ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

伏見稲荷神符13 <違い鎌>と<国譲り>

2009-09-24 14:24:43 | 日本文化・文学・歴史
伏見稲荷神符の中で、稲荷縁起を解く鍵らしい<違い鎌>の元となった鎌はいつ頃
から存在したのだろうか?様々な鎌がある中で、その形はかみそり鎌と呼ばれてい
るが、ほぼ同じ形の鎌が法隆寺献納宝物にみられる。また、鎌倉期から室町期の間
に制作したとされる稲荷大社本『稲荷曼荼羅』の中の稲荷神は、稲を担ぎ、左手に
鎌を持った狩衣の男性として描かれているが、この稲荷曼荼羅の鎌と<違い鎌>は
同型であり、稲荷神にとって鎌が重要な意味を含んでいることを暗示している。



この<違い鎌>を神紋(秘紋)にしているのが信州(長野県)の諏訪神社である。
諏訪神社の正式な紋は<梶の葉紋>であるが、江戸時代に記された『諏訪旧蹟志
祭神』中に「この神を祭るに鎌を神幣とす」とあり、鎌を神に捧げ奉る神事が記録
されていたことは重要である。

諏訪神社の祭神は建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)。
出雲の国譲り神話に大国主命の子として登場する神である。まずは『古事記』に載
る出雲の国譲り神話を紹介しよう。

神代に伊邪那岐・伊邪那美の二神が婚姻して国生みをし、葦原中国(あしはらなか
つくに)という地上界ができる。しかし、この二神は子の天照大神が治めている高
天原(たかまがはら・天つ国)へ帰ってしまう。葦原中国は天照大神の弟ではある
が、乱暴狼藉を働いて追放された建速須佐之男の子孫である大国主命が占拠(統
治)していた。しかし高天原を追放された者の子孫に葦原中国を統治させたくない
と考えた天照大神側は、直系の子孫・天忍穗耳命に統治させようと考え、大国主命
の所へ次々に使いをやり国の支配権を譲るように求める。しかし出雲へやった使い
は懐柔されて戻らないため、建御雷神が三番手として派遣されてくる。出雲の伊那
佐の小濱に降り立った建御雷神は、大国主命に国を譲るように迫ると、大国主命は
返答せず「魚釣り行っている子神の八重事代主神が答えるでしょう」という。
問われた事代主は父神に「かしこまりました。この国は天つ神の御子に奉りましょ
う」と言って船を沈めて死んでしまう。建御雷神は他に聞くべき子を問うと「もう
一人、わが子の建御名方神がいます。他にはいません」と言っている間に、大岩を
手にした建御名方神がやってきて「だれだ、わたしの国に来て、そのようにひそひ
そ話をするのは、それでは力競べをしよう」と建御雷神に挑みかかり、手をとると
氷柱や剣の刃のごとく変化するので、恐れをなし引き下がる。今度は建御雷神が建
御名方神の手をつかむと、握りつぶして放り投げられたので、建御名方神は逃げ出
してしまうのだが、信濃国の諏訪湖まで追い詰められて殺されそうになり、命乞い
をする。
「恐し、わたしを殺さないでください。この地を除いては、他のところに行きませ
ん。父大国主神の命令に背きません。また、八重事代主神の言葉にも背きません。
この葦原中国は、天つ神の御子のお言葉に従って献りましょう」と言って諏訪の地
にとどまり、葦原中国は天つ神に献上された。

このように信州の諏訪神社の祭神・建御名方富命は、出雲の大国主命の子として
『古事記』に記されている。しかし、なぜか『日本書紀』や『出雲国風土記』には
記されていない。ともあれ、伏見稲荷神社神符の謎を解く鍵として描かれていたの
は信州の諏訪神社の秘紋である<違い鎌>であり、出雲の国譲り神話に登場する
建御名方富命であった。
















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