紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

企業はどこを見ているのだろうか?

2005-04-15 17:20:10 | 社会
4年生の就職戦線も終盤を迎えてきた。ゼミなどで指導してきた学生たちが就職活動をしているのを毎年見守っていると、「どうしてこの学生が決まらないのだろう」と思うことがたびたびある。「大学の教師は勉強の面しか見てないが、企業の人事はプロなのでちゃんと評価している」と反論するむきもあるだろうが、私はそうは簡単に信じられない。

もちろんこちらが思っていた以上に善戦する学生もいて、嬉しい誤算もあるが、企画力やプレゼンテーション力、マナーやモチベーションなどの点でも極めて優れた学生でもすんなり決まらないことも少なくない。学生の志望業界と本人の適性とのミスマッチや、未だに残っているように思われる就職市場での女性差別などもあるのだろうが、優秀な学生の就職が決まらず、悩んでいる姿を見るのは教師としても心苦しい限りである。

最近の大学は就職指導にもかなり力を入れている。未だに「ゼミや大学の勉強をちゃんとやっていれば自ずと就職は決まるのだ」と根拠のない自信を抱いている先生も少なくないが、その反面、将来のキャリアデザインを意識してゼミ指導をしても必ずしもうまく行かないことを思い知らされることも多い。企業は応募する多数の学生を比較的短時間で判断している。我々大学の教師は、特に少人数ゼミの学生の場合は1~2年間、場合によっては3~4年、学生を見ているので、協調性や判断力、適応力、忍耐力、それに一年間でどれだけ成長するかといったこともかなりじっくり観察しているつもりである。そう考えると、推薦状ではないが、大学側の学生評価と企業側の学生評価をすり合わせれば、企業としてももう少しいい人材を採用することができるのではないかと思うのだが、現状では企業は自分の企業文化に染めることを優先して、あまり大学での教育を評価していないし、結局、それ自体も一企業に過ぎない就職情報産業が伝えるノウハウだけが学生の就職活動の唯一の指針となってしまっているような気がする。リクルート事件で逮捕される前の江副浩正氏が「日本中の大学生のデータを提供してもらえば、すべての企業に適正に配置できる」と豪語していたらしいが、そうなっては困るのだ。

就職活動を終えた学生は自信もつき、語り口もしっかりとして、大いに成長する。しかし内定をもらう学生ともらえない学生の間には紙一重の差しかない。就職委員として、学生の就職体験談の発表など様々な行事を手伝っているが、企業の人事の一面的な判断をあまり持ち上げたくない気持ちもある。企業の人事担当者にはただ自分の会社の文化に合うか合わないかだけでなく、場合によっては企業文化に挑戦するかもしれないが、ポテンシャルの高い学生を採用して欲しいと思うし、学生たちは謙虚さを失わずに、でも落とした企業の判断を過大視せず、前向きに、自分を必要としてくれる企業を見つけて欲しいと思う。

アメリカで読んだ『陰翳礼讃』

2005-04-07 17:17:22 | 小説・エッセイ・文学
外国で生活したり勉強しながら自分の国の文化の知らなかった側面を再発見するのは楽しいことである。アメリカの建築学の大学院の授業を聴講していた時に、学部時代に日本に留学していた学生と知り合った。彼女は学部では東アジア研究を専攻していて、日本文化に精通していたが、ある時、「タニザキの"In Praise of Shadows"を読んだことがありますか」と尋ねられた。これは言わずとしれた谷崎潤一郎の名エッセイ「陰翳礼讃」の英訳だが、恥ずかしながらその時点では読んだことがなかったので、夏休みに帰国した折に、中公文庫版を読んでみた。

谷崎といえば、『痴人の愛』、『刺青』、『卍』といった当時は倒錯的だと考えられていたデカダンな小説や、『春琴抄』や『細雪』といった何度か映画化もされている日本的な小説の作家として知られている。アメリカでも日本文化や文学に関心がある学生にはかなり読まれていて、『痴人の愛』は"NAOMI"というタイトルで、また『細雪』は"The Makioka Sisters"と訳されていて、主人公名をタイトルにするのがアメリカらしいと興味深く思ったりもした。

この『陰翳礼讃』は、蛍光灯全盛の今の日本とは違い、蝋燭や行灯を使い、暗闇や陰が多かった時代の日本を明るい照明の欧米諸国と対比しながら論じた文化論である。しかしアメリカにいてこの小論を読みながら私が思ったのは、「陰翳礼讃」しているのは、むしろ今はアメリカの方で、日本の方が照明過剰なのではないかということだった。

留学先の町はずれの空港に夜到着し、タクシーに乗って大学町の中心にある下宿に向かう途中は、街燈一つなく、まさに車のヘッドライトだけが頼りの暗闇だった。下宿も洗面所に蛍光灯が使われていただけで、あとは全て白熱燈で、電気スタンドまで白熱灯だった。大学院のレポートを徹夜で仕上げなければならない毎日だったので、この白熱灯はすぐに切れてしまい、頻繁に交換しなければならなかったが、スーパーで売っている安物の電球は交換していると金属部分だけがソケットに残ってしまい、ガラスの球だけが外れてしまって驚かされたのも懐かしい思い出である。

今は、勤務している大学の歩道でも間接照明を使ったりと、日本で暗さを楽しむ余裕が出てきたが、高度成長期の日本は蛍光灯的な明るさを一律に実現することを目標にしてきたのかもしれない。治安やコストの点、仕事の効率などを考えると日本の蛍光灯文化はそんなに悪いとは思わないが、明かりにしても、また電車内やプラットフォームの絶え間ないアナウンスに見られるような音にしても日本は「光」も「音」も過剰な国であるような気がする。外国映画に見る日本の都市の描写で、ネオンや騒音が強調されるのも、彼ら彼女らの目から見れば率直な印象なのだろう。

「陰翳礼讃」は失われた日本へのノスタルジーとして読むこともできるが、アメリカの田舎の大学町ではまだまだその世界だなあと興味深く読めた。この中公文庫版に収められている他のエッセイも大変興味深く、西洋対日本、男性対女性、関東対関西といった谷崎得意の二項対立的な比較が存分に行なわれているので、興味のある方には是非一読をお勧めしたいし、その二元論的な思考がある意味で谷崎が欧米で理解されやすい要因となっているのかもしれない。

英語と私

2005-04-01 17:14:53 | 教育・学問論
今日は4月1日。いよいよ新年度だが、硬い話題で始めようと思ったが、まとまらないので、英語のことでも書いてみたい。中学校に入って英語を習い始めてから考えてみると20年以上経っている。まさか大学で英語を教えることになるとは思ってなかったが、英語を教え始めて5年になる。当初は授業がいろいろな意味でうまく行かなかったが、その大きな原因は学生のレベルがつかめず、どのポイントで躓くかとか、語彙力がどのくらいか見当がつかず、ついついペースが速すぎたり、難しい教材を読ませてしまい、授業評価ではかなり低い点をつけられた。今でも英語の授業がうまくなったとは自分では思えないが、学生がどの位できて、テキストのどのポイントで間違えるかとか、何を知らないかはわかるようになった。それでも「大学の英語教育は何を目指すべきか」などと真面目に考え出すと本当によくわからなくなる。

比較的やりやすい授業はリスニングの授業だったり、TOEFL・TOEICといった試験対策の授業である。これらは目的が限定されているために、受講生が何を期待しているのかが明確なので、その目的を最大限、達することを目標にすればいいので教えやすいし、選択科目なので学生も熱心に聞いてくれる。やりにくいのはリーディングである。大体高校までの授業でリーディングに辟易している学生が多いし、1クラス50人の学生が満足するような一冊のテキストを選ぶことは容易でない、というより不可能である。できない学生がもたもた訳していると、できる学生はたちまち退屈してしまうし、自分の担当するパラグラフしか見てないため、直前にこちらが説明しても全くそれを反映しない訳をする学生も少なくない。とはいえ面白くしようと思って訳読を止めてしまっても、結局、語彙力も読解力もつけることはできないだろう。全く頭の痛い科目である。

今はブロードバンドが当たり前になり、世界中の新聞をネット上で簡単に読むことができるし、電子辞書で簡単に単語も調べられるので、一番いい読解力をつける方法はオンラインで英字新聞を毎日、ざっと速読することだと思っているが、そもそも日本語でも新聞を読まない学生が増えている今日、この勧めも空振りしがちである。考えてみると英語教師になろうと思っていたわけでもない私自身も、政治学を学ぶために、また留学生活を乗り切るために、必要にせまられて英語を勉強してきただけであり、英語学習そのものが好きなわけでも英語という言語に特に思い入れがあるわけでもなかった。私の専門からすれば新聞を読むのは当たり前なので、それを例えば理科系の学生に強制したり勧めてもあまり効果がないことはよくわかる。結局、本当に必要な時が来ないと必死に英語を勉強しないのかもしれない。

英会話学校に通っていると、会話学校に通うこと自体が趣味となっていて、一向に上達しないおじさんやおばさんたちによく出会った。余暇の過ごし方の一つと考えれば悪くないだろうが、できるようになるためには、それを使わざるを得ない状況がまず必要なのかもしれない。大学生でも最先端の研究や情報に接するためにはやはり英語は必要なのだが、文系でほどほどにしか勉強しない学生はそこまで英語力を持たなくても、バイトして単位をとって卒業していけるだろう。それを見越している学生たちに一律に英語を必修にする意味はあるのだろうか?「大学での英語教育を考える」といった本やシンポジウムは多いが、そのシンプルな問いへの分かりやすい答えにはまだ出会っていない気がする。