ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 仁徳天皇は秦氏だった。証明に使われた緯度!

2023-12-17 06:47:29 | 日本文化・文学・歴史

令和5年の12月も中旬となり恒例の行事として<今年の漢字>や<今年の顔>など一年を振り返る話題が多い
が、我がブログを振り返ると昨年2月の<キルギス人が日本人を兄弟という>と今年6月の<仁徳天皇=巨勢
氏の証明なるか?sabo氏のブログ>は日本人にとって<寝耳に水>ともいえる情報でした。が、私にとっては
当ブログの謎解きを補足してくれる内容であった。

前回のブログでは仁徳天皇の正体を明らかに出来そうな天道の存在する事も分かった。

上図は仁徳記に載る「この御世に兔寸河の西に一つの高樹ありき。その樹の旦日(あさひ)に当たれば淡路島
に遊び、夕日に当たれば高安山を越えき」を地図上に表している。

 仁徳天皇の宮(推定では住吉大社または坐摩神社)付近に高樹があり、朝日の影は淡路島の岩屋神社(太陽
信仰の社)に届き、夕日の影は都祁(星川臣の本貫の地)に届いている。その間にある高安山の中腹には岩戸
神社や天照大神高座神社があり、天照大神高座神社の洞窟は冬至、夏至に太陽が昇る場所にあるので、冬至の
日には高安山の山頂から昇る太陽を難波の宮、坐摩神社から拝し、夏至の太陽を兔寸神社から拝する事が出来
るという。
この高樹説話は太陽の通る道つまり天道を示しているので、東の起点である都祁の地においても特定の場所が
設定されていると思われる。都祁は仁徳天皇誕生のきっかけとなった<星川建彦の乱>の星川臣の本貫である。
夕日の影が届くと設定されている地点を探し出す手段はないものかと悩んでいると、夫が「朝日の影の届く淡
路島の岩屋神社の場所を<緯度・経度>で表すことができる」と調べてくれた。それならと上記の地図で直線
上にある仁徳天皇の宮跡(現住吉大社・坐摩神社付近)、高安山(岩戸神社・天照大神宮)の緯度、経度も調
べてもらった。
  淡路島の岩屋神社は 北緯34度32分 東経135度09分
  仁徳天皇の宮跡は  北緯34度36分 東経135度29分
  高安山(岩戸神社・天照大神宮)は 北緯34度37分 東経135度39分
多少の誤差はあるものの<緯度>がほぼ34度台である事が分かった。

それでは<都祁の地点>はどこに設定されているのか?
朝日の影の届く淡路の岩屋神社>と夕日の影の届く場所は対の数値を持つはずと、候補地として都祁の白石神社
を調べてみると、北緯34度52分であり、数値は少しずれていた。都祁の地でブログに登場した所はと頭を巡らせ
ると、弓月嶽山頂にあったと伝えられている<穴師兵主神社>がより重要な地点であると気が付いた。

  <都祁の穴師兵主神社は 北緯34度32分>
  <淡路島の岩屋神社は  北緯34度32分>

まさに淡路島の岩屋神社の緯度と合致しました。

当ブログ2023年7月15日「星川建彦の本貫は都祁の星川郷か?」で菟道稚郎子を殺害した星川建彦は穴師兵主
神社を祭祀する都祁の住民であり、彼らの集落へ向かう古道を土地の人は「テンノウ坂」と呼ぶというが、
それは<星川建彦の乱>によって彼らの一族から(仁徳)天皇が誕生した事を確かに語り継いできたことの証
であろう。そして彼らは弓月君の末裔つまり秦氏だったのです。

 仁徳記の巨樹伝承は仁徳天皇が<秦氏>である事を伝える目的でしたが、さらに下記の文が付け加えら
れています。
「是の樹を切りて船を作りしに甚(いと)捷(はや)く行く船なりき。時にその船を号けて枯野と謂ひき。
 故、是の船を以ちて旦夕淡路島の寒水(しみず)を酌みて大御水献りき。茲の船、破れ壊れて塩を焼き、
 その焼け遺りし木を取りて琴を作りしに、その音七里に響みき」
この文章自体を特に不審とは思わずにいたが『播磨国風土記』逸文に、仁徳天皇時代の話として以下の説話
があった。
「明石の駅家(うまや)。駒手の御井は、難波の高津の宮の天皇の御世に楠、井の上に生ひ、朝日には淡路
 島を隠し、夕日には大倭島根を隠しき。よりてその楠を伐りて舟を造りしに、その迅きこと飛ぶがごとし。
 一楫(かじ)に七波を去(ゆ)き越えき。よりて速鳥と号く。ここに朝夕にこの舟に乗りて、御食供え奉
 らむためにこの井の水を汲むに、一旦(あるひ)、御食の時に堪へざりき。かれ、歌を作りて止みき。
 唄にいはく、
   住吉の 大倉むきて 飛ばばこそ 速鳥といはめ 何か速鳥」。

奈良時代の古風土記は『続日本紀』によると、和銅6年(713年、『古事記』成立の前年)に出された
官命によって、諸国の官司がそれぞれ部下に命じて作成した報告書(解・げ)です。『播磨国風土記』の
編者については、その頃国司となった<巨勢邑智(おうち)>石川君子、賀茂吉備麻呂、それに石川君子
の百済系渡来人楽浪(さざなみ)河内などの名が挙がっているが正確なことは分からないという。
しかし私は仁徳天皇を<巨勢小柄>と解いていたのでその巨勢一族の者が国司である『播磨国風土記』に
注目した。

以下は私の推量ですが
 播磨国司となった巨勢邑智(おうち)は『古事記』の仁徳記の高樹伝承中に暗号の部分がある事を知って
 いたが、後半部の記述に不満があった。その不満を解消すべく播磨国司となった時に折よく風土記編纂の
 官命が下り、高樹伝承の暗号の解き方を『播磨国風土記』中に潜りこませることに成功した。
 私自身『古事記』の巨樹伝承の後半部を読んでもほとんどメッセージ性を感じないが、それに比べ『播磨
 国風土記』中の<明石の駒手の御井>の方は伝えたい事が具体的に記されている・。
その違いを数えると
 *時代と場所を<難波の高津宮天皇の御世>と特定している。
 *樹種を<楠>と明示している。
 *楠が井の上とあり深読みすれば<楠=国栖><井(井戸=緯度)の上>と天道の解き方を教えている。
 *謎解きの手法は<秋の七草の暗号の解き方>と同様に<同音異義熟語つまり掛詞>の手法を用いている。
  具体例 明石(あかし)→証(あかし)
      御井=井戸(いど)→緯度(いど)
      楠(くす)→国栖(葛城系も秦系も源流はクルグズ族と推測している)
      駒手の駒(こま)→高麗(こま)
クルグズ族の拡散の過程で高句麗を経ていると思われる。着衣や古墳に描かれた天体の星座は元高句麗・現
北朝鮮の天体図という説がある。

令和5年の年末は自分でも驚くような発見がありました。まだまだ不明な点が多くあるので検索を続けようと
思います。どうぞ良い年をお迎えください。           草野 俊子

           







 

 





 

 








 

   



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

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