紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

マーラーとウィーン、ニューヨーク

2006-06-26 23:45:33 | 音楽・コンサート評
テキサス州ダラス市のダウンタウンにThe Sixth Floor Museumという博物館がある。文字通り6階だけが展示施設になっているのだが、J・F・ケネディの狙撃犯オズワルドがオープンカー上のケネディをライフルで撃ったのが、当時、教科書倉庫だったこの建物からだったのである。ケネディ政権や暗殺事件についての様々な展示があり、2月に訪れた折に興味深く見ていたが、展示品の中に、アメリカの大指揮者レナード・バーンスタインのサイン入りのライターがあった。ケネディの大統領就任を記念して、贈られたもののようである。

レナード・バーンスタイン(1918-90)は、ミュージカル『ウェスト・サイド・ストーリー』の作曲家としてよく知られているが、アメリカが生んだ初のクラシック界の大スターで、1950年代から60年代にかけてはニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者として、70年代から80年代にかけては、ウィーン・フィルを中心にヨーロッパの主要オーケストラを客演して、「帝王」カラヤンと人気を二分した。ヨーロッパがクラシックの本場ということで、日本のNHK交響楽団もそうだが、シカゴやフィラデルフィア、クリーブランドといったアメリカ諸都市の主要オーケストラも音楽監督や常任指揮者は今でも(ロシア東欧も含む)ヨーロッパ出身者が占めている。バーンスタインの時代は、ナチスの迫害を逃れたユダヤ系音楽家たちがアメリカの音楽界を牛耳っていた。バーンスタイン自身もマサチューセッツのユダヤ系ロシア人の家に生まれたが、3世で生粋のアメリカ育ちだった。きびきびとしたリズム感と鳴り切ったメロディーを武器にしたニューヨーク・フィルでの明快な演奏で名声を博して、晩年は本場ヨーロッパでの重厚でロマン主義的な演奏でその芸術性を評価されるという恵まれた音楽人生を送った人である。

バーンスタインがもっとも得意としていたのがマーラーの交響曲で、同じユダヤ系としての民族的共感があるなどとしばしばまことしやかに論評されてきた。マーラーのシンフォニーは起承転結なベートーヴェンと違って、ともするとパッチワーク的に音楽の流れが途切れていくような印象を受けがちなのだが、バーンスタインのマーラー演奏を聞いていると、長い交響曲も確かに一つの必然の元に作られているように聴くことができる。その意味でもマーラー入門に最適かもしれない。彼は映像も含めると、マーラーの交響曲全集を3度録音しているが、主にニューヨーク・フィルと録音した最初の全集には、JFKの弟で司法長官を務めて、兄同様に暗殺されたロバート・ケネディの、セント・パトリック教会での埋葬ミサでの「アダージェット(交響曲第5番第4楽章)」の演奏が収められている。ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』でも使われた、退廃的な美しさを湛えたマーラーの有名なメロディが、このミサでの演奏ではまるでレクイエムのように、静かに悲しみに耐えているように聞こえてくる。同じ全集に収められている交響曲5番の4楽章と比べても、まったく違った印象を受けるのだ。あらためて指揮者とオーケストラの力量を感じさせられた。

作曲家マーラーの人生は、真にドラマチックで、それ自体が文学的で映画的だ。
「私はどこに行っても歓迎されない。オーストリアにおいてはボヘミアンであり、ドイツにおいてはオーストリア人であり、世界においてはユダヤ人だから」と語ったのは有名だが、ウィーン宮廷歌劇場、今の国立歌劇場とウィーン・フィルの指揮者になるために、ユダヤ教からカトリックに改宗したり、若い妻アルマの浮気に悩まされて、精神分析家のフロイトの診断を受けるなど、現実的世俗的な努力も怠らない人であった。彼は、リュッケルトの詩に基づいて合唱曲集『亡き子をしのぶ歌』を書いた4年後に娘マリアが病死するなど芸術と現実の人生がシンクロする悲劇も経験している。保守的なウィーンを追われて、ニューヨーク・フィルの指揮者になったが、アメリカも安住の地とはならなかった。また「交響曲第9番を書くと死ぬ」というジンクスを嫌って、9番目を番号なしの「大地の歌」という合唱付管弦楽曲にしたものの、結局、その後、交響曲第9番を書いた後、第10番は完成することなく、この世を去ることになった。

19歳年下の妻アルマは画家の家に育ち、ツェムリンスキーに作曲を習っていた作曲家でもあったのだが、画家のクリムト、建築家のグロビウス、画家のココシュカ、作家のヴェルフェルと19世紀末から20世紀初頭のドイツ・オーストリアを代表する芸術家たちと恋愛遍歴を重ねた。マーラーとアルマの人生が多くの人の関心を惹きつけるのは、前出のフロイトも含めて、関わった人々全てが当時の芸術文化の最先端の人々だからであろう。

そうしたマーラーとその生涯・作品を文化史的に検討した好著が渡辺裕氏の『マーラーと世紀末ウィーン』(岩波現代文庫)である。もともとはNHK交響楽団の機関紙の連載を基にしたものであるせいか、統一的なテーマを持った本というよりは、マーラーをめぐるエッセー集的な色彩が強く、マーラーの交響曲のように、魅力的な主題が一見バラバラにちりばめられている。しかし日頃読んでいる社会科学者たちの文章と違って、音楽学者らしく、短く、リズムがよい文章が印象的で、テンポよく読む通すことができた。

19世紀の歌劇場は、あくまで社交の場で、オペラの上演中も出入りおしゃべり自由だったようだが、その「悪習」を断つため、舞台以外の照明を落とし、休憩時間以外は出入り禁止にするなど、ウィーン歌劇場の近代化に取り組んだエピソードや、画家クリムトらと1902年の「ベートーヴェン」展に取り組み、「闇に対する光の勝利」という近代啓蒙主義的なベートーヴェン像に挑戦し、逆に「闇の勝利」を表象したこと。それはマーラーが人気指揮者でありながら、ベートーヴェンの楽譜を大胆に改変した演奏を行なって、聴衆や批評家の間で物議をかもしたことにもつながっていた等々、興味深いエピソードをちりばめながら、ウィーンの19世紀末の文化運動全体の中でマーラー像が再検討している。

トーマス・マンの小説『ベニスに死す』とマーラーの結びつきについては、ヴィスコンティが主人公をマーラーをモデルにして、かつマーラーの楽曲を使って映画化したことにより、過度に強調された「神話」であると指摘しているが、同時にこの映画自体が映像と音楽、文学の融合という19世紀末以来のヨーロッパ芸術の潮流の延長線上にあるのではないかと渡辺氏は肯定的に捉えてもいる。

中にはマーラーの交響曲4番の各演奏を計量分析したような、ややマニアックな論考も含まれているが、本書で繰り返し描かれているのは、「管弦楽によるソナタ」としての交響曲形式にこだわりながらも、結果的に交響曲的予定調和を超えてしまった、意図せざるポストモダニストとしてマーラー像である。

渡辺氏は、音楽が再現芸術である以上、現実的に鳴り響くためには演奏家という媒体を経なければならず、必然的に作曲された時代と演奏される時代という「異なった二つの時代、二つの精神の出会い」を経て、我々の前に「異文化の出会い」として立ち現れるものだと指摘している。

たとえば19世紀に演奏されたバッハが、ロマン主義的で本来のバッハではないと語ることがどこまで意味があるのか?オリジナル楽器を使ってオリジナルな編成で、21世紀のホールで再現すれば、本物の「バッハ」に触れられるのか?そんなことはないだろう。むしろ換骨奪胎され、再解釈され続けても生き残るだけの度量を持ち合わせているからこそ、「クラシック」と呼ぶに値する芸術なのだろう。そんなことを考えさせられた。

音楽に対する予備知識がなくても、マーラーの音楽を聴いたことがなくてもヨーロッパ文化論として十分興味深く読める本だが、ベートーヴェンの交響曲とマーラーの交響曲を比べながら聞くと、著者の言わんとすることがより深く理解かもしれない。マーラーが指揮したベートーヴェンのシンフォニーはどんな演奏だったのだろうか?叶わぬ夢だが、読み終えた後にしみじみ聴いてみたいと思った。

知識人論の落とし穴-サイードの『知識人とは何か』を読む-

2006-06-18 00:06:51 | 思想・哲学・文明論
高校生の時、例えば丸山真男の『日本の思想』(岩波新書)を読んでみてもなかなか理解できないのは、例えばカール・マンハイム(1893-1947)の『イデオロギーとユートピア』(1929)に出てくる「存在被拘束性」の概念とか、さりげなく専門的な哲学・思想用語がちりばめられている点にあるのだろう。大学に入って、近代社会思想を学んだ時にこのマンハイムに触れたのだが、簡単に言えば、人間の思想や考え方、政治的意見などは、その人の社会経済的な立場に影響されているということである。

例えば南北戦争期のアメリカなら、商工業中心のアメリカ北部都市は奴隷解放により、解放奴隷が都市の労働力不足を補うのに役立つから奴隷解放賛成であったし、奴隷労働に依存するプランテーション農業中心の南部は経済的に死活問題なので反対する、という具合に、一見、奴隷制賛成か反対かという人道上・道徳上の意見も、生活基盤が商業か農業か、北部か南部かということによって異なってしまう。このように政治意識が経済社会基盤に左右されていることを、マンハイムは「存在被拘束性」と呼んだである。

しかしマンハイムの言いたかったことは、単にすべての人の意識が社会経済的条件に縛られているということではなかった。そうした生活や経済事情に拘束されない、「浮遊する知識階級」こそ、彼が夢見た理想像だったのである。マンハイム以後の様々な知識人論においても、この「特定の階級や階層、体制の代弁者でない知識人」というイメージが、数々の批判を受けながらも一つのモデルとなってきたことは間違いないだろう。

一方で「知識人」論は落とし穴がある。「知識人」論を語る人は多くの場合、「知識人」を自認している人であろう。その場合、その知識人論は著者が理想とする、あるいは著者が実践しているタイプの「知識人」こそが真の「知識人」であって、他の人たちは、非知識人か、エセ知識人だと切り捨てられることになる。自分が「御用学者」だと考える人は少ない。いきおい「体制派知識人」論というものはほとんどなく、多くは「反体制派知識人」の勧めである。しかし実際にはそうした自称「反体制派」知識人と体制との距離も様々であり、どの知識人論も鍵括弧つきの「知識人」論に過ぎないと思って、まずは読むべきだろう。

パレスチナ系学者としてニューヨークのコロンビア大学で比較文学を講じていた故エドワード・サイード(1935-2003)については多言を要しないだろう。彼の『オリエンタリズム』という言葉は、文化研究のキータームとして定着したし、『イスラム報道』や『戦争やプロパガンダ』といった論文集は911以後、日本でも幅広く読まれた。ユダヤ系知識人や言論人が圧倒的に多い中で、英米メディアでも活躍する数少ないパレスチナ系知識人として影響力を持った人である。

サイードがイギリス・BBC放送のリース講演として行なった連続講義をまとめたのが、本書、『知識人と何か(原題 知識人の表象)』(平凡社、1998)である。サイードは知識人とは、「特定の職務をこなす有資格階層」ではなく、公衆に向かって、メッセージなり思想なり哲学なりを表象・代弁する能力に恵まれたものであり、「たえず警戒を怠らず、生半可な真実や、容認された観念に引導を渡してしまわぬ意思を失わないこと」(54頁)を使命とする人であるとしている。

サイードによれば、知識人も必ず何らかの国民共同体なり宗教、民族共同体に属しているから、その共同体との絆をどうするか、共同体への忠誠と自分の良心をどう両立させるかの問題に悩まされるが、知識人は実際には移民や故国喪失者でなくても、自らを「知的な亡命者」として考え、すべてを中心化する権威から距離をおいて、周辺に身を置き、「君主より旅人の声に鋭敏に耳を傾け」、「慣習的なものより一時的であやういものに鋭敏に反応し」、「変化を代表し」、決して立ち止まってはならないという。また専門分野の中に安住するのではなく、社会の中で思考し、憂慮し続けるアマチュアとして徹しなければならない。そのためには、必ず「失敗する神」しかいないのだと自覚して、一つの神から次の神へと崇拝の対象を変えるような権威に隷従する姿勢を改めることだとサイードは主張する。

このようにサイードは知識人に対して、かなり高いレベルの道徳的・職業的要求をしているのだが、「警戒をおこたらず信念をまげないことにおいて成功して、なんともいえぬ爽快感を経験したことのあるものは誰しも、この成功がいかに得がたいことか、身にしみて感じているだろう」(192頁)と述べているように、かなりの程度、自らが実践できていると自信をもっているようである。サイード自身がパレスチナ系知識人としての周辺的な立場にあったので、アメリカの知的コミュニティの権力構造に絡め取られてはいないと言い切れる自信があったのだろう。確かにそうなのかもしれない。しかしサイードが知識人の模範の一人として挙げているノーム・チョムスキーにその基準が当てはまるのかどうかは疑問を感じた。

チョムスキーは、生成文法で有名な世界的な言語学者だが、ベトナム戦争以後、アメリカの対外政策を激しく批判し、活発な政治評論活動を続けており、むしろその方面での活動に関心を持っている人も多いだろう。彼自身はフィラデルフィア生まれのユダヤ系アメリカ人だが、イスラエルやイスラエル支持のアメリカ政府の姿勢を批判し、パレスチナ寄りの発言を繰り返していることもあり、サイードから政治的共感を得ているのだろう。しかしサイードが理想とする「知識人」は大学の制度や権威や専門分化の中で安住する知識人ではないということなのだが、1928年生まれ、今年で78になるチョムスキーがマサチューセッツ工科大学の言語学部教授として、未だに引退せず、本業以外の反米的な政治評論活動を続けていることが果たして「知識人」の理想なのだろうか?

アメリカの場合は連邦法の「1967年雇用における年齢差別禁止法」により「定年」制度は禁じられているため、大学でもテニュア(終身在職権)がある教授は自発的に引退することになっているが、留学中にアメリカの大学の若手の教員からよく聞いた話だが、大家の先生の一人の給料で、何人もの若手を新しく雇うことができるので、いつまでも引退しないことは学部や若手教員から迷惑がられているようである。留学先での指導教授は63歳で引退されたが、同じ学部には75歳で現役の老教授がいて、陰でかなり批判されていたのを思い出す。チョムスキーが言語学において世界的学者としていくら有名でも長年居座るのは、結局その学部の学問的発展を阻害していると非難されても仕方ないだろう。彼のアメリカ政治や外交、アメリカのパワーエリートの対する激烈な批判の言葉を読んでいると、その厳格さと対照的な自らの立場に対する甘さを感じてしまうのは私だけだろうか?少なくともアメリカの定年禁止法に守られて、アメリカの有力大学に「制度的に」奉職しつづけているチョムスキーは、サイードが賞賛するような「アウトサイダー」的知識人と呼べないことは間違いないだろう。

サイードは「オリエンタリズム」批判に見られるように、西欧思想の普遍主義に対して厳しい批判を投げかけている。例えば『アメリカにおけるデモクラシー』で、アメリカの民主主義の発展を冷静に観察した一方で、黒人や先住民差別を厳しく批判した、19世紀のフランスの思想家トクヴィルも、アルジェリアにおけるフランス軍による残虐な武力鎮圧は肯定した。イギリスのジョン・スチュワート・ミルも『自由論』や『代議政府論』を著しながらも、東インド会社に在職時にインドで代議制民主主義はまったく不可能だとみなしていた、といった具合に西欧の政治思想家たちもサイードの手にかかると形無しである。植民地主義の時代に生きた彼らにそこまで求めるのが無理なのかもしれない。

一方で、サイードらの「批判的」知識人論を読むたびに感じることは、政府を批判しない知識人に対する舌鋒は極めて鋭いのだか、反体制的知識人の限界や問題点についてはあまり真剣に検討していないように思われる。例えば批判的知識人は、植民地からの独立運動でのナショナリズムの高揚は積極的に評価するが、既成国家のナショナリズムに対しては批判的である場合が多い。しかし独立運動の中心となった指導者たちが、やがて新興国家の指導者となり、国家建設・発展の過程で強烈にナショナリズムを発揮するようになるのは、当の政治家たちにとってはあくまで連続して行なっていることである。それを良い悪いと評価するのは外側から視点である。サイードは「必ず失敗する神」と名づけたが、批判的知識人がある革命勢力や反体制運動に肩入れして、支援して、やがて彼らが権力を握ることに成功した場合、ほぼ確実に期待を裏切られることになるだろう。ロシア革命しかり、キューバ革命しかり、中国の文化大革命しかり、イラン・イスラム革命しかりである。

それが現実政治の厳しさでもあるが、その場合に、新たに権力を握った彼らに対して、批判を続けることが「知識人」の役割なのだろうか?歴史的に見て、それが成功した例はごく少ない気がする。 何よりも旧体制にとっての「反体制知識人」は革命勢力の味方だが、もし彼らが「新体制」にとっても「反体制知識人」であり続ければ、今度は新体制によって弾圧されることになるだろう。また冷戦期には、韓国の反体制運動家が北朝鮮政府の主張の代弁者になってしまい、ソ連の反体制運動家が西側自由主義の代弁者となっているなど、グローバルにみると一方の「反体制知識人」が他方の「体制派知識人」、もしくはスポークスマンとなっていることは珍しくないのである。

このように体制派知識人と反体制派知識人、主流派知識人と反主流派知識人、アウトサイダーとインサイダーというのは、あくまでも相対的、状況依存的な概念で、常に浮遊するアウトサイダーで批判的知識人であり続けることはほぼ不可能なだけでなく、それが果たしてどこまで意味があることなのか、結局、体制に取り込まれないという自己満足に過ぎないのか、考えざるを得ない。そうした「知識人」論の抱えるあやうさを内包しつつも、知識と社会のあり方を再考させられる名講演であり、200ページに満たない小著で読みやすいのでサイード入門として一読をお勧めしたい。

テロリストの肖像

2006-06-11 00:04:49 | 政治・外交
911テロが起こってから、早いもので4年と9ヶ月が過ぎた。この数年間、大学で教えていて、911テロに衝撃を受けて、私たちの学部に入ったという学生に何人もあったが、今年入学した学生の場合なら高校生ではなく、中学2年生の頃の出来事になるのだろうか。もうだいぶ昔の話という感覚かもしれない。

911テロに起こったときの日本での反応は今でも忘れられない。CNNのサイトなどは重たくてなかなか繋がらなかった。社民党の一年生議員がホームページに「ざまーみろと思っている国もあるのでは」と書いて、物議をかもした。小林よしのりと西部邁の対談で、小林は「こういう手があったのかと興奮した」と書いていた。日本人の多くが大きな戦争につながることを恐れていた反面、日頃、威張っているアメリカが「奇襲」攻撃にあったことに内心、喝采をあげているかのような報道が多いのを浅ましく思ったのをよく覚えている。

ブッシュ大統領は、「これは戦争だ」とすかさず宣言し、アフガニスタンを空爆し、やがて2003年には国際世論に反して、イラク戦争を断行した。以来、イラクでなくなった市民はIraq Body CountというHPによれば約4万人、米軍兵士も2400人が死亡した。911テロの犠牲者は約3000人、あまりに多くの人が犠牲になった。

その間、イラクで選挙が行われ、新政府が発足し、国際社会の関心は、イランの核疑惑に向けられるようになった。以前、日本のあるニュースキャスターは、テロ後のワシントンDCは米軍兵士が闊歩し、戦時下のようだと伝えていたが、今年4月に訪れた時はちょうど桜祭りの時期で、全米の老若男女が集まり、「テロ」との戦いにある雰囲気を一切感じさせなかった。しかし同じ時間にイラクでは未だに戦闘が続き、米軍や自衛隊の駐留していたのはいうまでもない。またちょうどその頃、911でハイジャックされた4機のうち、ワシントンDCに向かいながら、ペンシルヴェニア州に墜落した一機の機内のドラマを描いた映画「ユナイテッド93」の予告編をテレビで流すのは良識に反するのではないかと波紋を呼んでいた。映画化自体が国民感情としてまだ早すぎたのかもしれない。

普段、海外での災害や事故では、日本のマスコミは日本人犠牲者のプロフィールや家族の話を悲劇的に報道することが多いのだが、同時多発テロ事件の折には、日本人犠牲者がいたのにもかかわらず、事件直後の新聞ではむしろ911実行犯の内面をある種、共感的にルポしている記事があって、驚かされた。後に単行本化された、朝日新聞の連載記事『アタを追う』もその一つである。

その取材グループの一人の国末憲人氏が新潮新書から『自爆テロリストの正体』という本を昨年12月出版した。911テロからもイラク戦争からも少し時間をおいて、冷静に検討しているためか、「貧困にあえぐ敬虔なイスラム教徒のアラブの若者」というテロリストのイメージを壊すような群像が淡々とルポされている。

終章のタイトルが強烈で、「劣等感がテロリストを作る」としている。アラブの中流階級の子弟が、期待されて大学に進学したり、留学するものの、やがて学業や就職、生活に挫折し、イスラムの教義をごたまぜにブレンドしたテロ組織のリーダーたちにいいように操られて、ついには自爆テロを起こしてしまう。そんな姿が浮かんでくる。著者の国末氏は「こう見ていくと『国際テロリスト』なんてものではない、チンケな若者たちの姿が見えてくる。これがアルカイダの実態だ」(195頁)と喝破する。『テロリストの軌跡-モハメド・アタを追う』(草思社)同様、読後感は、イスラム原理主義のテロリストたちも日本のオウム真理教の若者たちに似通っているなという印象を受ける。著者たちがそう理解しているからかもしれない。

国末氏が論じているように、アメリカが「対テロ戦争」を開始して、テロリストの論理に乗せられてしまい、かえって泥沼にはまっているのは確かである。たとえブッシュ大統領が、911を赦しても、世界でテロは減らなかったかもしれないが、アメリカに集まった同情を尊敬に変えることができたかもしれない。しかし報復戦争を始めたために、むしろオサマ・ビン・ラディンらテロリストに何らかの理解や同情を示すものが増えた。「アメリカ合衆国こそがテロリストだ」といった乱暴な議論が横行し、本気でそう答案に書く大学一年生も今でも少なくない。イスラム世界を貧困に追い込んでいるアメリカ主導のグローバル化に対抗する手段としてテロはやむを得ないだろう、などとテロがムスリムたちによる文化的な抵抗権の行使だと勝手に決め付けている論者やそれを真に受ける学生も珍しくない。それも「我々の側につくか、テロリストの側につくか」といったブッシュ的二分法に負けず劣らずな乱暴な議論であろう。ダグラス・ファラーの『テロ・マネー』が明らかにしているように、慈善団体を隠れ蓑にして、アルカイダなどのテロリスト団体が資金集めをしているというが、人を救うための寄付金を集めて、罪も無い一般市民を無差別に犠牲にしているのは正当化できないだろう。

そういう意味で、国末氏の新書は、「殉教者」として持ち上げられかねない自爆テロリストたちを冷静に見るのに役立つ本である。ただそういうテロリストたちにどこか共感しているようで、同時に揶揄しているように感じられる文体なのは、自らは「リベラル」な朝日新聞記者として取材しつつも、「保守的」な読者層も念頭に入れた新潮新書としてまとめているからなのだろうか?

長距離移動の心理描写

2006-06-05 00:01:52 | 小説・エッセイ・文学
1時間以上かけて通学していた学生時代と違って、今は電車通勤をしていないので移動時間に物を考えることがなくなってしまい、長距離移動といえばたまにアメリカに行ったり、また時々、新幹線で上京する程度になってしまった。さすがに14、5時間のフライトは長いと感じるが、それでも昔の小説に出てきた船旅の時代を思えば、一瞬である。明治や大正時代の小説を読んでいると、何か目的を終えて、渡航先から帰国する船上で考えたことが効果的に描写されているのに気づかされる。

出張でも旅行でもそうだが、往路は目的地についてからスケジュールなどを期待と不安を交えて考えているから、しみじみと物思いに耽ることは少ないのかもしれないが、帰路が長い場合、なかなか行けない場所や二度と訪れることのない場所から帰ってくる場合などは、やり残してきた数々の事柄に後ろ髪を引かれる思いで機中や車中を過ごす人も多いのではないだろうか?

そんな小説の場面をランダムに挙げてみると、まずは誰もが高校の『現代文』で習う、森鴎外の『舞姫(1890)』である。この小説の冒頭の場面は、エリスを捨ててドイツから日本へ帰国する船上での豊太郎の回想で始まっている。

げに東に帰る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなお心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心頼みがたきは言うもさらなり。われとわが心さえ変わりやすきをも悟り得たり。昨日の是は今日の非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せん。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別にゆえあり(『舞姫』)。

エリスとの恋愛関係を無責任で乱暴な形で放棄して、日本での出世街道に戻っていく韜晦の念、思い出の美化と、状況や自分に対する後悔の念と言い訳が長い船旅の中で綴られていくという構図になっている。実際、洋行した小説家たちが数々の経験やアイディアを小説の構想として昇華させたり、完成させたりするのに船旅は極めて有効だったのだろう。

鴎外の小説と比べると今日、あまり読まれなくなったと思うが、武者小路実篤の『愛と死(1939)』も印象的な帰りの船旅の場面が出てくる。主人公の野々村は親友・村岡の妹・夏子と婚約直後に半年ほどパリに遊学する。後半は洋行中の野々村と夏子が毎日のようにやりとりした手紙が載せられているのだが、当時、大流行したスペイン風邪にかかって夏子は死んでしまい、日本への帰りの船中にあった野々村のもとに夏子死去の電報が突然届く。戦前の日本ながら、人前で宙返りして見せるような健康快活な少女として描かれているだけに、あっけない病死がインパクトがあり、悲劇的である。

僕は誰もいないところを探したが、船の中だし、二等だったので同室のものが二人もいるので、心ゆくばかり泣くわけにもゆかなかった。人が寝静まってあたりがしんとしているなかを、声がもれないように忍び泣いた。しかし人々は僕の様子を変に思った。今頃僕はなんとなく元気にしていた。ところがぼくは飯もろくに食べずに誰もいないところ逃げては鳴き、隠しても隠し切れない泣きはらした目をしている。人々は僕の許婚が死んだことを知った。僕は黙っていられなかった。人々は同情してくれたが、その同情も僕の頃に届かない。人々は僕に万一のことがありはしないかと注意した。もう自分は船が進むのが遅いと思わなくなった。日本へつくのがかえって恐ろしくなった。(『愛と死』)

鴎外の『舞姫』でも船中での主人公の様子がおかしいのを他の船客が気にする場面がでてくるのだが、自分で小説を書きながら泣いてしまうほどナイーブな武者小路だけに、鴎外と違って、気取らない、ストレートな描写である。電報の直前までは早く夏子と再会したいと船の速度の遅さを呪っていたのが一転して、悲しく分かりきった現実が待つ日本へ帰りたくなくなる。船旅の残酷さが小説的な効果をあげている。

船ではない長距離移動でも印象的な文学描写がある。文庫で手に入らないので読んだ方は少ないかもしれないが、帝政ロシアの文豪ツルゲーネフの『けむり(1867)』の車窓を眺めるシーンも印象的である。主人公のリトヴィーノフはモスクワでの学生時代の恋人で運命と家族に引き裂かれたイリーナとドイツの保養地・バーデンバーデンで十年ぶりに再会するが、彼女は今はラトーミロフ将軍夫人として社交界の花形となっている。リトヴィーノフ自身にも婚約者がいる。昔の恋愛感情がお互いに再燃するが、社交界を唾棄すべき存在として語りながらも結局はそこから離れられないイリーナに愛憎半ばし、優柔不断なリトヴィーノフも最後には別れを決意してロシアに帰ろうとする。その帰りの汽車の車窓からたちあがる蒸気をながめながら

『煙だ、煙だ』と彼は何べんか繰り返した。と不意に、何もかもが煙のような気がしてきた。自分の生活も、ロシヤの生活も―人間世界のいっさいのもの、とりわけロシヤのいっさいのものが。『みんな煙なんだ、蒸気なんだ』と彼は思った。『みんな絶えず変化しているように見えはする。どこを見ても新しい形でまた形で、現象を追って走っているけれど、実のところは、みんな相変わらずなのだ。もとのままなのだ。いっさいがせわしげに、どこかへ急いで行くが―結局は何も手に入らず、跡形もなく消えてしまう。風向きが変われば、すべてはさっと反対側になびいて、そこでもまた相も変らぬ、性懲りも無い、騒々しい、しかも無益な戯れが始まるのだ』。ここ数年の間に、彼の目の前で鳴り物入り爆竹入りで行なわれた、数々のぎょうさんな出来事が思い出された。『煙だ』と彼はつぶやいた。『煙だ』(『けむり』、神西清訳)


けむりに限らず、車窓の風景は一瞬目の前にあるときは『現実』だが、次から次へと流れ去って、忽ちに『過去』となってしまう。長時間の移動中には、時間や人生の意味とはかなさとをしみじみ痛感させられる。そんな気持ちをこの描写はうまく表現している。

船や汽車での長旅を強いられたことが、作家たちが文学的なイマジネーションを膨らます、よき土壌となったのかもしれない。IT化や生活の全ての面でのスピード化はそれに見合ったケータイ文学しか生み出せないのだろうか?そう考えると長すぎる移動も悪くないのだろう。