言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

京都発見 ① 六角堂と太子信仰

2017-04-22 10:44:22 | 言の葉綴り
言の葉 37 京都発見
①六角堂と太子信仰

抜粋その1
京都発見 ニ 路地遊行 梅原猛著 発行所(株)新潮社 1998年2月発行



六角堂と太子信仰
四………聖徳太子と六角堂




古くから京の町の中に因幡堂即ち因幡薬師堂とともに六角堂があった。堂といっても殆ど寺であるが、京の町の中に寺を造ってはいけないという禁忌葛(タブー)を避けて堂と名付けたのであろう。
六角堂は聖徳太子のお造りになった寺である。聖徳太子は少年だった頃、淡路の海に遊びにいった。その時、海の向こうから一つの小箱が流れてきた。これを取ってひらいてみると黄金の一寸八分の如意輪観音の像が出てきた。それで彼はその仏を持仏として祀り、その身から離さなかった。そして、物部氏との戦いの後に、太子は四天王寺を建てるための材木を求めて、彼の地にやって来て、携えた持仏を泉の傍らの槲(かしわ)(多良)の木の枝に懸けて、水浴びをした。ところが、水浴びが終わって、持仏を取ろうとしたところ、像が重くて上がらない。太子はびっくりしてお祈りをしたが、その夜、「私を持仏として以来七世が過ぎた。私はこの地に縁があるので、どうかこの地に寺を建ててくれ」
という夢のお告げがあった。厚い仏教信者の太子は深くこの言葉を信じて、ここに如意輪観音を祀るべく、お寺を建てようとした。時に一人の老婆がやって来たので、太子は、
木私はここに寺院を建てようと思うが、どうか」
というと、老婆は、
「この地の近くに杉の巨木がある。その木は高くして毎朝紫雲に覆われている霊木である。この木を伐って寺を建てるが良い」
といって去った。老婆の言う通りに近くに杉の巨木があった。その一本の木を伐って、ここに六角形の寺を建てたので六角堂と名付けられた。正式には紫雲山頂法寺という。

このようにして、六角堂は聖徳太子の時に建てられ、桓武天皇の御代、この地に都が営まれる以前に、既にここにあった。ところが、平安京を造る時に、この寺をめぐって一つの揉め事が起こった。平安京は唐の長安や洛陽の都に倣って、東西南北に碁盤の目のように真っすぐに伸びる道路によって、都市計画が行われたが、この都市計画に六角堂が引っ掛かったのである。新しい都の設計者の引く東西の路線の上にこの六角堂はすっかり乗ってしまった。それで使者がやって来て、
「この計画路線の上に乗っている六角堂を壊すように」
と伝えた。おそらく、この官の要求に六角堂の僧たちは大変困ったに違いないが、寺の上に突然黒雲が立ち籠めて寺を覆い、あっという間もなく六角堂は五丈ほど北に移り、そのままであったという。それでこの東西の通りを今でも六角通りというのである。
この六角堂の建立及び平安京建設時の移動の話は誠に興味深い。六角堂の本尊はこのように聖徳太子が淡路の海で拾った仏像であるとも伝えられるが、別の伝承は高麗国の光明寺の本尊であり、徳胤という僧が持って来たというのである。淡路の国に流れ着いたという伝承といい、太子がかって彼の国にいた時の弟子・徳胤が海に小箱を流したという伝承といい、この仏像はやはり三韓、特に高麗即ち高句麗との関係を想定させるものであろう。太子周辺には、高句麗の僧の影がちらつく。太子が四天王寺を建てるためになぜこの山城国に材木を求めたのかよく解らないが、一つには秦氏との関係が考えられる。秦氏が造った太秦広隆寺のかっての本尊と伝えられるのは、有名なじーっと思惟していらっしゃる弥勒菩薩像である。多少この弥勒菩薩と形は違うが、やはり太子と深い関係にある中宮寺の本尊の弥勒菩薩は長い間、如意輪観音と伝えられてきた。この六角堂の如意輪観音も静かに座って瞑想に耽っていらっしゃる御姿であり、広隆寺の弥勒菩薩とも、如意輪観音と伝えられてきた中宮寺の弥勒菩薩とも相通じるものがある。
(以下、略)

抜粋その2
五………親鸞と如意輪観音



六角堂の本尊で、聖徳太子の護持仏と称する如意輪観音は、艶かしい女体の匂いのする、夢みるような思惟に耽られる観音さまであった。平安時代の末、太子信仰が盛んになった頃、ここに参籠して様々な夢想に耽り、観音のご利益を願う人が多かった。

かの浄土真宗の開祖・親鸞も、叡山を下りて、ここに百日参籠したのである。その時親鸞二十九歳。彼は叡山仏教の堕落と偽善に我慢出来ず、山を下り、深い心の悩みを抱いてこの六角堂に参籠したのである。その九十五日目の暁の夢に、如意輪観音の示現を得た。
「法然の許に行け」
その頃、法然は吉水(京都市東山区)で新しい専修念仏の教えを説く、旧仏教の人から見れば危険な僧であった。親鸞はこの如意輪観音のお告げによって法然の許へ行き、引き続きまた百日参籠して六角堂から吉水の法然の許へと通った。ここで親鸞ははっきりと法然の弟子になった訳であるが、それから二年後、親鸞はまた夢で如意輪観音の声を聞いたのである。

業者宿報設女犯
(ぎやうじやしふほうせちにょばむ)
我成玉女身被犯
(がじやうぎよくにょしんびばむ)
一生之間能荘厳
(いつしゆうしけんのうしやうごむ)
臨終引導生極楽
(りんじゆいんだうしやうごくらく)

「親鸞よ。もしおまえが、前世からの報いにより、どうしても女なくしてはいられないならば、私が美しい女になって、おまえに犯されてやろう。そして一生の間、おまえの人生を立派に飾って、死ぬ時は、おまえを極楽に導いてやろう」と、観音さまがおっしゃったというのである。この如意輪観音さまが本当にこんな大胆なことをおっしゃったのか、それともそれは性欲に悩まされた親鸞の秘かな願いが生んだ幻想であったかよく解らない。しかし、夢を見ているような艶めかしい女体の匂いのする如意輪観音さまを見ていると、この観音さまならば夢で親鸞に、「私はおまえの妻となって、お前に犯されてやろう」と、おっしゃりそうな気がする。
観音の第一のお告げは、親鸞を法然の許に導いたものであろうが、第二のお告げは親鸞の宗教を、法然の宗教から逸脱させるものである。なぜなら、そのお告げは今まで僧として禁止されてきた、妻を娶ることの肯定であるからである。この妻帯の肯定という点において、親鸞の仏教は法然の仏教と違う。
(略)
……六角堂の如意輪観音は、親鸞上人の夢に現れて日本に新しい救いの教え・浄土真宗を生み出したのである……
(以下、略)

抜粋その3
六………小野妹子と池坊



六角堂とその本尊の如意輪観音は聖徳太子の名残りをとどめるが、意外なところに太子の伝承を伝えるものがある。
祇園祭は賀茂の祭とともに昔から京の二代祭であり、祇園祭の日には数十万の人が京を訪れる。この祭の中心が山鉾巡行であるが、山鉾の一つに「太子山」という山がある。そしてこの山を守る町を太子山町と呼んでいる。この「太子山」には、六角堂の縁起をそのまま表わした像が造られている。美豆良(童子の髪形)髪を結った少年の太子が右手に斧を持ち、左手に衵扇を持ち、六角堂の建材になった杉を今、正に切らんとしている像である。その杉の木には小さな如意輪観音が置かれている。伝承では多良の木であるが、物語を単純化するために杉の木としたのであろう。祇園祭の山には、神の依代として松の木が立てられているが、太子山のみは杉であり、その杉に因んで、知恵が授かるという杉のお守りが授与される。
(略)
秦川勝と並んでもう一人の聖徳太子の最も信頼した家臣が小野妹子である。秦氏が経済において活躍したのに対して、小野妹子は外交において活躍したのであるが、京都は小野氏と関係が深く上高野にある崇道神社には妹子の子の毛人(えみし)の墓があった。六角堂に伝わる『六角堂頂法寺縁起』によれば、太子は四天王寺の材木を求めて小野妹子とともに、この地にやって来て、やはりその持仏を槲樹の枝の間に置いて湯浴みをしたところ、如意輪観音は動かず、そこで一人の老婆ではなく、翁に会って寺を建てたというのである。ここで、小野妹子が出てくるが、実はこの頂法寺を根拠地として栄える華道の池坊専永氏は、この小野妹子の四十四世の孫と称するのである。

この池坊という名も、太子が湯浴みをしたという伝承と繋がっている。おそらく、ここにこんこんと湧き出る泉があり、そこに小さな池があり太子が湯浴みをされたという。その池に因んで「池坊」という坊舎があったのであろう。そして室町前期に、池坊専慶(妹子十一代の孫)という人が出て、立花を始めたのである。もともと花は仏の世界を荘厳するものであるが、その仏事の一つに過ぎなかったものが、能や茶道などの諸芸隆盛の折に、一つの新しい芸として独立したのである。
もともと華道は、主に四条道場・金蓮寺を本拠地とする時宗の阿弥号を持つ遁世者たちによって始められ、三条家より富阿弥に伝えられた「仙傳抄」が最も古い華道の書である。ところが、室町末期に小野妹子の第二十七世の孫という池坊専応が出て、この専応が大変立花に巧みであり、『池坊専慶口傳』なる書を書き、むしろこの六角堂頂法寺の一つの坊であった池坊家が華道の家元になったのである。池坊も元は阿弥号を名告る時宗の僧であり、最初は庭造りであった、という説があり、池坊ではそれを否定するが、中世学の岡見正雄氏は、それは事実ではないかと言うのである。『池坊専慶口傳』を読むと、岡見説を裏付ける記述がある。
(略)

ここで専応は、ちょうど庭造りが、少しの水や少しの木で巨大な自然を表現し、巨大な自然の変化極まりない姿を表すことが出来るように、また立花は、この小さな床の間の一瓶の上に、五彩の仏の世界を示し、松や檜は真如不変を示し、散る花は盛者必衰の理を示し、この一本の花の中に、深い仏の世界の秘密が表現されるというのである。ここで専応は庭造りを「仙家の妙術」と言っているが、立花もおそらく「仙家の妙術」なのであろう。この「仙家の妙術」は、六角堂の中の池坊を根拠地として、栄え、そこからまた色々な派が起こった。
(以下略)






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