開化天皇の皇子・日子坐王を始祖とした息長氏の系図には他ではあまり見かけない特徴がありました。
例えば日子坐王と息長水依比売の子が丹波比古多多須美知能宇斯王、袁祁都比売との間に生まれた子供が
山代之大筒木真若王、その妃が丹波之阿遅佐波毘売。このように系図には名前の前に丹波・山代・近江・
但馬などの本拠とする地名が付されており、現在の滋賀県から京都府、兵庫県の北部に至る丹波国に勢力
を持っていたと思われます。
崇神天皇の皇統には日子坐王の孫にあたる日婆須比売が第11代垂仁天皇の皇后となり、その血は景行天皇・
倭建命・成務天皇・仲哀天皇・応神天皇に受け継がれています。しかし息長氏が著名な一族であるにも関
わらず彼等の実体はほとんど伝えられていません。旧姓が近江という私にとって、遠い祖先が暮らしていた
かもしれない近江の国への関心は高まるばかりですが、琵琶湖の霧は一向に晴れません。
今回のブログのテーマは古代史上最も輝いて見える息長帯比売と応神天皇が息長一族の系譜にありながら
息長氏の実体が全く見えないのは何故か?の謎解きです。
当ブログは、<星川建彦の乱>によって応神天皇の太子だった宇遅能稚郎子は殺され応神朝は断絶、難波に
秦氏・新羅系の仁徳王朝が成立したと考えています。その経緯は以下のブログに記しています。
2023ー3ー27 <雀>と名を付けられた<仁徳天皇>
2023ー5ー30 仁徳天皇の黒幕だった?葛城襲津彦と弓月君(秦氏)
2023ー6-24 <仁徳天皇=許勢氏>の証明なるか?sabo氏のブログ
2023ー7-15 星川建彦の本貫?<都祁の星川郷>。大和岩雄著『秦氏の研究』
2023ー10ー2 <兎我野の鹿>は仁徳天皇の罪科(とが)か?
2023ー10ー31 仁徳紀の大土木工事は誰のため?
2023ー11ー25 仁徳天皇と星川建彦を繋ぐ太陽の道(天道)。
2023ー12ー17 仁徳天皇は秦氏だった。証明に使われた緯度!
2024ー1ー31 都祁国造が祀っていた坐摩神社とは?
2o24ー2-26 宮中祭祀<坐摩の巫だけは都祁国造一族の娘から>
2024ー3ー26 仁徳天皇陵で倒れた鹿の正体
2024ー4ー26 『日本書紀』の編者たちの作意・「鳥(獲り)の名で伝えた真実」
9代開化天皇の皇子・日子坐王の系図には4世代降ると神功皇后とも称される息長帯比売命が、その息子に
15代応神天皇が誕生し、古代史上のヒーローの如く様々なエピソードが語られており、八幡信仰の神と崇め
られている一方、彼等の父系の祖・息長氏が何者であるかを語る史料はみつからない。何故か?疑問を持っ
た。そして息長氏の系図の中に息長隠しの重大な秘密が隠されているだろうと思いました。
息長氏の系図には近江、山代、丹波、葛城などの地名を冠した一族の氏名が多く、それは彼等の本拠地を示し
その地方の首長という立場を主張しているように思う。
この系図の末尾に記されているのが応神天皇であるが、秘伝によると応神天皇の逝去後、都祁の星川建彦の
乱により太子が死亡し、息長系の応神朝は実権を失ったと思われる。
これまで約1年間、仁徳朝の情報を収集し、上記のブログにあげてきたので詳細は省くが、星川建彦は都祁
を本貫とする新羅系・秦氏であり、難波の都も新羅からの渡来民が築いたものでした。
しかし、大和高原にある都祁の星川臣(秦氏)が山代から近江、丹波などに広大な勢力圏を持っていたと思
われる息長一族を相手にして簡単に勝利出来たとは思えない。彼等のバックには相当強力な協力者がいるだ
ろうと考えていたところ、仁徳天皇が難波の宮で太陽の祭祀(迎日信仰)を行い、遙拝するためにの起点、終
点を緯度でもって正確に把握しており、東の起点が都祁の入り口にある<穴師兵主神社>でした。
以下のブログに<穴師兵主神社>関連の記事を載せています。
2022 ー10ー24 崇神天皇と息長氏の接点。
2022ー11ー30 <御食事神>とは<敗者>の標識だった。
2022ー12ー17 穴師坐兵主神社の御神体<鈴鏡>から見えてきた息長氏の出自。
この記事には今回と違う見解がありますが、謎解きの過程の事ですから結末に至るまでどれが正解なのか分
かりません。ご理解下さい。
上記の2022 ー10ー24付けブログ 「崇神天皇と息長氏の接点。」を確認したところ、宮司の中一郎氏の著書
『大兵主神社』には「穴師坐兵主神社」のご祭神は<御食事(みけつ)神>。ご神体は<鈴鏡をつけた日矛>」
と記されており、鈴鏡については2022ー12ー17付け「穴師兵主神社のご神体<鈴鏡>から見えてきた息長氏
の出自。」によって息長氏にとって鈴鏡がいかに大切な物か、そして彼等の出自を伝える大切な物と認識し
ました。
また、2022ー6-28のブログには気比神社の祭神を<御食事神>と称えた説話があり、今回の謎解きに大変重
要な部分なので再録します。
「『古事記』には品陀和気命が神と名前を変える説話があります。
品陀和気命が皇太子になった時に建内宿禰と若狭国から角鹿を巡り仮宮に滞在していました。
ある夜、宿禰の夢に角鹿に坐す<伊奢沙和気の大神>が現れ、「私の名を皇子の御名に変えたいと思う。」
と仰せになった。そこで御子はその神を祝福して「仰せの通りに御名を頂いて名前を変えましょう」と
申しあげた。翌朝皇太子が浜に行くと鼻の傷ついた海豚(いるか)が浦いっぱいに集まっていたので
「神が私に食料の魚を下さった。」と仰せになり神に対し<御食事(みけつ>大神>と名を称えた。
それで今に<気比の大神>というのである。」
上記の説話は古事記仲哀天皇条に載っている。気比大神(伊奢沙和気の大神)がどのような神であるか明確で
はないが『神祇志料』では<天日矛>と伝えられている。母系の始祖とされる天日矛が自分の名前を応神天皇
に継がせようとしたのであるが、先の「穴師坐兵主神社」のご祭神も<御食事(みけつ)神>という。
「穴師坐兵主神社」のご神体の<鈴鏡をつけた日矛>の実像は分からないが、伊勢神宮の宝物の矛から察する
と、矛の刃先の下にある柄の部分に鈴鏡が吊られていると思われる。
鈴鏡は古墳時代後期に作られた銅鏡で周りに小さな鈴が3〜10個ついた日本独自の鏡で畿内では少数ですが、
主に東日本の古墳から発掘されているという。特に興味深いのは息長氏の本拠地とされる滋賀県の<山津照
神社>境内にある古墳から<五鈴鏡>が出土していました、山津照神社の祭神は<国常立尊(くにのとこた
ちのみこと)>という日本神話の根源に坐す神様です。
巻向に坐す穴師坐兵主神社のご神体が<鈴鏡をつけた日矛>ということをさして重要とは思わずにいましたが
鈴矛の重要さに気がつきました。
穴師坐兵主神社の祭神は<天日矛=御食事神>。角鹿の気比大神も<御食事神=天日矛>であり、応神朝を倒
すきっかけとなった星川建彦の本貫の都祁に穴師坐兵主神社があったのでした。
品陀和気命(応神天皇)が気比大神の名前を譲られたという事は、品陀和気命が息長系一族の名を棄てて、母
方の祖である天日矛(新羅系秦氏・気比大神)側に寝返った事を間接的に告げているのだと思いました。
天日矛の系図と日子坐王の系図の接点は息長帯比売の母・葛城高額比売でした。日本の古代史で燦然と輝く息
長帯比売と品陀和気命は日本列島の先住民族と思われる息長氏族(荒吐族か?)を滅ぼした功労者としたと思
われます。日本国をつくったのは史書を編纂した彼等の祖先たちであり、渡来民の王朝であるという自負があ
ったのだろう。
琵琶湖の鳥<かいつぶり>が息長氏を指す代名詞のように思い、<蝦夷(かい)><つぶり(頭・かしら)>と
連想しましたが、消された息長氏に対しての鎮魂の為の命名であったとあらためて思いました。
草野 俊子
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