紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

住民自治の功罪と対立するコミュニティ観-アメリカの場合-

2005-03-28 17:13:14 | 政治・外交
住民自治の伝統はアメリカ政治の一つの特徴となっている。アメリカ人は建国以来、最初に入植したニューイングランドのタウンミーティングにおける直接民主制を一つの理想として抱き続け、トクヴィルやブライスといったアメリカを訪問したヨーロッパ人たちも「タウンミーティング」を「民主主義の学校」として讃えた。さらに19世紀末から20世紀初頭にかけてはイニシアティブ、レファレンダムといった、住民による直接立法の制度が全米諸州で導入された。国や州といった上位の政府が基礎自治体を設置していくのと違って、アメリカの基礎自治体(municipality)は、住民たちが「憲章」Charterと呼ばれる公式の書面化された基本法を定めて、州政府から「ホームルール(自治)」を認められると自治体として成立するという仕組みをとっていることが多いので、地方自治体の形成そのものが住民主導の色彩が濃くなっている。

こうしたアメリカの住民自治を考える場合、ネイバーフッド(近隣住区)における自治組織としてのネイバーフッド・アソシエーションの役割が重要だが、地域コミュニティの利益とは何かということを考えるとこうした住民自治組織の社会的意味合いも功罪両面あるように思われる。

近代都市計画の(そして多くの郊外住宅開発の)一つのモデルとなったのは、イギリスのエベネザー・ハワードの「田園都市(garden city)」構想である。(Ebenezer Howard.1902.Garden Cities of Tomorrow)。「田園都市」においては、中心部にシティ(人口3万人)をおき、周縁部を農業地帯(人口2000人)を配置した、円形都市を人工的に開発。すべての土地は市当局が所有し、住民は家賃を市に支払い、市は家賃収入を建設資金の返済や公共事業の建設資金、年金や医療サービスの提供に使う。年金と慈善事業により貧困者への福祉は不要となり、住民は「法を守る善良な市民」なので治安コストもほとんどないというユートピア的都市構想である。

こうした「田園都市」モデルをなぞっているように見えるのが、アメリカで近年成長著しい、ゲート・コミュニティ(gated community)である。ゲート・コミュニティについては、その研究書である、マッケンジーの『プライベートピア』やブレイクリー&スナイダーの『合衆国のゲート・コミュニティ』が竹井隆人氏らにより翻訳され、日本でも知られるようになってきた。このゲート・コミュニティとは、1980年代後半からカリフォルニアとフロリダで急増した、塀で囲まれ、コミュニティの入居者しかゲートから入場できない住宅地であり、そこでは住宅所有者組合(Homeowners’Association)が、自治体に準ずる公的政府機能を果たしており、時には自治体以上の規制を居住者・訪問者に課している。例えば不動産価値の低下につながる怠慢(庭の手入れ、ペンキの剥れなど)に対するペナルティを加えたりということを行なっている。

こうした住宅所有者組合も、「住民自治」組織と見ることが出来るが、ゲート・コミュニティの排他性や孤立主義的性格はしばしば問題になっている。「田園都市」構想の計画主義・排他性・拘束性を早くから批判していたのは、建築家ジェーン・ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生The Death and Life of Great American Cities, 1961)』である。ジェイコブズは、ネイバーフッドのあり方について、自治体として有用なネイバーフッドは、①都市全体、②ストリートを中心にしたネイバーフッド、③10万規模の住民からなる地区であるとして、ハワード的な同質度の高い小コミュニティよりも、住民の流動性の高い、溜まり場的な異質性の高いコミュニティこそ「都市」コミュニティであるとした。

ジェイコブズは、「ここに一見パラドックスと見える一つの考え方がある。一つの近隣住区にすっかり根を下ろした人々を確保するためには、その都市が十分変化に富み、流動性があるようにしておかなければならない。(中略)もし彼らが単調な地区ではなく、変化に富んだ活気のある地区に住んでいるならば、彼らの住む環境とか職業の性質あるいは興味の対象が変化していくのにもかかわらず、そこに固定して居を移す必要がない」としている。

このように「異質性」と「同質性」、「変化・刺激・流動性の維持」と「安全の確保」のいずれを重視するのかというコミュニティの価値観の相違や、大都市か小都市かといった社会経済的条件の相違によって、似たような運営形態をとっているネイバーフッド・アソシエーションとそれがもたらす政治的意味は大きく異なってくる。またネイバーフッド・アソシエーションと州・地方政府のパートナーシップのあり方も、強固な場合は、アソシエーションの利害が政策に反映される可能性が高くなる反面、行政の下請け、補助金の受け皿的役割を担わされる可能性があり、「自治・自立」の側面が後退しかねないが、行政との連携が密でない場合は、アソシエーションのプランが、市の計画に十分反映されない場合も多い。住宅所有者組合の場合は、入居者たちは同意・選択してゲート・コミュニティに住んでいるのだが、周辺自治体からの「自立」度は高いものの、「管理組合」の規則による個人の束縛度合いはきわめて高いものとなる。またコミュニティ内に賃貸住宅が存在する場合は、住宅所有者だけが決定参加できるので、賃貸住宅居住者の権利を十分に保障することができないといった問題点もある。

アメリカの住民自治を考える場合に、このような自治のもつ排他性の問題や、個人と共同体の利害の衝突などの問題を避けて通ることはできないし、それは多くの国々の地方自治体に共通した問題であろう。(写真はゲートコミュニティの広告写真から)

自己評価と他者評価

2005-03-22 17:11:12 | 教育・学問論
大学教員は研究者であると同時に教育者である。英語ではstudentというと学生という意味と同時に「~について研究する人」の意味がある。私のアメリカ時代の先生も今は名誉教授になられた人だが、未だに"as a student of American government(アメリカ政治の一研究者として)"、"as a student of federalism(連邦制研究者として)"といったフレーズを多用している。その意味では小学校や中学校の先生と違い、教える内容についてもまだ学びつづけているstudentでもある(もちろん小中学校の先生も授業研究を日々なさっていると思うが)。従って学生に「こうしなさい」と教えていることはそのままま自分に跳ね返ってくることなので、よほど自信過剰な人はともかく、かなり割り切らないと自己嫌悪に陥ることもある。そこで自分を棚に上げて言わせてもらえば、正しく「自己評価」することほど難しいことはないと思う。

日頃、様々な学生に出会い、進路や研究テーマなどについて相談を受けることが多いが、私の周りの学生は自信過少で謙虚な学生は稀であり、どちらかというと自信過剰か、あるいは客観的評価よりも自己評価の方がかなり高い学生が多い。従って相談に来る場合も、悪い点を指摘してもらいたくて来る場合よりも、「自分はこう考えたけど、これでいいでしょう」と承認を求めに来るケースが多く、問題点を指摘するとあまり聞かないか不服そうにして帰っていく。その場合も二通りあって、その場では反論したが、一応こちらの指摘した点を直して、よい結果を得る学生もいれば、最後までそのままの学生もいる。

自分自身の大学院時代を振り返っても、当時の指導教授に言わせれば私も言うことを聞かない方の学生だったといわれるだろう。聞かないのか聞けないのか、これもいろいろなケースがあると思う。一つはいいアドバイスをもらっても能力的にも時間的にもそれに従えない場合である。これは私自身も学会報告でコメントされても十分生かせないこともあるのでよくわかる。もう一つは人の話を聞かない場合である。私は学生の話であれ、同僚の話であれ、なるべく聞くようにしているつもりだが、頑固に自分の殻を破らない若い学生も少なくない。

確かに厳しいコメントや指摘を受け止めるにはかなり自我がしっかりと確立してなければならないので、聞かないことで防御しているかもしれないが、本人が考えているのと違うことを指摘するととたんに欠席しだしたり、避ける学生もいる。「ほめて伸びる」学生と「叱って伸びる」学生を見抜くことが教育者にとって大切だというが、「叱って伸びる」学生の数はかなり少なくなってきているのではないだろうか?同時に「ほめても伸びない」学生も少なくないのかもしれない。就職活動や進路選びでも自分に見合った進路を選び、そのために着実な努力を行なうことを怠って、「自分はこんな仕事をやりたくない」「自分はそんなところに行く人間じゃない」という者も少なくないが、自己評価と他者評価のギャップがある場合は、そのギャップをまず把握して、溝を埋める努力をしないといけないだろう。自己評価と他者評価の問題は我々の日頃の研究にも密接に関わっているが、同時に教育の大きな課題でもある。

尽くす男は存在するのか?

2005-03-20 17:09:34 | 社会
酒席での会話だったと思うが、ある男子学生が自分は女性に尽くすタイプだと自己紹介しているのに対して、同席していた女子学生が噛み付いた。「好きな人のために一生懸命何かをするのは当たり前で、それを『尽くす』と思うのは、男に女が尽くして当たり前だという偉そうな発想だ」というのである。確かに辞書で「尽くす」を引いてみると、「(「…につくす」の形で)人や団体・国家のために献身的に努力する。 「夫に―・す」「社会のために―・す」)と書いてある(大辞林)。「奉仕」という言葉も似ているが、こちらは「国家・社会・目上の者などに利害を考えずにつくすこと」と定義されている。両方とも確かに伝統的に目上と考えられてきたもののために働くニュアンスである。だから「尽くす」男という表現に、権力関係に敏感な女性が腹を立てるのは無理もないだろう。

一方でこんなエピソードを思い出した。私が大学生のときに中学に教育実習に行った時のことだが、中学校だったせいか、私以外の実習生はすべて女子学生だったので、控え室などでは居心地があまりよくなかったのだが、彼女たちはあまり私を気に止めず女性同士の会話をしていた。ある日、体育の実習生だった人が、フォークダンスを教えていて、クラスの女の子の一人が男の子とダンスで手をつながされて泣いてしまって困った、という話をしていた。他の実習生たちは、「思春期だから大変よね」とか「よっぽど嫌いだったのね」とか「そんな女の子をどうフォローしたの」とかそんなことばかり言い合っていたので、私が「泣かれた男の子も可愛そうだね」と言ったところ、「そんなことは思いつかなかった、言われてみればそうね」と全く念頭になかったようで、あっけに取られた様子で一同同意したのには驚いた。「尽くす男」という表現に鈍感な男も問題だが、フォークダンスで泣かれた男の子に同情しないのも女性の偏見と言えるだろう。

このように女も男も世界の半分しか見ていないのかもしれない。なるべく相手の立場にたって考えるように、と小学校から教えられてきたと思うが、気づかぬ偏見や思考パターンか抜け出すことは容易ではない。結局、話し合って違う見方を出してみないとわからないだろう。しかし分かったからと言って解決できるわけでもない。ゲーム理論の教科書で出てくる定番のゲームに「両性の戦い( The Battle of the Sexes)」というものがある。これは有名な「囚人のジレンマ」ゲームと同様に勝ち負けが決まらない非ゼロ和ゲームの一例だが、バレエを見に行くかボクシングを見に行くかで女性と男性の意見が分かれ、どちらも一人で行くよりは二人で行きたいと思っているが、バレエを選べば、女性は満足するが男性が満足できず、ボクシングを選べば、女性が満足できず、どちらかを両方が希望する場合以外に最適解がない、というゲームである。

教科書によっては結局じゃんけんで決めることを勧めていたり、あるいは繰り返しゲームとして今回はバレエに行くが、次回はボクシングに行くことを勧めているが、いずれにしてもどちらかに行くときは一方が我慢せざるを得ない。ゲーム理論が想定しているような合理的行為者ばかり出ないので、いやいや付き合っているうちに興味をもつようになることもあるだろうが、このゲームの例で言えば、仮に男性が熱くボクシングの魅力を語ったり、または女性がバレエの魅力を語って、お互いの考え方の違いやその論理がよく分かっても、お互いの興味の溝が埋まらない限り、結局、どちらを選ぶかは、相手に合わせようと思う側が譲ることになるのではないだろうか?実際、本によっては強引にバレエの切符を2枚買ってしまって選択肢をなくすことが「合理的」としているものもある。「尽くす男」という表現がまずいとしても「譲る男」だったらよいのだろうか?平等で互恵的な関係作りはつくづく難しいものだと思う。
 

春の雪と政治文化

2005-03-13 17:06:30 | 政治・外交
私が住んでいる地域は温暖で雪が降っても積もることはほとんどないが、三月中旬になったというのに、昨日、今日と雪が舞っている。大学の研究室は高台にあるので、ふもとの駅周辺が降ってなくても小雪が舞うことも少なくない。今日は校舎の屋根にうっすら積もり始めた。暖かい西日本にいるからこんなノンビリしたことをいっているが、豪雪地帯で暮らす人々にとっては長い冬は雪に閉ざされた厳しい季節だろう。そんな人たちにとっては、春の雪は冬の終わりを意味するのだろうか?

東京に住んでいたときに一度大雪が降り、我が家の前の道路も雪かきをしなければならなかったが、NHKで中継された東京の大雪の様子を見た豪雪地帯の親が東京で下宿する息子に「東京の人はひどいね。道路の真中に雪を集めるなんて、何を考えているんだか」と呆れて電話したという話を聞いた。しかし普段雪に慣れてない東京の人は雪かきが下手だということもあるが、豪雪地帯にあるような、雪捨て場(除雪溝?)のようなものもないのである。雪に対する対処方法も、冬のイメージもどの地方で育つかで全く異なるだろう。

和辻哲郎の『風土』や上山春平の『照葉樹林文化』など自然環境の相違から社会文化を説明した本は少なくないが、私などがやっている経験的な社会科学は、そうした自然環境・文化還元主義にはどちらかというと懐疑的で、なるべく風土の違いで説明しないで、出来る限り共通点や文化を超えた一般法則を探っていこうとする傾向が強い。「雪国の人だから・・・・だ」、「雪国の政治だから保守的だ」といったような説明はなるべく避けようとする。しかし人間の性格も文化も社会行動も自然環境を含めた外部環境によって形成され、影響を受け、展開していることに違いはないから、程度の差こそあれ、そうした環境を無視することはできないだろう。

留学中に面白いと思ったのは、日頃計量分析など徹底的に、数値による検証を重視する経験的なアメリカ政治学で、州の政治文化論が意外と重視されていたことである。昨年の大統領選挙を思い出していただければ分かるように、アメリカでは南部では伝統的保守的な考え方が支配的だったり、西海岸ではラジカルな考え方が優勢だったりと州による文化の相違が大きい。ダニエル・エレザーという学者はそうしたパターンを三つに分類して、「道徳主義的文化」、「独立主義的文化」、「伝統主義的文化」と名づけたが、~州は「伝統主義」で、~州は「独立主義」だ、といった話を授業で習った時、私は率直に言って、日本の「県民性」論議や最近問題になっている血液型性格判断と同じくらいうさんくさいものだと思った。しかしこうした大雑把な分類はなんとなく人々が感じている感覚と一致し、また血液型の場合も県民性の場合もそうだが、自分に当てはまる、あるいは人に当てはまると思うものを取捨選択して注目するので、なおさら説明力が高いような錯覚に陥るのであろう。

とは言うものの、都会育ちで雪国の冬を知らない私は、「おまえに雪国の生活がわかるか?」と言われれば、何も反論できない。絵を描く人に言わせると、積もった雪はいざしらず、降っている雪のような形のないものを描くのが一番難しいそうだ。右の写真も降っている雪をいま写したものだが、白い埃のようにしか見えない。自然環境が文化や社会制度に与えている影響も、舞い散る雪と同様に、誰が見ても分かるように客観的に描くのは難しいのかもしれないが、捉えがたいからといって、存在しないとはいえないのだろう。安易な文化・環境還元主義は禁物だが、政治文化は実証的な社会科学にとっても避けがたい、魅力的だが厄介な研究対象だろう。(写真は研究室からの雪景色)

グローバル化はアメリカ化か?

2005-03-11 17:04:42 | 政治・外交
グローバリゼーションとは、かつての「国際化」という言葉に代わる、いわば現代社会のキーワードとなっている。グローバル化の定義は様々だが、最大公約数的にまとめれば、「ヒトやモノや資本、サービス、情報などが世界規模で同時に流通・展開し、世界の文化・社会・政治・経済の動きが一体化しつつあること」を指していると言えるだろう。グローバル化としばしば一体の言葉として「グローバル・スタンダード」といった言葉が使われる。「アメリカは、『グローバル・スタンダード』と称して、アメリカン・スタンダードを世界に押し付けている」という批判もしばしばなされているが、実は英語では「グローバル・スタンダード」ではなく、「デファクト・スタンダード(業界基準)」と言うのが自然な表現であり、従ってヤフーの検索エンジンで、「global standard」という英語のキーワードを入れて検索してみると、ヒットするページの多くは「A業界のグローバル・スタンダード(世界標準)を目指すB社」といった日本の中小企業のサイトである。グローバル化=アメリカ化として強い反発を感じつつも、「グローバル・スタンダード」という一種の和製英語に心惹かれる日本人。それはちょうど横綱に日本人がいなくなったと嘆く一方で、「松井だ!、イチローだ!中田だ!」とアメリカ大リーグやイタリア・セリエAでの日本人選手の活躍に狂喜しているような、グローバル化への日本人のアンビバレントな態度をよく示しているように思われる。
 
グローバル化批判は多くの場合、アメリカ批判と同じことと考えられているが、はたしてグローバル化=アメリカ化なのだろうか?日本がバブル景気に酔い、世界最大の債権国となるなど経済大国として地位を享受していた時代に流行っていた言葉は「国際化」で、それはポジティブなイメージを持っていた。グローバル化という言葉がメディアなどで盛んに使われるようになったのは1990年代以降だが、当初は前述の「世界水準」のように、日本の技術力や経済力の強さを背景に肯定的に使われていたが、1990年代後半以降、戦後最悪とも言われた長期の不況を経験するようになり、特に1997年、タイのバーツ暴落を契機としたアジア通貨危機が起こると、ヘッジファンドなど大量の資本が瞬時に移動することの弊害や、国際決済銀行(BIS)の自己資本比率規制、会計基準の時価評価への移行などの金融・経済のグローバル化やグローバル・スタンダードが非欧米経済圏にもたらす負のインパクトがクローズアップされるようになった。日本の大手銀行や証券会社が経営破綻し、アメリカ企業に買収されることになったことも、グローバル化へのネガティブなイメージを形成するきっかけとなった。こうした時期に社会学者のジョージ・リッツァが『社会のマクドナルド化』と題する本を出版したが、リッツァは、マクドナルドに代表されるようなファースト・フード的な画一的で簡便で均質な消費スタイルが社会の隅々まで浸透し、まさに「社会がマクドナルド化」していることに警鐘を鳴らした。アメリカがアメリカ的価値観や生活様式を世界の隅々まで輸出し、その地域固有の文化を破壊している、という文脈で、しばしば「マクドナルド」の世界進出が例に挙げられるのも、実際のマクドナルド社の影響力の大きさだけでなく、言ってみればアメリカ文明の象徴としてのマクドナルド的消費・大量生産様式が世界規模で拡大していることが、グローバル化=アメリカ化の典型として捉えられているからである。こうして1990年代半ば以降、グローバル化とアメリカ化は同義として否定的に捉えられ、反グローバリズム運動はしばしば反米運動と連動することになった。2001年9月11日の同時多発テロ事件の背景として、「アメリカ主導のグローバル化に対する反発」を理由として挙げる論者が多かったのもそうした文脈においてなのである。
 
しかしグローバル化とアメリカ化を同一視することは正しい見方とは言えない。ジョセフ・ナイ・ハーバード大教授は、『アメリカン・パワーのパラドックス』の中で、「キリスト教が世界中に広まったのは、ハリウッドの映画会社が聖書を題材にした映画の輸出方法を編み出すよりも何世紀も前のことだ。そしてイスラム教の世界的な布教を今でも続いており、これは『アメリカ製』ではない。英語は世界人口の約5パーセントに使われているが、その普及も当初はイギリスによるものであってアメリカによるものではない~エイズがアフリカとアジアに蔓延しているのもアメリカと無関係だ。ヨーロッパの銀行によるアジアや中南米の新興市場国への融資にも、アメリカは関与していない。世界で最も人気の高いスポーツチームはアメリカのチームではない。イギリスのマンチェスター・ユナイテッドであり、世界24カ国に200のファンクラブがある。『アメリカの』大手音楽レーベルのうち三つはそれぞれイギリス企業、ドイツ企業、日本企業に保有されている」などと指摘し、文化や経済のグローバル化をアメリカ化と同一視することの誤りを強調している。また経済誌『フォーブズ』の2002年グローバル企業収益ランキングでも上位25位のうち、アメリカ企業は10企業(40%)と確かに圧倒的な強さを示していますが、日本企業も7企業(28%)を占め、経済のグローバル化においては、アメリカに次ぐ受益者でありつづけている。日本の場合も、無責任な経営や行政の結果としての会社や経済の破綻を、安易に「アメリカ主導のグローバリゼーションの被害者」として問題をすりかえるべきではないだろう。
 
グローバル化の一つの特徴は、市場や供給者が世界規模になるために、競争力のある国や企業にとっては有利に働き、競争力のない国や企業との間の格差が拡大していくことだが、そのため外から「アメリカ」を、国際経済における一プレーヤーとして観察すると、グローバル化を推進し、謳歌しているように見えるが、アメリカ社会自体も他の社会同様、グローバル化の波に動揺し、対応を迫られている。アメリカ国内でも国際競争力のない産業や地域にとってはグローバル化や自由貿易協定は大きなダメージを与えかねない。1980年代に日本車のアメリカ市場進出により、多くのアメリカ自動車工場が閉鎖され、デトロイトなどの自動車都市の失業率が急上昇し都市が荒廃したのは、グローバル化がアメリカ社会にもたらした負のインパクトであるといえるし、NAFTA(北米自由貿易協定)により、人件費の安いメキシコ人労働者がアメリカの労働市場に参入し、アメリカ人の単純労働者が職を奪われるといったこともしばしば起こっている。アメリカ国内でもしばしば「グローバル化はアメリカにとってプラスなのか?」といった議論がなされているのは、このようにグローバル化が必ずしもアメリカ社会やアメリカにとってプラスとは限らず、グローバル化によって恩恵を受けるセクターや階層とそうでないセクターや階層があるからである。
 
グローバル化がアメリカに一方的な利益をもたらすものではないとは言っても、経済のグローバル化の最大の受益者はやはりアメリカで、しかも政治的にも文化的にもアメリカがグローバルな拡大志向を持っていることは否めない。文化について言えば、ハリウッド映画やテレビ番組などを全世界に輸出することにより、アメリカ的生活様式や価値観も同時に世界中に流布されているといえるだろう。政治と経済に関して言えば、クリントン元大統領が掲げていたような「関与と拡大」政策、つまり世界中に自由主義的市場経済を拡大し、また各国の民主化を支援することを通じて、世界秩序を安定させようとする戦略は、アメリカ的な「自由民主主義」を世界に拡大しようとするものである。こうしたアメリカ的価値観の輸出が「文化帝国主義」であり、「内政干渉」であり、「新帝国主義」であるとしばしば批判され、世界とアメリカとの間での文化摩擦が生じていることは、「イラクの自由」作戦と命名して、単独主義的なイラク攻撃を行ったイラク戦争の例を見ても明らかである。
 
一方で移民大国アメリカは、世界中のあらゆる文化が共存・並存している多文化社会であり、こうした多文化のアメリカが、アメリカ的価値観を普遍主義的に世界に押し付けるのは矛盾のように思われる。しかしアメリカにおける「多文化主義」というのは、文化という名の「集団」を「個人」より優先する「集団権」的な多文化主義ではなく、あくまでも「個人」の自己実現の機会を均等に保障しようとする自由主義的・個人主義的なものであり、アメリカの政治文化においてはこうした個人の選択を中心に考える自由主義が「絶対」的な価値をもっており、逆にいえば、個人の表現の自由や政治参加の自由、選択の自由、私有財産制などを認めない体制に対しては極めて不寛容である。アメリカが「非」民主主義、「非」自由主義と考える国々に「民主化」や「人権擁護」を要求するのはそのためで、「文化」の名の下に家父長制を擁護したりすることへの抵抗は極めて強い。こうしたアメリカ的「信念」が、非欧米諸国とアメリカとの文化摩擦の一つの源となっている。アメリカがグローバルな民主主義を考える場合も、その民主主義のモデルは当然、アメリカ的な自由主義的・個人主義的民主主義ということになる。冷戦終結以降、アメリカが自由主義的な政治・経済体制を「あくまでも一つのモデルであり、バリエーションに過ぎない」と相対化して捉える可能性はますます少なくなってきている。

しかしグローバル化とアメリカ化を同一視して、反グローバル化=反アメリカ化=反米運動が台頭してきていることに敏感になっているアメリカの知識人・政府関係者も少なくない。同時多発テロ事件以降、「世界はアメリカに何を求めているのか」、「アメリカはなぜ嫌われているのか」といったシンポジウムや出版がアメリカ国内で盛んに行われている。グローバル化の最大の受益者アメリカが、世界の反発に配慮して、独善的な姿勢をどこまで改めてゆけるのかに、グローバル市民社会の形成の可能性と合衆国自体の運命がかかっているといっても過言ではないだろう。

『葉隠入門』と『堕落論』にみる、生と死の哲学

2005-03-08 17:00:57 | 思想・哲学・文明論
最近、練炭による若者の集団自殺のニュースを聞くことが珍しくなくなった。インターネットを通じて、「心中」の相手を見つけて、見知らぬもの同士で集団自殺しているとのことだが、厚生労働省が公表している「自殺死亡統計の概況」によると、人口10万人における自殺者数をはかる自殺死亡率は、トータルでは、2003年度は38.0と、1970年度の17.3に比べて倍増しているが、急増しているのは若者ではなく、中高年の自殺である。不況やリストラ、高齢化などが背景となっていると考えられる。

自殺についての古典的研究である、デュルケムの『自殺論』は自殺率を様々なデータで比較し、人とのつながりが弱い社会での自殺率が高いことを明らかにした。つまり他人とつながっている実感がもてないこと、人のために役立っていると自覚できないことが自殺の引き金となると考えたのである。練炭による集団自殺者が、知り合いは巻き込めないが、あるいは一緒に死んでくれる相手は身近にはいないが、一人では死にたくないと最後まで他人とのつながりを求めているところに自殺志願者の心理が反映されているのかもしれない。

自殺の事情は様々で、将来に悲観して若者が自殺するのと、経済的にも社会的にも行き詰まって、疲れてしまった中高年が自殺するのでは全く意味が異なるかもしれないが、若者にしても中高年にしても生きること、死ぬことと直面することの難しさを痛感させられる。生きることと死ぬことは表裏一体の関係にあり、生きる力をつけることは死を迎える力をつけることのはずだが、西洋哲学や道徳教育が「いかによく生きるか」に力点を置いてきたのに対して、死をどう迎えるかについては十分な哲学が発達してこなかったのかもしれない。

三島由紀夫は自衛隊の市谷駐屯地で衝撃的な自決を行なう3年前(1967)に『葉隠入門』を出版している。『葉隠』とは「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり」という一節が特に有名な、18世紀初頭、元禄太平の世の中に武士道の理想を説いた処世訓である。三島はこの『葉隠聞書』の死の哲学に大いに共鳴し、解説しながら、自己の文学観、人生観や戦後20年の世相に対する考えをまとめたのがこの『葉隠入門』である。

「行動家の最大の不幸は、そのあやまちのない一点を添加したあとも、死ななかった場合である。那須与一は、扇の的を射た後も永く生きた」(『葉隠入門』新潮文庫、13頁)という文章を読むと一見、「死の美学」を称える、いかにも三島文学らしさを感じるが、同時に「われわれは、一つの思想や理論のために死ねるという錯覚に、いつも陥りたがる。しかし『葉隠』が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もないむだな犬死さえも、人間の死として尊厳をもっているということを主張しているのである」(90頁)とも指摘し、死を過度に美化したり、理想化したり、意味づけることを戒めている。言い換えれば安易に「美しい死」を求めるな、と言っているとも読める。そう読むと、三島とは全く対照的な議論と考えられている、坂口安吾の『堕落論』(1946)の主張とも似通ってくる。

敗戦後の価値の大転換期に、坂口安吾は「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから、堕ちるだけだ」とむしろ開き直って生きてゆくことにエールを送った。ソクラテスが説くように「よく生きる」ことや、「よく生きられない」ために死ぬことよりも、「よく生きられなくても生き続けること」の方が難しいだろう。美しい死を求め続け、実際に自決してしまった三島由紀夫も、死すべきものとしての武士道を説きながら、生き永らえた『葉隠』の著者・山本常朝に共感し、死を安易に意味づけること、死に急ぐことを戒め、逆説的な形で人生を生き抜く哲学を語った。坂口安吾は「義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な道はない」と廃墟の中から立ち上がる心意気を説いた。安易なまとめは書けないが、生きたくても生きられない命が存在する限り、自ら断たなければ生きられる命は絶ってはいけないのではないだろうか。

しかし生き続けることは誰にとっても容易なことではない。その為にはいかによく生きるかだけでなく、日頃避けがちな死の問題についても考え、いかに死を迎えるべきについても考えておかねばならないだろう。死ぬ気になれば生きられるし、死の意味づけを自ら選ぶことが結局のところできないのだとしたら、死に急ぐ必要はない。三島の『葉隠入門』も坂口安吾の『堕落論』もそうした生と死のパラドキシカルな関係を明らかにしている良書である。

選択の自由とそれを妨げるシステム

2005-03-03 16:57:48 | 教育・学問論
アメリカ社会論に関心がある人に馴染み深い単語に「プロチョイス」という言葉がある。意味は「選択支持」ということだが、アメリカ政治の文脈では「人工妊娠中絶を支持する一派」を指しており、反対に中絶反対派を「プロライフ(生命重視派)」と呼んでいる。この二分法には大いに問題があるが、いずれにしてもアメリカ文化自体が「選択重視」の文化であることは旅行者にもすぐ分かるだろう。サンドイッチ屋に入れば、どのパンにどの具材を入れるかすべて注文しなければならないし、コーヒーショップに入っても必ず「カフェイン入りですか?カフェイン抜きですか?」と聞かれる。英語が苦手な人には選択重視のサンドイッチショップは脅威であるが、日本に来たアメリカ人に言わせると、「日本のマクドナルドではなぜマヨネーズ抜きの注文ができないのか?」と苦情を言ったりする。マヨネーズを入れるか入れないかは、アメリカ人消費者にとっては重要な権利なのである。

大学の、特にカリキュラムなどに関わる議論でいつも問題になるのが、学生の選択権をどこまで認めるのかという話である。近年の大学は学生の選択権を大幅に認め、必修科目的なものはどんどん減ってきている。それに対して比較的年長の教員は、「指導」や「体系性」、「一貫性」、「学生の興味関心の偏り」を強調して、あまり学生の選択権を認めたがらない傾向が強い。学生たち自身も「やりたいテーマが見つからない」、「選ぶのが難しい」といったことをしばしば言う。選択の自由には責任が伴うので、責任を負うことはなるべく避けたいのが人情なので、「これをやります」となかなか決断しにくいだろう。しかしそうした優柔不断な意見が時として、「学生は自分できちんと選べないから」という口実の元で、学生の自主的選択権を奪う温床になっているような気がしてならない。

自由と服従のパラドックスについては古くはナチズムの背景を描いたエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』があり、最近でも社会学者の数土直紀氏が『自由という服従』を出版されている。「権力から自由」が必ずしも自由な「選択」を保証しないということはしばしば指摘されてきたことであるが、皮肉なことにそうしたレトリックが自由な選択を認めたがらない権力者たちによって援用されてきたのもまた事実である。

私がいつも思い出すのは、イギリスの政治哲学者・アイザイア・バーリンの1958年の講演「二つの自由概念」である。バーリンは「自由」の名に値する唯一の自由は、人が何かをする意思を持つときそれを妨げられないこと、他人から干渉されないことであり、それは「・・・からの自由」という形で消極的にしか定義しえない、と語った。これに対して社会思想の一方の系譜は、そうした欲求充足型の「自由」は、低次元な自我に振り回されるので、より高度な目標を追求するためには自己の消極的な「自由」を否定しても、高次元の理性的な目標に奉仕すべきであり、それこそが本来の意味で「自由」なのだ、と考えた。バーリンは前者を「消極的自由」、後者を「積極的自由」と呼び、後者は結局のところ、フランス革命時のジャコバン独裁やソ連のスターリニズムなどにつながるので危険だと考えたのである。

社会主義を標榜した革命家たちが旧来の封建的支配や植民地支配に対するレジスタンス運動を成功させて、新しい国づくりをしたとき、結局のところ例外なく独裁者になり、個人崇拝や党への絶対的服従を国民に要求するようになっていったのは何故だろうか?毛沢東にせよスターリンにせよ金日成にせよカストロにせよ、彼らも当初は「・・・からの自由」、つまり自分たちの民衆の目的追求を妨げる欧米列強や日本帝国主義と戦っていたはずだが、いつのまにか「共産主義」という高次元の目標を実現するという美名の下、結果的に自分個人や党組織の「自由」を極限まで拡大し、国民の自由を大幅に制限するシステムを作り上げてしまった。「自由」の定義を一つの党・国家が独占することになってしまったのである。それを「積極的自由」と呼ぶならば、国民一人一人がバラバラな「自由」観をもち、「消極的自由」を追求する方がましだろう。こうした「積極的自由」の持つ危険性は学校の教師も自覚すべきではないかと常に考える。

大学の教師になる人種は、「自分がやりたいことを妨げられる」のが最も嫌いで、だからこそ好きな学問をやる道を選択したはずであるが、自分が教師になったとたんに、学生に好きな「選択」をさせない、それが「教育的配慮」であるというのはあまりにも虫がよすぎるのではないか。「何をやりたいか、まだわからない」学生も、「何をやりたくないか」は知っている。一律強制は高校までの中等教育の延長にしかならない。大学は選択の自由と責任を学ぶべき場であり、そうした機会を保証することは何を意味するのか、教師の側も学んでいかなければならないのではないだろうか?「好きなモノだけを選んでくのが、無責任だってワケじゃない、好きなモノさえも見つけられずに責任なんて取りようもない」という浜崎あゆみのが昔あったが、まさにそうだろう。

入試雑感

2005-03-01 16:28:24 | 教育・学問論

1月から3月までは入試の季節である。受験生だったのは遠い昔でいつのまにか入試を実施する側になってしまったが、入学試験にはいい思い出はほとんどない。日本の入試は冬場でインフルエンザが流行したり、雪で交通機関が乱れたりする可能性がある、季節的にはかならずしも最適とはいえない時期に試験会場に集めて一斉やることになっている。諸事情から現在のシステムになっているのだろうが、問題点は多い。

一方で最近はAO入試や多種多様な推薦入試が日本の大学入試でも一般的になってきた。以前、アメリカのあるリベラルアーツ・カレッジの学生選抜のプロセスを描いたドキュメンタリーを見たことがある。もともと少人数の学校ということもあり、高校時代の成績、推薦状、専任教員による詳細な面接、ディスカッション、OBによるインタビューなど、あらゆる角度からはかって慎重に学生を選抜している様子が描かれていた。日本の大規模大学にはとても真似できない技であるが、少子化にともない、一部の大学ではそうしたよりきめの細かい入試を将来的に実施していくこともあり得るだろう。

しかしアメリカのような書類審査による入試は、以前、ブログでも取り上げた、人種を考慮するアファーマティブ・アクションや、上院議員などの有力者の推薦状が役立つなど、日本的な一斉ペーパーテスト至上主義の立場からすると、「不公平」に見える点も多い。私の高等学校の校長は、「世界で一番『公平』なのは、日本の大学入試で、金持ちでも貧乏人でも都会の子でも田舎の子でも、名門の生まれでもそうじゃなくても、点数さえ取れば合格できるんだ」と言ってしばしば鼓舞していた。単純すぎる言い方だが、一面の真理をついているかもしれない。

昨年、サンフランシスコで調査をしているときにたまたま読んだ地元紙に興味深い記事が載っていた。名門スタンフォード大のお膝元のパロアルト・ハイスクールでは、「嘆きの壁」ならぬ「不合格の壁(Wall of Rejection)」という掲示板が構内にあり、そこに各大学から送られてきた「不合格通知」を受験生たちが自分で張り出すそうである。同高校からの出願者が多い、カリフォルニア大バークレー校、UCLA、スタンフォード大、カリフォルニア工科大などの通知が集中しているようだが、なかには担当者の人格を疑うような冷淡な文面のものもあるようだ。「最初は恥ずかしいと思ったけど、ひどく冷たい手紙を送った来た大学をさらし者にすることで悔しさを克服するんだ」などという高校生の談話も紹介されている。

アメリカ人らしいポジティブシンキングだが、一斉入試にしろ、書類選抜にせよ、選ばれたものには嬉しく、選ばれないものにとって悔しく苦しいのが、古今東西を問わない試験の常である。選ぶ側に回ると選ぶ難しさも感じるし、少しでもフェアでなければならないと身の引き締まる思いだが、「選ばれなくてもそれが人生の全てではないよ」と気休めを言うよりも、「なるべく選ばれるように頑張れ」と全ての受験生にエールを送りたい