紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

社会科ぎらいにつける薬

2006-08-18 19:49:31 | 教育・学問論
理科嫌い、理系離れが今日、問題視されている。資源に乏しく、先端技術と輸出産業で経済大国へのし上がってきた日本にとって、優れた理科系の人材を養成することは重要な課題であるだけに、小学生から高校生に至るまで年々、理科嫌いが増えていることは深刻な問題だろう。

しかしあまり問題にされないが、科目の好き嫌いは理科に限られたことではない。英語嫌いも世の中にはたくさんいるだろう。毎年、大学で英語を教えていても、何で大学まで来て英語をやらなければならないかと恨みで一杯の学生によく出会っている。数学嫌いも世間に多い。私自身も数学は得意でなかったが、文系を選ぶ理由に数学が苦手だったことを挙げる人は多い。国語、特に本を読むのが嫌いだという子供も少なくないだろう。漢字も苦手、まともな文章も書けない。新聞を読むのも苦痛だという生徒は全国にたくさんいるのではないだろうか?

その中で社会科(今は地歴・公民科か)嫌いの存在は意外と目立たないものかもしれない。今年はゼミの学生たちが何人か教育実習に行っているのだが、彼女たちの話を聞きながら、自分が中学校に実習に行った頃のことを思い出した。私の高校は、予備校のように受験指導を重視していたので、実習生として受け入れてくれなかったので、やむを得ず地元の出身中学に教育実習に行った。実習生が数時間しか授業をやらせてもらえないことも多いようだが、私の場合は2週間の間に二日目から毎日、3-4時間、授業をやらせてもらって、大変勉強になった。しかも「歴史」と「公民」の両方を教えた。歴史は市民革命のところで、公民は日本国憲法の三原則の話だったのを昨日のように覚えている。

その時に中学校の先生方や生徒たちの話を聞いていても、社会科が嫌いだという生徒は少なくなかった。「覚えることが多すぎる」、「名前ばかり出てくる」、「昔のことにしても今のことにしても実感がもてない」等など様々な意見を聞いた。

社会科や社会科学の教員になっている人は計算は苦手でも、固有名詞を覚えるのは得意だという人は多いだろう。文系は計算ができないから、外国語も含めて、暗記が勝負だ、という受験アドバイスも一理ある。ある程度の名前は覚えないと社会科や社会科学の科目は理解できない。大学に入ると、暗記中心の受験勉強の反動からか覚えることを極端に避ける学生が多いし、そうした風潮に迎合して、「すべて持ち込み可」などという、およそ試験とは言えない試験をしている教員も少なくないが、ある程度の固有名詞や基礎知識を覚えているからこそ、議論したり、理解できるものなので、その意味では大学の授業でも何かを「覚えさせていく」面をあまり排除すべきではないのではないかといつも思う。「持ち込み可」の試験で、持ち込んだ本を適当に抜書きしてお茶を濁したり、インターネットから「コピー&ペースト」して作成したレポートで次から次へと単位が取れてしまうようでは教育にならないだろう。

とはいえ私自身もまったく知らない国の政治や経済について書かれた本を読んだりすると、なかなか読み進めなかったり、頭に残らないこともある。そんな折には、自分が教えている科目について、学生たちもそんな状態なのだろうとふと思い出す。そういえば私が大学生の時、非常勤で私の学校に出講されていた高名なロシア政治の先生が板書やハンドアウトもなく、ロシア政治家や学者の名前を連発するのに、出席していた学生が「抗議」したこともあった。わかりやすい授業にするためには、ある程度、出てくる登場人物は絞って、ストーリーも単純にしなければならないのかもしれないが、今、教壇に立つ立場になると、できるだけ多くの名前や事実を伝えたいと思った、彼の気持ちが痛いほどわかる。

実際、毎年、毎回の授業のアンケートで、「詰め込みすぎだ」といわれることが多い。自分でも確かにそう思う。しかしあまり事実や史実を省略しすぎると、大雑把な一般論や文化還元主義で終わってしまいかねない。今、私が教えている学部は、中学・高校的な教科区分で言えば、「社会科(地歴・公民科)」的な科目が講義科目の大半を占めていて、外国語や国語的な科目は少ない。しかし中等教育では同じ社会科に属していても、文学部的なアプローチと法学、経済学、政治学などの社会科学的なアプローチで教えるのはまったく違う。私の学部の場合、文学部出身の先生が多いため、おそらく人文科学的なアプローチの授業が多いのだろう。その場合、ある意味で研究者が重要と考える人物や史実、時代、概念などをデフォルメして、それからいろんな現象を説明しようとする傾向が強いように思う。

答案を読んでいても、「アメリカは多民族国家なので敵を作らないとまとまらない。だから必ず敵を作るようにしてきた。第二次大戦ではファシズム、冷戦期はソ連共産主義、冷戦後は経済的ライバルである日本、そして現在はテロリストやならず者国家である・・・」といったことを書く学生は多い。そこに一面の真理はあるだろうが、仮想敵を想定するというのは「安全保障政策」の一側面であるとしても、その一言でアメリカ社会の傾向をまとめてしまうと、一方でアファーマティブ・アクションなどの様々な人種差別撤廃のための施策や二言語教育など、多民族国家を調整・維持するために行なわれてきた数々の努力を見過ごしてしまうことになる。それよりも何よりも戦時ならいざ知らず、平時にのんびり暮らしている普通のアメリカ人がいちいち外の敵を意識しているわけでない。むしろ現在のブッシュ政権が直面しているように、原油高によるガソリンの高騰で、支持率が急落しており、ガソリン高への不満の方が、人種や生活水準の差を超えて、アメリカ国民を「団結」させている。「テロ対策より、ガソリン対策をやれ」という声が強まっているのだ。そういう現実を見ていると、「国民統合の手段として戦争を多用する」といった印象論的な一般論が、小さな部族国家ではあるまいし、果たしてどこまで今日のアメリカ社会を理解するのに役立つのか、疑わしい気がする。

一方で「・・・年・・・月・・・日に・・・が起こりました」という事実だけ羅列しても面白くないし、それがもつ社会的意味が見えてこない。中高における社会科もそうだろうが、社会科学の面白さのひとつは、理論と事実のせめぎあいにあるのだろう。受験テクニック風にいえば、「大きく捉えて、細かく覚える」のが大切なのだ。

しかし教えている当事者としても思うのだが、高校や大学の社会の授業で習っていることが現実の時事問題を理解するのにダイレクトに役立つかというと、いささか心もとない面もある。国際関係の概論的な授業を取っていても、ヒズボラとイスラエルがなぜ対立しているのか、旧ユーゴスラビアの複雑な民族対立がどうして起こっているのか、なかなか理解できないであろうし、「日本政治論」の授業を取っていても、小泉首相が対中、対韓関係をぎくしゃくさせてまで、靖国参拝にこれほど固執するのか、理解できないだろう。もちろん現実の出来事を素材としながら、講義で補足説明している先生方も多いのだろうが、大切なことはそこで学んだ知識が大学を卒業して社会人になってから、その時点で起こっているニュースを理解したり、社会的発言をするのに役立つかどうかであろう。その点からすると社会系講義の賞味期限はかなり短いのかもしれない。そうなると、いずれ賞味期限が切れてしまう時事解説をするよりも、既に過去のものとなっている思想や歴史、理論を解説する方が、遠回りでも現在の社会や世界を理解するのに役立つのだろうか?実際、そうした思いで思想や歴史、文化論を講義されている方も多いのだろう。

この問題について、自分なりにはっきりした答えがあるわけではないが、現在担当している講義では、どちらかといえば理論よりも今、アメリカの社会や政治で起こっていることとその背景を解説することに重点を置いている。幸いにして合衆国については、日本語でも情報が比較的に豊富であり、報道に触れ、最低限の知識をもち、自分なりの意見や疑問をもっている学生も多いので、そうした疑問や意見に応えていく形で授業を進めることで、ある社会を観察・分析する視座を提供できるのではないかと考えている。それがどこまで成功しているのか、していないのかは、受講している当の学生たちの意見を聞いてみないといけないのだが、いずれにしても新聞や政治経済問題に対するアレルギーを解消するところまでは行っていないような気がしてならない。

それでは社会嫌いの人が苦手意識を克服するためにはどうしたらいいのだろうか?一つ提案したいのは、テレビのニュース番組でも新聞の国際面でもとにかく毎日、眺め続けることだろう。新聞やテレビでカバーされる情報では複雑の社会情勢、国際情勢を理解するのに十分ではないのだが、いずれにしても同じニュースがしばらく様々な角度から取り上げられ続けるので、毎日眺めていれば、次第に背景や因果関係が見えてくるようになるだろう。因果関係が見えるというのが、社会科(学)の醍醐味の一つではないだろうか?その上で気になることは自分なりにインターネットなり図書館なりで調べてみると、さらに深い知識がついて、興味が広がっていくことになるだろう。

受験生にとっては目の前の試験の点数を上げないといけないので、「頻出分野の要点整理」といった無味乾燥な参考書とにらめっこせざるを得ないが、時間的に余裕がある時に少しでも学校の授業を離れて、今、世界や日本で起こっていることを自分なりに調べてみたら、学校で習っている知識と繋がる部分と繋がらない部分、過去や外国との意外な連関が見えてきて面白いのではないかと思う。理科好きや数学好きの場合と違って、社会科好きの学生が増えても必ずしも世の中が発展するわけではないのかもしれないが、日本や世界の民主主義を支えるために、社会問題から逃避しない学生たちが増えてほしいと思う。


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