ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 阿蘇神話の系譜にいた建御名方命

2020-07-31 10:37:08 | 日本文化・文学・歴史

毎日毎日大量の雨を降らせ日本列島を水浸しにした梅雨も、コロナも、ぐずぐずと居座り続けて異常な
夏ですね。
出雲の国譲り神話の舞台は九州の葦原中つ国であったのではと考えて、大国主命の皇子・味須伎高彦根
と事代主命が母系で筑紫の宗像氏と強い絆で結ばれていることを述べてきましたが、今回は国譲り神話
で天神である建御雷神に力比べをして負け諏訪に追われた建御名方命も、福岡から発信されているペン
ネーム・油獏氏のネット情報で九州に縁があることを知りました。

『古代妄想・戦国奇譚・寺町奇譚 - 油獏の歴史逸話と時代小説棚』
という調査研究に基づき、推理思考を重ねたホームページですが、一級の史料を提供してくれました。
特に『阿蘇神話奇譚。神々の末裔1〜3』は油獏氏自身のルーツを述べ、阿蘇への想いを宣べています。

「私の家系は熊本県阿蘇の地。一宮町手野の里に鎮座する<国造神社>の社家の流れである。阿蘇北宮
祝家という。而してその家系は古い。幸い十数代程前にまで遡る家系図と家籍を亡父が残していた。
私はその家系図をもっと遡りたいと思っていた。」事から阿蘇神話の伝承地をたどりつつ粉飾されたと
考える阿蘇神話の系図を正したいと謎解きをする推理に説得力があり興味深い。

実は私の嫁いだ草野家も阿蘇市一宮の宮地に本籍があったが父の代から東京へ移った。現在も坊中に伝来
の墓所がある。昭和51年に父・美晴が亡くなり納骨のために阿蘇へ行った折には背丈を越える位の自然石
の碑が建っており、風化が進んでいたものの「草野作左衛門 源氏種塚」と刻まれていました。延宝4年
(1677年)5月15日没の「草野作左衛門源親政」を家祖としています。
阿蘇の草野家では夫の祖父が一人息子であったが若くして台湾で戦死。曾祖父・富平は正妻を離縁し後妻
を娶っていたが、長男亡き後子は無く跡継ぎとして孫である父を養子にしようとしたが祖母と争い、手渡
さなかったために、草野家の財産は一切合切後妻とその縁者のものとなりましたが、祟りを恐れたのかさ
すがに墓山のみ残されたという。明治時代までは系図や古文書も伝えられていたと聞くが散逸して今はない。
油獏氏の「古代妄想」シリーズ中の「高良玉垂神の秘密」や「戦国奇譚」中の「二人の鎮永。異説草野鎮永
伝」には草野氏の系譜に触れたところもあり九州の草野のルーツを学んで、関東に移り住んだ夫の兄弟の
子や孫たちにもいつか伝えたいと思いました。

今回のブログのテーマの建御名方神は出雲の国譲り神話で建御雷神に敗れ信州諏訪に逃れて、ここから出
ないと誓います。この誓いからか建御名方神を祀る社には四隅に御柱が建てられており7年に一度行われ
る御柱祭りの勇壮な木落しは地元のみか日本中の人々を興奮させます。しかし建御名方神の情報は記紀に
無くほとんど得られずにいましたが、油獏氏の「古代妄想・阿蘇神話譚・神々の末裔3・第4話建御名方
命」中に<阿蘇神話の系譜>と<諏訪大社上社大祝の系譜>が記されていました。

上図の通り、阿蘇と諏訪の祭神の始祖は神武天皇とあり、二代目綏靖天皇の兄弟の子世代から阿蘇と諏訪
の国造となり、神祇の祭祀者となった事を示しており、このような伝承を残した裏には理由があるはずで
すが、さらに阿蘇と諏訪の伝承に共通して現れるのは<鯰(なまず)>です。

<阿蘇の鯰伝承>
 昔 阿蘇は外輪山に囲まれた大きな湖であったが建磐龍命は湖の水を流して田畑を拓くことを考え、湖
の壁を蹴破り湖の水を流そうとしたが、大鯰が横たわり水の流れをせき止めたため建磐龍命はこの大鯰を
退治して湖の水を流した。

上記の<鯰の霊>は阿蘇の北宮祝家が奉祭する「国造神社」の境内の祠に「鯰宮」として祀られている。
そして国造神社に拘わる人々は<鯰を眷属>として食べないという。

<諏訪の鯰伝承>
 国譲り神話で建御名方命が諏訪の湖まで逃れた折に大鯰が現れて対岸まで渡したという伝承があり、建
御名方命の眷属も鯰であるが、国譲り神話で建御名方命を打ち負かした建御雷神を祀る常陸の鹿島神宮に
は大鯰を封じる要石があって、未だに建御名方命の神霊を封じているという。

兄弟神という系図どおり両社とも鯰を眷属とする同族であり、建御名方命も九州に本拠があったと思われ
ますが、以前長崎の<おくんち>を見に行きましたがそこは長崎の諏訪神社だったことを思い出し祭神を
調べてみると建御名方命でした。そして信濃の諏訪神社の神紋は<梶の木>ですが、長崎の諏訪神社の神
木は<楠>だったのが印象に残っており、これも九州説のヒントになりそうに思います。

九州にルーツがあると思われる建御名方命が信濃の神とされたのは筑紫の安曇氏の穂高見命が信濃にも進
出し穂高岳、安曇野などの地名を残していますし、天武紀には天武天皇が都を新たに作ろうとして松本付
近の土地の調査を命じており、浅間山の噴火のためか計画は頓挫していますが、信濃は倭系の人々の植民
地的な地域であったと思われます。

 阿蘇の地域以外でも鯰を祀る神社は九州の各地に見られますが記紀では全く無視しており、不都合な事
であったら鯰をたどるとかえって見えてくる倭国史があるかもしれません。

油獏氏のホームページは東北出身の私には得られない九州の情報がいっぱい詰まっていました。読み物と
しても面白いので皆さまにもお勧めします。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 古代からの暗号 壬申の乱・... | トップ | 古代からの暗号 倭人を解く... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日本文化・文学・歴史」カテゴリの最新記事