紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

踊る国際人、伊藤道郎(2)

2009-03-18 12:25:01 | 芸術

伊藤道郎という人物に興味をもったので、古本で藤田富士男『伊藤道郎 世界を舞う:太陽の劇場を目指して』新風舎文庫、2007を入手して読んでみた。こうした評伝にありがちな思い入れ過剰の文章とはほど遠く、NHKのドキュメンタリーよりもむしろ淡々と道郎の生涯を事実に基づいて追いかけている点がよかったが、道郎の私生活上の問題点などがテレビよりも詳しく書かれていた。特に道郎の次男で、後に日本でも俳優として活躍したジェリー伊藤が太平洋戦争により父と離れ離れになり、アメリカ兵として横須賀に配属され、アーニー・パイル劇場に父を訪ねてくる場面が印象的だ。

「ドアを開けると一斉にフラッシュが焚かれ、道郎はジェリーを強く抱きしめた。親族と挨拶を交わす間もなくインタビューが始まった。道郎は『東京は僕の街だ。なにかしたいことがあればなんでも言いなさい』と大風呂敷を広げた。ジェリーはその言葉を聞くと、変わらぬ父を嬉しく思うとともに、しばらく会わないうちにあまりに父を理想化していた自分に気づいた。部屋に静けさが戻り、外にサービスを振りまきすぎた父は黙ってしまった。それはショーはこれで終わりだ、と言わんばかりの様子に思えた」p.19)

ショー・ビジネスで生きる人間としての性なのか、息子との再会もメディアを呼んで、「演出」してしまう。その息子も同じ世界で生きていくことになるのでやがては理解しただろうが、公人としての派手なパフォーマンスと、家庭人としての道郎の限界を感じさせるエピソードである。だが、あくまで評伝の描写なので、道郎本人の心を知る由もない。

伊藤道郎が国際人として成功した要因は何だろうか?ダルクローズ学院の教育がいかにすぐれていたと言ってもその期間は1年強にすぎない。この評伝を読むと、道郎が10代の頃から待合通いをして、浄瑠璃にはまっていたことやドイツ留学前から帝国劇場歌劇部に所属して舞台に立っていたことがわかる。家庭教師ものちのプリマドンナ、三浦環だったり、登場する人物が超一流である。こうした日本で培った基礎が海外で認められるのに大きな要因となったのだろう。伊藤は写真に載せたように坂本龍一似の、明治生まれとは思えないモダンな風貌だが、日本的なもの、オリエンタリズムを逆手にとり、能や日本舞踊、歌舞伎の手法を取り入れて、エキゾチズムをアピールする一方で、西欧の伝統的なオペラやバレエの様式に倣って、メジャーなクラシック音楽を演奏するオーケストラをバックにして、モダンダンスを披露したことも特にアメリカでの成功の要因だったと思う。ロサンゼルスで2万人もの観客を集めた力は相当のものである。また戦時中は日本の陸軍や財界から和平交渉を依頼されたり、戦後はすぐにGHQから米軍兵向けの劇場作りを依頼され、最後は東京オリンピックの演出を任されるというように政治力があることも彼が芸術家として成功する上で重要な要素だったのだろう。

日本的なものをベースとしつつ、西欧の文法の上でプラスアルファを提供し、かつ時代の変化に即応して、挫折しても立ち直るタフさがある、日本人が国際的に成功するカギを凝縮しているように見ることもできる。また道郎の才能に破格の教育投資をした両親の存在も大きいだろう。子供が興味を持つ歴史教育のやり方もいろいろあるだろうが、日本社会が今ほどグローバル化していなかった時代にすでに活躍していた国際人の話をもっと紹介してもいいのではないかと改めて思わされた。


踊る国際人、伊藤道郎(1)

2009-03-18 12:13:30 | 芸術

メジャーリーグでの日本人選手の活躍や映画「おくりびと」のアカデミー賞受賞、小澤征爾のウィーン国立歌劇場音楽監督としての活躍などなど、スポーツや芸術面で国際的な成果を挙げている日本人のことは、グローバル化が進んだ今日でも大きく取り上げられ、称賛される。しかし実は、第二次大戦以前から世界の最前線で活躍した日本人は少なくない。戦後の日本より富の分配が不均衡だった社会でけた外れの富豪がいて、子弟を海外で優れた教育を受けさせていた例も少なくなかったから、そうした恵まれた環境で才能の花を咲かせた人たちもいるのだ。ヨーロッパに8年も留学し、サルトルに家庭教師をさせて、ハイデッカーに師事していた九鬼周造(1850-1931)も九鬼男爵家の出身だったし、最近、流行りの白洲次郎(1902-1985)も芦屋の貿易商の息子で、ケンブリッジ大学に留学して、車を乗り回し、イギリス英語を身につけ、戦後、占領したGHQの民政局長コートニー・ホイットニー准将に対して、「あなたももう少し勉強すれば英語がうまくなるでしょう」と言い返して絶句させたのも有名である。

舞踏家・伊藤道郎(1893-1961)もそんな戦前日本が生んだ国際的才人の一人である。以前、何気なくつけたテレビで、「NHK-BS-hi:ハイビジョン特集:異国と格闘した日本人芸術家 夢なしにはいられない君 舞踊家 伊藤道郎の生涯」というドキュメンタリーを見たのが伊藤を知るきっかけだった。ドキュメンタリーで紹介された伊藤の生涯の概要は、こういうものである

発明家の父と高等女学校出身の教育熱心な母の間に生まれた道郎は、19の時に本格的に声楽を学ぶためにドイツに留学するが、声量などの点でヨーロッパ人には敵わない点などを認識し、山田耕筰の助言もあり、進路転換し、舞踏家を目指すようになり、リトミックなど新しい教育法を行っていたライプチヒのダルクローズ学院に入学する。ところが第1次世界大戦の勃発で、ロンドンへの脱出を余儀なくされる。ロンドンでは貧窮生活をしていたが、衣類や指輪を質入れして出入りしていたサロン、カフェ・ロワイヤルで、ショパンの音楽に合わせてダンス・ソロを踊ったところ、喝采を浴び、ホスト役のドイツ語を話す紳士と親しくなるが、それが当時のハーバート・ヘンリー・アスキス首相(自由党)であった。詩人エズラ・パウンドはその様子を詩に書き留めている。

ミチオはガス代のペニーもなく、真っ暗な中に座っていた。

しかし彼は言った。「あなたはドイツ語が話せるか」と。

1914年、アスキスに。

その頃から様々な芸術家のパトロンから声がかかるようになり、エズラ・パウンドと協力して、アイルランド神話と能を融合したイェイツ(アイルランドの詩人、ノーベル文学賞)の『鷹の井戸』の制作に尽力し、それを初演する。

イギリスで成功をおさめた道郎はさらにアメリカに移って、舞踏家、演出家として大活躍するようになるが、やがて日米関係が悪化し、開戦やむなしの機運が高まる中で、一時帰国し、日本の軍関係者や経済界の人物と接触し、和平工作への協力を求められる。しかし努力も空しく真珠湾攻撃の翌日、拘束され、モンタナの日系人収容所に入れられ、捕虜交換船で昭和18年に帰国する。戦後は、GHQに要請されて、接取された東京宝塚劇場で米軍人向けにスタートしたアーニー・パイル劇場の総演出兼顧問を務めることになる。戦後復興が進んでくると、アメリカでの経験を生かしてミス日本コンテストの演出やファッションモデル養成などの分野で活躍し、最後は東京オリンピックの開会式・閉会式の演出を担当する予定だったが、オリンピックを待たずに脳溢血で死去した。ドキュメンタリーの最後は、現在、アメリカで暮らしている道郎の孫娘が、道郎のダンスの弟子と会い、ダンスを習うという場面で締めくくられていた。


姫路のロダン

2006-11-03 23:54:58 | 芸術
先日、姫路まで足を伸ばして、11月3日まで開催されていた『ロダンの系譜』展を見た。昨年から今年にかけて大阪の国立国際美術館で見た『ゴッホ展』や『プーシキン美術館展』は大変な混雑で、絵を見たのか、人を見たのかわからないほどだったが、姫路駅からも少し離れた姫路市立美術館であるためか、休日にもかかわらず、かなり空いていて、ゆっくり彫刻や絵を鑑賞することができた。

ロダンは好きな彫刻家の一人で、以前、このブログでも、ロダンの弟子で愛人であったカミーユ・クローデルについて取り上げたこともあった。フィラデルフィアのロダン美術館に閉館時間直前に入れてもらって、豊富なコレクションを堪能したのも懐かしい思い出である。今回の展示は、ロダンの作品そのものをたくさん見せるというよりも、ロダンがその後の西洋美術史に与えた影響について、影響を受けた作品を展示しつつ、考えさせるような構成になっていた。

1967年にロダン没後50周年に記念してパリで開催された展覧会に出品されたヘンリ・ムーア(1898-1986)、オシップ・ザッキン(1890-1967)、ロベール・クーチュリエ(1905-)、ベルト・ラルデラ(1911-1989)、アンリ・ジョルジュ・アダム(1904-1967)によるロダンへのオマージュと題した、五枚の版画に始まり、まずはロダンの有名な『カレーの市民』の試作品を展示し、高い台座から地平に彫像を降ろすことによって、偉人たちの苦悩が見る人々と同じ地平にあることを表現しようとしたロダンの意図を説明し、続いて生命力や生き生きとした人体表現を得意にしたロダンとその系譜を引くエミール・アントワーヌ・ブールデル(1861-1929)、コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)らの作品を展示し、ロダンの影響と近代彫刻の発展を追っていた。やがて二つの大戦を経験することになる20世紀美術を展示した部屋では、ロダンがジャンルとして確立した、頭部や手足を欠いた彫像「トルソー」が、人間性を剥奪された表象としても利用されるようになったことを、ナチスのポーランド侵攻により、目の前で母親が腕を失うという壮絶な体験をもつマグダレーナ・アバカノヴィッチ(1930~)の『立つ人』という作品を展示して解説していたのが強く心に残った。

各展示室ではロダンの言葉も巧みに引用されていた。例えば

「どのような表面も、内側からそれを押している量の先端としてごらんなさい。あなたの方を向いている先端だと思って、ものの形を心に思い描いてごらんなさい。あらゆる生命は、中心から湧き上がり、そして内から外に向かって芽を出し、花を咲かせるのです。同様に美しい彫刻には、内側からの強い衝動が感じられるものなのです」(ロダン『遺言』)

といった言葉とともにロダンの彫刻を眺めていると、まさに内部から外部へエネルギーが放出されているような感覚にとらわれずにはいられなかった。

ロダンの作品とともに、メダルド・ロッソ(1858-1928)、ザッキン、フリオ・ゴンザレス(1876-1942)、アンリ・ローランス(1885-1954)らの作品を展示し、彫刻において、物質と光と空間の三者がどのように交錯しているのかを解説した展示室も興味深かった。光を吸収する彫刻と、鏡のような表面にして光を反射するようにしたもの、さらには網目のように隙間を作ることで、閉じた塊としてのイメージが強かった彫刻像を一新させたもの(例えば右写真のようなザッキンの作品)などなど、彫像一つ一つが説得的に迫って見えた。ピカソやブラックが、二次元の絵画で三次元を表現しようとして試みたキュビスムが彫刻にも影響を与え、反対に立体であるはず彫刻で平面を表現しようとしたアンリ・ローランスの作品「イヤリングをつけた女の顔」なども面白かった。

出品点数こそ67点と決して多くはなく、しかもほぼ全ての作品が日本の地方美術館の所蔵品を集めたものだったが、ロダンを軸にしながら、西洋近代彫刻史の流れと表現技法の変化を一望できる、優れた構成の展覧会だったと思う。徒に話題作や有名作品を集めたり、海外美術館から多大なコストを払って借り出して来なくても、企画力さえあればこれだけの展示ができるのかと感心させられた。作品が多すぎると、いつの間にか終わりまで見ることが義務のようになってしまいがちだが、手ごろな作品数で、一つ一つ考えながら見られたのも良かった。

常設展の方は、『近代フランス絵画-モネからマティスまで』と題して、コロー、クールベ、モネ、ピサロ、ヴラマンク、ユトリロ、マティスなど私たちにも馴染み深い巨匠たちの作品が、これまたコンパクトだが、美しい絵画ばかりセレクトされて展示されていて、ロダン展と併せて、近代西洋彫刻と絵画の流れを一遍に鑑賞することができて、贅沢な気分になった。旧陸軍のレンガ倉庫を改築した瀟洒な明治建築の美術館である。ほぼ姫路城内にあるが、登城の折にはぜひこの美術館にも立ち寄ることをお勧めしたい。なおこの『ロダンの系譜』展は、11月11日からは福井市美術館に移って、一ヶ月同じ展示が行われるようなので、そちらにお住まいの方はご覧になられるといいだろう

闇の鑑賞

2006-01-05 23:20:59 | 芸術
まだあまり美術館で絵を見る習慣がなかった頃、美術を習っていた友人が、絵の見方として、「画家がどんな気持ちで書いたのかを想像しながら見ればいい」とアドバイスしてくれた。以来、絵画を見るたびに画家の心象風景を想像するくせがついてしまった。クラシック音楽を聴くときは、いわゆる「絶対音楽」というか、標題性の無い音楽が好きで、ヴィヴァルディの『四季』とか、ムソルグスキーの『展覧会の絵』といったあからさまに標題的な音楽はあまり好きでないのだが、絵をどう見たらいいのか、わからなかった時にこの鑑賞法はとても有益だった。

芸術作品を芸術家と結びつけて鑑賞するスタイルにはもちろん批判もある。作家の村上龍がランボオの詩集『地獄の季節』(集英社文庫版)に寄せた解説で、「ランボオの詩から、ランボオのことをイメージするのは不可能だ」として、「私達日本人は、ヒマをもてあましているため、作品と作者の生き方を重ねるという、センチメンタルな愚を犯すのが大好きだ。作品は、作者の人生と何の関係もないのだが、根がセンチメントで非科学的なので、ランボオやヘミングウェイに憧れてしまうのだろう」(235頁)と書いていたのを見て、妙にギクリとした。このブログでもそんな文章をいくつか書いたと思う。

それでも懲りずに芸術に芸術家を重ねて楽しみたい人にうってつけの本がある。一冊はもう絶版となった本だが、ドイツの精神医学者ルドルフ・レムケが著した『狂気の絵画―美術作品にみる精神病理』(福屋武人訳、有斐閣選書、1981)である。この本は精神病理学の立場から、様々な精神障害の傾向が表れていると思われる絵画を分析しており、ゴヤ、デューラー、ムンク、シャガール、ピカソ、エルンスト、クービン、クレー、ゴッホなどの、合計109もの絵画が解説されている。抑うつ、異常嫉妬、嗜癖、性的異常、夢幻体験、知覚障害など、様々な病理現象が絵解きされていき、フロイト的な解釈が加えられているのだが、はっきりと異常性を感じられる、不気味な絵画ばかりとりあげられているのが残念なところで、「狂気の絵画」でない、普通の絵画の深層心理の分析の本があれば、なお面白いかもしれない。右に掲げたのは、本書で取り上げられているアルフレッド・クービン(1877~1959)の『人間』(1901)という作品で、レムケによると「夢幻様の典型的な状態である『放心状態』、『抑えがたい状態』、『心の騒擾状態』といったものを表現しようとしている」(113頁)とのことである。ムンクの『叫び』のような誰でも知っている絵もいくつか取り上げられている。

もう一冊はまったく別のテーマだが、同じく作者の心の闇を解明していると言う点で、梅原猛の『地獄の思想』(中公文庫版、1983)を挙げてみたい。文庫版でも20年前、最初に公刊されたのは1967年というから、ここで取り上げるまでもなく、読まれた方も多いと思うが、表向きは日本における「地獄」思想の展開を追うというテーマでありながら、実質的には梅原流の日本文学史となっている。

仏教学や日本宗教史の研究者の間では実証性の点で、梅原仏教学に対する批判が根強いらしいが、よい書評の条件が原書を読む気にさせることだとしたら、これほど刺激的な古典のガイドブックは無いかもしれないと思うほど、思い入れたっぷりの文学史になっている。

梅原はここで、『源氏物語』、『平家物語』、世阿弥の能、近松の浄瑠璃、宮沢賢治、太宰治の小説などのよく知られた作品を取り上げながら、それぞれに描かれた煩悩と我執と、それによってもたらされた心の中の「地獄」像のあり方を読み取っている。文学作品の現実的な「効用」の一つが、心の苦しみを登場人物に投影し、疑似体験することで、人生において実際に体験する苦悩への耐性を涵養していくことだとすれば、カビの生えたような日本の古典作品も十分「役立つ」ことを実感させられる名解説ぶりである。

若い読者が読むと、梅原の太宰への強すぎる共感や行間に垣間見られる恋愛、というか女性に対するルサンチマンの深さに違和感を覚えるかもしれないが、本書を読むと、高校の古文や大学の一般教養科目(今の言い方では「全学共通科目」だが)で習って、枯れ切ったイメージしかない日本の古典作品や小説が生々しく、鮮やかな光を帯びて見えてくるに違いない。

絵画にしても、古典文学にしても、芸術作品は必ず何らかの「毒」をもつもので、その「毒」は人の心の闇に根ざしている。そうした点に心を巡らしながら鑑賞する道しるべとして、『狂気の絵画』も『地獄の思想』も大いに役立つだろう。

都会人の寂寥:リアリスト画家・エドワード・ホッパー

2005-08-25 10:06:43 | 芸術
アメリカの美術館を見て回った時、印象派の絵が多いことをやや意外に感じた。初めてニューヨークの近代美術館に行った時、カンディスキーや、クレー、アンディ・ウォーホル、キース・へリングなどはいかにも現代美術だなあと思ったのだが、それらと並んで、セザンヌやルノワール、モネなどの「保守的」な絵も少ないながら展示されていたのが印象に残ったが、シカゴのアート・インスティテュートなどは全米でも有数の印象派のコレクションを売り物にしていて人気を集めていた。印象派のわかりやすいが写実的過ぎないところが、美術に触れたという程々の満足感を与えてくれるのかもしれない。アメリカの文学や芸術は西欧の亜流のイメージが強く、ブログでも時々取り上げている詩の世界でも芸術的なイギリス詩からどう独立して個性を発揮するかで苦闘したようである。絵画の世界でも確固たる伝統をもつ西欧絵画の歴史に挑戦するために、アメリカ絵画が抽象画やポップアートの世界に活路を見出していったのは自然な流れだったのだろう。

西欧絵画の伝統に対抗する上でアメリカの画家たちが選んだ一つの方向性は、アメリカの特徴の一つである雄大な自然をリアルに描くことだった。イギリス生まれでハドソン川の風景に衝撃を受けてその自然を描いたトーマス・コールとその弟子たちは、「ハドソン・リバー派」と呼ばれる、雄大な自然を細密に描く画風を確立した。フレデリック・E・チャーチの『ナイアガラの滝』、アルバート・ビーアスタットの『ヨセミテ渓谷の日没』など、いかにもアメリカ的な風景をリアルに描いた古典的絵画である。

一方で都会人、現代人の孤独を写実的に描いたのがここに挙げた『ナイト・ホークス(1942)』の画家エドワード・ホッパー(1882~1967)である。彼はいかにもアメリカ的な画家で、人気も高く、前述のシカゴ美術館でも充実したホッパー・コレクションを備えていたが、アメリカの主要都市の美術館に行けば、必ず一枚は彼の絵を見ることができるだろう。この絵をごらんいただければ余計な説明は不要だと思うが、深夜のダイナーを描いた、一見何の変哲もないリアリズムに徹した絵でありながら、都会生活の寂寥感を実に説得的に表現している。リンクをたどって彼のほかの作品も見ていただきたいが、郊外の明るい日差しを描いた絵でもどこか満たされない寂しさや倦怠感のようなものが伝わってくる絵が多い。しかしなぜか心を惹かれる絵ばかりである。

ホッパーはニューヨーク市郊外のナヤックという小さな町で生まれたが、絵を習ったのも活動したのもニューヨーク市であり、亡くなるまでニューヨーク市で過ごした都会派である。最初は広告などの商業画家としてスタートしたが、のちに芸術家に転じて、アメリカで最も人気のある画家の一人となった。ホッパーの絵を見ると、上手く表現できないが、アメリカ都市のもつドライな質感、競争社会で生きるアメリカ人の寂寞たる心が正確に捉えられている気がする。彼が活躍したのが大恐慌から第二次世界大戦までの時代だったのが彼の作品とその登場人物たちに影を落としているかもしれないが、そこで描かれた心象風景は今日のアメリカ人や全ての都会人にも通じるものがあるだろう。その意味でとてもわかりやすい絵画だが、アメリカしか生み出せない、一つの表現を構築した画家だったのではないだろうか。

カミーユ・クローデルの悲劇

2005-08-01 08:02:10 | 芸術
小学生の時、最初に好きになった詩人は高村光太郎で、最初に買った詩集も彼の詩集だった。彼の父、高村光雲は老猿などの作品で知られる高名な彫刻家であり、光太郎自身も十和田湖畔の乙女の像などを作った彫刻家でもあった。光太郎はロダンの影響を強く受け、『ロダンの言葉抄』といった本も出している。そうした光太郎への関心や上野の国立近代美術館で見て、「考える人」など、子ども心にもインパクトがあったロダンの彫刻がたちまち好きになった。フィラデルフィアを訪れた時も閉館時間ギリギリだったのを入れてもらい、ロダン美術館を堪能することができたのも良い思い出である。

そんなロダン好きの私にとって衝撃だった映画はフランスを代表する女優イザベル・アジャーニ主演の『カミーユ・クローデル(1988)』だった。アメリカ留学中にビデオで見たのだが、カミーユ・クローデル(1864-1943)とは、ロダン(1840-1917)の弟子で愛人だった彫刻家である。映画ではロダンとの出会い、同棲生活、妊娠中絶、別れ、困窮生活、そして狂気へ落ちていく半生が描かれているが、クローデルの弟子としての師ロダンへの尊敬と女性としての愛情・独占欲、またロダンの芸術家・男性としてのエゴと弟子クローデルの才能への嫉妬、ロダンの内縁の妻との三角関係や若いモデルへのクローデルの嫉妬などがアジャーニの名演で巧みに描かれている。

学生時代に見た映画なので、特にロダン名義の作品を事実上、代作していたクローデルと権威主義的なロダンとの芸術創作をめぐる屈折した関係に特に興味をもって見ていたが、次第に心を病み、人生がうまく行かないのを全てロダンのせいだと考えるようになり、ますます狂気の世界に落ちていくクローデルの姿が悲劇的で印象的だった。さらにインパクトがあったのが映画のエンディングの解説文で、精神病院に入ったクローデルは死ぬまでそこで30年生きたということだった。心を失って、30年間どのような思いで生きたのか、そんなことを考えると今まで好きだったロダンの彫刻も嫌いになりそうだったが、芸術とは何か、人生とは何かをじっくり考えさせられる名画だと思う。今、見直したらまた違った感想を抱くかもしれない。