紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

古い皮袋の新しい酒

2006-12-23 19:32:29 | 教育・学問論
12月の今頃の時期にブログを書くのは、今年が三年目だが、昨年も一昨年も授業を振り返った文章を書いていた。忙しい毎日の中でいろんなことを考えたが、授業や研究で今期、しばしば痛感させられたのは、「古い皮袋に新しい酒は入らない」という聖書のことわざだった。

法律学や自然科学はやや例外だが、日本では同じ大学の教科書が4版、5版と版を重ねることはあまりないが、アメリカでは政治学でもむしろそれが普通である。私の専門のアメリカ政治論では特にその傾向が顕著なのだが、例えばジェームズ・マックグレガー・バーンズのアメリカ政治の教科書"Government by the People"などは、昨年出た最新版は何と第21版である。初版は1952年なので、実に53年も続いている超ロングセラーなのだが、この教科書のように著者の弟子たちや新しい研究仲間が加わりながら、選挙データなどを入れ替えつつ、版を重ねているアメリカ政治の教科書は珍しくない。アメリカ政治の制度的な連続性がそれを可能にしている面もあるのだろう。

院生時代に指導教授から、同じ著者のアメリカ政治の教科書でも違った版を比べてみると、それぞれの時代の空気や問題関心を反映していて面白いと読み比べを薦められていたので、留学時代は、図書館で古いヴァージョンも簡単に見られることもあり、時々眺めてみていたのだが、いくら新しいデータや著者を追加しても、古い枠組みで作られた教科書は版を重ねるごとに新鮮さや面白さがどんどん薄れていくように感じられた。

大学教科書の競争も熾烈なアメリカでは様々な趣向を凝らした教科書が次々、誕生するのだが、それらを見ていると一番充実しているのは、大体3~4版くらいで、5版となるとマンネリ化を避けられないようだ。前述のバーンズの教科書は私の院生時代には既に古臭い教科書だと思っていたが、当時の定番だった、J・Q・ウィルソンのアメリカ政治論の教科書も昨年で10版となり、もはや清新な魅力を失って、時代ともずれてきた観がある。ビッグネームによる手堅い内容で、かつ時代の空気も反映している教科書は、今だったら、ピーターソンとフィオリーナのよる"America's New Democracy"あたりだろうか?

ロングセラーになるような教科書の初版には、かならず斬新な切り口や構成の面白さがあるのだが、一方で間違いや洗練されていない部分も少なくない。それが2版、3版となると図版や説明、参考文献などが充実して改善されるのだが、5版、6版となると、データだけは新しいものの、時代の変化への斬り込みかたが鈍くなっていく。まさに「古い皮袋に新しい酒は入らない」のである。

私も今の大学に来て今年が7年目で、7年は短いのか、長いのかわからないが、教えているアメリカ政治や日米関係に限ってもその間、911テロがあり、アフガニスタン、イラク戦争があり、小泉政権の誕生から終焉まであり、大きな変化を経験した。2001年に大学院や学部の講義で教えていた枠組みでは、いくら新しいデータを入れ替えても、時代遅れになってきた感も少なくない。一度、あるテーマについて勉強して、基本的な枠組を作ってしまうと、それを崩して、新しく捉えなおして、講義内容を組み替えるのはなかなか困難なのだが、それをしない限り、今の風が吹く新鮮な授業はできないのだろう。そんなことを今期はよく考えた。

幸か不幸か、今は大学は激変の時代で、カリキュラムの改編や講座制度の再編がさかんである。私が今の職場で働いている7年間という短い間にも毎年のように何かが改変され、担当する科目も変更を余儀なくされてきた。新しい科目のために新しい授業を準備しなければならないのは、負担といえば負担かもしれないが、そうでもしない限り、マンネリ化して、鮮度の失った講義を続けることになるかもしれない。「普遍(不変)の真理」などといって、同じ講義を続けていると、気付いたら「変わらないのは自分だけ」になってしまうかもしれないから、変化は大切なのだろう。

演習(ゼミ)についても、自分が大学時代に所属していたような3、4年間の2年間所属し、かつ原則として一つの演習しかとらないスタイルに比べると、今の学部の演習のやり方は、毎学期メンバーが交代し、複数のゼミを取るのが当たり前というもので、連続性や安定性という点ではやりにくい面も少なくないのだが、関係性が固定しないのをポジティブに捉えることもできるのではないかとも思うようになった。

私が学部時代に所属していたゼミでは、ゼミの幹事と呼ばれる人が数人いて、ゼミの中での役割分担が良くも悪くも固定し、発言する人はいつもするし、しない人はしない。行事で一生懸命やる人も、サボる人もいつも同じ。しかもその関係が3年生の時にできてしまって、それが卒業時まで続いた。

それに対して、現在、私が担当しているゼミでは、毎学期変わると言っても、かなりの部分は同じ学生が連続して履修しているのだが、例えば前期である学生が中心的に発言していても、彼ら彼女らが留学して、後期から別の学生が中心になるということもよくある。風通しが、自分が昔いたゼミよりはいいような気もする。

変化が多いということは落ち着かないということでもあるし、また安定しているというのは、マンネリに陥るということであり、どちらも一長一短あるのだが、ナマモノである政治や社会情勢を扱っている私の授業や演習の場合は、安定よりも変化を求めていかなければならないのだろうなと思う。当の学生たちの意見も聞いてみたいものだ。

十二年前の「米国・中間選挙」と日本の新聞

2006-12-05 23:59:00 | 政治・外交
書こう、書こうと思っているうちに早いもので米国の中間選挙が終わって、一月近くが過ぎてしまった。今年11月7日の米国・連邦議会選挙は、1994年の中間選挙で40年ぶりに共和党が下院で過半数を占めて以来、12年ぶりに少数党に転落するという結果に終わり、日本でも詳しく報道されていたが、その後の続報がないので、選挙の決着はついたと思っている読者の方も多いのだろうが、CNNの選挙速報ページによると、2006年12月5日現在でも下院の五議席が僅差のため、まだ決定していない状態である。改めて少なからぬ選挙区で接戦であったことを認識させられる。

選挙の結果を踏まえて、911テロ以来、タカ派路線をひた走りに走ってきたラムズフェルド国防長官は更迭されたが、今日のニュースでは、同じくタカ派の国連大使のジョン・R・ボルトンの年末の任期切れによる辞任が固まったようである。これも民主党多数となった上院で大使続投の承認を得ることが難しいと考えられたためだろう。911以来の単独主義外交もいよいよ本格的に修正されることになるのだろうか?

今回の中間選挙に関する報道で目を引いたのは、『ニューズウィーク(日本版)』の2006年11月22日号(11頁)で、同誌の副編集長ジェームズ・ワグナー氏が書いていた「共和党敗退にびびる日本の『変化恐怖症』」という文章だった。ワグナー氏は、中間選挙に敗北したアメリカ保守派が希望を見出そうとしているのとは、奇妙に対照的に日本のメディアは「意気消沈」し、ある識者は貿易政策を、ある者は北朝鮮政策を、ある人はヒラリー・クリントン大統領登場の可能性に懸念を示している、と指摘している。その要因として、「クリントン大統領時代、アメリカは日本と対立するか、無視するかどちらかだったから」、日本の評論家には民主党嫌いが少なくないためだとしている。

確かに2004年の大統領選挙の折も、日本の経済界はブッシュ続投を望んでおり、民主党のケリーが政権を取れば、クリントン時代のような強硬な対日貿易政策をとるに違いない、といった論調が多く見られた。ワグナー氏が日本のメディアが「変化恐怖症」だと嘆くのも無理はない。では12年前に、共和党が中間選挙で40年ぶりに下院で過半数を制した時に日本の新聞はどう伝えたのだろうか?

まずどちらかといえば民主党寄りだと考えられる、『朝日新聞』だが、1994年11月10日の「米中間選挙が物語ったもの」という社説では、「政権が交代するわけではないから、米国の対日政策がにわかに変化するとは考えられない。二年後の大統領選挙をにらんで、通商政策でも国民にわかりやすい結果を求める基調は続くのではないか。政権基盤が弱まっただけ、相手に譲歩を求めようとする姿勢はむしろ強まる可能性があると見ておいた方がいい」として、共和党が多数になったからといってクリントン政権の対日姿勢に大きな変化はないだろうと慎重な見方を示していた。

他方、どちらかといえば共和党に好意的と考えられる『読売新聞』の1994年11月10日の国際面では、「米中産階級、保守を選択」、「犯罪や移民増恐れる」といった見出しが躍っているのが、「アメリカ再生に失望」、「内政『変革』に議会の壁」、「インスタント政治台頭」といったアメリカの政治システムそのものに否定的な見出しを掲げている『朝日』と対照的である。

しかしこの『読売』も「クリントン氏は浮上できるか」という社説では、「クリントン政権が経済問題などで対日圧力をかけたり、国際社会でより多くの責任分担を日本に求めてくる可能性もある。政治基盤の弱い政権は対外的に強い姿勢に出る傾向があるが、一方的威圧的な外交は望ましくない」と述べ、『朝日』同様に中間選挙での与野党の議席逆転にも関わらず対日強硬路線は変わらないだろうという悲観的な見方を示している。

最後に経済界を代弁する『日本経済新聞』だが、同じく1994年11月10日の総合・政治面(2、3面)では、「対日圧力強化を懸念」、「強硬派が議会主導、共和党も『日本の責任』を問う」といった見出しを掲げ、「共和党が通商政策で民主党を上回る強硬策を主張する公算は小さいが、日本が期待するような歯止め役は期待できそうもない。日本の常任理事国入りに関しても、共和党の方が日本に対して常任理事国に見合った国際貢献や責任を民主党より厳しく求めるのは確実で、日本の姿勢があいまいなままだと日米関係を揺さぶる公算もある」と一歩突っ込んだ分析をしている。大きな変化がないとする点では、『朝日』、『読売』と同様だが、共和党の方が民主党よりは貿易政策では強硬でない代わりに、安全保障面でのより踏み込んだ協力を求めるだろうという分析は、まさにブッシュ-小泉外交時代に当てはまるもので、その意味では先見の明があったといえる。

同日の「大敗した米政権とどう付き合うか」という『日経』の社説では、(日本の自社さ連立政権と中間選挙に敗れたクリントン政権という)「二つの不安定な政権によって運営される日米関係の前途には必ずしも楽観的になれない要素がある。それは双方の政権が国内事情を優先せざるを得なくなり、対立の道を余儀なくされる事態が懸念される点である」と警鐘を鳴らし、アメリカのみならず、日本の当時の連立政権(村山内閣)の問題点も指摘しているのが印象的である。

こうして見てくると、今回の中間選挙で『ニューズウィーク』のワグナー氏が指摘しているような、日本のメディアの「変化恐怖症」の傾向は、クリントン時代のように、日本にとって厳しい政策がとられていた場合でさえも、変化に対する慎重な見方を示している点では共通していたことがわかる。改めて三紙の紙面を比べて思ったのは、『朝日』と『読売』が同じ選挙結果を扱っているにも関わらず、、それぞれの日頃の論調を反映して、「だからアメリカの政治は悪い」、「だからリベラルはダメだ、保守が正しい」という声が聞こえてきそうな、まったく違う方向へと導く見出しをつけている中で、経済紙の『日経』が一番、冷静に政治分析し、かつ日本の政治過程の問題点にも目を配っているのが印象的だった。結果的にその後のアメリカ議会や政治の流れを予見していたのは『日経』の分析の方である。

新聞は読者あっての存在なので、それぞれの読者層の関心や感覚に近い見出しや分析を示すのかもしれないが、新聞を二紙以上、購読する余裕がない場合でも、インターネットで簡単に内外の新聞を同時に比較できるようになったことは、一つの新聞に「ミスリード」される可能性が低くなった点でよかったと改めて痛感させられた。

(写真は今年4月に撮影した米国連邦議会議事堂)