ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

伽耶と日本の建国神話に登場する<亀旨峰>の秘密

2017-05-17 11:24:51 | 日本文化・文学・歴史

私は2000年10月に「天山南路の旅」という企画に参加して西域の亀滋(クチャ)
に行ってきました。そこは「秋の七草」に託して日本人のルーツを伝えようとし
た万葉人の想いのひとつ、朝鮮半島にあった伽耶と何らかの関係があるだろうと
思っていたからです。しかし砂漠の中で千年以上打ち捨てられた地は、寺院も街
も廃墟となり、砂に埋もれつつありました。クムトラ遺跡、キジル石窟には往時
を偲ばせるエキゾチックな壁画もありましたが数は少なく、絵具の変色によって
黒い輪郭のみの異様に見える壁画や顔や目鼻がはぎとられたり剥落したりの無残
な窟もあり、かつて西域一の仏教国として繁栄した面影は、まったく失われてい
ました。

そしてその記憶さえ忘れかけていましたが、信濃国分寺八日堂の蘇民将来符と向
き合っている内に蘇民将来符や茅の輪をつけることによって災厄から逃れられる
という記述と、日本の神社や寺院では夏越の祓と称して6月に大きな茅の輪をく
ぐる行事があると知り、<茅の輪くぐり>とは<伽耶の倭をくぐる>という伝え
ではないかと思うようになりました。

朝鮮半島には紀元前後から三韓(馬韓、弁韓、辰韓)があり、4世紀ごろになっ
て高句麗、百済、伽耶の三国が成立したと考えられています。

伽耶は朝鮮半島の南端にあり洛東江流域に点在する小国家群でその中心的な国が
金海の金官伽耶でした。
朝鮮の史書『三国遺事』には「駕洛国記」として建国神話が記されていますが、
始祖である首露王の誕生はまず亀旨峰に大王出現を予告する神亀が土地の族長達
に告げられ、その後紫の縄が天より垂れてきて地上には黄金の卵が六つ入った
包みがありました。それを族長達が持ち帰ると翌日その卵から六人の童子があら
われ、またたくまに成長し、その月の望の日に首露王として即位し、国を大駕洛
または伽耶国としました。首露は金官伽耶の王となり、他の五人は五伽耶の王と
なったとしています。

駕洛(金官)国の建国は西暦42年ごろで532年に新羅に滅ばされるまで
約500年続きました。この伽耶の建国神話に登場する亀旨峰が日本の建国神話
にも登場し『古事記』上巻・天孫降臨の段には「日向の襲(そ)の高千穂の<く
じふるのたけ>に天降り坐しき。」『日本書紀』巻二によると「日向の襲(そ)
の高千穂に天降ります。」とあるが、そののちに「天神の子は当に筑紫の日向の
高千穂の槵触峰(くじふるのたけ)に到りますべし。」とあり、「くじふるのた
け」が日韓両国で<キーワード>の如く認識されていたことがわかります。

倭国と伽耶の関係は『日本書紀』にたびたび記されており、任那は日本の宮家と
して認識されており、金海は倭の北端と考えられていた時代もありました。

「秋の七草」の謎解きでは<萩>の次の<尾花>=<茅>=<伽耶>と考え、日
本のルーツのひとつとし、倭国の中で伽耶系の国は吉備国、尾張国と推定しまし
た。今は考古学の発掘が進み長野で発掘された弥生土器(3世紀後半)の破片に
刻印されていた漢字の「大」の書き順が「一」を最後に書く伽耶式だったので、
長野にも伽耶系の人はいたようです。

また首露王の妃の説話も『三国遺事』にあり、妃の名は「許黄玉」といい、インド
の「アユダ国」の王女であるという。父王の命によって嫁いできたアユダ国の王女
が持参した石塔は高麗時代(935〜1392年)の半ばまで金海の虎渓寺に残っていた
といい、その石質はこの地方で産出されるものでは無かったと言われています。

これらの情報を知った時に、西暦1世紀のインドから船に乗ってはるばるアジアの
東の果てまで嫁いでくることはあり得るだろうか?首露王が紫の縄が天から降りて
きて王になったという説話の空側の先端がいずこかにつながっている可能性があり、
そのヒントが亀旨峰ではあるまいか?と思いました。そして首露王はインドと近い
所で婚姻していてそれが亀旨という所ではないか?
これが西域の亀滋に行ってみたいと思った端緒でした。

2009年にブログを立ち上げましたが<七草の謎>は多岐に亘っており、次々
に新たなテーマがみつかるので<亀旨峰>は棚上げされていました。
ところが「八日堂の蘇民将来符」に出会い『牛頭天王之祭文』の内容を検討してみ
ると、牛頭天王の父とされる武塔天神は天竺摩訶陀国の大王。牛頭天王は古代インド
のコーサラ国(アユダ国)の首都・舎衛城の南の祇園精舎の守護神であるとされ、
また牛頭天王が嫁探しに行くのは南インドであり、目出度く結婚した相手は沙猲羅
龍王(さがらりゅうおう)の姫・婆梨妻女(はりさいめ)。そして牛頭天王が旅の
途中で一夜の宿を求めたのがコタン将来とソミン将来でした。この説話は日本でも
朝鮮でも無く、インドやコータン(西域の于闐)に展開される説話なのでした。

インドと日本や朝鮮半島の距離が余りにも離れているので架空の物語のように思わ
れますが、首露王の妃の出身地が南インドにあることが確認されています。

上図は首露王妃の出身地というインドのアユディア邑で今でも見られる太陽の紋章と
二匹の魚の装飾の図(左側)と韓国の金海にある首露王陵の正門の装飾の絵柄(中)
と日本で発掘された太陽の紋章と韓国の大成洞古墳出土の巴形銅器(日本での呼称)
です。伝説と思われていたことが、韓国の李鐘碕(正しくは王偏)氏によって現地
調査が行われこれらの図柄が相似している事が確認され、事実であったことが証明
されました。二匹の魚は神魚で「双魚紋」でペルシャの神話にある「コケレナラン」
という木の実の霊薬を守る二匹の魚で「カラ(kara)」というそうです。

金海・許氏には10人の息子がおり、その内の2人に許氏の姓を与えました。そこで
許氏の子孫と推定される金海の古墳の遺骨のⅮNĀをソウル大学のソン教授他が調べ
たところひとりは「インド南方系」であったと発表されたそうです。

伽耶国の始祖という首露王とその妃の存在が確実視されるとなれば、インドと伽耶が
繋がる伝承があっても良さそうに思いました。

そして思い当たったのが伽耶と日本、ふたつの国の建国神話に登場する<亀旨峰>と
<蘇民将来説話の茅の輪>でした。
しかも蘇民将来説話を語る信濃国分寺八日堂に伝わる『牛頭天王之祭文』には、
<蘇氏><茅の輪=伽耶の倭><九字=亀旨=亀滋(クチャ)>が隠されています。
ただし<九字=亀旨=亀滋(クチャ)>が<蘇氏>か<茅の輪>につながる論拠が
必要と思いました。

西域の亀滋(クチャ)を検索したところ、以前から手持ちの本の
 李家正文著『中国古代の諸民族』(1989年木耳社)の亀茲の項に
「亀茲jから中原に入った人に<蘇氏>がいる。『隋書』巻14、音楽志に見える。」
とあるではありませんか!
蘇民とは亀茲から中原(中国内陸)に移った蘇氏を指していると思われ、彼らは
さらに朝鮮半島に進出し伽耶の建国に関わった可能性がありそうです。
隋や唐の時代の亀茲王は<蘇姓>を名乗っているのも注目すべきでしょう。































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