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ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

タミル語と日本語のミッシングリンクは伽耶?

2017-06-25 10:35:06 | 日本文化・文学・歴史
私達が意志疎通に用いている日本語は海を隔てた隣国の韓国や朝鮮、中国とも
共通する語彙は少なく、容姿が似ている割には伝統的文化(衣食住)や習俗に
違いがあります。日本人はどこからきたのだろう?と多くの日本人が関心を持
ちだした頃、国語学者である大野晋(1919〜2008年)博士が日本語の起源は
古代のタミル語にあるという説を発表しました。この説は日本の言語学者から
は否定的な批判が多くなされ定説にはなっていません。

私は「秋の七草」が日本のルーツを伝えていると思い始めた2000年頃に岩波新
書の『日本語の起源』を読みましたが、インドのタミルはあまりにもかけ離れて
いる地域であり、また日本人とタミル人の容姿はあきらかに違っていますので
深く心にとめることはありませんでした。

ところが、最近のブログのテーマの「蘇民将来説話」や「牛頭天王祭文」によって
これらの登場人物たちがインドにも関わりがあり、また「秋の七草」の尾花を「尾花
→茅→伽耶」と解いた事と、古代朝鮮半島にあった金官伽耶の初代・首露王の妃が
『三国遺事』でインドのアユダ国の出身との記述もあり、日本の古代史には全く
関係ないと思っていた古代インドの情報の必要性を感じましたので、あらためて
『日本語の起源』を読み直しました。本の内容は岩波新書でお読みいただくか、検索
すると良くまとめられたホームページがありますのでそちらをお読みください。

インドは世界の四大文明のひとつ・インダス文明(紀元前2350〜紀元前1800年)の
発祥地でインダス河流域の広範囲に遺跡が残っていますが、この文明を築いた人
はドラヴィダ系の人々であったと考えられています。現在ドラヴィダ語系の話者は
インド亜大陸の南部に多く居住しており、テルグ語、カンナタ語、マラヤラム語、
タミル語に分類されています。

*タミル語を話す人はインドのタミルナード州やスリランカの東部や北部を主に
 約5千万人います。
*紀元前2世紀から紀元2世紀までの歌を集めた『サンガム』という歌集を持って
 おり、日本の『万葉集』と対応するような五・七・五・七・七の形式の歌がある。
*タミル語の文法構造は朝鮮語、ツングース語、モンゴル語、トルコ語とおよそ
 同じで言語学でいう膠着語に属し基本的に日本語と共通である。
*生活の習慣にも類似したものがある。
 ・古代日本もタミルも男が女の元を訪れる妻問い婚の習慣があった。
 ・夕占(ゆふけ)という占いの歌や髪に櫛を入れずに夫や恋人を待つという歌が
  サンガムにも万葉集にもある。
 ・ナマズ(日本)や蛇(タミル)が動くと地震がおこるという言い伝えがある。
*考古学的な類似
 南インドの墓制は日本の弥生時代の墓制と類似している。 
 さらに南朝鮮では支石墓箱式石棺、土壙墓、甕棺とが共存しているが、甕棺の作
 り方は日本の北九州とに共通点がみられる。
 墓に収められた土器の五面鼓は日本では子持ち壺と呼ばれているが、タミルでは
 銅で作られたものがあり、その口の部分には鹿皮が張られており楽器の太鼓であ
 ることが分かり用途が分かりました。
*土器に刻まれた記号・グラフィティ・落書き
 インドのラグバディ教授が来日し「南インドの巨石文化期の特徴」について
 1、外側が赤、内側が黒色の土器。2、鉄器3.土器にグラフィティがある。と
 発言したことから、佐賀県大和町で発掘された甕棺(弥生前期から後期までの113基
 )のひとつに南インド・マスキー遺跡出土のグラフィティと同じ記号があることを
 発見、その後弥生時代の壺に様々なグラフィティが刻まれていることが分かったが
 グラフィティの意味や目的などは不明。同時代の土器で、中国、韓国、東南アジア、
 台湾の土器にグラフィティは見られないという。
『日本語の起源』からタミルと日本の習俗・文化にかなりの共通性のあることが分か
って来ましたが、考古学的に南朝鮮に多く見られる支石墓が玄界灘に面した佐賀県大
友遺跡にもあり、そこに埋葬された人々には共通の結びつきのある渡来系弥生人と考
えられますが、形態学的な研究によると彼らは在来の縄文人に似た人々であったそう
です。このように弥生時代にあっても縄文人に似た形質を残した人骨は、大友遺跡だ
けでなく、北部九州の沿岸地域・平戸や五島列島の遺跡でも発見されており総称して
「西北九州型弥生人」と呼ばれています。
大友遺跡で発掘された人骨が持っていた遺伝子のハブログループはB5、Ą、Fなどで
日本人の中で多数が持つものではないが、それほど珍しいものではもないといい、但し
個体が5体だけなので西北九州型弥生人のDNAの特徴について結論は難しいようです。
『日本人になった祖先たち』の篠田謙一博士は「縄文時代、朝鮮半島の南部には日本
の縄文人と同じ姿形をし、同じDNAを持った人々が住んでいたのではないか」と言って
おり、大友遺跡以外の北部九州の遺跡から出土した人骨はすべて形態的な研究から渡来
系弥生人と考えられています。つまり大友遺跡の人は縄文的な小柄な人、渡来系は背丈
が大きい人と区別しているのだと理解しました。

私が興味深く思ったのは、朝鮮半島南部と佐賀の大友遺跡や五島列島、平戸で発見された
縄文的形質を持った人たちです。
前回のブログで述べたように『駕洛国記』と『日本書紀』に記された建国神話が類似して
おり、さらに伽耶の初代王の王妃がインドのアユダ国の公主とされ、インドとのつながり
を記した重要な証言があるからです。

アユダ国は紀元前6世紀ころにガンジス河の中流にあった「コーサラ国」という都市国家
ですが、紀元前5世紀ころには、その東隣にあった「マカダ国」に征服されました。
コーサラ国の首都はネパールに近いシュラーバスティ(舎衛城)。その郊外に釈尊と弟子
たちのために祇園精舎が建てられました。
蘇民将来説話や牛頭天王祭文に語られる牛頭天王は祇園精舎の守護神とされ、京都の八坂
神社の祇園祭のルーツはインドなのです。現在のファイザバードの付近にありますが、コ
ーサラ国はタミル人の王国だったそうです。

コーサラ国を滅ぼしたのはマカダ国ですが「牛頭天王祭文」に登場する武塔天神は「天竺
摩訶陀国の大王とされ、この国の首都は王舎城(ラージャグリハ)であった。現在のビハ
ール州バトナの南部のラージギルがその旧跡という。王舎城の東北には霊鷲山(ブットラ
クータ。現在はチャタ山と呼ばれる)があり、釈迦仏が在世中には霊鷲山にて「無量寿経」
や「法華経」を説いたといい、十六羅漢や諸天、諸菩薩と共に水中の主である八大龍王も
幾千万億の眷属の竜たちと共に釈迦の教えに耳を傾けたと伝えられています。

「牛頭天王祭文」で語られる牛頭天王の妃は婆梨妻女ですが父の沙羯羅龍王は仏教の世界
では天部八部衆に属する龍王八王中の大王です。もともと古代インドではナーガ(naga)
という半身半陀の姿であったものが中国や日本を経て今の龍の形に変化したという。

蘇民将来説話や牛頭天王祭文は伝説、伝承の類で、すべてが真実のという訳ではありませんが
ネットで検索している中に、新羅王の4代とされる「昔脱解」の名をタミル語で読み解いた
興味深いブログをみつけました。

まずは『三国遺事』の「昔脱解」の記事を紹介します。

 新羅2代目の王・南解王(在位紀元4〜20年)の時、駕洛国の海中に船が一艘着いた。首
露王が臣民たちと太鼓をうちならして迎え入れようとしたところ船は逃げて鶏林の東にある
阿珍浦に着いた。
ちょうど浜辺に居合わせた赫居世王(第1代王)の魚獲りの老婆の阿珍義先がその船を浜に
引き上げてみると、船の中には長さ20尺幅が13尺もある箱がのせてあった。蓋をあけると
中から端正な男の児と七宝を持った多くのがでてきた。七日程すぎ初めて口を開いて
「私は元は竜城国の人である。この国は倭の東北1千里のところにある。国には八品の姓骨
があるが、だれかれの差別なく大位に昇る。
私の父王は含達婆の積女国から妃を迎えたところ長い間子を産めなかったので天に祈ること7
年にして大きな卵を一つ産んだ。群臣たちはこれを不吉とした私とたちに七宝を持たせて
箱に入れて流しながら好きなところに行って、国を建てて一家をなすように祈ってくれた。
そうするとどこからともなく一匹の竜が現れて船を護衛してこちらに着くようにしたのである。」

この昔脱解の名前をタミル語で解くとどうなるか?以下の部分は

『多言語まるかじり』不思議発見!!韓国ー韓国の王様にはインドの血が流れていた?!
そして日本にも?!
から得た情報で、このサイトは日本人?のブロガーが韓国のサイト<indokoreanet>の記事を
exciteの機械翻訳にかけたものを日本語の文章に手直ししたそうです。

 <indokoreanet>の筆者は、2005年8月16日付け「ニュースメーカー」で伽耶の初代王妃
許王侯の故郷アユダ(阿喩陀)がインド南部のタミルナンド州アヨディアのクパム(ayodhya.
kuppam)だと唱えたことがある。
今回のミステリーは新羅第4代の王・昔脱解(在位紀元57〜80年)の出身地・多婆那国または
竜城国はどこにあるのか。『三国史記』と『三国遺事』にのっている昔脱解の説話を当時のタミル
言語および社会像と照らし合わせて分析した結果、昔脱解も許王侯と同じインド南部のタミル地域
から来た人物であることが分かった。
昔脱解は「炭と石炭を使う鍛冶屋」であると明かしているが、昔脱解の姓である「昔(sok)」は
当時タミル語で「鍛冶屋」を意味する「sokalingam」を縮めた言葉で、姓と家職がそのまま一致
する。
また「脱解(talhe)」はタミル語で「頭・かしら・天辺」を意味する「tale]や「talai」と
ほぼ一致する。したがって昔脱解という名前はタミル語で「鍛冶屋の頭目」を表し、彼が海の向
こうから朝鮮半島に来た鍛冶屋のリーダーであることを名前が暗示している。
昔脱解の出身地という多婆那国の多婆那はサンスクリット語と古代タミル語で太陽を意味する
「tapana」または「tapanan」と一致し。「多婆那国」つまり「太陽国」で当時タミル人の国
cohla王国の別名だ。
『三国遺事』にいう「竜城国」の竜城は当時cohla王国の都市にあった鍛冶屋と鉄器製作でよく
知られた港町nagappattinamを示すとみられる。タミル語でnagaは「コブラ」を意味するが、
ヒンズー教徒にはコブラが龍に転嫁し崇拝の対象になったため「龍」とも呼ばれておりppattinam
は「都市」を意味しnagappattinamは「龍城」を意味する。
したがって昔脱解が鉄器生産及び海上貿易が盛んだった国際都市nagappattinamすなわち龍城の
あったcohla王国は龍城国を指して読んだものと思われる。

 私自身は韓国語もタミル語の知識もゼロなので、正しいかどうかの判断はできませんが、初めて
韓国の史書に記された語がタミル語で解釈できた意味は大きいし、昔脱解が鍛冶屋の頭目というのは
あり得ることだと思います。
3世紀の『三国志・魏志弁辰条』に「国は鉄を出し、韓、濊、倭、皆な従いてこれを取る。諸々の
売り買いには皆鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とあり
『後漢書』にも「国は鉄をだす。韓、濊、倭、皆従いてこれを市す。凡そ諸貿易皆鉄を持ちて貨と為
す」とあるからです。

神武天皇以前の倭人の世界は「神代」とされ、想像の産物と思われていましたが、日本列島以外にも
あった倭人の世界が投影されているのではないかと思います。
 


 

 


















































 
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