夏の最中に「
秋のブラームス」という記事を書いた。気付けばもう12月。近畿でも初雪が見られた。夏にブラームスを聞くのもいいものだと書いたが、この秋は久しぶりにクラシックのCDをよく聞いていた。旬の魚や野菜のように、やはりブラームスは秋に聴いた方がはるかに良かった。最近はどちらかというとジャズに凝って、ピアノ・トリオのCDを集めたり、たまには生演奏を聞きに行ったりしていたのだが、ジャズを聞き出すとクラシック・ピアノの磨かれた美しさが懐かしく感じられて室内楽からまた聞き始めるようになった。
クラシックを一番熱心に聴いていたのは中学生の頃で、バイオリンを習っていた友人がレコードやテープを貸してくれて、最初はドボルザークの『
新世界(交響曲第9番)』といった入門的な曲から聞き始め、交響曲からやがて協奏曲、室内楽、器楽曲と聴くようになった。クラシックでもジャズでもとっつきにくそうなジャンルに入っていくには、やぱり最初に名盤と言われるCDを集中的に聴いていくのがいいのだろうが、買い続けるのは特に子供の場合は無理であるし、レンタル屋にはクラシックはほとんどない。図書館にも昔は時々あったが、図書館さえも今では「無料のレンタル屋」で著作権を侵害しているとして批判されるご時世なので、貸し出しも制限されてくるかもしれない。そう考えると、クラシックに詳しい友達がいて、気前よく貸してくれたのは有難かった。楽器は習ってなかったし、まるで演奏できないが、集中的にいろんな曲を聴いているうちにだんだんと聞く耳を磨いてこれたような気がする。
この秋、久しぶりに聴いて感銘を受けたのは、今は亡き名指揮者、「帝王」の名を恣にしたヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルの最後(3度目)の
ブラームス交響曲全集である。カラヤンというと「
アダージョ・カラヤン」というCDがベストセラーになったのを記憶されている方も多いと思うが、クラシックを知らない人でも知っている大スターで、レガート奏法と呼ばれる磨きぬかれた明快な演奏と端麗な容姿を生かしたカリスマ的な指揮者だったが、逆に言うと、「通」ぶるクラシック・ファンからは敬遠されがちでもあった。ドイツ教養主義的なクラシック・ファンからすればフルトベングラーの演奏こそが正統派で、カラヤンは「通俗名曲の大指揮者」に過ぎないと言った悪口もよく聞かれた。
もちろんフルトベングラーのように深い精神性を感じさせる重厚なベートーヴェンやブラームスも嫌いではないが、カラヤンの最晩年のブラームスは、頂点と言われた1970年代の演奏には見られない枯淡の境地と同時に、カラヤンが生涯貫いてきた、クラシックの現代的再生という姿勢が強く感じられた。同じ19世紀の音楽でも例えばメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲やチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のような曲を聞くと、いかにも古風な情緒主義が漂ったメロディで、ドライに演奏しても、ロマンティックに演奏にしても古さを免れない気がするが、バッハの楽曲やベートーヴェン、ブラームスの交響曲などは贅肉を落とした演奏をすると、時代を超えて、現代のテーマが響いてくるような演奏に十分なりうる気がする。カラヤンの
ベートーヴェン交響曲全集やブラームス全集が様々な批判を受けながらも一方で高く評価されてきたのも演奏の現代性にあるのだろう。同じベートーヴェンやブラームスを得意なレパートリーにしているオーケストラでも、伝統重視のウィーン・フィルより、現代的な都市のオーケストラであるベルリン・フィルの方がそうした傾向を強く感じさせられる。
しかしクラシックを聞き始めた中学生の頃はカラヤンのベートーヴェン『運命(第5番)』や『英雄(第3番)』jはいいと思ったが、ロマンティックな第三楽章が有名なブラームスの交響曲第三番や、独特の寂寥感と情熱をたたえた交響曲第四番は、モーツァルトの交響曲第四〇番、ベートーヴェンの『田園(第6番)』の場合と同様にブルーノ・ワルター指揮の
演奏の方を愛聴していた。その頃持っていた、カラヤンの
70年代のブラームスの演奏は壮麗だが、ブラームス的な情緒が何か欠けているように感じていた。そんな折、生でカラヤン指揮ベルリン・フィルのコンサートに行く機会に恵まれた。1984年、カラヤン8度目の来日公演を東京・普門館で聴いた。
インターネットで調べてみると10月23日だったようである。演目はブラームスの交響曲第三番と第一番だった。父に連れられて、というより、ブラームス好きな私に父が付き添っていったというのが正しいだろう。カラヤン美学なのか、アンコールもすることなく、シンフォニー2曲でシンプルに終わったが、クラシックの交響曲などはほとんど聴かない父は帰り道、「ブラームス以外もやればいいのにね」とつぶやいていた。
この晩の演奏は、日頃、聞いていたレコードの70年代後半録音の演奏とは全く違って、「綺麗なブラームス」ではなくて、男らしい重厚なブラームスだった。ライブにはライブのよさがあるとしみじみ思った。カラヤン最後のブラームス第一番(1987年録音)が出たとき、従来のイメージを破るものとして高い評価を受けたが、私が聴いた84年のコンサートもまさにそのCDを予見させるような骨太のブラームス第一番だった。久しぶりにそのCDを聞きながら、あの晩の演奏のことも思い出した。クラシックの演奏も一方ではオリジナル楽器や編成、楽譜にこだわって忠実に再現しようとする方向に走っているようだが、ベートーヴェンやブラームスが表現しようとした世界を、より現代的な形で再現しようとすることも新しい鑑賞者を増やす意味でも重要なのではないかと思う。その意味でとかく批判されがちのカラヤンが果たした功績は大きいだろう。ただカラヤンのようなカリスマ性とスター性を兼ね備えた指揮者がその後出ていないのが淋しいことだと思う。