言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

〈信〉の構造2 キリスト教論集成 吉本隆明 ②現代キリスト教思想の諸問題 3イエスの史実性とキリスト教の観念性•党派性ーー「マチウ書試論」その1

2021-08-20 11:22:00 | 言の葉綴り

121〈信〉の構造キリスト教論集成

吉本隆明

②現代キリスト教思想の諸問題 3イエスの史実性とキリスト教の観念性党派性ーー「マチウ書試論」その1


投稿者 古賀克之助








〈信〉の構造2 ——キリスト教論集成

ニ〇〇四年十一月三十日 新装版第一刷発行 著者ー吉本隆明 発行所ー株式会社春秋社

現代キリスト教思想の諸問題 より抜粋







3イエスの史実性とキリスト教の観念性党派性ーー「マチウ書試論」その1


——それで「マチウ書試論」に入るわけですが、「マチウ書試論」お書きになったころと、教会へ行っていたころとはどういう関係になりますか。

(当方注 インタビュアー笠原芳光)


「マチウ書試論」はたぶん年代的には後なんです。僕はすでに学校をで出まして、東洋インキに勤めているとき、勤めの間に書いたっていう記憶があります。そのときすでにマルクスの物なんかもじぶんなりに十分読んだりもしているし、いわゆる社会主義的な思想についても、じぶんなりに、つかんでいて、聖書も、そのときじぶんなりに読んでいました。そういうことがじぶんの中でどう位置づけできるのか、できないのかっていう問題意識がありました。

もうひとつは、ぼくらは工科系の学校ですから、学校を出て町工場みたいなところへ勤めると、すぐに現場へ行くわけなんです。そのあまりの環境の隔たりというんでしょうか、つまり、もうまるで学校時代のじぶんなんてはるか遠くにかすんだ夢みたいな感じになって、そういう意味では、シモーヌヴェーユとはくらべものにはならないんですが、これはずげえところだなぁっていうか、工場で働くっていうことはすごいんだなあっていう衝撃がありました。

つまり、その衝撃の問題と、観念的に教養とか精神的なことでとっかかったマルクスとか聖書とかから得た問題意識とを、いっしょに関連したかたちで、じぶんなりにつかみたいとかんがえたとおもいます。だから「マチウ書試論」は、あとからかんがえても誇大妄想で、こんなものじゃなくて、なんか文学的な作品とか作家を対象に、そんな問題を全部その中で解いていこうとか、身近にしていこうってかんがえれば、いいじゃないかとおもえるわけです。このときはもうほかのものは全部いやだ、つまりなんといだたらいいんでしょうか、読むことは読むけども論ずる気はしないっていうんでしょうか、まともに論ずる気はしなくて、一種の誇大妄想みたいなものがありましたね。だから、福音書の中で「マタイ伝」が一番好きだったですから、よしこれだって、これをじぶんの当面している問題に近づけてといいましょうか、引き入れてみたいなというふうにかんがえたとおもいます。

「異神」とか、ジイドの「アンドレワルテルの手記と詩」をまねして「エイリアンの手記と詩」を書いたときのころは、まだ戦争中からの小林秀雄なんかの影響が間接的に入っていたわけですが、もうこのときは、繰り返しますが、ぃちおうじぶんなりに聖書もマルクスもエンゲルスも読んでいたし、日本共産党についても、見てだいたいわかるぞっていうところにはいたわけです。それから学校を出て急に工場に行ったときの、一種の衝撃的な体験をじぶんなりに方向づけていこうみたいなことがあったとおもいます。


——そうすると「マチウ書試論」は、いわゆるジイドの影響をうけた初期の、若干キリスト教的な詩とも切れているし、また教会にしばらくかよわれた体験とも切れて、ある意味では、吉本さんなりの宗教の問題、信仰の問題との格闘というものの最初と考えていいわけですか。


そうだとおもいます。もし「異神」を書いていたころとつづいていることがあるとすれば、デカダンスというか、なにもかもおもしろくないなあという感じだとおもいます。


——「マチウ書試論」の中に、アルトゥルドレウスの「キリスト神話」から学ばれたということが書いてあります。この本では、イエスは歴史上の人物じゃなくて、原始キリスト教団が観念的につくった存在なんだということを言っているわけなんですが、それを吉本さんは、じぶんの立場とされて、つまり歴史としてのイエスよりも、信仰イデオロギーによってつくられたキリストを強調しておられるというふうに、私はおもったんです。つまり、イエスの史実性というものと、キリスト教の観念性あるいは党派性との問題が「マチウ書試論」では出てくる。私どももはじめて読みまして、イエスの史実性を否定しておられるところが若干気になったんですが、そのあたりのことをちょっとおうかがいしたいとおもいます。


このときこれを書くのにどんな本が、じぶんにいちばん影響を与えたかを話します。

ひとつは、ニーチェの「アンチクリスト」と「道徳の系譜」が、聖書にたいする考え方でおおきな影響を与えているんです。どんな影響かといいますと、キリスト教あるいは聖書は、ニーチェによれば、一種の弱者の怨恨なんで、すこしも雄々しいところがなくて、なんか恨みがましいんだというんですね。ぼくのそのときの感じ方はそうなんです。それから道徳というものの発生の起源は、キリスト教、もっといえば聖書にあるんだっていう観点がニーチェにあって、だからこれを壊さなければ、ほんとうに健康な文明は出てこないんだといいます。その二つが、ぼくにおおきくはいってきた影響のひとつなんです。

もつひとつは、伝記としてのルナンの「イエス伝」で、これはその当時読みましていちばんおもしろかったんです。とにかくおもしろく文学的に書いたであるんです。キリストイエスの生涯をひとつの伝記として読む、ということはこういうかといった印象がありました。

もうひとつは、エンゲルスの「原始キリスト教史考」で、これはキリストイエスを、当時のユダヤ教的秩序にたいする反逆者、革命者として見ています。いまでは否定されているでしょうが、「ヨハネ伝」なんかについての考証的なこともあったとおもいます。そういうのも興味深いことでした。

その三つがぼくに深い影響がありました。じぶん自身の読んだ「マタイ伝」とどこかであうところがあったら、そこで書こうとしてノートをとったりしていたんです。たまたま偶然なんですが、岩波現代叢書にドレウスの「キリスト神話」が出てたんです。それでぼくが影響を受けた大思想家や大学者や大伝記学者の人たちがつくってくれた像と、じぶんの直接的な聖書の幼稚な読み方から受けとるものとの、あまりにおおきな空隙をどうやってつなげたらいいんだ、もっとかっこよくいえば融和させたらいいんだみたいなことが考えどころでした。もしうまくできないで簡単に短絡したら、お里が知れちゃう。まるで段ちがいなものをひっつけようったって、それは無理だょっていうふうなことになるわけです。ドレウスの本が適当に通俗的であり、適当に考証的ですから、そこで空隙をつくところがあったんですね。そして、これは使いやすいといったらおかしいんでしょうか、つまり実証的かどうかはべつとして、ここも嘘だ、ここも嘘だ、あるいは、旧約聖書との類推がつく、対応がつくところはもう対応がつくっていうことで、ドレウスのやり方を踏襲して、のけられるものは全部退けたあとに何が残るかってことだけを、じぶんなりの思想的な課題として描けばいいじゃないかとかんかえたとおもいます。だから、ニーチェとルナンとエンゲルスという大巨匠と、じぶんの聖書の読み方との空隙をドレウスのやり方がいちばんよく埋めてくれるとおもって、こんなおもしろいことはないって感じになりました。それでずいぶんドレウスの立証したこの対応説を使ったんだとおもいます。

それから、日本のキリスト教の思想家とか学者の中でイエスや聖書について論じたもののいくつかは見た気がします。たとえば、吉満善彦とか、河上徹太郎とか、亀井勝一郎とかのもののいくつかは読んだとおもいます。日本人が聖書について書いたものは、あまりじぶんの理解のしかたや読み方と、おなじようなのがなかったんですね。それじゃあ、芥川龍之介とか、北村透谷とか、太宰治とかはどうかというと、それぞれに感銘は受けているわけですが、ぼくの関心のもち方とはつながらなかったんです。ですから、こういうつながらなさを中途半端にもちだすよりも、もうただ立証できるかどうかはべつとして、ドレウスのやり方でやったほうがいいというふうに、ぼくはかんがえたとおもいます。


——ドレウスが旧約と対応させているところは、実証的にも正しいところが多いとおもいますが、ただその大本になっているイエスが歴史的には存在しなかったんだという問題については、吉本さんはイエスが歴史的に存在していようがいまいが、少なくともじぶんの課題においては問題ないと、むしろ、キリスト教の観念性、党派性というものが、当時のユダヤ教団との確執の中で生まれてきたんだという受けとめ方をしていて、それにたいする批判であったり、ある意味では共感であったり、参考になるというか、そういうものとして重きをおいておられたようにおもえるんでずが。


そうなんです。ドレウスはキリストの史実性をまったく否定しているとおもいます。ルナンは否定していないとおもいます。エンゲルスも否定していないとおもいます。ぼくは、マタイ伝の象徴している思想内容にくらべたら、史実性はあまり問題にならないんじゃないか、つまりほんとうに歴史的イエスは実在したかどうかという問いを発する必要はないんじゃないかとおもいました。それはたぶんいまでもそうおもっています。そういう意味では、日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川建三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこまで限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまでもそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証できているとおもえないところがあります。

(当方注 この著述その2に続く)


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