紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

外国の好感度と世論調査

2005-02-27 16:26:05 | 社会
インターネットの便利な点の一つは、様々な世論調査を比較的簡単に入手できることである。簡単に「アメリカ人は・・・」、「日本人は・・・」と言いがちだが、実際に人々が何を考えているのか、まとめて知ることは容易ではない。その際、バロメーターのひとつとなるのは世論調査であろう。

アメリカは世論調査が発達している国で、幅広く活用されている。日本のメディアに引用されるギャラップ社などの世論会社は有名で、同社のサイトも様々な調査していて便利だが、授業でよく使った3-4年前と比べると、公開コンテンツが少なくなって、2-3日するとすぐ会員でないと見られなくなってしまった。無料で見られて、しかもアメリカの各調査をテーマ別に上手く整理しているのは、PollingReport.comである。ギャラップの2月7-10日の「アメリカの最大の敵はどの国か」という調査結果も早速掲載されている

この調査によると、イラク(22%)、北朝鮮(22%)、イラン(14%)、中国(10%)、アフガニスタン(3%)と続くが、「アメリカ合衆国自体」という回答が2%を占めているのが興味深い。反対にアメリカ国民が「友好的」だと思っている国は2004年2月のギャラップ調査では、オーストラリア(88%)、イギリス・カナダ(87%)、日本(75%)、ドイツ(69%)、メキシコ(68%)、ブラジル(66%)、インド(61%)、イスラエル(59%)、ロシア(59%)といった順になっている。同調査でアメリカが「非友好的」だと思っている国は、北朝鮮(83%)、イラン(77%)、PLO(76%)、イラク(74%)、キューバ(67%)、サウジアラビア(66%)、アフガニスタン(65%)、パキスタン(64%)、中国(54%)となっている。

日本では内閣府(旧総理府)が毎年、「外交に関する世論調査」を行い、ネットでも公開されている。最新の調査である昨年10月の調査では、「親しみを感じる」と回答した国・地域は、アメリカ(71.8%)、韓国(56.7%)、西欧(56.5%)、カナダ(53%)、東南アジア(41.5%)といった順であり、反対に「親しみを感じない」と答えたのは、ロシア(77.9%)、中東(77.3%)、南西アジア(64.9%)、中国(58.2%)、東南アジア(48.4%)といった順になっている。日本の調査は官庁の調査で、しかも国と地域がごちゃになっているので単純に比較できないが、日本の回答のほうが冷戦時代とあまり変わってないような外国イメージをもっており、アメリカは英連邦の国々と日独にかなり親近感を持っている点が面白い。ロシアについても59%が好感を持っている点も注目すべきだろう。こうした調査がどこまで意味があるのか、ステレオタイプを強化するだけでは、という批判も当然考えられるが、相手国に対するイメージ戦略を考える場合にも各国の外国イメージ調査は役に立つのではないだろうか?
 

ルパート・ブルック 「兵士」

2005-02-23 16:21:17 | 
兵士

もし僕が死んだら、僕についてこのことだけ覚えておいてほしい。
異国の片隅に
永久にそこだけは英国だという土地があることを。
豊かな大地の豊かな土が隠されていることを。
その土は英国に生を受け、育まれ、物心をつけ、
かつては花を愛し、闊歩した若者の土なのだ。
英国の空気を吸い、川で身をすすぎ、太陽を浴びた、英国の若者の土なのだ。

そしてもしすべての罪が清められ、永遠の命の鼓動が感じられるならば
英国で育まれた思いを故国のどこかへ戻してくれるであろうことを思ってほしい。
故国の光景や音響、幸福な日々の幸せな夢を
友から学んだ笑いを、そして英国の空の下に、平和のときに宿ったやさしさを。


(Rupert Brooke, "The Soldier" in 1914 and Other Poems, 1915、拙訳)

門外漢の私が詩に勝手に解釈をつける第三弾だが、このルパート・ブルック(1887~1915)は第一次大戦に参戦し、病死したイギリスの詩人である。この詩はイギリス人読者の愛国心を大いに掻き立て、そのため戦後は戦争を美化していると批判もされたようである。しかし言葉を読むと、若者らしい平和な生活を夢みながら、戦場で散るかもしれない、散らざるを得ない無念を偽らずに詠んだ反戦歌とも読むことができるだろう。戦場となって奪われる命も、戦地に出征して命を落とす若者も、ともに平和を願わないわけがない。異国の地に母国の片隅を作るよりも、母国の発展のために若い命を生かしてほしい、そんな思いにとらわれる一篇である。

エリザベス・ビショップ  「ひとつの術」

2005-02-22 16:18:46 | 
ひとつの術

ものを失くする術を覚えるのは、難しくない。
もともと失くされようという魂胆が見え見えで、
失くしたところで大事に至らないものも、ごまんとある。

毎日何かを失くすること。ドアの鍵を失くした狼狽や、
むだ遣いした一時間を、受け入れること。
ものを失くする術を覚えるのは、難しくない。

それからもっとひどく、もっと速く失くする稽古をしよう。
場所や、名前や、どこか旅行に行くつもりだったところなど。
どれも大事に至ることはない。

私は母の時計を失くした。そして、ほら、好きだった三つの家の最後の一つ、
それとも最後から二つ目のも消え去った。
ものを失くする術を覚えるのは、難しくない。

私は二つの都市、綺麗なのをなくした。そしてもっと
大がかりに、持っていたいくつかの王国、河二つ、大陸一つを。
どれも恋しいが、大事に至りはしなかった。

-あなたを失くした時でさえ(冗談を言う声や、大好きなしぐさなど)、その事情に変わりはないだろう。
どう見ても、ものを失くする術を覚えるのは、そんなに難しくない-
たとえどれ程の(はっきり書こう!)大事に見えようとも。

(亀井俊介・川本皓嗣編『アメリカ名詩選』岩波文庫
所収)

強がった別れの詩である。エリザベス・ビショップ(1911~79)は、アメリカの詩人らしく日常的な題材をさりげない言葉で歌いながら、繊細な詩情をたたえている。過去を振り返らないで前向きに生きようとする姿勢や「三つの家」とあるように、家を住み替えていることなどにアメリカらしさを感じるが、それでも万人に共通する別れのつらさが伝わってくる、抑制されているが、痛切な詩である。

ボードレール「窓」(『パリの憂鬱』から)

2005-02-21 16:14:27 | 
窓 

開いている窓を通して外を見る者は、決して閉ざされた窓を見る者ほど多くを見はしない。一本の蝋燭に照らされた窓にもまして、深みがあり、不可思議で、豊饒で、暗黒で、眩いものはまたとない。陽光の下で見ることのできるものは、常に一枚の窓ガラスの後ろに起こることよりも興味に乏しい。この暗い、あるいは明るい穴の中に、生命が生き、生命が夢み、生命が悩んでいるのだ。屋根また屋根の波の向こうに、私は見かける、中年の、もう皺の寄った貧しい婦人が、いつも何かの上に身をかがめて、決して外へ出ずにいるのを。その顔から、その衣服から、その身振りから、ほとんど何でもないものから、私はこの婦人の物語を、というかむしろ彼女の伝説を作り上げたのだし、ときおり私は、それを自分に語り聞かせては涙を流す。もしそれが哀れな年老いた男であったとしても、同じように造作なく私は彼の伝説を作り上げたことだろう。そして私は、自分自身が他の人々の中に入って生き、悩んだことに誇りを覚えながら床に就く。ひょっとしてきみたちは私に言うかもしれない。「その伝説が本物だときみは確信しているのかね?」と。だが、私の外に置かれた現実がどうあり得ようと、何のかまうことがあろう。もしもそれが、私の生きることを助けてくれ、私が在ることを、そして私が何で在るか感じることを助けてくれたのであれば。

(阿部良雄 訳-『ボードレール全詩集Ⅱ』ちくま文庫所収)

小学校ではじめて詩を習ったとき、詩は「短いことばで感情を表現すること」だと教わった。しかし6年生になったとき、散文詩という、普通の文章のような詩があることを知った。長文なのに、「詩」と称している奇妙なジャンルに子供ながらにもたちまち心惹かれた。ボードレールの散文詩は日本では『パリの憂鬱』というタイトルで出版されていることが多いが、英語では単にProse Poems(散文詩集)という題で出版されていることが多い。アメリカで探したときもたいていそうだった。上の詩はその中でも有名なものの一つだが、象徴詩人ボードレールの面目躍如というべきか、安直なリアリズムを排して、詩人の魂で現実を再構成していこうという強い意思と自負が感じられる。芸術至上主義であるともいえよう。しかし我々が専攻してる社会科学の世界でも、できる限り社会の現実を捉えようと苦闘するが、現実そのものをフィルターなしで捉えることはできない。ボードレールのように「自分自身が他の人々の中に入って生き、悩」まなければならないのだろう。逆に言えば、そうした他者に対する共感的な想像力を欠如している人は詩人にもなれなければ、社会科学者にもなれないだろう。閉ざされた窓からどこまで現実に迫れるだろうか、そんなことをいつも考えさせられる、示唆的で味わい深い作品である。
(イメージは19世紀のパリのモンマルトル大通りを描いたピサロの絵画)

アメリカにおけるアジア系ロビー

2005-02-20 16:12:03 | 政治・外交
ロビーということばは日本語でも定着してきた。もともとは「廊下」の意味だが、アメリカ政治で「ロビー」、「ロビー活動(lobbying)」というと、特定の集団、業界、企業、団体の利益のための法案通過や法案阻止のために議員に働きかけることをいう。そうした活動を行なう人を「ロビイスト」と呼び、アメリカでは「連邦ロビイング規制法」により、登録が義務付けられている。

最も有名なロビーはいわゆるユダヤ・ロビーであり、AIPAC(The American Israeli Public Affairs Committee アメリカ・イスラエル広報委員会、1959~)やADL(Anti Defamation League 反誹謗中傷連盟)といった団体がアメリカ社会におけるユダヤ差別の撤廃や、アメリカ政府がイスラエル寄りの政策を採用するように強く働きかけてきた。公民権運動で力を発揮した黒人運動におけるNAACP(全米有色人種地位向上協会)もよく知られている。NAACPのような、アジア系アメリカ人全体をまとめる組織はないが、1929年設立の日系アメリカ人市民連盟(JACL)、1895年設立のChinese American Citizens Alliance, 1973年創設のOrganization of Chinese Americans、1994年設立のNational Association of Korean Americans などの団体があり、このうち最も組織力があり、成功したのはJACLで、第2次大戦中の強制収容に対する補償運動を組織し、1988年にアメリカ政府の公式謝罪と一人2万ドルの補償金を引き出す1988年市民自由法の制定までこぎつけた。ただし戦時中のJACLはアメリカ政府への忠誠を日系人社会に要求したので、日系人からしばしば反発を招いていた。中国系アメリカ人団体の運動は、主に中国系アメリカ人の有権者登録の拡大と中国系児童のためのバイリンガル教育の実現を目指したものであった。韓国系アメリカ人の団体は比較的新しいが、1992年のロス暴動で、コリアンタウンや韓国人経営の商店が襲撃されたことがきっかけとなり組織された。

アジア系アメリカ人は経済的成功を最優先しており、強い政治的主張をするために組織されることがなかったので、アジア系ロビーは目立たない存在であったが、政治的主張をする場合も上記のようにアジア系議員の増員、市民権の保障や教育機会の拡大、差別の撤廃、ヘイトクライム対策など内政的な事項に限られていた。外交におけるアジア系ロビーとして知られているのは台湾ロビーで、これは台湾系アメリカ人というよりも台湾政府による議会ロビー活動で、台湾への経済軍事援助や台湾に有利な法案の通過、台湾シンパの議員(共和党が多い)の拡大などを図っている(Taiwan Instituteなどの団体が有名)。

日本の場合、エスニック・ロビーに当たるものといえば、韓国系の民団(在日本大韓民国民団)や北朝鮮系の朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)だろう。両者とも例えば民族学校における教育や、外国人参政権の実現運動に積極的に取り組んでおり、民団は日韓友好議員連盟などを通じて、自民党などとパイプをもち、また朝鮮総連は社会党(現社民党)や一部の自民党議員に政治献金をし、密接な関係にあった。例えば特定船舶入港禁止法や総連本部への固定資産税課税措置などの北朝鮮に対する厳しい政策については、朝鮮総連は当然反対し、社民党などの議員を通じて働きかけている。また日本における先住民団体としては、北海道ウタリ協会というアイヌ団体があり、明治以来の差別立法であった「旧土人法」の廃止運動を続け、1997年の同法廃止、アイヌ新法制定(「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」)の実現にこぎつけた。

反体制アニメと家族像

2005-02-12 16:03:04 | マンガ
子供は大人が「やるな」ということをやるのが好きである。いや実は大人もやっちゃいけないことをやりたいのかもしれないが、仕事や家族、様々な制約でやりたいようにできないだけなのかもしれない。

子供向けのアニメを作るのは容易ではないだろう。あまり反社会的なことを描いたら、「子供が真似をしかねないから教育的に良くない」、「やめてほしい」といったクレームがPTAなどから寄せられるだろう。かといって品行方正な子供や家族を描いて、文部科学省推薦のアニメを作っても当の子供たちは喜ばないだろう。その意味で日曜日の夜放送されている『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』といった番組は、基本的に品行方正な家族を描きながら、しかも高視聴率をとっているのはすごいことなのかもしれない。一方で、『クレヨンしんちゃん』のように本来、大人向けの漫画が子供向けのTVアニメになったものが今日的で子供の人気を得ているのも当然だろう。

1年生向けの基礎演習の時間に、アメリカの人気アニメ『ザ・シンプソンズ』と『キング・オブ・ザ・ヒル』の1エピソードを見せて、そこに描かれている家族像と社会像を日本の場合と比較してもらった。学生から、「日本と違って、大人が子供のような悪いことをしている」「家族団らんでなければならないという規範意識が乏しい」「社会風刺が多い」「描かれている世界が反社会的だ」といった感想が多く寄せられた。この『シンプソンズ』は日本のケーブルテレビでもWOWOWやフォックス・ジャパンなどで放映され、よく知られるようになった。最近出版された橋本二郎『固有名詞を通じて見たアメリカン・イメージ連想事典』(研究社)でも、「90年代反体制文化の象徴としての家族像を、ブラックユーモアをまじえ、社会風刺的に描いたアニメーション」と紹介している。実際、見ていると原子力発電所に勤める、子供顔負けのいたずら好きの父親ホーマー、いたずら好きの息子バート、家族思いの母親マージ、天才児で常識的な妹のリサ、とキャラクターを並べているとどっかで聞いた話だと思い出す。そう、日本の70年代のギャグ漫画『天才バカボン』である。

学生たちはアメリカ・アニメの子供のような父親と反体制的な風刺ストーリーに驚いたようだが、『バカボン』はまさにその世界である。『バカボン』は、レレレのおじさんやうなぎイヌ、といったシュールなキャラクターが出てくるナンセンス・ギャグと思われがちだが、学生運動や当時のウーマン・リブ運動、連合赤軍浅間山荘事件、最後の日本兵・横井庄一さん帰還といったその時代背景を明らかにパロディ化したエピソードが多く、ピストルを不必要に連射する「めんたまつながりのお巡りさん」が「暴力は国の宝です」と言うのに対して、バカボン・パパが「警察は国民がお金を出し合って飼っているのだから、国民にピストルをむけてはいけないのだ」というようなドキリとするような権力批判の台詞吐いたりする、社会風刺色が強い漫画である。4回テレビアニメ化されたが、原作のコミック版と違って、しかも時代が下るごとに風刺色は薄れて、ただバカボン・パパのナンセンスな行動を笑う、比較的無害な子供向けのアニメになってきた。

子供たちもニュースを見るし、世相の影響を受けている。社会派ギャグが子供にとってつまらないものとは限らないし、成長してからそのギャグの意味に気づくこともあるだろう。波平が愛する盆栽のような『サザエさん』の世界を保護していくのもいいが、批判精神を刺激する『ザ・シンプソンズ』、『天才バカボン』的な子供アニメがもっとあってもいいような気がする。ただハチャメチャで、外の世界とは摩擦を起こしているように見えても、いずれの家庭も家族同士はとても暖かいのが救いで印象的だ。(イメージの左はバカボン、右はシンプソンの家族)

韓流ドラマとソープオペラ

2005-02-10 16:00:50 | 映画・ドラマ
いまさらだが、韓国ドラマが日本のテレビを席巻している。私が住む関西地区では、土曜日には、真実(読売TV 12時~)、天国への階段(関西TV 14時半~)、美しき日々(NHK 23時10分~)といずれも『冬のソナタ』のヒロインとなった女優のチェジウが主演格をつとめるドラマを放送している。同じ日に同じ女優が出るドラマが放送局が違っても三度も放送されることは日本の人気女優でも極めて稀なのではないだろうか?

衛星放送やケーブルチャンネルで細々と放映されていた頃と違って、韓国ドラマが地上波でこれほど放送されるようになるとは2、3年前までは誰も予想しなかったに違いない。韓流ドラマブームについてはすでに書きつくされているので、素人の私が口を挟むまでもないが、今まで海外ドラマの主流だったアメリカのドラマや日本の(死語になりつつある)トレンディドラマと比べると、「親の因果が子に報い」というような、どちらかという親の過去の過ちに子供たちの運命が左右される点や、日本のように先輩-後輩関係が描かれていること、「すれ違い」が起こりにくい携帯電話時代を反映してか、交通事故で記憶喪失になるというプロットを何故か多用している点などが特に目につく。しかし親子関係と愛憎劇が絡むのは何も韓国ドラマの専売特許ではなく、メロドラマの定番と言えるかもしれない。

アメリカの昼メロはソープオペラと呼ばれている。これは昼のメロドラマのスポンサーをP&Gなどの石鹸メーカーが務めていたからである。日本の昼メロのCMでもやはり洗剤メーカーなど主婦層をターゲットしている事情は同じである。日本の昼メロと違う点は、30年も続く息の長い番組があることだ。NBCで放送されているDays of Our Livesは、なんと1965年から放送されているので、今年で40周年を迎える。驚くべき点は長いということだけでなく、月曜から金曜日まで毎日1時間放送されて、しかもホートン家とブレイディ家という二つの家の間の愛憎劇を執拗に追い続けている点である。

外の世界に目を向けないのだろうか、と素朴な疑問も沸いてくるが、親から子、さらに孫へとひたすら両家の間で恋し、結婚し、憎み、裏切り、対立しているのである。こうしたソープオペラは主婦ばかり見ているのかと思ったが、留学中に大学の学部生に聞いてみると、結構、若いファンも多いことがわかった。話がなかなか進まないのでどこから見ても見出したら話がわかるつくりになっている。私も留学中によく見ていて、What's that supposed to mean?(どういうこと?何が言いたいの?)、That means a lot to me(とても感謝している)、I don't feel the same way(同じ気持ちになれない)などといった、訳すとニュアンスが伝わりにくい口語表現はこういう時に使うのかと納得しながら覚えることができた。メロドラマは、登場人物が始終、話し続けているし、喧嘩もすれば、言い訳もするし、一人で悩んだりもするし、喜怒哀楽の表現がすべて出てくるので、これほど外国語の教材にうってつけのものはないような気がする。しかしネイティブに取っては見るに耐えないほど露骨でくどいものかもしれない。

韓国ドラマも、また日本のドラマもアメリカのTVドラマの影響をうけながら作られているが、日本版になると情緒的になったり、韓国版になると因果応報が強調されたりと文化的な差異が反映される点が興味深い。映画のように磨かれ、作りこんだ作品ではなく、もっと下世話かもしれないが、世界中の人々が異なった国のソープオペラを自由に見られるようになれば、どこの国でも似たようなことで悩んだり、対立したり、喜んだりしていることがわかり、相互理解が深まるのではないかと思う。

参政権と日本の若者

2005-02-02 15:58:21 | 政治・外交
イラクで1月30日に初めての国民議会選挙が行なわれた。テロが相次ぐ中での難しい選挙だったが、ともかくも予想を上回る投票率で終了したようである。イラク戦争を強行したアメリカやその後のイラク占領政策に対する批判が強いため、この選挙についての新聞報道も冷ややかな論調のものが少なくない。大学でも学生運動家たちは「占領政策反対と選挙の粉砕」を叫んだりしていた。しかしアジアやラテンアメリカの民主化の歴史を考えてみても、選挙が制度として導入されると時間はかかってもやがて一党独裁体制や権威主義体制が崩壊し、政権交代が行なわれるようになったケースが多い。アメリカのイラク政策の是非と、イラクで初めて選挙が行なわれたことの意味は切り離して評価すべきではないだろうか?

選挙の意義を学部生に教えることは容易ではないと大学の教壇に立つようになって気づいた。大学生の場合、自宅から通っている学生でも1-2年生の場合は選挙権がなく、3年生でもタイミングによっては一度も選挙の経験がない学生が多い。下宿生の場合は、住民登録が実家のままの場合も多く、大学所在地で投票できない。アメリカの大統領選挙や投票所のしくみ、比例代表制と小選挙区制の違い、アメリカの有権者登録制度の話をしても、そもそも日本の選挙のしくみも実体験がないため、きわめて遠い世界の話のように聞こえているようだ。「選挙は大切、選挙権を放棄しないようにしましょう」といってもピンと来ないかもしれない。

同時に選挙に関する授業を行なっていて意識させられるのは、選挙権のない在日外国人の学生たちである。政治参加や選挙の重要性を説く場合、アメリカ論を教えている私は、黒人の公民権運動などの説明を通じて、参政権獲得までの苦しい歴史を強調することが少なくないが、ある授業で「でも私たちは在日なので選挙権がないんですよ」と学生から言われたことがある。それ以来というわけではないが、選挙権がありながら選挙に興味がない日本人学生と、選挙に関心があっても選挙権のない在日外国人学生が教室に並存していることを意識しながら語ることの難しさを常に感じている。

そんなことを考えていた折に、昨年、『在日』という自伝的著作を出版した政治学者・姜尚中氏のことばに出会った。彼は政治学者を志した理由を問われて、「選挙権も被選挙権もない自分にとって最も有効な政治参加だと思ったから」と答えている。カッコよすぎる台詞といえばそうかもしれないが、確かに選挙だけが政治参加ではなく、姜氏のように政治について思索し、多くの人に語ることも政治参加である。その意味では在日韓国人朝鮮人の学生たちに政治参加の重要性を説くことも大切なのであろう。

「誰がなっても同じだから」といって選挙に全く興味を示さない日本人学生の意識に訴えるために参政権の重要性を説くことが、同時になかなか外国人参政権、とりわけ切実な問題である在日韓国朝鮮人の参政権が実現しない日本の現状を浮き彫りにしていることを感じつつ、授業を行なうのは忸怩たる思いがあるが、自由な選挙権を享受していることが歴史的に見ても世界的に見ても、今日なお特権であること、民主主義の根幹に関わる問題であることを強調してもしきれないだろう。