言の葉17 嵯峨天皇のいのり、空海
のおもかげ ①
古寺巡礼 京都|28 大覚寺 淡交社 平成20年12月発行 監修 梅原猛巻頭エッセー 宗教学者 山折哲雄著
嵯峨天皇のいのり、空海のおもかげ
より抜粋 見出しは当方にて附す
その4、その5は 言の葉18に記載
その1 〈大覚寺は不思議なお寺〉
大覚寺は不思議なお寺である。
境内に一歩足を踏み入れるとわかるが、その寺院の結構のあちこちに、王朝時代の宮廷生活の香りが立ちこめていることに気づく。
お寺であるとすると、その伽藍の中心に大日如来とか阿弥陀如来像、あるいは釈迦如来が祀られていそうなものだが、どうもそれらしいものが見当たらない。
それもそのはず、このお寺の中心部分に祀られているのが「般若心経」だからだ。嵯峨天皇がじっさいに書写したとされる「般若心経」である。それを収蔵し祀っているのが「心経殿」と称する場所であり、それが大覚寺というお寺の、言ってみれば心臓部をなしている。
それでは、この書写された天皇の「心経」がこのお寺のご本尊かというと、かならずしもそうとはいえない。「心経」はたしかに一面で、このお寺に祀られている重要なレガリヤ、ひとつの侵しがたい象徴のように考えることができる。しかしだからといって、それを本尊そのものとするにはやはり違和感がのこる。
歴史的にいうと、書写された「心経」そのものにたいする信仰はこの大覚寺に発する、とよくいわれる。日本人による般若心経信仰は古い起源をもち、その経典を書き写す慣行もまたそれにもとづく。そしてこのような心経信仰の発生を考える上では、弘法大師・空海と嵯峨天皇の出会い、その両者の緊密な交流が重要な機縁をなしていた。
そのように考えると、大覚寺の開創は天皇と空海の協同事業によるものだったといっていいのかもしれない。すくなくとも、この二人の重要人物の頭の中に住みついていたある理念にもとづいて歴史的に形成されたものが、この寺だったのではないだろうか。
大覚寺の境内に入り、お堂を巡り歩いていると、いつのまにか御所風のたたずまい惹きこまれていく。そして空海密教の濃厚な香りに包まれてしまう。そういう気分に誘われるのも、右に述べたような歴史的な背景がそこに感じられるからなのである。
その2 〈空海と嵯峨天皇の関係、空海密教コスモスと戦略的トライアングル〉
空海と嵯峨天皇の関係ははたしてどのようなものだったのか。この問題に入る前に、まず大覚寺の立地状況についてざっとつかんでおくことにしよう。
中国から帰った空海は、弘仁七年(八一六)、嵯峨天皇の勅許を得て高野山に真言密教の道場をつくっている。ついで同十四年(八ニ三)、同じように天皇の支援のもと、京都の東寺(教王護国寺)を開創。仏教伝導の前線基地を王城近くに構える。御所(内裏)まで、ほとんど目と鼻の先である。そこから足を西にのばすと、まもなく大覚寺をとりまく広々とした嵯峨野の姿がみえてくるだろう。さらに目を北方に転ずれば、高雄山が望見でき、その山深く神護寺の古刹がひっそりたたずんでいる。空海は唐から帰朝した直後の大同四年(八〇九)に、この高雄山に入山し、ほぼ十四年間この寺を中心に活動している。最澄や弟子の泰範たちに金剛界灌頂・胎蔵界灌頂をおこなってもいる。
御所(内裏)を中心に東寺、大覚寺、神護寺が扇を開いたような形で取りまいている。空海の視点から眺めれば、それがかれの密教コスモスに描きだされた戦略的トライアングルだったといっていいだろう。
さらに西を望めば小倉山・嵐山がなだらかな稜線をみせ、はるか北方の空に愛宕山がゆったりした姿をあらわす。足下には大沢池、その東側に広沢池がつらなり、いかにもかっての国王の離宮にふさわしい隠れ里である。
古地図によれば、その離宮はもともと大沢池の北辺に建てられていたらしい。その後、兵火にあったり再建の鍬が入れられたりして、大沢池の西側に広がる現在地に移された。
その3 〈大覚寺三つの神聖空間〉
この今日の大覚寺の全容を鳥瞰するとき、われわれはまずその境内が三つの神聖空間から構成されていることに気づく。さらにその内部に目を注ぐとき、天皇の別荘であった祈りの空間が、なかば公的な密教儀礼をおこなう伽藍へと変貌をとげていったプロセスが浮かびあがってくる。
三つの神聖空間とは、何か。
第一の心臓部をなす中心が、「心経殿」とその南側に建つ「御影堂」である。
第二が、心経殿の西側で脇をかためる「宸殿」である。
第三が、同じ心経殿の東側で同じように脇をかためる「五大堂」である。
この三つの神聖空間が心経殿を頂点として正三角形をつくりあげていることに注意しなければならない。この正三角形をなす神聖空間のデザインは、これからのべるように国王と国家と宗教(密教)の三者が、あたかも緊密な連携をとり合っているかのような調和の美をかもしだしているのである。
のおもかげ ①
古寺巡礼 京都|28 大覚寺 淡交社 平成20年12月発行 監修 梅原猛巻頭エッセー 宗教学者 山折哲雄著
嵯峨天皇のいのり、空海のおもかげ
より抜粋 見出しは当方にて附す
その4、その5は 言の葉18に記載
その1 〈大覚寺は不思議なお寺〉
大覚寺は不思議なお寺である。
境内に一歩足を踏み入れるとわかるが、その寺院の結構のあちこちに、王朝時代の宮廷生活の香りが立ちこめていることに気づく。
お寺であるとすると、その伽藍の中心に大日如来とか阿弥陀如来像、あるいは釈迦如来が祀られていそうなものだが、どうもそれらしいものが見当たらない。
それもそのはず、このお寺の中心部分に祀られているのが「般若心経」だからだ。嵯峨天皇がじっさいに書写したとされる「般若心経」である。それを収蔵し祀っているのが「心経殿」と称する場所であり、それが大覚寺というお寺の、言ってみれば心臓部をなしている。
それでは、この書写された天皇の「心経」がこのお寺のご本尊かというと、かならずしもそうとはいえない。「心経」はたしかに一面で、このお寺に祀られている重要なレガリヤ、ひとつの侵しがたい象徴のように考えることができる。しかしだからといって、それを本尊そのものとするにはやはり違和感がのこる。
歴史的にいうと、書写された「心経」そのものにたいする信仰はこの大覚寺に発する、とよくいわれる。日本人による般若心経信仰は古い起源をもち、その経典を書き写す慣行もまたそれにもとづく。そしてこのような心経信仰の発生を考える上では、弘法大師・空海と嵯峨天皇の出会い、その両者の緊密な交流が重要な機縁をなしていた。
そのように考えると、大覚寺の開創は天皇と空海の協同事業によるものだったといっていいのかもしれない。すくなくとも、この二人の重要人物の頭の中に住みついていたある理念にもとづいて歴史的に形成されたものが、この寺だったのではないだろうか。
大覚寺の境内に入り、お堂を巡り歩いていると、いつのまにか御所風のたたずまい惹きこまれていく。そして空海密教の濃厚な香りに包まれてしまう。そういう気分に誘われるのも、右に述べたような歴史的な背景がそこに感じられるからなのである。
その2 〈空海と嵯峨天皇の関係、空海密教コスモスと戦略的トライアングル〉
空海と嵯峨天皇の関係ははたしてどのようなものだったのか。この問題に入る前に、まず大覚寺の立地状況についてざっとつかんでおくことにしよう。
中国から帰った空海は、弘仁七年(八一六)、嵯峨天皇の勅許を得て高野山に真言密教の道場をつくっている。ついで同十四年(八ニ三)、同じように天皇の支援のもと、京都の東寺(教王護国寺)を開創。仏教伝導の前線基地を王城近くに構える。御所(内裏)まで、ほとんど目と鼻の先である。そこから足を西にのばすと、まもなく大覚寺をとりまく広々とした嵯峨野の姿がみえてくるだろう。さらに目を北方に転ずれば、高雄山が望見でき、その山深く神護寺の古刹がひっそりたたずんでいる。空海は唐から帰朝した直後の大同四年(八〇九)に、この高雄山に入山し、ほぼ十四年間この寺を中心に活動している。最澄や弟子の泰範たちに金剛界灌頂・胎蔵界灌頂をおこなってもいる。
御所(内裏)を中心に東寺、大覚寺、神護寺が扇を開いたような形で取りまいている。空海の視点から眺めれば、それがかれの密教コスモスに描きだされた戦略的トライアングルだったといっていいだろう。
さらに西を望めば小倉山・嵐山がなだらかな稜線をみせ、はるか北方の空に愛宕山がゆったりした姿をあらわす。足下には大沢池、その東側に広沢池がつらなり、いかにもかっての国王の離宮にふさわしい隠れ里である。
古地図によれば、その離宮はもともと大沢池の北辺に建てられていたらしい。その後、兵火にあったり再建の鍬が入れられたりして、大沢池の西側に広がる現在地に移された。
その3 〈大覚寺三つの神聖空間〉
この今日の大覚寺の全容を鳥瞰するとき、われわれはまずその境内が三つの神聖空間から構成されていることに気づく。さらにその内部に目を注ぐとき、天皇の別荘であった祈りの空間が、なかば公的な密教儀礼をおこなう伽藍へと変貌をとげていったプロセスが浮かびあがってくる。
三つの神聖空間とは、何か。
第一の心臓部をなす中心が、「心経殿」とその南側に建つ「御影堂」である。
第二が、心経殿の西側で脇をかためる「宸殿」である。
第三が、同じ心経殿の東側で同じように脇をかためる「五大堂」である。
この三つの神聖空間が心経殿を頂点として正三角形をつくりあげていることに注意しなければならない。この正三角形をなす神聖空間のデザインは、これからのべるように国王と国家と宗教(密教)の三者が、あたかも緊密な連携をとり合っているかのような調和の美をかもしだしているのである。