紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

「公正」な選抜とは?

2007-03-23 19:20:50 | 教育・学問論
ブログで取り上げようと思っていた本や社会的事件がいくつかあったのだが、気付いてみると更新しないまま、一月が過ぎてしまった。軽く書けることを取り上げていれば、新しい記事を掲載できたのかもしれないが、いずれにせよ、忙しすぎた。

その主な原因は入試である。今年は様々な事情が重なって、2月末から3月半ばまで毎週末、学部の入試に二度、大学院の入試に二度、関わっていた。それであっという間に一月たってしまった。明日は卒業式だ。2月、3月は日本の学校は年度末に当たるが、卒論や修士論文の審査など、今まで学んできた学生を送り出すことと、4月に入学する予定の学生を選抜するのをほぼ同時に行なう、多忙な時期だ。大掃除をして、新年を迎える年末年始のようなものかもしれない。新年を迎えて、すぐに卒論を受け付けているので、我々、教員は年末年始の忙しさを二度繰り返すうちに、いつの間にか春を迎えているようだ。

1年生の時から教えている学生が卒業するのは、明日が初めてなので、感慨深い。1年生の時の印象からあまり変わらない学生や、すっかり大人っぽくなった学生。期待通りに成長する学生や、予想外だった学生。様々な個性があって面白い。学生からしても期待を裏切られたように感じている人もいれば、自分なりに居場所を充実させた前向きな学生もいることだろう。

新しく学生を迎える準備と、学生たちを送り出す仕上げを同時に行なっているといろいろ考えさせられる。学部を卒業する学生や修了する学生に対しては、もう少しこうしてあげればよかったと後悔する点もない訳ではない。だが、学生たちの自主性や自立心、能力の高さなどを思えば、こちらが思っているよりずっと上手に、「大学」という場を自分なりに活用して、たくましく巣立っていく学生が多いのであまり心配していないというのが率直なところだ。

しかし入学試験に関していえば、果たして自分たちが行なってきた試験が受験生の潜在能力や成長の可能性をどこまで正当に評価して、選抜できているのか、はなはだ心もとない。

よく言われることだが、ずば抜けてよく出来る学生と、出来ない学生を選別することは極めて容易だ。試験問題の出来が良くなくとも、また面接官の見る目があまりなくても大丈夫だろう。問題はボーダーラインにいる学生たちである。困ったことに、多くの学生は紙一重の線上にいる。面接官の印象や論述試験の採点者の基準一つで、明暗が分かれてしまう可能性は否定できない。論述問題や面接試験を項目ごとのポイント制でつけても、結局、印象点でつけるのとあまり変わらない結果になる場合もある。定期試験でもそうだが、英文和訳を減点法で細かくつけるのと、大体、何割がた英文の意味を取れているのかで採点するのと、合計点で結局、大差がない場合が多い。面接でもそうである。絶対的で客観的な基準というものがないだけに、合格ラインぎりぎりの学生の運命が気になって仕方なかった。

最近は大学側が敗訴するので、入学辞退者から入学金を取れなくなったが、日本の私立大学では以前はごく当たり前の慣行だった。先日、亡くなった大学時代の恩師は、そのことを批判して、「入学した学生から高い学費を取るのは、それだけのサービスを提供すれば正当化できるが、入ってもない学生からお金をとって儲けるのはおかしい」とよくおっしゃっていた。同じような言い方をしてみると、ある教員が入学したある学生の能力を評価しそこなっても、あるいは買いかぶりすぎても、他にも教員は沢山いるし、4年間の在籍期間中に何とか帳尻を合わせることができるかもしれないが、入学試験で教員(たち)が判断ミスをして、不合格になった学生たちの人生を何らかの形で狂わせても、それを償うチャンスはほとんどなさそうだ。

そんなことをいちいち気にしていたら入試などできないのかもしれないが、我々教員は自分たちの「人の見る目のなさ」について、もう少し謙虚になる必要があるのではないかと常々思う。

この季節は、来春の就職を目指す学生たちが企業に選抜される時期でもある。以前、ブログでも書いたが、率直に言って、企業の見る目の「たしかさ」についても疑問を感じることも多い。神ならぬ人間が人間を選抜する矛盾は、学校でも企業でも同じと言えば同じかもしれない。そうした偶然や運にも左右されながら、選抜されたり、されなかったりした人たちが作っていくのが学校なり、会社なり、社会組織なのだろうが、今年の春はなぜか、矛盾や理不尽がたまらなく気になった。


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