紅旗征戎

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「後期子ども」のための大学院?

2009-01-03 14:55:00 | 教育・学問論

「後期高齢者」という言葉が、医療制度と絡めて、世論の猛反発を買い、名称の変更を迫られたことは記憶に新しい。しかし高齢化の政治への影響を研究テーマの一つとしていた教授から指導を受けていた筆者にとっては、75歳以上の高齢者を「後期高齢者」と呼ぶことは、10年以上前から知っていた。厚生(労働)白書などでは当たり前のように使われていた統計用語で、だからこそ官僚たちも何にも抵抗なく、「後期高齢者医療制度」というネーミングにしたのだと思う。厚生省OBで、現在は千葉大学で社会保障論を教えている広井良典氏の『持続可能な福祉社会—「もうひとつの日本」の構想』(ちくま新書、2006)を読んでいたら、後期高齢者ならぬ、「後期子ども」という言葉が出てきた。

広井氏の定義によれば、「前期子ども」が15歳前後までで、「後期子ども」とは、それ以降、高校、大学等を経て、三十歳前後までを含む、としている(p.44)。広井氏は、会社に勤めて、定年まで勤めるというのが若者にとって当然の人生コースとなりがたくなってきた日本社会においては、大学院も含めて、20過ぎの若者が働くまで試行錯誤する期間を長く認めて、場合によっては20−30歳のすべての若者に月額4万円程度を支給する「若者基礎年金制度」を創出したらどうかという大胆な提案をしている(pp.98-99)。

その当否はともかく、「後期子ども」という視点は、広井氏が書いているように、氏自身がどうしても進路を決められずに大学院に進学したことや、現在、大学で多くの若者を教えている実感から出た発想だと思う。その点は同じく大学で多くの若者に毎年接していて共感できた。ただし現在、全国的に大幅に定員を拡充した大学院が事実上、「後期子ども」たちの受け皿になっていることについては、いろいろと問題点が多いと思う。

大学院が少数の研究者になりたい学生のためのものから、パンフレット風の表現を用いれば「高度職業人の養成」、率直にいえば学部入試よりも少ない試験科目、低い競争倍率で有名大学院に入学し、それによって就職活動を有利に進めるためのキャリアアップのための機関に変質してからすでに少なからぬ時が立っている。そのこと自体は、18歳前後の一回の入試で人生が決まることを避け、セカンドチャンスを与えることにもなるし、18歳の乏しい判断力で決めた学部選択ではなく、4年間の大学での勉強を踏まえて専門を選択することを可能にしているので望ましいことだと思う。ただ毎年、大学院の面接や入試に携わっていると、どうもそれほど肯定的になれないケースが多い。

大学院は、大学学部よりも「高度」で、「専門的」な内容をやることが前提になっているのだが、学部時代に学んでいない分野に進学すれば、当然、基礎知識は欠けている。入学後や入試に備えて、自学自習して専攻を変更するための努力をしてくれれば問題ないのだが、多くの受験生を見ているとそうした努力を十分してないケースが多い。入試をしても、「これから学びたい」という気持ちは分かるのだが、そのために準備をしてきた形跡がほとんど感じられない返答や答案が多い。それでは仮に入試にパスしても、入学後、専門用語が飛び交う演習などでは議論についていけないということになってしまう。

また志望動機を聞いても、「学部時代にほとんど勉強していなかったので、大学院では勉強したいと思い、・・・」などと語る学生が意外と多い。学部生を見ているととても優秀でよく勉強し、大学院に進学して研究者を目指せばいいと思われる学生であればあるほど、学問の奥深さや難しさ、自分の適性などをよく理解していて、大学院に進学しない傾向にあるが、学部で卒論を書いていなかったり、特に論文を読んでいない方がむしろ「お気楽」に大学院進学を目指しているようにさえ感じられることもある。こういう学生は入学してから、いざ「勉強」させられると当然苦しむ結果となってしまう。

また修士号をとって就職活動に生かそうと思ってもいろいろと矛盾がある。修士課程の1年目は様々な科目を履修し、単位を取らなければならないが、近年の傾向では就職活動が早期化して、修士1年の秋には就職活動を始めないと、修士2年を修了して、すぐに仕事に就くことができない。4年間で進路を決められずに大学院に進学しても、猶予期間はせいぜい半年強しかない上に、学部のように1科目当たり半期に1回の試験やレポートをパスすれば単位を取れるわけではなく、半期数回の発表などをこなさなければならない授業も多いので、結局、就職活動も大学院での勉強も中途半端になりがちである。その辺の事情はどのくらい世間では理解されているのだろうかと思う。

大学の学部は、就職するために「学士号」をもらうために入学している学生が大部分であり、最小限の努力で単位をとって卒論を書き、いい企業に就職することが学生にとっては「合理的な選択」かもしれないし、それを教員側も諦めて受け入れている部分もあるが、大学院は少なくとも建前では「大学卒」のように企業就職に絶対に必要とされる資格であるとも言えず、勉強しない学生が入学してくることを今でも想定していないはずである。また「楽」して単位を取ることは、知識が十分に身につかないことを意味するので、研究者を目指すにせよ、目指さないにせよ、専門知識を深めようとする院生にとっては望ましいオプションではないはずだ。

しかし実態としては、外国研究でも原書は読めないので日本語のテキストを使わざるを得ないとか、発表の順番に当たっているのに欠席するとか、講義形式の授業では居眠りして聞いていないとか、少人数のクラスでも無断欠席するとか、学生たちがいやいや出席している学部教育か、それ以下の状況になっているケースも少なくない。一つには、大学院の成績認定が学部の成績よりも甘く、修士論文のための研究時間を取れるように、その外の科目についてはあまり厳しい要求をしないという慣行が悪い方向に働いているように思われる。結果として、修士論文の研究も進まないが、授業にも一生懸命取り組まないという学生が増えてしまっている。

これらの問題点は、学会で出会う、様々な大学院を担当している教員と話していると、いつも一致する点である。ごく一部のトップ校には当てはまらないのかも知れないが、多かれ少なかれ全国的な現象であるに違いない。そういう状況を踏まえると、ロースクールやビジネススクールのような専門職大学院は別として、それ以外の大学院が、広井氏が提案しているような「後期子ども」たちの「社会化」にどの程度貢献できるのかは甚だ心もとないと言わざるを得ない。

大学院で教え始めてまだ8年程度だが、その8年の中でもこの2,3年、特に勉強についていけない、勉強したくない、という方向性の、院生からの「抗議」が増えてきたような気がする。勉強したくなければ、「大学院」に在籍する必要はないと思うのだが、労働市場に組み入れられていない若者たちを受け入れる、一種の「社会保障」として、日本の大学院も機能し始めているのかなという日頃、漠然と感じていた疑問に対して、むしろ肯定的に提言している、厚生省OBの広井氏の本を読んで、良くも悪くも納得させられた。