がたくさん添えられていて、法華経の信仰をもつ賢治の個人的な祈りに近いものだったということを知ったが、授業で習うとなんとなく説教臭く、賢治が自分の不器用な生き方を肯定しているのか、それとも権力や現世での物質的な成功を心の底では求めているのかどうか、本音を測りかねて、あまり好きな詩ではなかった。しかしそうした感情は一種の自己嫌悪であるのかもしれないと今にして思う。

個人的なことをストレートに書くのは好きではないのだが、私は不器用な人間だとつくづく思うことがある。大学生のときはいろいろな遊びに挑戦したがどれ一つ上手くできなかったし、得意なスポーツの一つもないし、車の運転もダメである。世の中には何でも上手くこなす人がいて、そういう人にかぎって「器用貧乏で、どれも本格的に身につかないんですよ」などと謙遜することが多い。そういう謙遜も含めて、不器用な私はかっこいいなあと思って、いつも羨ましく思ってきた。10代や20代の頃と違って、傍から見てスマートで悩みがないように見える人も、優雅に泳ぐ白鳥が水面下では必死に水かきをしているように、見えない悩みや苦労を抱えたり、努力をしていることはよく分かるのだが、皆ができることを普通の人より上手くこなせる人はやっぱり羨ましいし、私のようにそういう部分でつい無様になってしまうのはなんともやりきれない時がある。

不器用だから研究者の道を選んだ面もあるかもしれないが、研究者のはしくれになっても、器用な人はいろんなテーマやアプローチを駆使することが出来るのに対して、私は得意不得意がはっきりしている方だし、研究のみならず、余暇や趣味の点でもうまくできる研究者は沢山いて、自分の不器用さを思い知らされることがいまだに多い。多分に幻想かもしれないが、私が大学生の頃、自分の大学を愛していたのは、小学校から高校までと違い、大学はそうした自分が思いっきり自己主張をすることを許してくれた唯一の空間であった気がしたからである。また留学先のアメリカ社会を未だに比較的に好意的に評価しているのも、アメリカ社会が不器用だったり、世間的には不利な立場にあると考えられている人も「開き直って」自己主張することをむしろ奨励しているように思えて、共感できたからである。器用なジェネラリストになれない自分の人生を振り返って、いい人生だったと思えるかどうかは今後の私自身の努力にかかっているのだろうが、足りない部分があるとそこにこだわってしまうという人間の「さが」は常に思わぬ足かせになるような気がしてならない。

日常への復帰

2005-07-15 16:55:38 | 世間・人間模様・心理
日常とは多くの人にとって単調で退屈なものであるか、慌しくて考える余裕もないものかもしれない。時々嬉しいことがあったり、辛いことがあったりしながら毎日忙しく過ぎていく。しかしそんな日常の重みを感じさせるのが非日常的な悲劇的な事件である。7月7日にロンドンで起こった同時多発テロ事件はまさにその例だが、海外紙の社説でこの事件をどう捉えているのか、ネット上でいくつか読んでみたが、ひときわ目を引いたのは、『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙の7月11日の社説だった。「テロの合理的根拠(The rationale of terror)」と題するこの社説では次のように書かれている。

「本当に恐ろしい狂気はテロリストの狂気ではなく、我々自身の狂気である。(中略)地下鉄やロンドンの静かな広場を鳴り響いた爆音は、いかに正常という構造が頼りにならないか、言い換えれば私たち自身がいかに頼りにならないかを示した。私たちを恐怖のどん底に落とす目的は、私たちの感情を解き放ち、私たち自身やお互いに対して理性的に行動する能力をそこなうことなのである。しかし同時にテロ事件の後にいつも驚かされるのは日常生活というものがなんとも早く復帰することである。翌朝までにロンドンの鉄道の多くは運転再開し、人々はいつもの金曜日を取り戻している。これは単に時間とともに傷を癒す習慣のなせるわざであるだとか、リスクに対する認識の低さの結果であるとかつい考えてしまいがちだが、同時に人間文明という薄板が浅薄でないことを示しているのだろう」

声高に「テロに屈するな」と訴えたり、事実関係が不明である段階ですかさずイラク戦争やブッシュ政権との関連と結びつけて政策や政府の姿勢を批判する社説が多い中で、このトリビューン紙の社説はある種の格調をたたえながら、日常生活を取り戻す人間の理性の力の可能性を静かに訴えている。幸いにして身近であまり悲劇的な経験をせず、平凡な生活を送ってきた私だが、それでも仕事をしたくなくなるほど落ち込むようなことは時々ある。しかしそんな時こそ仕事や日常の雑事があることは有り難く感じられる。日常生活という一見もろい構造の重みを改めて感じさせたのが今回のテロ事件とそれについての社説だった。

グッド・リスナーの難しさ

2005-07-03 16:47:37 | 世間・人間模様・心理
大学に限らないだろうが、学校の教師になると自分と世代の違う人たちの話を聞く機会がぐっと増える。自分の親くらいの年齢の上司・同僚や自分が大学に入学した頃に生まれた学生たちの話を聞いていると、世代による見方の違いに愕然とすることもある。たまに同世代の同僚や大学以外の友人と話すと、いろんな社会的背景を共有しているのでとても話しやすく、楽だと思うが、違う世代の人の話を聞くのは発見も多くて、大学の教師になってよかったと思えることの一つである。

しかし特に教師をしている人に多く見られがちな傾向だが、自分のことを長々と話すのが人一倍好きなのに、学生や若い人の話をまったく聞けないという困った人も少なくない。それだけ自分の話をしたいのか、若いのは黙って聞いてろ、というのか、単に忍耐力が衰えてきているのか、わからないが、自分の話ししかせず、人の話を聞けない人が好かれたり、飲みに誘われたりすることは稀だろう。またいつも素朴に不思議に思っていることが、功成り遂げて、世間や社会やその業界で高い評価や地位を得ている人なのに、自分の自慢話を延々とする人がいる。人になかなか認めてもらえない人、自己評価と他者評価のギャップが激しい人が、自分の事を認めてくれと訴えるのは、痛々しい場合もあるが、まだわかるが、他人から十分すぎるほど認められている人が、それでもなお自慢し続けるのは何故なのだろうか?まだ褒められ足りないのだろうか?

私はわりと人の話を聞くほうだが、そういう人たちの話を聞かされると、自分もこれから長く教師をやっていたり、ある程度仕事で成果を収めたときにそうならないようにしないとと改めて思う。それに比べると研究室に話をしに来る学生たちの話を聞くのは面白い。彼ら彼女らも基本的には具体的なアドバイスを求めに来るというよりも、自分のアイディアを聞いてもらって、何らかの「承認」を求めに来ているのだが、自分のやっていることに確固たる自信を持っていない分だけ、まだ可愛らしい気がする。

しかしここまで書いてきて思ったのだが、自分の話を一方的に若い人に聞かせている(ように思える)年長の人たちも実は確固たる自信があるわけではなく、自分が間違ってないことを若い人と話す(聞かせる)ことで、自分なりに再確認したいだけなのかもしれない。グッド・リスナー(よい聞き手)にならない限り、人に好かれるグッド・トーカー(よい話し手)にはなれないだろう。教師がグッド・トーカーになる可能性は意外と低そうだが、これから自分が年をとっていっても気をつけないといけないと常々思っている。