紅旗征戎

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2008年に聴いたコンサート(2)

2009-03-12 00:28:04 | 音楽・コンサート評

2008年後半に聞いた最初のコンサートは、9月15日のリッカルド・ムーティ指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団大阪公演(於 フェスティバル・ホール)だった。ウィーン・フィルを生で聴くのは実は今回が初めてで、毎年元日にテレビでニューイヤー・コンサートの中継を見たり、中学生のころから数知れないLPやCDで聞いてきたオーケストラを生で聴けるのは感慨深かった。イタリア出身の67歳のムーティは、ズービン・メータやダニエル・バレンボイム、小澤征爾などと同世代で、ニューイヤ―コンサートも4回指揮し、ウィーン・フィルとの来日も今回で4回目と関係が親密である。この世代の指揮者は、現在のクラシック演奏の主流となりつつあるピリオド奏法(作曲された時代の楽器や奏法をなるべく忠実に再現しようとする奏法)を採用することなく、20世紀前半までのように現代楽器を使いながら、大人数でベートーヴェンやモーツァルト、さらにはバッハやハイドンといった古典派を演奏するのが特徴的だ。個人的には今まであまりピンとくる指揮者ではなかったが、今回は、ヴェルディの珍しい曲目とチャイコフスキーをウィーン・フィルで聴きたいということもあって行ってみた。

ステージの右端の最前列の席だったので至近距離でムーティの指揮やウィーン・フィルの演奏を聴くことができた。一番印象的だったのは、日本人にもおなじみのコンサート・マスターのライナー・キュッヒルのヴァイオリンの音色がまるでソリストのようにはっきり聞き取れたことだった。ムーティの指揮は、楽団員の自発性を尊重しているようで、細かい指示はあまり出さず、振らない時もあったりしながら、要所要所は締めて、盛り上げるというような余裕を感じさせた。 曲目は、前半はヴェルディの『ジョヴァンナ・ダルコ』序曲、『シチリア島の夕べの祈り』からバレエ音楽「四季」で、どちらもムーティは録音しているが他にはCDはほとんどない珍しい演目で、もちろん今回初めて聞いた。前者はジャンヌ・ダルクを、後者は1282年のフランス人支配者によるシチリア島民の虐殺を描いたオペラということでテーマとしては悲劇的な史実を含んでいるようだが、音楽的にはムーティ得意のイタリア・オペラで、ウィーン・フィルの柔らかく優美な響きがマッチしてよかった。前半を聞く限りはさすがに世界トップレベルのオーケストラだと感心した。

後半は慣れ親しんだチャイコフスキーの交響曲第5番で、こちらは率直に言って、最高の出来とは言えなかった。金管でミスも少なくなかったし、ウィーン・フィルの特徴といえば特徴だが、エッジが甘いというか、ソフトフォーカスというか、もともとチャイコフスキーのムード音楽的なところがウィーン・フィルの緩い演奏で悪い意味で強調されてしまった感があった。アンコールは、ムーティが2000年のニューイヤー・コンサートで取り上げたヨーゼフ・シュトラウスのワルツ「マリアの思い出」で、これも珍しい演目で、最後にウィーン・フィルによるウィンナー・ワルツを聞けて、聴衆一同大満足だった。

 9月21日は、東京芸術劇場で読売日本交響楽団のコンサートを聴いた。指揮はポーランド出身のスタニスラフ・スクロヴァチェススキーで85歳と高齢ながら、テンポの速く、スマートな演奏で人気の巨匠である。彼のベートーヴェン交響曲全集やブルックナーの全集は、カラヤンとはまた違うが同様に現代的でスマートな魅力あるセットだ。今回の演目は、前半が、ブラームスのピアノ協奏曲第1番(ピアノ ジョン・キムラ・パーカー)、後半がブルックナーの交響曲第0番だった。

ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、ブラームスが25歳の時の作品で、クララ・シューマンとの恋愛やその夫で恩師のロベルト・シューマンの死、自分自身の作曲家としての将来に悩んでいた時期の作品で、ブラームスとしては情熱的で若々しい、制御しがたい感情をストレートに表現したものである。ブラームスの曲ではあるが、ある種、ロック的な要素を含んだ名曲で、若いクラシック・ファンにも人気がある曲だと思う。今回のピアニストのパーカーは、49歳の日系カナダ人でジュリアード音楽院出身。まさに肖像画のブラームスを連想させる髭と堂々たる風貌で、とても男性的な迫力のあるピアノを聞かせてくれた。もともと「ピアノ付き交響曲」と評されるように、オーケストラの部分が伴奏ではなく、主役級の扱いになっており、その一方でピアノにも高度な技巧とパワーが求められる曲なので、コンサートで聴く機会はそれほど多くないが、パーカーのパワフルで情熱的な演奏は、この曲に求められる諸条件を全てクリアしていた。

後半のブルックナーの交響曲第0番は、単一楽章でも20分を超えるような長い交響曲ばかり書いたブルックナーとしては短い、全体で45分程度の習作で、ベートーヴェンの第9番の影響を強く感じさせる点では、ブラームスの第1番に似たところもある。敬虔なカトリックのオルガン奏者だったブルックナーについて、日本の音楽評論家は何かと「神への祈りが…」、「森での逍遥を連想させる云々」といった、ある種のステレオタイプ的な方向性から演奏の良しあしを論じがちである。しかしブルックナーはもともとはドラマティックなワーグナーの影響を強く受け、現代的な管弦楽法を用いて、華やかな演奏効果を持つ部分も多い。スクロヴァチェフスキーの演奏はむしろ「都会派」の演奏とでもいうべきで、素直にオーケストラの技術の高さとブルックナーの管弦楽としての面白さをテンポよく表現するものだった。読売日響も練習やリハーサルを念入りに行ったことが推測されるような安定した、実にプロフェッショナルなアンサンブルを保っていて、安心して聴けた。

10月に聞く予定だったアイスランド交響楽団は、珍しいアイスランドのオーケストラを聴けるのを楽しみにしていたところ、金融危機によるアイスランドの銀行口座の凍結という事態で来日中止となった。シンフォニーホールに払い戻しに行ったついでにまだ良い席が残っていたサンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団のチケットを買った。今回、聞いたのは11月2日の公演で、チャイコフスキーの交響曲第4番と第5番というチャイコフスキー・チクルスの一環だった。サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団は、往年のクラシック・ファンにはソ連のレニングラード・フィルとして名高かったオーケストラの後継楽団である。ムラビンスキー指揮のレニングラード・フィルは、鉄壁のアンサンブルと重厚なブラス・セクションで鳴らしたオーケストラで日本にも何度か来日し、おそらくはまだソ連信仰が健在だった1960-70年代には半ば神格化された存在だったようだ。残っている録音はソ連録音が多いため、音の状態も貧しく、生で接した人しかおそらくは真の姿は知ることはできないが、DVDやCDでも十分、その「凄さ」を理解できる面もある。チャイコフスキーやショスタコーヴィチといった専門のレパートリーはもちろん、ベートーヴェンやブラームスといったドイツものでも、贅肉をそぎ落とした、ストイックで鋭角的な演奏が魅力的だ。

現在の音楽監督は、70歳のコーカサス生まれのロシア人指揮者ユーリ・テミルカーノフでレニングラード音楽院出身、ムラヴィンスキーの正統な後継者だが、前任者が偉大すぎたことや、ちょうどソ連崩壊の混乱期にオーケストラを率いなければならなかったことで、「レニングラード・フィルを西欧化させて、『普通』のオケにしてしまった」などと批判されることも少なくないようだ。 今回、実際に演奏に触れてみるとそんな先入観は一気に吹っ飛んでしまった。ソ連のプロパガンダを背負った、ムラヴィンスキーは「西欧人指揮者による軟弱で、センチメンタルなチャイコフスキー演奏をいかに否定するか」を自分のアイデンティティとしていたようだが、テミルカーノフにそんな力みはない。しかし9月に聞いたムーティ&ウィーン・フィルには絶対に出せない、ロシアの「大地の歌」とでもいうべき、地響きのようなブラスや低弦を聞かせてくれた。「本場の演奏」という形容は安直で嫌いなのだが、まさに「ロシアのチャイコフスキー」としか言いようがない交響曲第4番と第5番を堪能できた。いいオーケストラの場合でも本番では、弦セクションはいいけど、金管がいま一つといったことや、反対に金管は上手いが、コンサートマスターなどの弦のソロがよくない、という風にバランスを欠く場合がむしろ多いが、どちらも不満なく、調和が取れていた点も往年のレニングラード・フィルに引けを取らない水準にテミルカーノフが鍛えていることがよく伺われた。アンコールは予想に反して、なぜかエルガーの「愛のあいさつ」、さらに定番のチャイコフスキーの「くるみ割り人形」からトレパックをやってくれた。席はところどころ空席も目立ったが、最後は聴衆が一体となって盛り上がった。(写真はテミルカーノフ)

 



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