ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 日向や阿蘇にもあった葛城襲津彦の伝承

2021-11-29 10:08:46 | 日本文化・文学・歴史

仁徳天皇の皇后・磐之媛の父である葛城襲津彦の出自を記紀の記事から辿ってみると三代前は孝元天皇であり、
その皇子の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)が祖父、父は仲哀天皇や神功皇后に仕えたという武内
宿禰とされ武内宿禰の子は併せて九人(男七女二)おり、男子は葛城氏、波多氏、許勢氏、蘇我氏、平群氏、紀
氏らの祖とされています。

河内王朝や大和王朝時代に活躍した葛城氏の本拠地は現在の奈良県高市郡明日香村の南西方向にある金剛・葛城
・二上山麓に広がる葛城の地。彼らの祀った高鴨神社、御歳神社、鴨津波神社、一言主神社などが現存し、5世紀
後半と推定される葛城長柄居館跡や5世紀中葉には渡来人が葛城の地に居住していたことを示す韓式土器や鍛冶関
係の遺物が発掘されており、九州に葛城氏の痕跡を探しても容易に見つけることは出来ませんでした。
しかし葛城襲津彦が高良大社の祭神説のある武内宿禰の子であれば、九州にまったく縁がない訳ではないとネット
検索を続けたところ
 『物部王朝を駆け抜けた武内宿禰ーsomosomo-2018.4.20』中に「<襲津彦>が<日向ソツ彦王>と呼ばれた。」
という経緯が記されたブログに出会いました。著者のsorafullさんのこのページの記述は、嘗て吉田大洋著『謎の出
雲帝国』に先祖から口伝された出雲の歴史の真実を語った富當雄氏のご子息・斉木雲州氏が著した<出雲の古伝承>
を情報源としてsorafullさんの思考を加えたブログです。

今回の我がブログでは襲津彦が日向と繋がるまでの経緯を紹介したいと思いますが<斉木氏の出雲伝承>を読んだ事
は無く、理解できない面があるので導入部はsorafullさんのブログから転載させて頂きます。(詳しく知りたい方は
sorahullさんのブログをお読み下さい。)
 「磯城王朝最後の大王(ヒコタツ彦)が稲葉国造となった時、武内宿禰はそれに従って稲葉国の宇部山(鳥取市)
  に移り住みました。そこにヒバス姫から連絡があり、夫のイクメ大王が武内宿禰に刺客を放ったというのです。
  武内宿禰は慌てて逃げ、東出雲の向家のもとへ助けを求めました。向家は松江市八幡町に家を建てて匿います。」
以下は要約します。
 「*武内宿禰は向家の姫を後妻として迎え、出雲王家の親族を意味する「臣」となり、<武内臣大田根>と名のる。
  *太田根は松江市八幡町で亡くなる。
  *大田根の息子・武内臣波多は九州の肥後の八代に移住。
  *波多の娘が武内ソツ彦を生む。
  *ソツ彦は4世紀の神功皇后の三韓遠征において中心人物となり水軍を率いて勝利する。
  *神功皇后の実際の夫はソツ彦だった模様。
  *三韓から帰ったソツ彦は大和に凱旋し葛城に移住。長江に宮をおいたので 、<長江ソツ彦王>と呼ばれ葛城王家
   の祖となった 。
  *大田根の子孫たちは他に、平群臣都久、紀臣角、蘇我臣石河、許勢臣小柄など。物部王朝滅亡後、彼らの勢力は
   強まり平群王朝(和の五王)やのちには蘇我王朝も築きます。
  *記紀の中で武内宿禰は数百年も生きているように描かれているが、これはイクメ大王(垂仁天皇)時代に実在した
   大田根からはじまり、仁徳大王までの子孫を一人の<武内宿禰>として描いたからです。」
これ以下は (略)・・・・・・・・・・・・・・・『somosomo』終了

 楠(くすのき)から始まった九州は国主(国栖・国巣)の国では?という疑念を解く鍵は<秋の七草の暗号>で推量した
葛城氏との関わりのある事を証明する事。しかし見つけられずあきらめかけた頃、①日高正春氏の襲津彦は<蘇の国の首長>
説と②出雲王家・向家の伝承に襲津彦は<日向に勢力があった>との説を見つけました。

 ① 蘇の国と葛城氏を繋ぐ諏訪大社大祝の系譜
『古代日向の国』の著者・日高正春氏は葛城襲津彦とは<蘇>の国の首長と考え、景行天皇の九州征討で敗れて大和朝廷に
服属し、葛城に移ったのではと述べていました。私は阿蘇の在地の勢力が大和王朝によって国を奪われたという事は、記紀
に記されている大国主の国譲り神話を思い起させました。出雲神話では天つ神が大国主の元にやってきて、葦原中国を天孫
へ譲るようにせまると、大国主は子の事代主命と建御名方命に受け入れるか否か聞くようにといいます。事代主命は承諾を
した後に死を選び建御名方命は武甕槌神に反発し、闘いを挑みますが敗れて命乞いをして諏訪に流されて諏訪神社の祭神と
なります。


諏訪大社上社大祝の系譜には上図のように阿蘇国造と科野国造とは神武天皇の皇孫の神八井耳系の兄弟神とあり、この兄弟の
母・阿蘇比売命の父・会知速男命は建御名方命の5世孫であるとする。この阿蘇系譜を知った時に、建御名方命が出雲の大国
主命の子として登場するのは何故?と違和感がありましたが、国譲り前の原出雲は九州と考えれば建御名方命が阿蘇の王族
であった事に違和感はありません。そして阿蘇の在地の住民は原出雲系であり、大国主命の御子神とされる味須伎高彦根命を
「今、迦毛の大御神といふぞ」(古事記・大国主神の神裔段)と記しているので、葛城氏と同族とされる賀茂(鴨)氏も九州
の出自だった可能性がありそうです。

 ②襲津彦は日向に勢力があったか?

葛城氏は奈良盆地の南西の金剛、葛城、二上山麓に広がる地域を本拠に5世紀に大和王権の大臣又王家の姻族として権勢を誇っ
た氏族でした。葛城襲津彦が<日向で勢力があった>としたら記紀の中にその片鱗があるはずです。日向出身者で最も有名なの
は髪長媛。父親の諸県君牛が美しい娘を応神天皇に献上するが、皇子のサザキ(仁徳天皇)が一目惚れした様子を察しサザキに与
える。髪長媛は仁徳天皇の妃となって大草香皇子と幡ビの皇女を生む。日向の女性が妃となる例は応神天皇の3代前の景行天皇が
熊襲征討のため九州各地に足跡を残しており、日本書紀の景行天皇系譜には日向出身の妃と皇子が記されているが、その中に
「日向髪長大田根が日向襲津彦を生めり」とあるのは気にかかる。sorafullさんのブログに<武内宿禰は出雲の姫を後妻とし武内
大田根と名のるとあり、大田根の息子・武内臣波多が九州八代に移住し、波多の娘が襲津彦を生む>とあり、この記述と関連が
あると思われるのですが、これ以上の情報は無いので定説とは違う伝承があったのではないかとしか言えなくて残念です。
また、襲の武媛が国乳別皇子(水沼別の祖)と国背別皇子(水間君の祖?)と豊戸別皇子(火の国別の祖)とを生みました。

景行天皇は襲の国を平らげた後高屋宮に6年経た頃、蘇の国の御刀媛(みはかしひめ)を召して妃となし豊国別皇子(日向国造祖)
が生まれる。景行天皇は熊襲征討に向かった先々で美人を召して子供が大勢うまれているが、これらの記述を踏まえて日高氏は
『古代日向の国』で次のように述べています。
 「景行紀のクマソ征討の記事は日向地方を中心にした東九州地域の4世紀後半代を反映しているのではないか。「ソの国」の
  御刀媛を妃とするということは、畿内大和系の「豊の国」に「ソの国」が統合されその統括者として豊国別王が出現したとい
  う事になる。御刀媛に象徴される「ソの国」が大和王国と交流の密な豊の国系統の勢力に包含された頃、筑紫の国は面四つと
  して表現され、九州東部に「豊の国」として名称付けられ、首長的地方豪族像として豊国別王が考えられる。」

今回のブログは大和王権の中枢として活躍した葛城襲津彦(葛城氏)の出自は蘇の国(日向や阿蘇)と考えて良いと思いました。
日向は記紀では日本国の揺籃の地とされます。一大古墳地帯でもある日向や神武東遷神話についても知りたいと思うようになり
ました。

 

 

 

 

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