紅旗征戎

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「黒い憂鬱」と「白い罪」-シェルビー・スティールの新著を読む

2007-01-14 19:27:25 | 社会
黒人監督スパイク・リーの代表作、映画『マルコムX』でとりわけ印象に残ったのは、小学校時代のマルコムが将来何になりたいかを教師に聞かれた時、勉強のできた彼が『医者か弁護士になりたい』と答えると、教師から「君は黒人だからどちらも無理だから、大工になれ」と勧められる場面だった。教師の何気ない一言が生徒の心を傷つけてしまう、人種差別の厳しい現実を見せ付けられるような一幕だった。両親を人種差別主義者に殺害される場面と合わせて、マルコム・リトルが白人を憎み、黒人分離主義者として成長していくのもむべなるかなと思わせるプロットだった。

しかし今、考え直してみると全く別の見方もできる。その当時の状況では実現が難しい夢をもった生徒に、社会の厳しい現実を認識させ、より実現可能な目標を立てるように指導した教師の親心だったのかもしれない。教師と生徒の信頼関係や、生徒の側の受け取り方によって、同じ言葉でも全く違った意味や重みを人生に与えることになるだろう。

そんなことを考えさせられたのは、保守派の黒人評論家として名高いシェルビー・スティール(1946-)の新著"White Guilt(白人の罪悪感)”に出てきた少年時代の回想を読みながらだった。スティールは、黒人知識人として、中産階級的なモラルを重視する立場から、公民権時代以降の人種関係の問題点を指摘した"The Content of Our Character(私たちの人格の中身)"(1990)で一躍有名になった。当時は、カリフォルニアのサンノゼ州立大学の英文学教授であったが、現在はスタンフォード大学のフーバー研究所の研究員を勤めている。在日韓国人の訳者が『黒い憂鬱』という秀逸な意訳タイトルで1994年に日本語版を出しているので、日本でも人種問題に興味がある人で読んだ人も少なくないだろう。

この"The Content of Our Character"というタイトルそのものが皮肉なのだが、有名なキング牧師のワシントン大行進の際の名演説私には夢があるの一節、「私はいつの日か、私の4人の子供たちが、肌の色ではなく、人格の中身で判断されるような国で暮らせることを夢見ています」からとったものである。つまりスティールに言わせれば、公民権政策以後、採られるようになったアファーマティブ・アクションなどにより、例えば大学入試で「人種優先枠」が設けられるなど、今はかつてとは別の意味で「肌の色」で判断されるようになったと批判しているのである。

昨年出版された"White Guilt(白人の罪悪感)”も前著での議論を基本的に踏襲しているが、スティールの個人的な体験を多く盛り込み、より体系的に議論を進めている。

野球少年だった頃、白人しか入れなかった近所の野球チームのコーチを説き伏せて、なんとかバットボーイにしてもらって一生懸命働いたものの、遠征試合は白人しか入れない球場で行なわれたため、遠征バスに乗せてもらえなかったこと。家族旅行で他の町を訪ねた時は、まず地元の黒人の人に、黒人街がどこかを尋ねないと食事も宿泊もできなかったこと。親の方針で自分以外の生徒が皆、白人である学校に通っていたが、歴史の教科書に、奴隷制を正当化するがごとくに「卑屈に笑っている奴隷」の写真が掲載されているのを見て、教師に対して「奴隷は幸せじゃなかった」と恐る恐る抗議したものの、無視されたこと。大学時代に学生運動家として、要求書を携えて、学長室に乱入した際に、彼が吸っていたタバコの灰をじゅうたんに落としたのをみて、白人の学長が一瞬、「許せない」という風に顔色を変えたが、やがて引きつった笑顔に変わったこと。英文学科のカリキュラムに「エスニック文学」を入れるか、入れないかをめぐって同僚と言い争ったこと・・・。少年時代の人種差別から公民権時代を経て、やがて多文化主義・ポストコロニアリズム全盛時代を英文科教員として迎えた彼の眼を通して、アメリカにおける人種関係の変化がリアルに浮かんでくる。

本書の論旨は明確だが、議論を要約すると次のようになるだろうか。

1955年にミシシッピーで黒人の若者が殺害された時、犯人は白人だったために無罪となったが、95年のO・J・シンプソン裁判では、沢山の証拠にもかかわらず、シンプソン弁護団は、警察が「人種差別的」だったと、争点を人種差別にすりかえることで無罪判決を得た。逆転しているがどちらも「人種」が理由になり、真実が歪められている。1950年代以前のアメリカは、「白人の責務」という道徳観で人種差別を正当化していたが、公民権法で人種差別が禁止され、従来の差別の結果に対する補償が政策の中心になると同時に、過去の人種差別を反省し、黒人たちを「犠牲者」だと見る「白人の罪悪感」が社会のモラルの中心となった。

クリントンは、不倫スキャンダルにもかかわらず、大統領の任期を全うしたが、人種差別発言をしていたらできなかっただろう。全ての既存の道徳的価値観が相対化してしまった、60年代以降のアメリカ社会において、「人種差別」と決め付けられることが、唯一、致命症となる基準となった(同じようなことが性差別や同性愛差別のタブー化へと拡大していった)。過去の人種差別やベトナム戦争などによって、自分たちの道徳的な「正しさ」に自信を失ったアメリカの白人たちは、「反省」や「罪悪感」といった消極的な形でしか道徳を規定できなくなり、社会の道徳基準があいまい化していった半面、黒人たちは、貧困や犯罪、不品行、学業成績不振などを全て社会構造や過去の差別のせいにして、責任転嫁するようになった。

同時に、黒人を「犠牲者」と位置づけ続ける限り、白人はいつまでも黒人を「対等なもの」とみなさず、差別を続けることになる。また黒人知識人や成功した黒人たちが、黒人を何か批判するような発言をすれば、「裏切り者」扱いされかねず、相変わらず「人種」の中に閉じ込められていると言わざるを得ない。こうした悪循環を断ち切るには、黒人というカテゴリーの中にとどまるのではなく、個人として自立し、社会的責任をとり、競争に勝ち抜いていくための努力をするという当たり前のことをするしかない。


スティールの主張は大体、こんなところである。

こうした主張自体はあまり新鮮味もないかもしれないし、モラルと自己責任を強調するアメリカ保守派の典型的な主張と片付けることも可能かもしれない。しかし祖父の代から政治家で、ずっとメインストリームにいるブッシュ現大統領や安倍首相、小泉前首相が、自己責任や保守主義を語るのと、人種差別社会で、責任と努力の大切さだけを信じて、駆け上がってきたスティールが言うのでは、同じメッセージでも全く意味も重みも違うだろう。

スティールの父は、貧しいながらもトラック運転手として身を粉にして働き、家族を養い、自分の家を建て、また中産階級的な価値観を身につけさせるため、息子を黒人学校ではなく、白人生徒が多い学校に入れた。人種完全別学の南部ではなく、中西部(イリノイ州)に育ったのも幸いしたかもしれない。

こうしたマイノリティ出身の保守派の人たちの著作を読んでいて、いつも感じるのは、彼らが子供の時から自尊心が強い点である。プライドが高ければ、それを満たすための努力も惜しまないだろうし、また「同情」されることは、相手の優位を認めることだから潔しとしないだろう。「白人の罪悪感」というものを、彼がことさらに批判しているのもその点にあるように思われる。

同じような文脈で思い出すのが、フェミニズム批判の論客・長谷川三千子氏が十年以上前に、『中央公論』で書いていたエッセイである。彼女が書いていたのは、子供の頃、男の子とばかり遊び、喧嘩でも勝っていたので、自分は男の子より強いと思い込んでいたが、ある日、彼女が明らかに自分より強い男の子のことを殴ろうとしたときに、男の子が、『まいったな、しょうがないな』という表情をして、わざと負けたそうである。その表情を見てから彼女は無邪気に男の子を殴れなくなったそうである。そうした思い出を紹介した上で、彼女は、「男がすべて悪い、女は、差別する社会の犠牲者であると、女たちが叫んでいるうちは、男女平等社会は実現できない。男に対して、『まあしょうがないな』と余裕の表情を見せられるくらいに強くならないといけないだろう」と言ったような内容で結んでいたのが印象的だった。

長谷川氏の夫婦別姓反対論など一連のフェミニズム批判には共感できない点も多いが、スティールにしても長谷川氏にしても、共通しているのは、女性と黒人というリベラル派が主流であろう知識人グループに属していながら(・・・彼らは属していないというだろうが・・・)、そうしたカテゴリーでくくられることも、また戦略的に自らをマイノリティとして位置づけたり、その上で男性や白人といったマジョリティを批判対象とするようなことを潔しとしないプライドの高さである。

ただ問題なのは、保守派と目される『中央公論』誌が上野千鶴子氏と対立させて、長谷川氏の文章を載せ、またブッシュ大統領が、スティールの本を賞賛したように、こうした誇り高きマイノリティ知識人の言説が、結果的には、マジョリティ保守派に利用されかねないことである。おそらく彼らはその点は十分認識しているがゆえに歯がゆい思いをしているかもしれない。

いずれにしてもある集団やある国を過去の歴史の「犠牲者」だと決め付けて、それに対して「援助」しようとしたり、その「理解者」を気取ったり、「連帯」を呼びかけたりすることが、知的にも社会的にも「不遜」な行為であり、さらに差別意識を再生産しかねないということを改めて考えさせられた。比較的平易な英語で、声高ではなく淡々と書かれているのだが、社会の偽善に鋭く突き刺さる刃のような一冊である。