紅旗征戎

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自己否定の哲学-『空(くう)の思想史』を読んで-

2007-09-09 19:01:11 | 思想・哲学・文明論
ある休日の午後、FM放送を何気なくつけていた時にゲストに華道家を迎えてのトーク番組が流れていた。ベテラン・パーソナリティの年配男性が若い華道家に「どうすれば花が長持ちするのか」と質問したのに対して、その華道家は「花は萎れていったり、枯れていってもその時々の美しさがあり、その時々の様相を楽しむことも大切だ」といったような答えをしていた。しかし司会者はその返答に納得せず、「そうは言っても高い花をもらったり、買った場合は長持ちさせたいのが人情だ」と言って、部屋の温度を下げるのがいいのか、水切りするのがいいのか、薬を使うのがいいのか、と執拗に質問し続け、二人の会話がまったくかみ合わなかったのが印象的だった。

春の桜のように、花はすぐに散るからこそ美しい、と感じるのは、日本人にはおなじみの美意識であろう。司会の男性もそんなことは当然わかりきっているのだが、華道家が若く、気取った口調で話すのに反発して、いやみを言ってみたかっただけなのかもしれない。『般若心経』の一番有名な文句に「色即是空、空即是色」という言葉がある。この言葉にも二通りの解釈があるようで、「色即是空」を「色・形があるものはすぐになくなってしまうので、そういう表面的な美や価値に執着するな」と諭すものと解釈する立場もあれば、「眼前の無常なるものこそに物事の本質がある」と捉える立場もあるようである。後者の立場はむしろ現世肯定の思想につながっていく。

こうした東洋哲学、仏教哲学の鍵概念である「空(くう)」について、その歴史的展開と論理構造を丹念に明らかにしているのが、立川武蔵氏の『空(くう)の思想史』(講談社学術文庫)である。立川氏によれば、般若心経がインドで編纂された際には、「色即是空、空即是色」は「色や形のあるものには執着すべきではない」という現世否定の色彩が強かったのが、中国や日本仏教として展開する過程で次第に、「諸法実相」、つまり「色や形のあるままにもろもろのものは真実である」と解釈されるに至ったのだという。

しばしば皮肉をこめて、「禅問答」といった言い方をされるように、仏教や東洋思想のことばは西洋のロジックから見ると、非論理的に見える部分が少なくない。先の「色即是空、空即是色」にしても、目の前に見える現象である「色」が、実体のない「空」であり、「空」がすなわち「色」である、というのでは、「迷いは悟りだ」というに等しい矛盾と響くだろう。立川氏はハーヴァードでPHDを取られているようだが、こうした一見、非論理的な東洋哲学を西洋人にもわかるようにできる限り、論理で説明しようと努めている。本書は、東洋哲学の門外漢にとっては難解な箇所も少なくなかったが、インド発祥の原始仏教からチベット、中国仏教を経て、日本仏教において、「空」思想がどう展開されてきたのか、そこに内在する論理は何かということを体系的に理解する手がかりを提供している。

西洋的な発想からすれば、全ての行為には「世界観」と「目的」と「手段」があり、時間が目的の実現に向かって、一方向に流れていくことになる。それによって人類は「近代化」し、物質世界を発展させてきたかもしれないが、同時に環境を破壊し、戦争を繰り返し、自然も人間もその時々の何らかの「目的」のために犠牲にし続けてきた。こうした人間・目的中心主義的な西欧の合理主義思想と違い、空の思想は、簡単に言えば「世界もない、人間もない、悟りもない」という徹底した自己否定・現世否定の発想として始まったものであると立川氏は説明している。ただし原始仏教から日本仏教へと展開していく過程で、徹底した自己否定を経て、世界や自己の「空」性を理解した後に、虚無の世界に住むのではなく、俗なるものを浄化して、また現世に帰ってくるプロセスを重視するようになったという。それがまさに「色即是空、空即是色」なのだという。この東洋的な逆説の説明はわかりやすかった。

キリスト教は一見、神を中心に世界の秩序を考えているようでありながら、世界や自然が神から人間に与えられた素材なのだという解釈を許す余地があり、結局、神と人とが逆転して人間中心主義になり、エゴイズムにつながり、また生態系におけるヒトの圧倒的に優位な立場を肯定していく危険性を内包している。世界の創造主の存在も、世界全体を調和させる根本原理の存在も、そしてもちろん人間の欲望や煩悩を否定する徹底した自己否定の思想である「空の思想」が際限なき人間中心主義へのブレーキとして働くと同時に、徹底した否定を通じて、逆に本質が浮かび上がってくるという肯定的な側面もある点は分かりやすく、共感できた。

今日、自己否定というのは、とかく良くないことと捉えられがちであり、自分の良さを認めてくれる人や組織を選んで、そういう人たちとばかり馴れ合い、付き合いたがる者が多い。近年、一見、「宗教的」なお説教をしているテレビ番組が流行しているようだが、よく見てみるとそうした番組に出演している、自称「宗教家」や「予言者」たちは、相談相手のことを結局、最後には「肯定」している。表向きは厳しそうな言葉に涙を流していても、最後は肯定し、励ましてもらおうという相談者の甘えが透けて見えるし、そうした「フォロー」があるからこそ、予定調和を期待して見ている多くの視聴者をひきつけることができるのだろう。徹底した自己否定に耐えるほど人間は強くないし、戦後の日本の教育もそうした強さを鍛える方向で展開してこなかったといえるかもしれない。

『空の思想史』を読んで、改めて考えたのは、徹底した自己否定を経て、世界と立ち向かうようになった自己の方が、自己の弱点を直視することやそれと対決することを避け、安易な自己肯定を繰り返してきた自己よりも強い自己になるだろうということである。

「空」という言葉を聞くと、いかにも東洋的な諦念、ニヒリズムだと考えがちであるが、そうではなく否定そのものが次の行動への原動力となるような強さをもった思想がまさに「空の思想」なのだというのは目からうろこが落ちる思いだった。また「縁起」が「因果関係」を示したり、「仮説」というのがもともとは仏教用語であったことも恥ずかしながら、はじめて知った。インド発祥の仏教が漢訳を通じて、日本に伝来したことで変容していく過程を解説する本書を読むことを通じて、自分が勉強してきた西洋の学問の様々な用語が、時としては仏教用語である漢語で表現されてきたことで、どのようなズレが生じているのだろうかといったことも、合わせて考えさせられた。

年をとってしまうと精神的にも肉体的にも厳しい「自己否定」には耐えられなくなってしまうかもしれない。だからこそ若いうちは、安易に「肯定」してくれる人や言葉を求めるのではなく、むしろ厳しい言葉や人を求めるべきだし、自分に対しても厳しくしないといけないだろう。文字通り学術的な東洋哲学の研究書だが、教育や今日の世界について示唆するところも多い良書だと思う。