紅旗征戎

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尽くす男は存在するのか?

2005-03-20 17:09:34 | 社会
酒席での会話だったと思うが、ある男子学生が自分は女性に尽くすタイプだと自己紹介しているのに対して、同席していた女子学生が噛み付いた。「好きな人のために一生懸命何かをするのは当たり前で、それを『尽くす』と思うのは、男に女が尽くして当たり前だという偉そうな発想だ」というのである。確かに辞書で「尽くす」を引いてみると、「(「…につくす」の形で)人や団体・国家のために献身的に努力する。 「夫に―・す」「社会のために―・す」)と書いてある(大辞林)。「奉仕」という言葉も似ているが、こちらは「国家・社会・目上の者などに利害を考えずにつくすこと」と定義されている。両方とも確かに伝統的に目上と考えられてきたもののために働くニュアンスである。だから「尽くす」男という表現に、権力関係に敏感な女性が腹を立てるのは無理もないだろう。

一方でこんなエピソードを思い出した。私が大学生のときに中学に教育実習に行った時のことだが、中学校だったせいか、私以外の実習生はすべて女子学生だったので、控え室などでは居心地があまりよくなかったのだが、彼女たちはあまり私を気に止めず女性同士の会話をしていた。ある日、体育の実習生だった人が、フォークダンスを教えていて、クラスの女の子の一人が男の子とダンスで手をつながされて泣いてしまって困った、という話をしていた。他の実習生たちは、「思春期だから大変よね」とか「よっぽど嫌いだったのね」とか「そんな女の子をどうフォローしたの」とかそんなことばかり言い合っていたので、私が「泣かれた男の子も可愛そうだね」と言ったところ、「そんなことは思いつかなかった、言われてみればそうね」と全く念頭になかったようで、あっけに取られた様子で一同同意したのには驚いた。「尽くす男」という表現に鈍感な男も問題だが、フォークダンスで泣かれた男の子に同情しないのも女性の偏見と言えるだろう。

このように女も男も世界の半分しか見ていないのかもしれない。なるべく相手の立場にたって考えるように、と小学校から教えられてきたと思うが、気づかぬ偏見や思考パターンか抜け出すことは容易ではない。結局、話し合って違う見方を出してみないとわからないだろう。しかし分かったからと言って解決できるわけでもない。ゲーム理論の教科書で出てくる定番のゲームに「両性の戦い( The Battle of the Sexes)」というものがある。これは有名な「囚人のジレンマ」ゲームと同様に勝ち負けが決まらない非ゼロ和ゲームの一例だが、バレエを見に行くかボクシングを見に行くかで女性と男性の意見が分かれ、どちらも一人で行くよりは二人で行きたいと思っているが、バレエを選べば、女性は満足するが男性が満足できず、ボクシングを選べば、女性が満足できず、どちらかを両方が希望する場合以外に最適解がない、というゲームである。

教科書によっては結局じゃんけんで決めることを勧めていたり、あるいは繰り返しゲームとして今回はバレエに行くが、次回はボクシングに行くことを勧めているが、いずれにしてもどちらかに行くときは一方が我慢せざるを得ない。ゲーム理論が想定しているような合理的行為者ばかり出ないので、いやいや付き合っているうちに興味をもつようになることもあるだろうが、このゲームの例で言えば、仮に男性が熱くボクシングの魅力を語ったり、または女性がバレエの魅力を語って、お互いの考え方の違いやその論理がよく分かっても、お互いの興味の溝が埋まらない限り、結局、どちらを選ぶかは、相手に合わせようと思う側が譲ることになるのではないだろうか?実際、本によっては強引にバレエの切符を2枚買ってしまって選択肢をなくすことが「合理的」としているものもある。「尽くす男」という表現がまずいとしても「譲る男」だったらよいのだろうか?平等で互恵的な関係作りはつくづく難しいものだと思う。
 


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