紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

打たれる杭

2005-06-10 17:25:06 | 社会
5月は多忙なため一度しか更新できなかったが今月は記事を軽めにしても、もう少しマメに更新したいと思う。今、英語の授業で『21世紀の企業』という日本の先端的な企業を紹介したテキストを使っている。あわせて学生たちに企業研究をしてもらい、授業の冒頭で英語で発表してもらっているのだが、なかなかよく調べてきて、面白い企業を取り上げてくれるので毎回興味深く聞いている。発表担当以外の学生には発表についてのコメントを求めているのだが、質問やコメントを求めても挙手するものはあまりいないが、紙に書くコメントは辛らつなものや建設的なものが多い。もっと授業中に言って欲しいとは思うが、照れと遠慮があるのだろう。

今日書いてもらったコメントの中で目を引いたのが、「発表者の発音が日本人式で聞き取りにくかった」というものだった。コメントの主は在米6年の帰国子女の学生である。おそらく私の発音も日本人式で彼には聞きにくいだろうと思ったが、帰国子女にとって日本に帰ってからの英語の授業での「発音」というのは厄介な問題であるようだ。大学院時代の後輩はニューヨーク生活が長かったが、日本の高校に戻ってからはわざとカタカナ風の発音をして、目立たないように心がけていたと話していたのを思い出した。発音する方での悩みは想像がついたが、「聴く」方での苦労があるとは思ってもみなかった。

海外で長く学生生活を送り、同質的な日本の小中高校に戻ると、日本流の集団主義に馴染めなかったり、いじめられたりということが少なくない。私の勤務校は「多文化共生」といったことを学部の基本テーマに掲げているが、こうした学部に惹かれて入学してくる学生の中にもかつてそうした苦い経験をした学生も少なくないのかもしれない。大学生くらいになるとある程度、成熟して異質な価値観や行動パターンを認められるようになるが、小中学校の生徒やそれを「管理」しようとする教師には難しい場合が多いようである。また大学時代にある程度、「多文化共生」を享受しても、会社に入ると、また「会社文化」への「同化」を迫られることが少なくない。考えてみると人々が別々の生活空間で、ある程度異なったタイムスケジュールで生活していれば、他人の行動や自分との違いはさほど気にならないのだろうが、大部屋主義の日本の会社や小学校の教室で毎日、同じメンバーで顔を合わせ、長時間一緒に過ごしていると摩擦は避けがたいだろう。そうした「同化」圧力を感じて、「自分」を殺して、「みんな」にあわせている「多数派」から見れば、「自己主張」をしているように見える「少数派」の存在が目障りで自分たちのストレスのはけ口としていじめてしまうのだろうし、教室や組織の運営者の側からしても、同調的な多数派中心でやったほうが学校も組織も運営しやすいので、ついそうしたいじめを黙認したり、暗に助長してしまったりするのだろう。前出の大学院の後輩の場合も気の毒なことに、「・・・ですよね」というのが口癖になってしまい、「過剰適応」というべきか、少なくとも表面上は絶えず他人に話を合わせるような性格になってしまったようである。

アメリカで「多文化共生」が可能なのは、黒人なら黒人、中国系なら中国系と皆、「住み分け」ているからだと指摘するものも少なくない。異質な価値観を排除せずにいかに共存させていくのか、という意識はリーダーには不可欠な政治的視点だが、リーダーだけでなく、フォロワーの側にも安易に異質なものを排除しない意識が浸透しないといけない。それがいかに難しいかはよく思いつくのだが、日本人「英語」を聞き取れない苦労があるとは今日まで気付かなかった自分を振り返っても、まだまだ帰国生の「再適応」の問題についても分かってないことばかりだと痛感させられた。