ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 允恭紀・闘鶏の国造と忍坂大中姫の説話

2024-07-31 08:22:04 | 日本文化・文学・歴史

日本書紀の允恭天皇条は当ブログの原点である万葉集の山上憶良詠<秋の七草>の<藤袴>を解く鍵で
ある<アララギ>を提供してくれた思い出深い巻である。それは允恭天皇の皇后となった忍坂大中姫の
娘時代に起きた出来事として記されていた。
「初め、皇后、母に従ひたまひて家に在しますときに独苑の中に遊びたまふ。時に闘鶏の国造、傍の径
より行く。馬に乗りて籬にのぞみて皇后に語りて嘲りて曰はく。「能く薗を作るや、汝」といふ。
皇后、則ち一根の蘭(あららぎ)を採りて、馬に乗れる者に与ふ。因りて、問ひて曰く「何に用むとか
蘭を求むるや」とのたまふ。馬に乗れる者の辞の礼無きを(思い)結びたまひて、即ち語りて曰く「首
(おびと)や余(われ)忘れじと」のたまふ。是の後に、登祚(なりいで。皇后になった)の年に、馬
に乗りて蘭をもとめて昔の日の罪をせめて殺さむとす。ここに蘭を乞ひし者、ひたひを地につきて叩頭
(の)みて曰さく「臣が罪、実に死に当れり。然れどもその日に当りては貴きひとにましまさむといふ
ことを知りたてまらず」とまうす。ここに皇后、死刑をゆるしたまひて、その姓を貶して稲置といふ。

 私は上記の説話が<秋の七草・藤袴>の謎解きの解と関連する可能性があると感じた。
秋の七草の謎解きでは<蘭>は<藤袴>の中国名であり「らに・しらに」と呼称されるべきを、この説
話では<阿羅木(あららぎ)>と訓がつけられていた。私は<あららぎ>がキーワードであろうと直感
した。我が国では古代に朝鮮半島にあった<新羅(シンラ、シラ)>を<新羅城(しらぎ)>と表記し
ていたが、それを訓読みすれ<あららぎ>となるからだった。
<蘭=あららぎ=新羅城>の三者は同音となり秋の七草を解くキーワード>が<あららぎ>だったので
す。

 上記、允恭紀の説話の登場人物は後に允恭天皇の皇后になる忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)
と闘鶏(都祁・つげ)の国造。闘鶏の国造が蘭(あららぎ)を欲した時の物言いが下品であると姫は怒
り殺したいと思ったが後に皇后となった時にその男を探し出し、命は取らなかったが身分を稲置(いな
ぎ・八色の姓の最下層)に落としたという。

允恭紀のこの記述は一見すると蘭の花のやりとりに見えるが、そのように単純に考えて良いのだろうか?
当ブログはこれまでに日本史の定説とは異なる視点で解釈を試みてきたので、今回もこの説話をどのよう
に理解、検討すべきか考えてみた。

一、蘭(あららぎ)の解釈
   上記のように、<蘭=あららぎ=新羅城>の三者は同音となり秋の七草を解くキーワード>の蘭
   (あららぎ)が允恭紀にも登場している。表面は花の名前にみせかけて新羅城の暗喩として登場
   させていると思われる。
二、闘鶏(都祁・つげ)の国造が<アララギ>を欲した背景は?
   闘鶏・都祁・都下とも表記される<つげ>の地は三輪山の東北に位置し、仁徳天皇の宮に建つ楠
   の大樹の説話によると朝日の影は淡路島の岩屋神社まで、夕日の影は穴師兵主神社まで届くと先
   のブログで解いているが、この3地点は北緯34度32分上を通る太陽の路であった。また、難波の
   宮での祭祀をする巫女の内、坐摩の巫女だけは都祁の国造の一族の女性と決められており、仁徳
   天皇と都祁とは強い絆があった。そして仁徳王朝の誕生には公には伏せられているが<星川建彦
   の乱>があったという秘伝が存在していた。星川臣の本貫は都祁の星川郷であり、彼等は夕月嶽
   に祀られている弓月王(秦氏)の子孫と思われる。仁徳天皇の皇子である允恭天皇紀に載る<蘭
   ・あららぎ>の説話は<星川建彦の乱>によって得たいもの、当時の倭国は新羅系王族の国であ
   っただろうか?なぞとしておく。
三、都祁の秦氏(星川建彦)が行動を起こしたターゲットは?
   日本書紀巻十には「仁徳天皇 即位前記」があり、応神天皇が逝去された後に太子だった宇道稚
   郎子(うぢのわきいらつこ)が異母兄の大山守に襲われるという反乱伝承が掲載されている。
   大サザキ皇子(仁徳天皇)の機転で宇道稚郎子は命拾いし、大山守皇子は川に落ち考羅済(かわ
   らのわたり)で死体があがる。という説話であるがこの後宇道稚郎子は天皇位を譲り合って自殺
   するという奇妙な展開になっている。大山守の反乱伝承は崇神紀の武埴安彦と吾田媛の反乱伝承
   の焼き直しではないかと私は思う。
   しかし、応神天皇の後継のはずの太子・宇道稚郎子は天皇位につけなかった。それは<星川建彦
   の乱>で殺されてしまったから。と推量する。
四、秦氏の真のターゲット。
   応神天皇が大変可愛がったという宇道稚郎子は兄たちを差し置いて皇太子になった。
   母は宮主宅媛(みやぬしやかひめ)その父は和珥臣の祖・日触使主(ひふれのおみ)。
   記紀の系譜記事を見ると開化・応神・反正・雄略などに皇妃をいれて天皇家の外戚として大きな
   勢力を有していた。
          秦氏が恐れたのは和珥氏系一族が外戚として天皇家を支配する事だったのではないか?
   応神朝には百済から百済一の学者という王仁(わに)も招かれていた。新羅系の秦氏にとって倭
   国で勢力を伸ばそうとするには目の上のたん瘤であって不都合な事であった。この状況を打破す
   るためには宇道稚郎子を天皇位につかせない事であり<星川建彦の乱>によってその目的は果た
   された。

しかし、允恭天皇は仁徳天皇の皇子である。その皇后となった姫は応神天皇の孫であった。
忍坂大中姫は祖父の王朝を断ち切った簒奪者の息子となぜ結婚したのだろうか?
闘鶏の国造が<あららぎ=新羅城>を欲した真の意味は?  次回に   
   
     


 

 

 

 

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 古代からの暗号 允恭天皇の... | トップ | 古代からの暗号 息長氏とは... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日本文化・文学・歴史」カテゴリの最新記事