紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

踊る国際人、伊藤道郎(1)

2009-03-18 12:13:30 | 芸術

メジャーリーグでの日本人選手の活躍や映画「おくりびと」のアカデミー賞受賞、小澤征爾のウィーン国立歌劇場音楽監督としての活躍などなど、スポーツや芸術面で国際的な成果を挙げている日本人のことは、グローバル化が進んだ今日でも大きく取り上げられ、称賛される。しかし実は、第二次大戦以前から世界の最前線で活躍した日本人は少なくない。戦後の日本より富の分配が不均衡だった社会でけた外れの富豪がいて、子弟を海外で優れた教育を受けさせていた例も少なくなかったから、そうした恵まれた環境で才能の花を咲かせた人たちもいるのだ。ヨーロッパに8年も留学し、サルトルに家庭教師をさせて、ハイデッカーに師事していた九鬼周造(1850-1931)も九鬼男爵家の出身だったし、最近、流行りの白洲次郎(1902-1985)も芦屋の貿易商の息子で、ケンブリッジ大学に留学して、車を乗り回し、イギリス英語を身につけ、戦後、占領したGHQの民政局長コートニー・ホイットニー准将に対して、「あなたももう少し勉強すれば英語がうまくなるでしょう」と言い返して絶句させたのも有名である。

舞踏家・伊藤道郎(1893-1961)もそんな戦前日本が生んだ国際的才人の一人である。以前、何気なくつけたテレビで、「NHK-BS-hi:ハイビジョン特集:異国と格闘した日本人芸術家 夢なしにはいられない君 舞踊家 伊藤道郎の生涯」というドキュメンタリーを見たのが伊藤を知るきっかけだった。ドキュメンタリーで紹介された伊藤の生涯の概要は、こういうものである

発明家の父と高等女学校出身の教育熱心な母の間に生まれた道郎は、19の時に本格的に声楽を学ぶためにドイツに留学するが、声量などの点でヨーロッパ人には敵わない点などを認識し、山田耕筰の助言もあり、進路転換し、舞踏家を目指すようになり、リトミックなど新しい教育法を行っていたライプチヒのダルクローズ学院に入学する。ところが第1次世界大戦の勃発で、ロンドンへの脱出を余儀なくされる。ロンドンでは貧窮生活をしていたが、衣類や指輪を質入れして出入りしていたサロン、カフェ・ロワイヤルで、ショパンの音楽に合わせてダンス・ソロを踊ったところ、喝采を浴び、ホスト役のドイツ語を話す紳士と親しくなるが、それが当時のハーバート・ヘンリー・アスキス首相(自由党)であった。詩人エズラ・パウンドはその様子を詩に書き留めている。

ミチオはガス代のペニーもなく、真っ暗な中に座っていた。

しかし彼は言った。「あなたはドイツ語が話せるか」と。

1914年、アスキスに。

その頃から様々な芸術家のパトロンから声がかかるようになり、エズラ・パウンドと協力して、アイルランド神話と能を融合したイェイツ(アイルランドの詩人、ノーベル文学賞)の『鷹の井戸』の制作に尽力し、それを初演する。

イギリスで成功をおさめた道郎はさらにアメリカに移って、舞踏家、演出家として大活躍するようになるが、やがて日米関係が悪化し、開戦やむなしの機運が高まる中で、一時帰国し、日本の軍関係者や経済界の人物と接触し、和平工作への協力を求められる。しかし努力も空しく真珠湾攻撃の翌日、拘束され、モンタナの日系人収容所に入れられ、捕虜交換船で昭和18年に帰国する。戦後は、GHQに要請されて、接取された東京宝塚劇場で米軍人向けにスタートしたアーニー・パイル劇場の総演出兼顧問を務めることになる。戦後復興が進んでくると、アメリカでの経験を生かしてミス日本コンテストの演出やファッションモデル養成などの分野で活躍し、最後は東京オリンピックの開会式・閉会式の演出を担当する予定だったが、オリンピックを待たずに脳溢血で死去した。ドキュメンタリーの最後は、現在、アメリカで暮らしている道郎の孫娘が、道郎のダンスの弟子と会い、ダンスを習うという場面で締めくくられていた。



最新の画像もっと見る