紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

「ずっと」の美学

2005-08-30 10:19:43 | 社会
外国語を学ぶ利点の一つは日本語に敏感になることだろう。その意味では古文や漢文を習うのも、現代日本語のあり方に自覚的になる意味で大いに意義があるに違いない。アメリカ留学中に日本語クラスのティーチング・アシスタントをするという、今から思うと貴重な経験をした。毎週、漢字の小テストの採点をしていたら、ある日、インストラクターに呼び出されて、「あなたの採点は厳しすぎます。レフトかライトのどちらかがあっていたら部分点をあげてください」と言われた。しかし「へん」と「つくり」の片方だけあっていても全く別の意味の漢字になってしまうのだが・・・とは思ったが、翌週から部分点をやるようにした。

「東京ローズ」というすごいネイミングの比較的で値段が高い日本料理店があったのだが、ある日、アメリカ人学生の作文を採点していたら、「トウキョウローズよりもピザハットのほうがおいしいです」などと書いてあり、アメリカ人の男の子の味覚ならそうだろうなと微笑ましく思ったりした。「~より~の方が・・・」という構文を使って文章を書く宿題だったようだ。こうした比較表現はおそらくあまり本来の日本語になじまないのだろう。英語の比較級、最上級を日本語を訳すと、「より大きい」とか「最も大きい」といういかにも翻訳調になってしまう。しかし逆に英語を書く時に、この比較級は実は、例えばA longer life means a longer retirement(寿命が延びたことによって、退職後の生活が長くなった。)という具合に、「~すれば、~になる」という因果関係を説明する時に便利なのである。

しかし高校までの英語教育では作文よりも英文和訳重視なので、「no more A than B = B でないと同様にAでない」といった変な解釈公式ばかり教えて、高校生や受験生の間で比較級アレルギーを増殖させているのが現状である。英語で比較級が発達しているのは、アングロサクソン文化圏の人々の競争心が旺盛で、常に他人に優越感を示したり、他人との関係でしか自己確認できないからだ、などと安直な文化還元主義的な説明をする人もいるかもしれないが、言語によって表現が豊富な分野とそうでない分野があることを自覚できるのも外国語学習の面白さである。

反対に日本語が得意な分野はご存知の方も思うが、「どんどん」、「すいすい」、「さらさら」といった擬態語・擬音語・オノマトペの類である。宮沢賢治がオノマトペを多用したことはよく知られている。擬音語のことは知っていたのだが、アメリカ人と話して気づいたのは、日本語の「ずっと」という言葉にぴったりと当てはまる英語がないことだった。

ここでいう「ずっと」は「ずっと大きい」の「ずっと」ではなく、「ずっと変わらない」方だが、和英辞典ではall the way, all the time, the whole ~ through, always といった訳例があげられているが、いずれも日本語の漠然と変わらない状態が続くニュアンスが表現されていないような気がする。「いつも always」でもなく、「永遠にforever」でもない、ずっとの微妙な語感が英語で伝わらないようだ。 あるアメリカ人学生が「私は日本語の『ずっと』という表現が好きです」と言っていて、なるほどそうなのかと発見したのがきっかけだった。これも変わらないことを愛する日本文化の象徴なのだろうか?

試しに歌謡曲の歌詞検索サイトで「ずっと」をタイトルに含む曲名を検索してみると26曲もヒットし、そのものずばりの「ずっと」というタイトルの曲や「ずっとずっと」という曲も二曲もあった。歌謡曲なので大部分は恋愛の移ろいやすさ、人の心の変わりやすさを歌って、だから「ずっと」変わらないことを切望したタイトルになっているのかもしれない。その一方で変わりやすさ・はかなさの代名詞のような「桜」をタイトルに含む曲も、「桜」で48件、「さくら」で16件もあった。「さくら」のはかなさを愛でつつ、「ずっと」を願っている日本人像が浮かび上がってくると言うとこじつけ過ぎかもしれないが、日本人としてはわからなくもない。

「ずっと自民党にいたかった」という人たちの声も遠くで聞こえてきそうな今度の解散選挙だが、「ずっと」変わらないことがいいことなのか、改革という美名の下、桜のように散ってしまうのがいいことなのか、有権者の展望をもった判断が必要とされるだろう。

学生の居場所、教員の居場所

2005-08-29 10:15:21 | 教育・学問論
部屋を整理して出てきた出版社から送ってくる書評誌を読んでいたら、イギリスのオックスフォードやケンブリッジ大学のカレッジの食堂についての対談が載せられていた。安部悦生氏が『ケンブリッジのカレッジライフ』(中公新書)で書かれていたのを思い出したが、書評誌上で議論している先生たちの結論は、ある程度権威のある食堂を作って環境を整備した方が学生の人格形成にも役立つ資源となるであろうということだった。

しかし多くの日本の大学の場合と同様に、わが校舎も広さだけが取り得のごく普通のカフェテリア式の学生食堂しかない。日本でも大学によっては素晴らしいファカルティ・クラブ(一種の教員食堂)を備えているところもあるが、うちの大学は教員食堂もさしたるものではないし、私の学部の研究室からはかなり遠いので、同僚の先生たちもほとんどが弁当か、階下の学生食堂を利用している。大学は山の中にあり、周辺には食事をしたりお茶を飲むところがほとんどないので、学生食堂や大学の生協がほとんど独占状態である。学生たちも部活や部屋のあるサークルに所属している一部を除けば、授業以外の溜まり場は、この食堂か、図書館くらいしかないようだ。ランチタイムを過ぎた食堂ではそうした学生たちが集まってだべっていたり、宿題をやっている光景をよく目にする。

アメリカの大学のカフェテリアも似たようなものだった。私の論文査読メンバーの一人はまだ30代の若い先生だったが、よくカフェテリアでハンバーガーをつまんでいた。学生として顔あわせるのが少し気まずかった。学生食堂で教員と会いたくないと思う学生たちの気持ちは、そんな時代を思い出すとよく分かる。

大学に就職して一番良かったことの一つは個室の研究室をもらえたことである。大学によっては若い教員は共同の場合も少なくないようだし、都心部の手狭なキャンパスの大学の場合はベテランの教授でも個室がない場合もあるようだ。自分の居場所を確保できることはありがたい。
 
学部生の時は授業以外のときはサークルの部室に顔を出して、他の学部の友達としゃべったり待ち合わせをしたりしていた。大学院生時代は修士の時は人数も多くて机すらもらえなかったが、博士課程では机を一つ確保することができた。通称、「ドクター部屋」と呼ばれた博士課程の学生の研究室では、年中、自主的な研究会が開かれ、議論が戦わされて、私の政治学の知識のかなりの部分もその部屋で先輩たちを通じて得ることができた。当時は専攻が政治学、行政学、地方自治論、国際政治学、政治思想、日本政治史、西洋政治史、憲法、行政法というように政治学やその周辺内部でも細分化されていて、研究室間の壁が扱ったのだが、その分、あらゆる専攻分野の院生が集まるこのドクター部屋でよその分野に関する知識も耳学問で得られたのがとても大きかったと思う。

以前、都市社会学についてのブログを書いたが、アメリカのシカゴ大学で、社会学でも経済学でも政治学でも「シカゴ学派」と呼ばれる一波が形成され、ノーベル賞学者も輩出できたのは、シカゴ大学が社会科学者の研究室を一棟に集め、彼らの間での相互交流がさかんだったからだという見方もある。上に書いたオックス・ブリッジ流の教員同志のディナーの重要性を説く人たちも、そうした研究者同士の学際的な交流の意義を重視しているようである。他の人がどんな研究をして、どんな本を読んでいるのか、分からない時に聞いてみたり、ヒントを得たりすることはとても重要である。ドクター部屋でもコーヒーを飲みながら雑談して、勉強になったり、研究上の行き詰まりを慰められることも多かった。もっとも、ついコーヒー・ブレイクが長くなりすぎて、ブレイクじゃなくなってしまったことも少なくなかったが。

そういう意味で共通の部屋を作るメリットは多い。その一方で部屋だけあれば交流が進むかというとそうは言えない。例えば今の勤務校では私の出身大学院と違って修士の学生にも机が与えられ、勉強できる環境になっているが、学生同士の研究会がさかんかというと、それも講座、研究室のメンバーによってだいぶ差があるようだ。また学部生のためにもそうした講座ごとの部屋を作るべきだという意見もあるが、これが実現しても利用する学生とそうでない学生は必ず出てくるのだろう。私の研究室にもゼミの学生がよく質問に来るが、よく来る学生と全く来ない学生に分かれてしまっている。学生専用部屋にすれば、研究室に来るよりははるかに集まりやすいだろうが、それでも講座や大学への帰属意識や距離感の違いで利用率に差が出てくるに違いない。シカゴ学派の内情もよく分からないが、物理的な近さに心理的な近さが加わらないと相互交流は進まないだろう。

大学や行政側が議論する場合、どうしても居場所の確保を物理的な側面だけで考えがちだが、そういうスペースがあった方がいいことは間違いないが、共通の目標や志を持った人同士ならば部屋がなくても集まるであろうし、どこか場所を見つけて集うだろう。現に私たちの学部ではそういうスペースはないのだが、携帯電話で連絡を取り合いながら学生食堂で自然と集まっている。そうした輪に入っていない学生は、おそらく部屋を作ってもその部屋に寄り付かないのではないだろうか。講座に所属している学生が集まる部屋ができて、いつもそこに学生たちがいるとなると、教員の側も連絡しやすいかもしれないが、そこに教員がちょくちょく顔を出したり、また学校側がその部屋の管理責任を講座所属教員で負えなどと言い出しかねないのであまり望ましくない気がする。
 
サークルの部室にたむろしていて授業をサボったというのはまだ分かるが、大学側が作った講座学生のための部屋でだべっていて授業に出なかったというのでは洒落にならないだろう。要は友達作りも研究仲間作りも学生の自主性に任せばいいのであって、入れ物をつくって大学側が全てお膳立てする必要はないし、もし作るのだったら学生から強い要求があった場合にすればよいのではないだろうか。管理したがる学校と管理されたがる学生という関係は大学では望ましくないはずだし、教員と学生の間に立つ、「プチ管理者」のような先輩学生を作っても仕方ないだろう。

物理的な居場所の確保、先輩学生と後輩学生の交流はいい面もあるが、マイナス面もある。予算上も簡単にできない言い訳にすぎないかもしれないが、結論としては、学生間や教員間、あるいはその両方の間の交流は自主性に任せておいた方がいいと思うのは、あまりにも個人主義的な見方であろうか?

兄弟構成と血液型が性格に影響するのだろうか?

2005-08-26 10:11:24 | 世間・人間模様・心理
私のゼミにはなぜか一人っ子でAB型の学生が多い。ある日、研究室で話していて判明したのだが、血液型や兄弟構成がそんなに性格に影響するのだろうかと終始、懐疑的な私に対して、当の彼ら彼女らは「いやお互いになんとなくわかりますよ」と勝手に納得し合っていた。しかし試しに私の血液型と兄弟構成は分かるかと聞いてみたのだが、誰も当てられなかった。そんなものなのだろう。血液型による性格判断や相性判断が大流行で、中にはテレビ番組のせいでいじめられるから、やめてくれと放送局にクレームがつき、わざわざ因果関係を否定するテロップを流さないといけないほど一時は過熱化していたようである。

学生たちに聞いても、周りを見回しても確かに一人っ子が増えてきたと思う。自分が小学校や中学校に通っていた時は同級生に一人っ子はほとんどいなかった。少子高齢化は目に見える現象になってきた。血液型に比べると兄弟構成というべきか、兄弟や親子関係のあり方は、後天的なものであるがゆえに人格形成に少なからぬ影響を与えることは否めないだろう。
 
私の場合は男兄弟で長男なのだが、長男や長女は親と弟・妹たちとの仲介者的な役割を果たす場合が多いのではないだろうか。「大人の論理」と「子供の論理」に片足ずつ突っ込んで成長するような気がする。しかし自分自身が長男だったせいで、兄や姉の存在と言うのはどういうものなのか、弟から見た兄というのはどう見えるのかは実感としてはよく分からない。兄として我慢したり、弟に譲る場面も多々あったが、弟が我慢していることもおそらく沢山あったのだろう。その辺は聞いてみないとわからない。
 
一人っ子の場合はおそらく親との距離が近い分、大人ぽく育つか、あるいは家庭外の子供同士の友人関係を早い段階から積極的に求めるか、どちらかになりそうだ。一人っ子で両親が働いたりしているとさびしがりの性格になるかもしれないが、逆に兄弟が沢山いる、にぎやかな家庭で育つ方が、一人暮らしをしたりするとさびしく感じるかもしれない。

このように、いろいろ推測されるのだが、子供を子供らしく育てる家庭もあれば、全く放任する家庭もあるし、大人と同等の話をする家庭もある。勉強を厳しくやらせる親もいれば、スポーツに力を入れる親もいる。男兄弟なのか、姉妹なのか、混合なのか、子供部屋は個室なのか共同か、地方で育ったのか都市部で育ったのか、おじいさん、おばあさんは同居しているのか、両親の仲はいいのか悪いのか等など、人格形成に与える諸要素は数え切れないほどあり、複雑に絡み合っているので兄弟構成だけではとても説明できないだろう。
 
しかし太宰治の小説などは分かりやすく書いているが、家父長制が確立していた、戦前の封建的な家庭では一家の跡取りとなる長男と次男以下の扱いが全く違ったようだ。主人と家来くらいの違いがあったとも聞く。これも太宰のような大地主の家庭と、庶民の家庭では事情はかなり違ったのだろうが、太宰にしろ、島崎藤村にしろ、武者小路実篤にしろ兄に対するルサンチマンや屈折した思いが小説の随所に現れている。戦前の家庭で育った世代にはある程度共通する長男像や長女像、次男、三男、次女、三女像があるのかもしれない。

血液型はどうなのだろうか?外国人と比べて、日本人は血液型に関心が高いようだが、そもそも四割を占めるA型人間の間でも様々な違いはあるはずだし、「AB型は二重人格だ」などと安直に決め付ける人もいるが、誰でも多かれ少なかれ二面性があるので、もしAB型の当人が血液型占いを信じているとしたら、それは自分の持つ二面性を抑制しないで楽しんでいるのに過ぎないのだろう。血液型をモチーフにした小説もあるのだろうか?ありそうだが、私は読んだことがないし、読んでもたぶん感情移入できないだろう。

ゼミの学生たちとの話は結論がでることなく、うやむやに終わってしまった。いずれにしても性格は後天的に変えられるし、ましてや仕事や責任から、性格のせいにして逃げることはできない。AB型だからといっても矛盾した言い訳をしたら怒られるし、B型だからといってわがままが許されるわけでもないし、A型に仕事を任せても几帳面にこなす保証はない。一人っ子だからといってリーダーや幹事が出来ないはずはない。こういう話は相性占いで楽しむレベルに留めておきたいものだ。

都会人の寂寥:リアリスト画家・エドワード・ホッパー

2005-08-25 10:06:43 | 芸術
アメリカの美術館を見て回った時、印象派の絵が多いことをやや意外に感じた。初めてニューヨークの近代美術館に行った時、カンディスキーや、クレー、アンディ・ウォーホル、キース・へリングなどはいかにも現代美術だなあと思ったのだが、それらと並んで、セザンヌやルノワール、モネなどの「保守的」な絵も少ないながら展示されていたのが印象に残ったが、シカゴのアート・インスティテュートなどは全米でも有数の印象派のコレクションを売り物にしていて人気を集めていた。印象派のわかりやすいが写実的過ぎないところが、美術に触れたという程々の満足感を与えてくれるのかもしれない。アメリカの文学や芸術は西欧の亜流のイメージが強く、ブログでも時々取り上げている詩の世界でも芸術的なイギリス詩からどう独立して個性を発揮するかで苦闘したようである。絵画の世界でも確固たる伝統をもつ西欧絵画の歴史に挑戦するために、アメリカ絵画が抽象画やポップアートの世界に活路を見出していったのは自然な流れだったのだろう。

西欧絵画の伝統に対抗する上でアメリカの画家たちが選んだ一つの方向性は、アメリカの特徴の一つである雄大な自然をリアルに描くことだった。イギリス生まれでハドソン川の風景に衝撃を受けてその自然を描いたトーマス・コールとその弟子たちは、「ハドソン・リバー派」と呼ばれる、雄大な自然を細密に描く画風を確立した。フレデリック・E・チャーチの『ナイアガラの滝』、アルバート・ビーアスタットの『ヨセミテ渓谷の日没』など、いかにもアメリカ的な風景をリアルに描いた古典的絵画である。

一方で都会人、現代人の孤独を写実的に描いたのがここに挙げた『ナイト・ホークス(1942)』の画家エドワード・ホッパー(1882~1967)である。彼はいかにもアメリカ的な画家で、人気も高く、前述のシカゴ美術館でも充実したホッパー・コレクションを備えていたが、アメリカの主要都市の美術館に行けば、必ず一枚は彼の絵を見ることができるだろう。この絵をごらんいただければ余計な説明は不要だと思うが、深夜のダイナーを描いた、一見何の変哲もないリアリズムに徹した絵でありながら、都会生活の寂寥感を実に説得的に表現している。リンクをたどって彼のほかの作品も見ていただきたいが、郊外の明るい日差しを描いた絵でもどこか満たされない寂しさや倦怠感のようなものが伝わってくる絵が多い。しかしなぜか心を惹かれる絵ばかりである。

ホッパーはニューヨーク市郊外のナヤックという小さな町で生まれたが、絵を習ったのも活動したのもニューヨーク市であり、亡くなるまでニューヨーク市で過ごした都会派である。最初は広告などの商業画家としてスタートしたが、のちに芸術家に転じて、アメリカで最も人気のある画家の一人となった。ホッパーの絵を見ると、上手く表現できないが、アメリカ都市のもつドライな質感、競争社会で生きるアメリカ人の寂寞たる心が正確に捉えられている気がする。彼が活躍したのが大恐慌から第二次世界大戦までの時代だったのが彼の作品とその登場人物たちに影を落としているかもしれないが、そこで描かれた心象風景は今日のアメリカ人や全ての都会人にも通じるものがあるだろう。その意味でとてもわかりやすい絵画だが、アメリカしか生み出せない、一つの表現を構築した画家だったのではないだろうか。

秋のブラームス

2005-08-23 10:03:47 | 音楽・コンサート評
大学1年の時、どちらかといえば野暮ったい同級生が多かった中で、メンズ・ファッション誌から抜け出したようなM君が「統計学」のレポートで彼らしく、「お洒落な男子学生の割合と大学の立地条件の相関関係」について調べると言っていたのを思い出す。「お洒落な男子学生」の数をどうやって測るのか、尋ねてみたところ、「夏に秋服を着ている割合、具体的に言うとジャケットを羽織っていたりする数を数える」とのことだった。なるほど、暑い最中でも売っているファッションは秋物であるし、流行に敏感な人ほど季節の先を行く格好をするようである。

ドイツの19世紀の作曲家・ヨハネス・ブラームスの楽曲もさしずめ秋のイメージだろう。「秋のブラームス」と銘打ったコンサート企画もよく広告で目にする。弦楽六重奏曲第一番、交響曲第四番、クラリネット五重奏曲・・・いずれも秋以外の情景が浮かんでこない。しかし地球温暖化対策が喧しい今日、真夏の昼間に冷房を効かせてブラームスを聴いて秋を想う、などというのは背徳的ですらあるかもしれない。中学生の時に本格的にクラシックを聞き始めるようになって一番好きになった作曲家はブラームスだった。彼は日本人に最も愛されている作曲家の一人であるに違いない。
 
ウィーン・フィルやベルリン・フィルのような欧州の主要オーケストラの来日公演では必ずと言っていいほどブラームスの交響曲が取り上げられる。「ハンガリー舞曲第5番」や「交響曲第三番」の第三楽章のような哀愁を帯びたメロディアスな曲や「大学祝典序曲」のような明るい曲、楽章を多く作っているし、交響曲、協奏曲、室内楽、ピアノ、バイオリン独奏曲、歌曲など、オペラ以外の全てのジャンルで人気曲を書いていて、はずれの少ない作曲家だと思う。映画音楽やBGMにもよく使われているので、気づかずに聴かれている方も多いだろう。1989年に昭和天皇が亡くなった時、テレビはずっとブラームスのシンフォニーを流していた。荘厳で厳粛なイメージが強いのかもしれない。

ブラームスの伝記は日本語でも英語でもずいぶん読んだ。生涯独身だったこと、シューマンから「ベートーベンの後継者」と激賞されて、音楽界で早くから注目されたが、そのプレッシャーに悩んで、最初の交響曲を完成するまで20年も要したこと、シューマン夫人ですぐれたピアニストだったクララ・シューマンとの恋愛と生涯にわたる付き合い、ワーグナーとのライバル関係、名バイオニスト・ヨーゼフ・ヨアヒムとの友情といさかいなど興味深いエピソードもつきないが、クラシック・ファンならご存知の方も多いだろう。
 
私が興味をもったのは、ウィーンで既に大作曲家として評価されていたブラームスだが、生涯、生まれ故郷のハンブルクのオーケストラの音楽監督の地位を望み、ハンブルク市民として安定した生活を送ることを希望していたのだが、下層階級の出身だったため、成功してからもそのポストを得られなかったことである。生活を支えるため、幼少の時から酒場でピアノを弾かされていたらしいが、その時に身につけたポピュラーな楽曲センスが「ハンガリー舞曲」や数々の曲で生かされ、結果的にブラームス・ファンの裾野を広げているのも人生の不思議なめぐり合わせといえるかもしれない。「ハンブルクで常任監督となっていれば、普通の幸せな人生を送っていたかもしれない」と晩年のブラームスは語っていたそうだが、それが実現していればハンブルクのローカルな一音楽家として終わり、「世界のブラームス」は誕生していなかったのだろう。貧しいながらも教育熱心な両親の方針で、名教師についてバロック音楽の基本である対位法などをきちんと学んで、新古典主義的な作曲技法上の武器にしたこと、フォーマルな教育はあまり受けていなかったが大変な読書家で教養を身につけたことなども彼の人生を成功させた鍵となっている。

「クラシック classic」という言葉は、「古典的」という意味と同時に「階級的」という意味がある。まさにクラシックは上流「階級」の音楽という意味合いが強かった。フランス革命後、宮廷や貴族のお抱え料理人の職を失ったコックたちが町で開業し、実力をつけてきた都市商人たち(ブルジョワジー)を客として始めたのが街の高級レストランのおこりだったように、音楽でもヘンデルやハイドンといった宮廷お抱えの音楽家から、やがては蓄財した都市市民階級をパトロンとする音楽家たちが成長したのだが、モーツァルトやシューベルトが生涯生活で苦しんだのに対して、ブラームスは特定のパトロンの庇護を受けることなく、楽曲による収入で生活し、経済的に自立できた最初のクラシック作曲家だったと言われる。出身階級ゆえに、出身地での望むポストを得られなかったのだが、その分、作曲家の社会的自立に大いに貢献したと言えるだろう。

ブラームスの音楽の魅力は何であろうか。交響曲や協奏曲に顕著に現れているが、ヨーロッパのがっちりした建築のように構築された全体像の中で、時に激しく、情熱的なメロディや主題が繰り返し現れ、それがやさしく諦められていく、感情の波のような作りになっている点にある気がする。ブラームスをあまり好きになれない人はそこに「しつこさ」を感じたり、あるいはベートーベンのように高らかに歌い上げるような起承転結がなく、最後が諦念で締められるところが不満なのかもしれない。いずれにしても全ての楽章を聴き通さなくても、気にいったメロディをピックアップして聴くだけでも十分、魅力的な作曲家であるはずだ。

「ブラームス」論をブログで一度書きたいと前から思ってはいたが、音楽を言葉で語るのはやはり難しい。絵画も音楽も言葉で考えるより、見たり聴いたりして直接、感じるべきものであろう。クラシック・ファンの悪いところは薀蓄を語りすぎるところだといつも思っていた。中学生でクラシックを聴き始めた時は、『レコード芸術』といった雑誌や『名盤100選』のような本を買って、そこで褒められている名演奏を集めて聴いたりしたが、結局のところ、音楽評論家自身が最初に好きになった演奏にとらわれすぎていたり、あるいはあまりメロディアスにならないように、テンポを遅く演奏するほど、「音楽的」だ、「芸術的だ」などと高く評価する衒学的な傾向があることに気づいてしまってからは、自分なりに好きな演奏を聞いて満足するようになった。これからクラシックを聞いてみたい人はまずはそういう名盤ガイドブックやあるいはオムニバスCDに頼ってもいいと思うが、気に入ったのがあればどんどんそこから聞き始めたらいいのではないかと思う。

最後にブラームスのお勧めCDをいくつか挙げてリンクしてみたい。いずれもかなり昔の演奏で今は廉価盤になっているようだ。かくいう私は最近はブラームスを聴いていない。ブラームスの音楽は全く絵画的でない、抽象的な絶対音楽で、じっくり聞き込んで、「構造」とか考えたくなるもので、特に交響曲や協奏曲などの長く、複数の楽章から成る曲は「ながら作業」にあまりむいていないようだ。音楽だけをじっくり聞く時間はなかなかとれないので自然と聞けなくなった。私の近くの研究室の先生はシンフォニーのCDなどをかけながら夜中まで仕事をしている。人にもよるのだろうが、ブラームスの楽曲はどちらかと言えばコンサートか、CDを家でじっくり聞くホームコンサート向きかもしれない。この文章を読んで、何か引っかかるところがあれば、ぜひ聴いていただきたいと思う。

交響曲第1番、第2番、第3番、第4番
ヘルべルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

「カラヤンが好き」というと眉をひそめるクラシックファンも多いが、ポピュラリティと演奏技術と芸術性の三点の融合という点で一つの頂点を極めた指揮者だと思う。2500円で交響曲全集が聴けるのは手頃だし、この晩年の演奏はブラームスで求められる重厚さと「枯淡」の境地も表現できていてお勧めである。

ピアノ協奏曲第1番
アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアノ)
ズービン・メータ指揮 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

ブラームス青春の曲で、若さのエネルギーが漲る激しい曲だが、それを往年の名ショパン弾きのルービンシュタインが最晩年の89歳で録音しているのが驚きである。89歳という年齢を忘れる、まさに若い情熱が爆発しているような演奏である。

ピアノ協奏曲第2番
ウィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
カール・ベーム指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

この曲の定番演奏である。ブラームスでお薦めを一曲と聞かれると、この曲を挙げることが多い。ブラームスの得意のメロディアスでふくよかなピアノとシンフォニックな構成の両面を楽しめる。

バイオリン協奏曲
イツァーク・パールマン(バイオリン)
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 シカゴ交響楽団

昔はオイストラフ、メニューインといった渋いおじいさんバイオリストを好んで聞いていたが、パールマンもブラームスは上手いと思う。曲もブラームス得意の哀愁を帯びた激しくロマンティクなメロディーと、第三楽章の明るくポップな終わり方の両方を楽しめる。

バイオリンとチェロのための二重協奏曲
イツァーク・パールマン(バイオリン)
ヨーヨーマ(チェロ)
ダニエル・バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団

なぜか評論家の評判がよくない「二重協奏曲」だが、バイオリン、チェロ、オーケストラの緊張感ある掛け合いと、やはりブラームス・メロディーを楽しめる名曲だと思う。ブラームス好きなら必ず好きになると思う。

ピアノ3重奏曲第1~3番、ピアノ4重奏曲第1~3番
アイザック・スターン(バイオリン)他

室内楽では名バイオリスト・アイザック・スターンが中心になって演奏する、ピアノ・トリオとカルテットを全曲収めたこの一枚をお勧めする。ユーロピアン・ジャズが好きな人にもお勧めである。本人も名ピアニストだったブラームスは親友の名バイオリニストのヨアヒムの協力も得て、ピアノとバイオリンの持ち味を生かした曲作りを行なっているが、室内楽ながらシンフォニックな演奏を楽しめるのはブラームスならではと思われる。ベートーベンの同種の曲と比べるとロマンティックな響きがある。

(イメージは守屋多々志『ウィーンに六段の調べ(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)』1992、ウィーンに駐在していた戸田氏共伯爵の夫人・極子が『六段』の演奏をブラームスに聞かせた可能性があるというエピソードを基にした歴史画である。変奏曲の名手だったブラームスは邦楽の主題にも関心があったという)。

大学・大学院におけるノートの取り方

2005-08-22 09:57:23 | 教育・学問論
このブログの読者は学生も多いようなので、高踏的なことばかりでなく、たまにはハウツー的なことも書いてみたい。この20~10年くらいでドラスティックに変化したものの一つに大学の講義があるだろう。私の学部生の頃はまだ教授たちはほとんど板書せず、かといってプリントを配るわけでもなく、話し続けるだけだった。そのため学生は参考書などを使いながら、固有名詞や原綴り、漢字などを類推して書かなければならなかった。
 
中には几帳面な学生もいて、講義ノートをわざわざワープロで打ちなおして、ゼミの皆にコピーさせてくれたような親切な学生もいたが、いずれにしても講義を集中して聴いて、頭で整理してノートを取らないといけなかったのである。今は、というと教員の多くがハンドアウトを用意したり、パワーポイントを使って授業を行なっている。そのため昔と比べて、あまり予習しなくても、また集中して聞かなくても授業を理解できるようになった(はず)である。

私自身もかなり詳細なレジュメを用意して講義しているのだが、ホームページ上で公開している私の講義レジュメをおそらく見たのだろう、他大学のベテランの先生から酒席で、「今の若い先生は詳しい講義資料を配ることによって、学生が講義内容を自分なりに頭の中で整理構成し、抽象化する能力を奪っているきらいがある」と言われた。確かに一理あるかもしれない。
 
私は自分が詳しい資料を配ることで学生の「アタマ」を悪くしている可能性と、学生の講義の理解度をアップしている可能性の二つを天秤にかけたら、後者がずっと上回ると確信をもっているので、そうした皮肉?を言われても変えるつもりは全くなかったのだが、レジュメに書かずに講義で説明した部分が「全く分かりませんでした」と学生から何度か言われてしまうと、これでいいのかなあ?と反省する場面も増えてきた。
 
また「レジュメのどこを読んでいるのかわからない」、「前の週にレジュメを配ってくれ」などといった希望も少なくなく、学生のレジュメ依存がどこまでも進んでしまっている現状がある。レジュメを「朗読」しているつもりはさらさらなく、あくまでも参考資料に過ぎないのだが、私自身がまだ上手く教材を生かしきれてないのかもしれない。

しかしながら手元にかなり詳しい情報を載せたハンドアウトがあるのだから、後はその上に、講義で聞いたことや、自分で辞書・事典・参考書で調べたことを書き込んでいけばいいだけのことである。よく『勉強法』の本で書いてあるが、場合によってはノートの見開きの左ページに授業で配られた資料を貼り、右ページに講義で聞いたこと、分からなかったこと、ポイント、関連情報などを書き込んだり貼り付けてもいいかもしれない(もちろんページが逆でも構わない)。ルーズリーフを使えば、より便利だろう。

他方、アンケートをとると、「レジュメが詳しすぎるのでつい寝てしまいました」という声も少なくない。同僚の中にはそうした学生の傾向を把握して、講義の内容をあまり詳しくレジュメには載せず、資・史料や図表しか配らないように変えたという人もいる。それも一案だろう。また小中学校のように丁寧に板書をして、それをいちいち学生にとらせている人もいるようだ。「ノートをきちんととると授業に出た気になる」と喜ぶ学生もごく一部いるようだが、黒板を一斉に写させるスタイルは私は趣味に合わないし、大学のあり方だとも思えないのでそうしたやり方はとっていない。

しかし自分自身の講義スタイルで反省させられることは多い。ある日、ゼミ風景をビデオで撮影してもらったのだが、後で見たところ、自分のコメントが早口すぎて何を言っているのかよく分からなかった。私の板書はいい加減で判読しにくいし、不規則なので毎年、学生から不満を言われるが、「だから詳しいレジュメを配っているのだ」といっても許してもらえないのかもしれない。いずれにしても授業中は講義を聞いて考えることにより時間を使って欲しいと思っている。

自分自身の学生時代を振り返ると科目によっては1時間に10頁とかかなりノートを真面目に取ったのだが、熱心だったからというより、そうでもしないと眠たくなるし、退屈だったからという理由が大きかった。しかしそのおかげで耳だけで聞いて、ポイントを頭の中で整理する能力は確かに磨けたような気がする。留学向けの英語試験であるTOEFLで学生たちが苦手にしているのが、講義をシミュレートした部分のリスニングである。単語が難しいだけでなく、かなりまとまった長い文章を話されているのを聞き取り、ポイントを記憶して、問題に答えなければならないのでお手上げという学生が多い。
 
数年間、TOEFL向けの授業を教えて気づいたのだが、単に英語力の問題ではなく、日本語でも大学の授業で「耳だけで聞いて頭で整理する」習慣がなくなっているので、その手の能力が開発されていないのだろう。ゼミ形式の授業でも一部のすぐれた学生は、他の学生が話したポイントを頭で整理した上で、自分のコメントを付け加えることができるのだが、大部分の学生にとっては訓練しないと難しいスキルである。しかし社会に出てからも、また研究を続ける上でも役立つし、不可欠のスキルなのでたとえ詳しいハンドアウトがあっても、あまり文字情報に頼らず、音声情報で考える習慣をつけてほしいと思う。外国語学習でも、またニュースでもラジオを活用することがこの種の能力を磨く上で役立つと経験的にいって思う。時代遅れに見えるが、特に外国語のトレーニングにはラジオは便利なはずだ。

最後に大学院生のノート・テイキングだが、この場合は講義ノートというより、自分の研究のためのノートだが、研究に必要な基本文献のポイントを整理したノートはどんな形式でもいいから作って、電子ファイルとして保存しておいてほしいと思う。大学院に入って1年目に先輩から教えてもらったのはまさにノートの取り方とその重要性だった。学部と違って、大学院に入ると急に大量の洋書を読まなければならなくなったが、見直せれば欲しい情報がすぐに見つかる日本語文献の場合と異なり、外国語文献の場合は読んでも、どこに何が書いてあったのかすぐに忘れてしまう。整理しておけば後で見直す場合も、論文で引用する場合もラクなので、どの本の何ページの何行目からとったのかも明記してノートを作っておいてほしいと思う。修士1年の夏はほとんどこの手のノート作りに明け暮れた記憶がある。

もう一つは院生にも学部生にも言えることなのだが、質問しに来て、こちらがアドバイスや説明をしていても、ぼーっとしてメモ一つとらない学生も少なくない。記憶というのは当てにならないので、いつでもメモを取る習慣をつけるようにしてほしい。こんなことはブログで書かないで直接学生に言えばいいではないかと思われる読者の方も多いかと思う。実際、身近な学生には折に触れて言っているのだが、残念ながらなかなか定着しない。これを読んだら、夏休み明けの授業からは早速実践してほしいと思う。

岩倉使節の見たアメリカ:『米欧回覧実記』のアメリカ編を読む

2005-08-19 09:50:20 | 歴史
日本人は、外国人による「日本論」や「日本文化論」を読むのが好きで、しばしばベストセラーにもなっているが、アメリカ人もまた同様で、外国人によるアメリカ論を進んで読みたがるようだ。以前、アメリカの大学から客員教授として訪問していた歴史学者から、「19世紀後半に日本の外交使節が欧米を訪問した際の見聞録を読んでみたいと思っているのだが」と訊ねられた。話をしていて、明治11年(1878)に出版された久米邦武編『特命全権大使・米欧回覧実記』のことだとすぐに気づいた。
 
フランス人貴族のアレクシス・トクヴィルによる『アメリカにおけるデモクラシー』は政治学の必読書の一つで、留学中も散々読まされたのだが、同じ19世紀の日本人によるアメリカ訪問記を読んだことがないのを情けなく思っていたのでいつか目を通してみたいと考えていた。この『米欧回覧実記』は岩波文庫から全5巻で出ているのだが、手ごろな現代語訳がなかったため、日本人読者にもトクヴィルほど広く読まれなかったのかもしれない。研究書としては田中彰氏による研究が今は岩波現代文庫に収められて簡単に読めるようになったが、複数の英訳がペーパーバックで出ているトクヴィルと違って、この本の英訳は近年刊行されたばかりの高価で大部の研究図書なので一般の英米人の目に触れることはまだまだ少なさそうである。
 
そのアメリカ人教授にはこの英訳本を紹介したが、果たして読んだかどうかは定かでない。幸い、実家には明治期に出版された原本をそのまま1975年に復刻した本(宗高書房刊)があったので、それを見ながら先行研究には頼らずに、岩倉使節のアメリカ観について考えたこと、感じたことを少し書いてみたい。

岩倉(具視)使節の訪米は明治4年(1871)12月6日にサンフランシスコに到着し、鉄道を使ってネバダ、ユタ州と移動し、ロッキー山脈を越えて、シカゴを訪問し、シカゴから鉄道でワシントンDCを訪問、さらにニューヨーク市、ナイヤガラやニューヨーク州北部を経て、フィラデルフィア、ボストンを歴訪し、明治5年7月3日にボストンからロンドンに発つまでの7ヶ月強の大旅行だった。昨日のブログで取り上げた中江兆民もこの岩倉使節に随行した留学生だった。
 
トクヴィルの場合と同様に『回覧実記』の場合も最初に合衆国の建国までの経緯や自然・地理・産業・人種・教育・宗教・度量衡などについて概説している。独自の文明論的な考察を行なっているトクヴィルと違って、著者・久米邦武は客観的で淡々とした記述に徹していて、意外性のある記述にあまり出会えなかったのが残念だったが、第一巻の訪米編で特に目を引いたのは、1.教育に対する関心の高さ、2.男女関係の日本との違いに対する驚き、3.モルモン教に対する関心、4.州や地方自治に対する関心・観察、5.南北戦争と政党政治に対する考察、6.社会的弱者・マイノリティに対するまなざし、などであった。

まず教育に関しては概説のところで、
「大政府(=連邦政府)より格別に注意せず。各州の自定に任す。(中略)全国一規の学制はあらざるなり。ただその大要は合衆国の本領により、人民の意に任せ、人々自ら奮発せしむるを旨とす。故に欧州のごとく、父兄の督責し、強いて厳法をもって迫り、子弟の入学を促すことなけれども、人皆不学を恥じて、自ら怠らざるは合衆国の気習にて、自由寛政の実行というべし」
と解説し、教育が中央政府ではなく、州に任されていること、全国一律の義務教育を実施しなくても教育が普及するアメリカの自主独立の気風を評価している。
 
大学で『アメリカ社会論』の授業を行なっていても、アメリカの教育が州によって義務教育年齢が違ったり、州や地域によって大きく異なって全国一律のカリキュラムがないことを教えると驚く学生が少なくないが、岩倉使節もまずその点に着目しているのが興味深い。またサンフランシスコ市内では女学校と小学校、大学、兵学校の他、盲学校を訪問し、点字の教材作りについて詳細に記述している。
 
近代国家建設と条約改正を第一目的として欧米訪問した使節だが、随所にマイノリティや社会的弱者への暖かいまなざしが感じられるのが、この『回覧実記』の特徴で、カリフォルニア州ストックトン市では精神病院を訪問し、ユタではモルモン教徒の迫害の歴史に同情し、ワシントンDCでは黒人学校を訪問している。黒人学校訪問の記事では4ページにわたってアメリカにおける人種問題が概観されているのだが、最後に黒人の中には下院議員に選ばれたものも現れ、また巨万の富を築く者も登場していると指摘した上で、
「故に有志の人、教育に力を尽くし、よって学校の設けあるところなり。思うに十余年の星霜を経ば、黒人にも英才輩出し、白人の不学なる者は、役を取るに至らん」
と将来、黒人の教育水準が高くなれば、白人よりも出世するものも出てくるはずだ、とエールを送っているのも印象的だった。この点は白人でない日本人としての、また当時の発展途上国・日本からの使節ならではの共感や同情があったのだと思われた。

ニューヨーク市訪問では、
「米国において毎州の『シティー』は、大抵首府と処を異にす。首府は政令の出る所にて、州の中枢を択ぶ。『シティー』は物産の吐納する所にて良好要衝に興る」と解説し、アメリカにおいては州都と州の中心都市が異なることを指摘し、州都が多くの場合、州の地理的に中央に位置する都市に置かれるのに対し、中心都市は交通経済の要所に発達したという的確な捉え方をしている。
 
ニューヨークでは聖書の出版社を訪ね、アメリカ社会における聖書やキリスト教の重要性について詳述しているが、障害児施設や病院なども訪問し、仔細に観察している点も印象的である。議会や官公庁、大企業などの政治経済の中心だけでなく、社会福祉・社会改革に関わる施設を各都市で必ず訪問している点がやや意外だったが感心した。

他方、「最も奇怪を覚えたるは、男女の交際なり」とした上で、席や道を譲ったりする、いわゆる西洋風の「レディーファースト」には異を唱えている。明治初頭の日本人としてアメリカ人の男女交際に驚いたのは自然なことだと思うが、「我(=使節団)の挙動は、彼(=アメリカ人)の嘱目となりし如くに、彼の挙動も我には怪しまれたり」と、こちらのこともおかしいと思っているのだろうが、自分たちもアメリカ人のことはおかしいと思ったよ、などと啖呵をきっているのが微笑ましい。また州によっては女性参政権を認めている事実にも言及し、当時の女権運動について「心ある婦人は皆、擯斥する」とした上で、男女の義務は別で、だからこそ国防の義務は女性には課されないのであり、東洋の教えでは女性が家庭を治めるのが仕事で、「男女の弁別は、自ずから条理あり。識者、慎思をなさざるべからず」とまとめている。この記述なども全体としてアメリカの共和政治を称えているトーンから判断すると、著者の久米は民主政治の行き着くところは男女同権であり、そうなると日本の場合も社会関係も含めて女性の権利を拡張しなければならないと当然、理解していたはずであり、本能的な警戒感からこのように書いたことが伺われる。

コンサートの情景や、鉄道や市電の描写、町並みやテクノロジーへの驚きなども漢文ながら鮮やかに伝わってきて興味深かったが、アメリカの「自主」の精神というフレーズが繰り返し使われ、アメリカ人の独立不羈の精神に強く印象を受けていた点が明らかである。アメリカ訪問をまとめて、「(米国は)欧州にて最も自主自治の精神に逞しき人、集り来たりて、これを率いるところにして、加うるに地広く、土ゆたかに、物産豊足なれば、一の寛容なる立産場を開き、事々みな麄大をもって世に全勝をしむ、これ米国の米国たるゆえんなりと言うべし」としているが、豊かなアメリカを目の当たりにし、羨望のまなざしを送った反面、明治国家のモデルとしてはプロシアの方が適切だと考えたのだろう。「世に全勝をしむ」というのは今日のアメリカの一人勝ち状況を予見していたような記述だが、こうした明治人の認識が生かされていれば、アメリカに戦争をしかけることはなかったのではないだろうか。そんなことも考えさせられた。

(引用文は岩波文庫によったが、現代仮名遣い・漢字表記に改めた)

『三酔人経綸問答』を再読する

2005-08-18 09:31:45 | 政治・外交

ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』を『民約訳解』として翻訳し、「東洋のルソー」と称された明治時代の社会思想家でジャーナリストの中江兆民(1847~1901)の伝記『TN君の伝記』を読んだのはたしか中学1年の夏休みのことだったと思う。夏休みの読書日記のようなものをつけていて、その一冊として取り上げたように記憶している。

「よしやシビル(=市民権)は不自由でも、ポリティカル(=参政権)さえ自由なら」という「よしや節」を作詞し、土佐・高知の自由民権運動に深く携わっていた人物が自分の先祖だと聞かされていたので、土佐の民権思想家・兆民には自然と興味をもっていた。それに、なだいなだ氏の文章も平易で読みやすく、兆民の柔軟な思想と時として矛盾に満ちた人生も興味深かったので、小学校で読まされた他の教訓めいた伝記とは違って楽しく読了したことを覚えている。

中江兆民の著作の中で今日の国家戦略を語る場合もしばしば引用される本に『三酔人経綸問答』がある。岩波文庫で平易な現代語訳が添えられて出ている小著で読まれた方も多いと思うが、大日本帝国憲法発布直前の明治20年(1887)に出版されたもので、遅れて文明国入りしたアジアの小国・日本の将来について、西欧啓蒙主義的な議論を展開する「洋学紳士」と、大陸侵略も辞さない膨張主義を主張する「豪傑君」の二名が、現実主義的自由主義者の「南海先生」宅を訪問し、ブランデーやビールを酌み交わしながら議論を交わすという設定である。西洋哲学を学んだ兆民らしく、プラトンの『国家』のような対話形式で思想を展開するスタイルとなっている。今回、実家への帰省を期に久しぶりに一読してみたが、世界情勢を考える場合に依然としてこの19世紀の本が示唆する所が多いように感じた。

例えば国内における民主制の確立、軍縮・平和主義を主張する「洋学紳士」は、世界の国々が民主制を採用することにより戦争が起こらない状態を作るという、今で言う「デモクラティック・ピース(民主的平和)」論を信奉しているのだが、「豪傑君」がもし非武装につけ込んで、凶暴な国がわが国に侵攻したらどうするのかと問うたのに対して、「洋学紳士」はまずは説得して、それがダメなら「弾に当たって死ぬだけのこと。別に妙策があるわけではありません」(岩波文庫版、現代語訳、60頁)と答えている。戦後日本の非武装中立論に近い洋学紳士であるが、攻撃された場合に玉砕するとはっきり言っていた革新系の論者はほとんどいなかっただろう。その意味でこの絶対平和主義の主張は潔く、むしろインドのマハトマ・ガンジーのラジカルな「無抵抗・非暴力不服従主義」に近いかもしれない。

これに対して富国強兵主義の「豪傑君」が失笑しているのは言うまでもないが、彼もただの軍事優先主義ではなく、内政において守旧派と改革派の対立が不可避である現実を踏まえながら、、対外戦争によって国論をまとめ発展させ、守旧派の一掃をはかろうとしている点で近代史の前例を踏まえた現実主義的な主張を行なっている。

洋学紳士と豪傑君のアイディアリズムとリアリズムを折衷しているのが、南海先生で、彼はプロシアとフランスの軍拡競争により、かえって両者が武力行使に踏み切れなくなっているという、今日の「抑止論」に近い見方を示した上で、「もし軍事侵攻されたらどうするのか」という二人からの問いに対して、国民全員が兵士になり、ゲリラ的に抵抗すべきだと主張している。ベトナム戦争時のアメリカ軍に対するベトコンの抵抗を想起すると、この南海先生のゲリラ戦論は説得力を帯びて聞こえてくる。

もっとも洋学紳士も理想論一辺倒ではなく、そもそも戦争が起こるのは、君主が自己の領土にこだわるからであり、いつの時代でもどこの国でもいざ戦場となれば被害を蒙るのは民衆なので、民衆は領土や国境線には拘らず、総じて戦争に反対するはずであり、君主制を廃止すれば、戦争が起こる可能性は著しく減少するはずだと主張している。ナショナリズムの衝突が戦争の原因となり得ることや、主権概念や民族自決論に固執することが紛争対立の可能性を高めること、内政と外交の連関などに鋭い見方を示していると言えるだろう。また国際法が結局のところ、限定的な拘束力しか持たない「道徳」の域を超えないといったリアリズム的な見方も示している点も印象的である。

南海先生の議論で興味深いのは、彼が洋学紳士の「民主的平和論」を批判し、

「政治の本質とはなにか。国民の意向にしたがい、国民の知的水準にちょうど見あいつつ、平穏な楽しみを維持させ、福祉の利益を得させることです。もし国民の意向になかなかしたがわず、その知的水準に見合わない制度を採用するならば、平穏な楽しみ、福祉の利益をどうして獲得することができましょう、かりに今日、トルコ、ペルシアなどの国で民主制度をうち建てたとすれば、大衆はびっくり仰天して、騒動し、挙句の果ては動乱をかきたて、国じゅう流血騒ぎになる。たちまちそうなるに決まっています」(現代語訳、97-98頁)

と述べている点である。当時のペルシアはまさに今日のイラクだが、民主的平和論を盾にした、アメリカの「中東民主化」論を批判し、イラクでの選挙や民主政体の樹立の可能性を否定的に捉える今日の論者たちの主張になんと似通っていることだろうか。


豪傑君が上海に行き、洋学紳士がアメリカに渡り、南海先生は相変わらず酒ばかり飲んでいると言う結末は象徴的だが、日中戦争に至る道のりは豪傑君の、戦後民主主義の成立は洋学紳士の主張をなぞったかに見える。しかし戦後の日本政治に欠けていたのは、政治と軍事をバランスよく、リアルに捉えた南海先生の視点なのかもしれない。120年前の本だが、今読んでも示唆の多い大変興味深い小論であるが、同時に政治外交論があまり進歩せず、今日でも同じような議論反論を繰り返し、また戦争が依然として世界ではやまない不毛を改めて実感させられた。


大都市が作る政治社会学-シカゴ、ニューヨーク、ロサンゼルス-

2005-08-17 09:25:20 | 都市

大都市は政治経済のみならず、文化の中心地であり、多くの場合、その国を代表するような大学も大都市に集まっている。政治学や社会学といった社会科学のあり方が必ずしもそれを担う学者が所属している大学やその大学が所在している都市の態様に規定されるわけではないのだが、多かれ少なかれ、どのような都市に基盤を置いて研究するかによって研究のあり方も左右されることになるだろう。今年の大学の公開講座で、シカゴ、ニューヨーク、ロサンゼルスの三大都市を比較して、グローバル化とアメリカ都市の関係を考える講義を行なったが、各都市の現状を振り返るよりも、それぞれの都市が生み出した政治社会学についての話が中心になってしまった。

20世紀初頭の急速な都市化と南欧・東欧から移民の流入により大都市に成長したのが、シカゴだったが、そうした都市化の観察によりシカゴ大学を中心に、後に「シカゴ学派」と総称されるような政治学、社会学者のグループが形成された。1950年代末まで強い影響力をもったシカゴ学派の都市論は、都市は中心部から郊外へと同心円的に発展していくのを前提としていた。また「人種のるつぼ」論を背景にした社会科学的理論として、アメリカ社会に流入した移民は当初はアメリカ社会の価値観と衝突・対立するがやがてはそれに対応するようになり、最終的にはアメリカ的生活様式を受け入れて「同化」するという、直線的な「アメリカ化」の過程を経て、移民たちが農夫から近代人へと発展するものと想定されていた。

シカゴ学派の社会学も、アメリカ大都市が直面した、最初のヒトのグローバル化のインパクトを研究したものだったが、あくまでもシカゴならシカゴという一都市において、移民がどのように社会化されるのか、また移民の流入によって都市がどう変化するのかを研究したものだった。こうしたシカゴ学派式の一都市・定点観測型の都市社会学ではグローバル化が都市社会の態様をどのように変化させているのかを全体像として把握しきれていなかったのだが、世界システム論の視点を生かして新しい都市社会学を発展させたのがサスキア・サッセンだった。

彼女自身もいくつかのポストを経験した後、最終的にはシカゴ大学の教授となったのは興味深いが、サッセンは、ニューヨーク、東京、ロンドンを取り上げながら、特にニューヨークに着目し、アメリカの都市が高い失業率を抱えながら、大量の移民労働者を受け入れているという矛盾を犯しているのは、①製造業を中心とした分散化が主要都市における中所得職種の雇用供給を減少させる一方で管理専門職といった高所得の職種と、ビル清掃のような低賃金所得の両極端の職種の雇用を増大させていること、②増大した高所得層の生活様式が、住宅清掃のような低賃金職種の雇用を増大させていることによると説明した。こうして世界をリードする巨大企業の本社や金融サービス会社と、発展途上国並みの下請け工場、スラムが同居する「二重都市(dual city)」がニューヨークなどの「グローバル都市」において成立することになったのである。こうしたサッセンらの新しい都市社会学は、グローバル化がもたらす世界規模での、また都市内部での階層格差の成立に着目している点で、従来のシカゴ学派の都市社会学と異なっている。

一都市をグローバル資本主義システムの中で位置づけることでシカゴ学派的な定点観測を克服しようとしたのがサッセンだったが、移民の態様そのものと都市づくりのあり方の違いに着目するのがエドワード・ソージャなど、カリフォルニア大学ロサンゼルス校や南カリフォルニア大学などロサンゼルスに基礎を置く研究者たちである。

シカゴとロサンゼルスの違いをいくつか列挙してみると、第一に、20世紀初頭のシカゴでは現在の韓国・インド・イラン系移民のような最初から高いスキルをもった移民がいない一方で、現在のロサンゼルスのように世代を超えて職業・所得階層で低位に留まるメキシコ系移民のような集団もいなかった。ヒスパニック系は家政婦、単純機械操作、組立工・検査工、建設労働者、農業労働者など特定業種に集中しているのが問題視されている。第二に、現在の移民は20世紀初頭の国際移動が困難だった時代とは異なり、特に中南米諸国からの移動は容易であり、またアジア系移民は出身国との経済界とのつながりも密接である。第三にロサンゼルスは自動車所有が一般化してから発展した、車による移動を前提にした都市であり、シカゴ学派の「同心円型」の発展モデルが当てはまらない、「中心なき」都市である。第四にシカゴは白人、黒人などの割合が高く、しかもそれぞれ人口減少しているが、ロサンゼルスは白人、黒人、アジア系、ヒスパニック系のいずれの人口も増加し、特にアジア系とヒスパニック系の増加が著しく、白人は過半数を切っている。

このようにグローバル化を先取りしてきた都市であるシカゴと、現在その真っ只中にあるロサンゼルス、ニューヨークとの間には様々な相違があり、ロサンゼルスは「21世紀都市」、「ポストモダン都市」などと目されることも多いが、ヒスパニック系人口の「多数派」化とそれに伴う反移民立法の制定や英語公用語化運動、アファーマティブ・アクション廃止などグローバル化に伴うネイティヴィズム的な運動の震源の一つともなってきたし、1992年のロサンゼルス暴動では、韓国系と黒人というマイノリティ同士の衝突という新たな人種対立も顕在化するなど、古くて新しい問題を示す都市でもある。こうしたロサンゼルスを基盤とする研究者たちが二十世紀のシカゴ学派に代わる、「ロサンゼルス学派」を形成できるのか否かはまだ明らかではないが可能性は十分にあるだろう。

アメリカ系多国籍企業も最大の受益者の一つとなっている経済グローバル化の影響により、アメリカ国内でも、恩恵をうけ成長続ける中心都市と、グローバル化への対応へ苦慮する地方・周辺都市の格差が広がり、また同じ都市内部でもサッセンが指摘した「二重」構造が形成されているのが今日のアメリカ都市をめぐる状況であり、その意味では特殊アメリカ的な側面と日欧の都市に共通する側面をもっている。様々な矛盾を抱えつつも、多文化主義やマイノリティの権利運動で世界をリードしてきた観のあるアメリカ社会は全体としてみれば、同質性の高い日本や、基本的人権や政治的市民的権利の実現の面で遅れをとっているアジア諸国と比べて、人口のグローバル化への強い「耐性」を有しているとは言えるのではないだろうか?その傾向自体は、911テロや様々な戦争により一時的に「不寛容」のムードが繰り返し現れてきたアメリカ史の展開を考えても支配的基調であると言って過言ではないだろう。その意味でアメリカ都市をベースにしたアメリカ政治学や社会学はアメリカで形成されたという文化的な「存在被拘束性」を持つことは否めない反面、同時にグローバルな性質を内在させていると言えるだろう


ラストシーンから始まる人生:計画家・三島由紀夫

2005-08-15 08:39:45 | 小説・エッセイ・文学


ポケットをさぐると、小刀と手巾に包んだカルチモンの瓶とが出て来た。それを谷底めがけて投げ捨てた。別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。(『金閣寺』)

あまり露骨な哀訴の調子が言外にきかれたものか、彼女は一瞬おどろいたように黙った。顔から血の気の引いてゆくのを気取らぬように、あらん限りの努力を私は払っていた。別れの時刻が待たれた。時間を卑俗なブルースがこね回していた。私たちは拡声器から来る感傷的な歌声のなかで身動ぎもしなかった。私と園子はほとんど同時に腕時計を見た - 時刻だった- 。 私は立上るとき、もう一度日向の椅子のほうをぬすみ見た。一団は踊りに行ったと見え、空っぽな椅子が照りつく日差しの中に置かれ、卓の上にこぼれている何かの飲物が、ぎらぎらと凄まじい反射をあげた。(『仮面の告白』)

誠はこれを見ているうちに、その緑いろの鉛筆に見覚えがあるような心地がした。その日光の加減で光っている金文字にも記憶が滞っている。彼は思い出そうと試みた。そしてこの記憶の中に夢と現実との甚だあいまいな情景が現れ、そこから響いてくる声が、彼の耳の奥底に瞬時にひびいてすぎ去って行くように思われた。それはこう言っていた。「誠や、あれは売り物ではありません」その時日が翳ってきて、向こうの窓はたちまち光を失ったので、この声は掻き消えた光と一緒に彼の脳裏から飛び去った。(『青の時代』)


引用が長くなったが、「最後の一行が決まるまで書けない」と語っていただけあって、三島由紀夫の小説のラストシーンはいずれも唸るほど計算されつくしたうまさがある。吃音にコンプレクスをもつ若い修行僧が自分を束縛し続けた美の象徴・金閣寺を放火するまでの経緯を描いた、有名な『金閣寺』だが、放火を決行するまでの緊迫した精神状態、苦悩の描き方ももちろん素晴らしいが、放火した後に精神的に解放されて、ナイフや薬による自殺ではなく、煙草を選んで「生きよう」と思う。この一行があるだけで、ただの破滅的耽美小説で終わらず、普遍的な青春小説になっている気がして最初に読んだ時に感銘を受けた。

仮面の告白』は、三島の自伝的小説で、その同性愛的な感情と同性愛であるがゆえに初恋の女性・園子へ失恋したことを語った小説だが、三島好きだった大学の後輩は「普通の(異性愛の)恋愛小説として読みました」と語っていたのを思い出す。そうとも読める書き方になっているので、まさに二重の意味で「仮面」の告白なのである。

ここで引用したエンディングは、結婚した園子と「私」が再会してダンスホールで食事をしている場面だが、「私」は園子の存在を忘れて、思わずダンサーの男性を夢中になって眺めている。同席しているが関心の向かう方向がまったく違ってしまっている。そのズレと悲哀を巧みに描いている。

最後の『青の時代』は東大法学部生による闇金融詐欺事件「光クラブ事件」をモデルにして、その主犯の計画家・山崎に自己をかなり投影しながら、その半生を描いた小説である。このラストシーンでは、計画ばかりに縛られて生きてきた主人公が、自分のように優秀ではないがのびのび生きてきた従弟・易のデートの現場を眺めながら、すべてに自然体な易と、人工的で計算高い自分の人生とを対比しながら、子供の頃、文房具屋の看板の鉛筆が欲しいと親にねだって怒られたことを回想している。看板の鉛筆は人工物の象徴であり、「どこかで普通であることに憧れていながら、しかし決して普通になれない・なろうともしない」という三島文学に一貫した悲しさがうまく描かれている。

御存知のように三島由紀夫は自衛隊の市谷駐屯地で割腹するという衝撃的な最期を迎えたが、川端康成と三島由紀夫の書簡集を読んでいても、三島が小説のみならず最期まで自分の人生を計画しつくしていて、だからこそ計画に追い詰められ、老いていく自分に耐えられなかったような気がしてならない。遺作となった四部作『豊饒の海』は、松枝清顕の輪廻転生の物語で、転生していく主人公とそれを追いかけていく親友・本多繁邦を描いた長編小説だが、第4巻の『天人五衰』では、若い頃三島が自己を投影して描いたような計画家の若い天才肌の青年が出てくる点や老人が醜く描かれている点では、いかにも三島文学だが、もはや「若くなかった」三島は、尊大な若者への厳しい視線も忘れない書き方をしている点が異質である。

また松枝と死別した恋人で、今は尼になっている綾倉聡子と本多は、小説の結末で60年ぶりに再会するのだが、聡子は「その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならっしゃったのですか?又、私とあなたと以前たしかにこの世でお目にかかったのかどうか、今、はっきりおっしゃれますか?」と、輪廻も松枝の記憶もすべて否定する。法則ですべて語れるような書き方で書いてきた三島が最後には自分の若い頃の投影のような若い主人公も、また輪廻の物語そのものも否定するような東洋的な曖昧な書き方で小説を終わらせ、直後に自決したというのが象徴的である。しかしその結末も最初から決めて書いていたのだから驚くしかない。

面白い連続ドラマを見ていても最終回で失望させられることが少なくないが、三島の小説の場合は最初に結末の文章を練りに練って考えているのでそのようなことは決してない。しかし人生はある一つのゴールに向かって一直線に計画的に進んでいくものではないだろうし、トンネルを抜けたら思ってもみなかったところに立っていた、という方が自然だろう。

三島が「自然」や「普通」にどこかで憧れていた反面、「選ばれたもの」としての極めて高い自意識をもち、平凡で流される「現実的な」人生を拒否して、徹底的に計画し尽くそうとした姿は彼の小説にも繰り返し反映されているが、どちらかというと破滅型で無計画な芸術家が多い中で、芸術至上主義者でありながら、計画にこだわり、計画で「破滅」した稀有な存在が三島由紀夫だったのだろう。彼が生きていれば今年で80歳だが、戦後60年を迎えた今日を彼だったらどのように捉えただろうか?それを見たくなかったから自決したのだろうか?そんなことをふと考えさせられた。