紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

映画にならない経済、絵にならないニュース

2005-09-05 14:23:12 | 映画・ドラマ
講義科目は一方的に話しているとどうしても聴いている方は退屈してしまうので、ビデオなどの映像資料を毎回使うようにしている。例年は衛星放送やケーブルテレビから録画したドキュメンタリー物を主に使っていたのが、今年はアメリカ社会論の講義であるし、映画大国アメリカの豊富なソースから選んで、毎回のテーマに関連した映画を授業の真ん中あたりでさわりだけ見せて説明した。

教室は電動スクリーンを下ろさないとビデオを投影できないのだが、中には要領よく、私が話している間は熟睡していて、スクリーンが降りてくる音ともにむくりと起き上がって映画だけは欠かさず見ている学生もいた。

「シネマで学ぶ~学」「映画に見る~論」といった本は数多く出版されているし、様々な論点に即した映画を選ぶことはたやすいように思われるかもしれないが、実際やってみると容易でない。まず第一に仮に映画があったとしても日本の視聴者があまり関心がなさそうな映画はレンタルビデオ店に行ってもまず置いていない。
 
例えばヒスパニックを扱った映画はもともと少ないのだが、『ブラッド・イン、ブラッド・アウト』といった比較的有名な映画でも入手困難である。また日系アメリカ人や在米邦人、日米関係を扱った映画などもあまりないのだが、例えばチャールズ・ブロンソン主演の『禁じ手』のような、日本人や日本が偏見を持って描かれている映画は、視聴者受けが悪いのでお店には置いてない場合が多い。しかし国際理解を深めるためにはむしろそういう「反日」「日本蔑視」ドラマのようなものこそ図書館やレンタルビデオで置いて、外国の人々がどんなステレオタイプを抱いているか知るべきだろう。

映画そのものがあまりないテーマもある。例えば経済である。日本映画では高杉良氏の『金融腐蝕列島』のような経済小説が映画化されているし、『ミナミの帝王』シリーズのようなノンバンクもの?も一つの映画ジャンルになるほど多く作られている。特にバブル崩壊後の「失われた10年」に金融問題が大きな社会的関心を呼んだことも関係あるだろう。
 
しかしハリウッド映画で経済を正面から扱った映画は実に少ない。せいぜい黒幕として多国籍企業が出てきたり、あるいは日米貿易摩擦の激しかった80年代にやはり悪役として日系企業が登場したりということはあるのだが、アメリカの経済界の内幕やグローバル企業の実態などを正面から描いた映画はほとんどない。おそらく該当する映画が少なかったせいであろう、分野ごとにアメリカ映画を整理した『アエラ・ムック アメリカ映画がわかる』でも「経済」のところで、リチャード・ギア&ジュリア・ロバーツの『プリティ・ウーマン』を挙げている始末である。経済映画でメジャーなものと言えば、せいぜい『ウォール街』と『摩天楼はバラ色に』といった約20年前の映画くらいしか挙げられず、2000年以降のニューエコノミーを正面から扱った映画などが見あたらなかったのが残念だった。もしいい映画をご存知な方がいらっしゃればぜひ教えていただきたい。

経済映画が少ないというのは、経済に関心がないというより、経済を映像で描くのが難しいのが一因ではないだろうか?同じことはテレビニュースについても言える。夜の7時や10~11時代のニュース番組を考えてもわかるが、テレビでの経済ニュースで映される場面というと、東京株式市場の風景や不祥事のあった企業の謝罪会見の場面、為替相場や日経平均のデータ、丸の内の通勤風景をバックした解説などで、経済という素材が見えにくく、絵になりにくいことをあらわしている。

それに対して、アメリカ南部荒れ狂ったハリケーン「カトリーナ」の被害状況、ホリエモン対亀井静香の対決、バクダッドの治安悪化、反日、反米デモ、スポーツニュースなどは分かりやすく、映像になりやすい素材である。そのためテレビニュースは事実を単純化し、センセーショナルに映像化できる話題ばかり強調して、もともと複雑でわかりにくい日々の地味な政治や経済活動に関するニュースは新聞やインターネットに任せっきりになってしまっている。

以前ブログでも取り上げた政治学者・故・丸山真男氏がテレビ時代以前に「日本には政治記者はおらず、政界記者しかいない」と嘆いたのは有名だが、どういう年金制度が国民にとって望ましいか、ミサイル防衛システムは結局日本の安全保障にとってどの程度プラスなのかどうか、というような専門的な政策論争は複雑でわかりにくい。
 
それに対して、郵政法案反対派の候補のところに対立候補を「刺客」として送るといったストーリーは極めて単純でわかりやすい。小泉政治の本質は「ワイドショー政治」だとよく批判されるが、多かれ少なかれ、テレビを含む日本の政治報道は、抽象的な政策論議よりも、政治を人間関係のレベルで語ろうとする、政治の「パーソナリゼーション(人格化)」の傾向が強い。経済もそのレベルで語られることが多く、企業内部の派閥対立や日銀総裁、財務相、金融相のパーソナリティ、アメリカの財務長官や連邦準備制度理事会(FRB)・議長、米通商代表部(USTR)代表などのキャラクターなどから経済政策が説明されたりする。
 
政治も経済も人間が行なうことなので、そうしたヒューマン・ファクターに着目することは重要ではあるが、全てを人間関係で説明されてしまうと矮小化を免れず、本当に視聴者が知らなければならない情報が見えにくくなってしまっている嫌いがある。先日の朝日新聞の捏造問題も一方では取材モラルの問題であるが、もう一方では、取材しないでも言いそうなことを時としてでっち上げられてしまうほどの、政治家と記者との間の距離感のなさが根底にあるのではないだろうか。記者クラブ制度をはじめ、この距離の近さが日本のジャーナリズムの特徴としてしばしば指摘されるところである。新党結成の裏話よりも今度の選挙に関して国民が知るべき重要な争点は他にあるのではないだろうか。

アメリカの場合は『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト」などの新聞報道は日本のように政界事情を詳細に書くよりは政策の背景を詳しく説明したものが多いが、とはいえ日本は夜の1時間のTVニュース番組では国内ニュースから国際ニュースまで幅広く取り上げて解説しているのに対して、アメリカの地上波の夜11時の30分間のローカルニュースは全国と地元のニュースをごく浅薄に扱っているに過ぎず、平均的アメリカ人は全国情報の少ないローカル紙とこのローカルニュースのみを主な情報源としているので、政治知識はどうしても限られてしまっている。
 
アメリカの公共放送であるPBSが昨年、アメリカのニュース報道の問題点についての特集番組を放送していたが、その中でもこのローカルニュースの内容の乏しさを指摘し、例えばカリフォルニアの州議会議員が交通事故を起こせばニュースになるが、彼がどういう考えの持ち主でどういう法案を提出したかはニュースにならないので、有権者は投票の際に判断する材料をニュースから得ることができないと批判していた。イラク戦争に対するアメリカ国民の反応が鈍かった一因としてもこうしたニュース報道の限界が指摘できるだろう。

新聞とラジオ中心の時代と違って、テレビとインターネットが中心の今日のメディア環境を考える場合に映像が占めている中心的地位はゆるがないだろう。そうだとすると、より深い分析や情報をいかにして映像化・図式化すべきかを考えていくことが大切なのかもしれない。また授業の教材として使いたいからという理由だけでなく、似たような戦争映画や恋愛映画ばかり作っているのだったら、面白い経済映画もぜひハリウッドで作ってほしいものである。

『追憶』と民主党

2005-08-12 08:28:35 | 映画・ドラマ
最近好んで聞くようになったジャズのCDに1973年の映画『追憶』のテーマが入っていた。この曲は映画音楽のスタンダードとなっていて、以前にも何度も聞いていたし、バーバラ・ストライサンドロバート・レッドフォード主演のノンポリだがスマートで裕福な男性と政治活動家の生真面目な女性の悲恋を描いたという話も知っていたので、映画を見るまでもなく見た気になっていたが、メロディーラインに誘われるままにビデオを借りて今回、見てみた。

バーバラ・ストライザンドは熱心な民主党支持者として知られていて、昨年の大統領選挙でもケリー候補の資金集めパーティに出演しており、毎回大統領選挙のたびに民主党のための選挙活動をして話題になっている。映画の中でもストライサンド演ずるユダヤ系の苦学生ケイティはフランクリン・D・ルーズベルト大統領の熱心な支持者であり、同時に演説巧みな親ソ的な学生運動家として登場する。ケイティは大学の同じ小説創作クラスにいた甘いマスクで才能もあるが、政治に無関心で遊び人のハベル(ロバート・レッドフォード)に恋して、再会を契機に積極的にアタックする。あらゆる場面でケイティの方がリードしていて「押しかけ女房」的で、ハベルは終始受身なのが印象的なのだが、「政治」を社交のためのジョークのネタ程度にしか考えていないハベルの周りの金持ちの友人たちと、共産主義や社会改革に熱心な政治信念を持つケイティのそりは合わず、いつも摩擦を起こしてしまう。

この映画を見ていると「ニューディール連合」と呼ばれたユダヤ系、黒人、カトリック、都市労働者などの当時の民主党支持者が、傾向として社会主義にシンパシーを感じていて、共和党支持者との間にある種の「階級対立」があった様子がよく描かれている。やがて二人は結婚し、ハベルが映画脚本家として活躍するようになり、ケイティがアドバイスし続けるのだが、マッカーシズムの波がハリウッドをも襲うようになると、ケイティは反マッカーシズム運動に精力を注ぎはじめることで、夫ハベルの仕事を危うくし、二人の間の溝を深めてしまう。言論の自由のためにマッカーシズムと戦ったケイティだが、彼女が幻想を抱いていたスターリン体制下のソ連でもまさに言論の自由がなかったというのが歴史の皮肉であり、ハベルと同時にソ連に対しても「片思い」だったのかもしれない。

子供ができるが二人は離婚し、ハベルは金持ちの元恋人と再婚し、ケイティが原爆反対の街頭運動をしている場面で再会するというのがラストシーンである。冷静に見ていると性格や考え方、背景の点で合うはずがない二人で、それでもケイティがハベルに夢中になったのはやはりハンサムだからなのかと思ってしまったが(特に二人が再会した時の白い海軍服姿のハベル演ずるレッドフォードは輝かしいのだが)、一方のハベルがケイティに惹かれる様子があまり上手く描かれてなかったような気がした。ハベルの小説の一応、よき理解者だったからなのだろうか?しかしいずれにしてもよく指摘されていることだがラストシーンのレッドフォードの表情は、愛し合っていながら別れなければならなかった人と再会した時の哀切さをうまく表現していると思った。

ケイティの姿にヒラリー・クリントンがダブって見えたが、今年の7月のギャラップ調査では2008年の大統領選挙に関して、共和党のマケイン上院議員か、民主党のヒラリー・クリントン上院議員か、両者が立候補した場合にどちらに投票するかという問いに前者が50%、後者が45%となっており、共和党のジュリアーニ前ニューヨーク市長 対 ヒラリーでもやはり50対45と共和党がリードしており、ケリー前候補が再び立候補した場合についての問いでも共和党候補がリードしている。民主党が本格的に選挙対策に取り組まない限り、民主党そのものが『追憶』の政党になりかねない。ちなみに映画の原題は"The Way We Were"だが、『追憶』というシンプルな日本語は名訳だと思うが、直訳すれば「昔の私たち」あるいは「私たちの過去」くらいの意味だろう。女性の方が共感しやすい映画かもしれない。

韓流ドラマとソープオペラ

2005-02-10 16:00:50 | 映画・ドラマ
いまさらだが、韓国ドラマが日本のテレビを席巻している。私が住む関西地区では、土曜日には、真実(読売TV 12時~)、天国への階段(関西TV 14時半~)、美しき日々(NHK 23時10分~)といずれも『冬のソナタ』のヒロインとなった女優のチェジウが主演格をつとめるドラマを放送している。同じ日に同じ女優が出るドラマが放送局が違っても三度も放送されることは日本の人気女優でも極めて稀なのではないだろうか?

衛星放送やケーブルチャンネルで細々と放映されていた頃と違って、韓国ドラマが地上波でこれほど放送されるようになるとは2、3年前までは誰も予想しなかったに違いない。韓流ドラマブームについてはすでに書きつくされているので、素人の私が口を挟むまでもないが、今まで海外ドラマの主流だったアメリカのドラマや日本の(死語になりつつある)トレンディドラマと比べると、「親の因果が子に報い」というような、どちらかという親の過去の過ちに子供たちの運命が左右される点や、日本のように先輩-後輩関係が描かれていること、「すれ違い」が起こりにくい携帯電話時代を反映してか、交通事故で記憶喪失になるというプロットを何故か多用している点などが特に目につく。しかし親子関係と愛憎劇が絡むのは何も韓国ドラマの専売特許ではなく、メロドラマの定番と言えるかもしれない。

アメリカの昼メロはソープオペラと呼ばれている。これは昼のメロドラマのスポンサーをP&Gなどの石鹸メーカーが務めていたからである。日本の昼メロのCMでもやはり洗剤メーカーなど主婦層をターゲットしている事情は同じである。日本の昼メロと違う点は、30年も続く息の長い番組があることだ。NBCで放送されているDays of Our Livesは、なんと1965年から放送されているので、今年で40周年を迎える。驚くべき点は長いということだけでなく、月曜から金曜日まで毎日1時間放送されて、しかもホートン家とブレイディ家という二つの家の間の愛憎劇を執拗に追い続けている点である。

外の世界に目を向けないのだろうか、と素朴な疑問も沸いてくるが、親から子、さらに孫へとひたすら両家の間で恋し、結婚し、憎み、裏切り、対立しているのである。こうしたソープオペラは主婦ばかり見ているのかと思ったが、留学中に大学の学部生に聞いてみると、結構、若いファンも多いことがわかった。話がなかなか進まないのでどこから見ても見出したら話がわかるつくりになっている。私も留学中によく見ていて、What's that supposed to mean?(どういうこと?何が言いたいの?)、That means a lot to me(とても感謝している)、I don't feel the same way(同じ気持ちになれない)などといった、訳すとニュアンスが伝わりにくい口語表現はこういう時に使うのかと納得しながら覚えることができた。メロドラマは、登場人物が始終、話し続けているし、喧嘩もすれば、言い訳もするし、一人で悩んだりもするし、喜怒哀楽の表現がすべて出てくるので、これほど外国語の教材にうってつけのものはないような気がする。しかしネイティブに取っては見るに耐えないほど露骨でくどいものかもしれない。

韓国ドラマも、また日本のドラマもアメリカのTVドラマの影響をうけながら作られているが、日本版になると情緒的になったり、韓国版になると因果応報が強調されたりと文化的な差異が反映される点が興味深い。映画のように磨かれ、作りこんだ作品ではなく、もっと下世話かもしれないが、世界中の人々が異なった国のソープオペラを自由に見られるようになれば、どこの国でも似たようなことで悩んだり、対立したり、喜んだりしていることがわかり、相互理解が深まるのではないかと思う。