越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国根小屋城(魚沼郡)についての疑問

2013-12-15 15:42:46 | 雑考

 
 越後国魚沼郡堀内(堀之内)地域内にあった根小屋城は、別名を真名板(俎板)平城といい、同地域の宇賀地から起こった宇賀地氏が築き、戦国期には多功肥後守、次いで宇佐美駿河守定満が拠ったと伝わり、かつて城跡の麓に残っていた地名「うすん屋敷」の「うすん」は宇駿ではないかと考えられている。また文書では、文和3年(1354)に「宇加(賀)地城」、天文20年(1551)に「真板倉」として所見され、城主と伝わる多功肥後守と宇佐美定満についても、それぞれ天文年間の初期と後期に堀内地域の領主として所見される。

 ところが、宇佐美定満が根小屋城主であったと考えられる天文年間の後期に、事実上の越後国主である長尾景虎が、堀内地域の隣郷小千谷の領主である平子孫太郎の要望に応じて、多功小三郎(肥後守の子であろう)の遺族が領有していた宇賀地・多功屋敷(堀内)を、あっさりと平子に与えてしまい、宇佐美定満は多功小三郎遺族のため、景虎に再考を嘆願しているのである。それゆえ、天文年間の後期に至っても多功氏が宇賀地・堀内を領有していたのは明らかであり、こうなると根小屋城主は多功と宇佐美で重複してしまう。

 これは両者が根小屋城を共同で管理していたのだろうか、それとも片方は堀内地域内の別の城を要害としていたのだろうか。

※ 宇賀地氏は、越後国蒲原郡加地荘に地頭として入部した佐々木加地氏の一族という説がある。

※ 多功小三郎は、天文17年の長尾晴景と景虎の兄弟間の抗争に際し、宇佐美定満に同調して景虎を支持するも戦死したらしい。


『越後入廣瀬村編年史 中世』◆『日本歴史地名大系第十五巻 新潟県の地名』(平凡社) ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』17号 宇佐美定満書状(写)、18号 本庄実乃書状(写)、21号 金子尚綱書状(写)、51号 宇佐美定満書状(写)、61号 加地定次書状(写)、96・100号 宇佐美定満書状(写)、231号 長尾景虎書状(写)

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長尾景虎(号宗心)期の越後衆一覧 【3】

2013-12-12 22:37:52 | 長尾景虎(宗心)期の越後衆


 旗本衆(もとは越後国守護上杉家(前上杉氏)の譜代衆、同じく越後国守護代長尾家の譜代衆)

 本庄新左衛門尉実乃(ほんじょうしんざえもんじょうさねゆき)
 天文22年末頃までは庄の名字を用いることが多かった(『上越市史 上杉氏文書集一』19・20・24・53・98・100号)。実名の読みは『越後入広瀬村編年史』の考えによる。天文23年3月から翌24年2月の間に入道して宗緩と号する。上杉輝虎期には美作入道を称している(『上越市史 上杉氏文書集一』347号)。越後国古志郡栃尾城の城主で、天文12年8月頃に景虎を栃尾城に迎える以前は、古志長尾氏の与力であったろう。妻は北条毛利氏の娘らしい(『上越市史 上杉氏文書集一』543号)。弘治2年8月に、もとは越後国守護上杉家の譜代家臣であった奉行人の大熊備前守朝秀が越後国長尾家から離反し、甲州武田家の家臣となってしまうまでのは、小林新右兵衛尉宗吉を加えた三人で奉行衆を構成していた(『上越市史 上杉氏文書集一』24・37・53・98・100・107・109・122号)。ただし、小林については、直江神五郎実綱あるいは新保八郎四郎長重との交代制であった(『上越市史 上杉氏文書集一』100・234号、前者は天文18年、後者は同20年の文書となる。弘治3年10月には長尾景繁・同景憲・直江実綱・吉江長資と五奉行を構成した(『上越市史 上杉氏文書集一』155号)。それから永禄3年5月までの間に隠居し、世子の本庄玖介に家督を譲っている(『上越市史 上杉氏文書集一』206号)。次男の本庄清七郎(実名は綱秀か)は景虎の小姓を務めるという。


 本庄玖介(ほんじょうきゅうすけ)
 実名不詳。本庄新左衛門入道宗緩の世子であり、上杉輝虎期の永禄10年4月に見える本庄新左衛門尉(『上越市史 上杉氏文書集一』506号、年次は永禄10年となる)の前身であろう。遅くとも永禄3年5月までには栃尾衆を率いる立場となっており、宇野左馬允の補佐を受けている(『上越市史 上杉氏文書集一』206号)。越後国古志郡栃尾城の城主。


 山吉恕称軒政応(やまよしじょしょうけんせいおう)
 実名は政久。仮名は孫四郎、受領名は丹波守。丹波入道。父は山吉四郎右兵衛尉正綱(『新潟県史 資料編5』2882・2883号)であろう。実名については、「政」の字は「正」の字と紛らわしい事例があるそうなので、「政綱」の可能性もあろう。平姓池一族と伝わる。越後国蒲原郡司。越後国蒲原郡三条城の城主。永正16年4月19日に「山吉孫四郎政久」(『新潟県史 資料編3』451号)、大永7年5月25日に「山吉丹波守政久」(同前452号)、天文21年6月18日には「山吉丹波入道政応」(『上越市史 上杉氏文書集一』81号)、同年7月16日には「恕称軒政応」(『上越市史 上杉氏文書集一』92号)と見え、同年4月3日に「政応」(『新潟県史 資料編5
』2666号)と見えるので、これ以前に入道したことになる。天文21年6月頃より蒲原郡司の立場から揚北衆の中条氏と黒川氏の間の抗争を調停している(『上越市史 上杉氏文書集』81・83・84号)、それから12月初めの間に体調を崩したようで、家督を嫡男の孫四郎に譲っている(『上越市史 上杉氏文書集』99号)。次男(のちの山吉孫次郎豊守)は景虎の小姓を務めたという。翌22年7月20日に死去しており、その供養を一族の山吉但馬守(孫右衛門尉景盛の後身か)が高野山清浄心院に依頼している。法名は月清政応(高野山清浄心院「越後過去名簿」)。

 山吉孫四郎(やまよしまごしろう)
 「越後三条山吉家伝記之写」(『三条市史 資料編 第二巻』)に所収されている天文22年前後と思しき証状を被官の西海枝右馬助と同又八郎のそれぞれへ発給している「景久」に当たるであろう。山吉恕称軒政応(丹波守政久)の世子である。越後国蒲原郡司。越後国蒲原郡三条城の城主。天文21年12月以前に父から家督と蒲原郡司を譲られ、外様衆間の抗争の調停を引き継いだ(『上越市史 上杉氏文書集一』99号)。永禄元年9月22日に早世しており、その供養が高野山清浄心院に六貫五百文で依頼されている。法名は香雲宗清禅定門(高野山清浄心院「越後過去名簿」)。


 吉江中務丞忠景(よしえなかつかさのじょうただかげ)
 上杉輝虎期の永禄9年12月下旬に輝虎から佐渡守を与えられる(『上越市史 上杉氏文書集一』544号)。もとは越後国守護上杉家の譜代衆で、屋形上杉定実(号玄清)の側近であった(『上越市史 上杉氏文書集一』20号)。米沢上杉家中の吉江氏の系図によって、古志長尾氏被官系の吉江氏である織部佑景資の叔父として記されている吉江佐渡守信清に当たると考えられているが、系図は明らかに誤っており、両吉江氏は同根ではあっても、はやくに分かれている。平姓大河戸一族と伝わる。越後国蒲原郡吉江城の城主か。


 直江与右兵衛尉実綱(なおえよびょうえのじょうさねつな)
 仮名は神五郎(『上越市史 上杉氏文書集一』98号)。天文21年10月から天文24年正月の間に与右兵衛尉を称する(『上越市史 上杉氏文書集一』121・122号)。のちに大和守政綱、景綱を名乗る。越後国守護上杉家の譜代衆・直江掃部入道酒椿(『上越市史 上杉氏文書集一』7・8・119号 ● 高野山清浄心院「越後過去名簿」)の世子である。本庄実乃・大熊朝秀・小林宗吉で構成された奉行衆のうち、時に小林と替わり、直江実綱か新保長重のどちらかが三奉行に列する場合があった(『上越市史 上杉氏文書集一』98・100・234号)。その新保とは花押形が酷似している(『武州文書』)。神姓諏方一族と伝わる。越後国山東(西古志)郡の与板城主。景虎の第一次関東遠征に際し、吉江織部佑景資・荻原掃部助と共に、越府留守将の桃井右馬助義孝・黒川竹福丸・柿崎和泉守景家・長尾小四郎景直・同源五たちに対する旗本検見(監察)を務めている(『上越市史 上杉氏文書集一』211号)。翌4年2月に景虎から関東陣へ呼び寄せられる(『上越市史 上杉氏文書集一』253号)。


 松本河内守(まつもとかわちのかみ)
 実名不詳。天文18年11月、河内守が領有する西古志(山東)郡山俣の地は、長尾晴景と景虎兄弟抗争時に景虎方に味方して功績のあった小千谷の平子孫太郎の旧領(天文の乱時に没収されたらしい)であり、景虎は平子の懇望を受けて、河内守に平子へ引き渡すように申し渡したが、河内守は受け入れなかった(『上越市史 上杉氏文書集一』22・23・24号)。先祖は信濃国筑摩郡松本の地から移ってきたと伝わる。越後国山東(西古志)郡の小木(荻)城主。


 松本大学助(まつもとだいがくのすけ)
 実名は忠繁と伝わる。上杉輝虎期に見える松本石見守景繁は、この大学助の前身か、次代に当たるであろう。松本河内守の世子であるならば、越後国山東(西古志)郡の小木(荻)城主となる。


 小林新右兵衛尉宗吉(こばやししんびょうえのじょうむねよし)
 もとは越後国守護上杉家の譜代衆か。本庄実乃・大熊朝秀の三人で奉行衆(三奉行)を構成した。ただし、時に小林宗吉だけは、直江実綱か新保長重のどちらかと交替する場合があった。天文20年7月に母(孝如妙忠)が死去しており、その供養を高野山清浄心院に依頼している。


 新保八郎四郎長重(しんぼはちろうしろうながしげ)
 越後国守護上杉定実(号玄清)・同国守護代長尾為景父子期に、長尾政権の奉行として黒田和泉守秀忠と並ぶ実力者であった新保勘解由左衛門尉景重(初めは吉田孫左衛門尉景重を名乗っていた)の次代に当たる。新保景重・黒田秀忠以前の両氏は、もともと越後国上杉家譜代の重臣であった。恐らく長重は景重の息子であろう。実名の「長」の一字は晴景か景虎から頂戴したものと思われる。本庄実乃・大熊朝秀・小林宗吉の三人で構成された奉行衆のうち、時に小林と替わり、新保長重か直江実綱のどちらかが三奉行に列する場合があった。同輩の直江とは花押形が酷似している。時期は不明であるが早世しており、景虎(上杉輝虎)はその死を悼んで供養を長尾家の菩提寺である林泉寺に頼んだ。法名は不識光珎禅定門。

 下条新右衛門尉茂勝(げじょうしんえもんのじょうもちかつ・しげかつ)
 もとは古志長尾氏の被官である。長尾晴景と景虎の兄弟抗争が起こり、上杉定実の調停によって弟の景虎が守護代長尾家の当主となった直後から出頭人として見える。


 吉江木工助茂高(よしえもくのすけもちたか・しげたか)
 もとは古志長尾氏の被官である。出頭人。平姓大河戸一族と伝わる。時期は不明であるが、景虎(上杉輝虎)はその死を悼んで供養を林泉寺に頼んだ。法名は覚阿弥陀仏。


 吉江織部佑景資(よしえおりべのすけかげすけ)
 初名は長資。仮名は与橘か。吉江木工助茂高の世子である。景虎から越後国長尾家にゆかりの「長」、続けて「景」の一字を与えられており、直江大和守景綱と同様、二度に亘って偏諱を頂戴した側近家臣である。公銭方。景虎の第一次関東遠征に際し、直江与右兵衛尉実綱・荻原掃部助と共に、越府留守将たちに対する旗本検見(監察)を務めている。


 庄田惣左衛門尉定賢(しょうだそうざえもんのじょうさだかた)
 もとは古志長尾氏の被官であった。公銭方。天文21年春に関東管領山内上杉憲政(憲当。号成悦)が相州北条氏康の攻勢に屈し、景虎を頼って越後国に逃げ込み、同年秋に関東復帰を図ると、景虎の命により、小千谷の平子孫太郎らと共に加勢として憲政に同行する。


 村田次郎右衛門尉(むらたじろうえもんのじょう)
 実名不詳。系図では、上杉輝虎期の村田忠右衛門尉秀頼に連なる次郎左衛門尉が載っており、村田秀頼の父祖のように見えるが、越後衆たちの系図には別系の同名を混ぜ合わせてしまっているものが幾つも見受けられ、輝虎の次代である上杉景勝期に秀頼(大隅守)と次郎左衛門尉が別々に見えるので、両村田氏は同根であったとしても別系の可能性がある。


 小越平左衛門尉(おごしへいざえもんのじょう)
 実名不詳。もとは古志長尾氏の被官である。


 平林 某(ひらばやし)
 通称・実名不詳。

 山田修理亮長秀(やまだしゅりのすけながひで)
 初めは多飯地(大石か)氏であったと伝わる。もとは古志長尾氏の被官か。上杉輝虎期には年寄衆の河田豊前守長親の重臣として見える。


 高梨 某(たかなし)
 上杉輝虎の近臣に高梨修理亮がいるので、その前身となる人物がいたはずである。この高梨氏は信濃国衆の高梨氏からはやくに分かれたものであり、上杉定実・長尾為景期には越後国衆の高梨駿河守がいたので、駿河守の子か孫に当たるか。


 荻原掃部助(おぎわらかもんのすけ)
 実名不詳。上杉政虎期の永禄4年10月には伊賀守を称している。長尾為景の功臣であった山村若狭守(藤三)の次男という伝承がある。天文22年5月8日に親族が死去しており、その供養を高野山清浄心院に依頼している。頸城郡の上郷に本領を有していたらしい。永禄2年に景虎が将軍警護のためと称した上洛に同行している。翌年に景虎が挙行した第一次関東遠征に際し、直江与右兵衛尉実綱・吉江織部佑景資と共に、越府留守将たちに対する旗本検見(監察)を務めている。


 新保清右衛門尉秀種(しんぼせいえもんのじょうひでたね)
 永禄3年5月10日に父(感林道久禅定門)が死去しており、その供養を高野山清浄心院に依頼している。


 三潴出羽守長政(みづまでわのかみながまさ)
 先祖は筑後国三潴郡三潴荘から移ってきたと伝わる。越後国蒲原郡の中目城主である。天文22年8月朔日に母(傑叟莫公大姉)が死去しており、その供養を高野山清浄心院に依頼している。


 楡井又三郎(にれいまたさぶろう)
 のちの治部少輔であろう。源姓村上一族か。もとは越後国守護上杉家の譜代衆である。越後国魚沼郡の桐沢城主か。天文23年5月12日に親族(齢松妙壽)の十三回忌供養を高野山清浄心院に依頼している。


 大石右馬允(おおいしうまのじょう)
 実名不詳。越後由来の大石氏か。永禄2年(12月8日か)に死去し、遺族によって供養が高野山清浄心院に依頼されており、時期は分からないが、景虎(上杉輝虎)も供養を林泉寺に頼んだ。法名は笑山常喜禅定門。


 大石源助(おおいしげんすけ)
 実名不詳。大石右馬允の嗣子。この源助ものちに右馬允を称する。


 船見宮内少輔(ふなみくないのしょう)
 実名不詳。越中国新川郡船見の地に由来する船見氏か。越後国守護上杉定実(号玄清)・同国守護代長尾景虎期の天文18年12月に「内之御座敷番」を仰せ付けられ、中里小六郎を責任者とする三番組に配されている。永禄年間に死去したか。上杉輝虎が供養を林泉寺に頼んだ「ふなみ」(華翁道雪禅定門)は、恐らくこの宮内少輔であろう。


 鹿嶋彦九郎(かしまひこくろう)
 実名不詳。越後国守護上杉定実・同国守護代長尾晴景期の天文16年正月12日に親族が死去しており、その供養を高野山清浄心院に依頼している。春日山在住であるから、景虎の旗本と考えて相違あるまい。天文18年12月に「内之御座敷番」を仰せ付けられ、於木次郎四郎を責任者とする六番組に配されている。上杉謙信期の鹿嶋蔵人は彦九郎の前身か次代に当たるか。


 河村孫六(かわむらまごろく)
 実名不詳。天文17年8月に母が、同じく9月には妻が高野山清浄心院に逆修供養を依頼している。春日山在住というから、景虎の旗本と考えて相違あるまい。上杉謙信期の河村孫六郎は次代であろう。


 鰺坂与次(あじさかよじ)
 先祖は筑後国御井郡鰺坂荘から移ってきたと伝わる。天文22年6月8日に母が死去しており、その供養を高野山清浄心院に依頼している。


 小嶋 某(こじま)
 上杉謙信の近臣に小嶋某がいるので、その前身となる人物がいたはずである。天文22年7月23日に重阿弥、同年11月27日に衆一房の供養を高野山清浄心院に依頼している小嶋弥三は、府内に本領を有しているから、景虎の旗本であろう。上杉定実・長尾為景期の永正年間半ばに古志長尾氏の与力であった小嶋源三郎重隆がおり、景虎は一時期、古志長尾氏を継いでいたことと、古志長尾氏の関係者には時衆信者が多いことからして、弥三は小嶋重隆に連なる人物と思われるが、謙信期の小嶋某の前身であるのかは分からない。


 梅津宗三(うめづそうぞう)
 天文22年11月16日に自身の逆修供養を高野山清浄心院に依頼している。その時の法名は軏山宗光。時期は分からないが、上杉輝虎はその死を悼んで供養を林泉寺に頼んだ。智光宗円禅定門。


 本田右近允(ほんだうこんのじょう)
 実名は長定・重政と定まらない。長定の方が正しければ、「長」の一字は景虎から頂戴したのであろう。景虎が山内上杉家を継いで上杉政虎と名を改めたのちの永禄4年9月11日、前日に行われた信濃国川中嶋の戦いにおける馬廻としての働きを評価されて感状を賜ることになる。天文22年8月12日に死去した関係者の供養を高野山清浄心院に依頼している府内の本田新助は右近允の前身か。


 小林左京進(こばやしさきょうしん・さきょうのじょう)
 もとは越後国守護上杉家の譜代衆であろうから、天文19年の主家断絶に伴い、
景虎の旗本衆に配されたと思われる。天文22年11月16日に関係者(妙心)の逆修供養を高野山清浄心院に依頼している。


 蔵田宗六(くらたそうろく)
 天文23年2月17日に関係者(快月清雲)の供養を高野山清浄心院に依頼しており、府内在住というから、景虎の旗本に相違あるまい。伊勢神宮の御師であり、府内代官・蔵奉行を務める蔵田五郎左衛門尉の一族であろう。宗六は、上杉輝虎期に見える蔵田兵部左衛門尉の前身に当たるか。


 宇津江藤左衛門尉(うつえとうざえもんのじょう)
 天文23年2月19日に関係者(明西)の供養を高野山清浄心院に依頼している。謙信期の宇津江若狭守(藤右衛門尉)の前身か父に当たるか。もし、若狹守の前身であるならば、歴代が藤左衛門尉と藤右衛門尉を交互に称したか、誤記したかのどちらかであろう。


 山下修理入道(やましたしゅりにゅうどう・すりにゅうどう)
 永禄3年5月10日に自身の逆修供養をしている。法名は在中光珎禅定門。府内在住というから、景虎の旗本に相違あるまい。謙信期に見える山下某の父に当たるか。


 野島平次左衛門尉(のじまへいじざえもんのじょう)
 実名不詳。越後奥郡国衆・色部氏や出羽国大浦の大宝寺氏の許への使者を務めた。


 若林 某(わかばやし)
 上杉謙信期に見える若林九郎左衛門尉家吉の祖父か父のどちらかに当たるであろう。


 山村右京亮(やまむらうきょうのすけ)
 仮名は藤三。実名は重信とも繁信とも伝わる。父の若狭守(藤三。実名は信重か)は長尾為景の諸戦に従い、特に永正16年冬の北陸遠征で高名を挙げた。その父が天文初年に戦死すると、当時は藤三を称していた右京亮が跡目を継ぎ、越後国天文の乱における同5年4月の頸城郡夷守郷三分一原の戦いで軍功を挙げた。右京亮には二人の弟がいて、それぞれ越後国長尾家の旗本衆に属する荻原氏と堀江氏を継いだという伝承がある。山村氏は初代の安信が南北朝期に京都から刀工の城州信国を招いて師事し、自らも作刀するようになり、以後の当主もそれに倣ったという。越後国頸城郡の青木城主と伝わる。


 諏方 某(すわ)
 上杉輝虎期に見える左近允か。


 相浦 某(あいうら)
 上杉謙信期の相浦主計助の祖父か父のどちらかに当たるであろう。


 荻田掃部助(おぎたかもんのすけ)
 天文20年8月8日に自身の逆修供養を高野山清浄心院に依頼している。法名は明慶善男子。春日山在住というから、景虎の旗本に相違あるまい。近江国北郡の出身と伝わる荻田氏であれば、後年、上杉輝虎が林泉寺に供養を依頼した荻田与三左衛門尉(法名は日山道慧禅定門)の前代に当たるか。


 鋳物師屋 某(いもじや)
 公銭方。越後国守護上杉家の時代に信濃国から移るか。


 富永 某(とみなが)
 上杉謙信期の富永清右兵衛尉(実名は長綱か)の父か。公銭方。


 塚本 某(つかもと)
 後年、上杉輝虎が塚本の母(円窓昌仲大姉)の供養を林泉寺に依頼しており、塚本母子は景虎と親しい間柄であったらしい。


 林 某(はやし)
 上杉輝虎期によく使者を務めた林平右衛門尉がおり、その前身となる人物がいたはずである。


 吉田 某(よしだ)
 のちの美濃守。長尾為景・晴景父子の被官に、越後国頸城郡の直峰城に拠ったとされる吉田周防入道英忠(父は能政)がおり、英忠には源右衛門尉兼政と孫左衛門尉重政(孫七郎)の子がいた。この二人のどちらかが美濃守の前身に当たるか。


 神余隼人入道(かなまりはやとにゅうどう)
 法号不詳。実名は実綱を名乗った。仮名は小次郎、官途名は隼人佑を称した。父は神余越前守昌綱。越後国守護上杉家の京都雑掌を務めていたが、天文末年頃に京都を引き払った。忌部姓神余一族。先祖は安房国安房郡神余郷から出たという。


 神余小次郎(かなまりこじろう)
 実名不詳。のちに隼人佑を称する。神余隼人入道の嗣子。


 金津新右兵衛尉(かなづしんびょうえのじょう)
 実名は弘雅と伝わる。景虎の乳母夫と伝わる。源姓平賀金津一族。


 河田九郎左衛門尉長親(かわだくろうざえもんのじょうながちか)
 のちに豊前守を称する。江州六角佐々木氏の旧臣と伝わる。藤原姓伊東一族か。景虎から越後国長尾家に縁の「長」の一字を頂戴した。小姓衆を経て出頭人となった。


 鰺坂清介長実(あじさかせいすけながざね)
 江州六角佐々木氏の旧臣と伝わる。景虎から越後国長尾家に縁の「長」の一字を頂戴し、鰺坂与次の名跡を継いだか。小姓衆を経て出頭人となるか。


 吉江喜四郎資賢(よしえきしろうすけかた)
 江州六角佐々木氏の旧臣と伝わる。景虎側近の吉江氏の一族に列し、吉江織部佑景資から一字を与えられた。小姓衆を経て出頭人となるか。


 河隅三郎左衛門尉忠清(かわすみさぶろうざえもんのじょうただきよ)
 越後守護代長尾家と古志長尾氏の被官に河隅氏がいて、どちらから出たのかは分からない。天文18年12月に河隅藤七が「内之御座敷番」を仰せ付けられ、寺内新八を責任者とする四番組に配されており、この藤七は河隅忠清の前身かもしれない。

 飯田藤六(いいだとうろく)
 天文18年12月に「内之御座敷番」を仰せ付けられ、吉水小太郎を責任者とする五番組に配されている。この藤六は、上杉輝虎の飯田孫右衛門尉長家の前身かもしれない。

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長尾景虎(号宗心)期の越後衆一覧 【2】

2013-12-11 22:49:15 | 長尾景虎(宗心)期の越後衆


 中郡国衆(もとは越後守護上杉家(前上杉氏)の譜代衆・外様衆)

 長尾越前守政景(ながおえちぜんのかみまさかげ)
 仮名は六郎を称した。越後国の長尾氏(平姓鎌倉氏)の一つである上田長尾氏。越後国長尾景虎の姉婿。越後国魚沼郡の坂戸城主。


 長尾遠江守藤景(ながおとおとうみのかみふじかげ)
 越後国の長尾氏の一つである下田長尾氏。越後国長尾景虎が永禄2年に大名の家格を得ると、斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条丹後守高広、そして藤景の四人が越後国長尾家の年寄衆に任ぜられ、制令発布などのの文書に署名する。越後国蒲原郡の下田(高)城主。


 長尾 景繁(ながお かげしげ)
 通称不詳。天文20年に山東郡内の庄屋に過所状を発給しているので、山東郡を地盤とする長尾氏か。弘治3年には本庄宗緩(実乃)・長尾景憲・直江実綱・吉江長資、そして景繁の五人で越後国長尾家の年寄衆を構成していた。


 長尾 景憲(ながお かげのり)
 通称不詳。天文20年に古志郡内の守門神社と諏方神社の相論を裁定していることから、古志郡司であったと思われる。古志長尾右京亮景信の前身か。弘治3年には本庄宗緩・長尾景繁・直江実綱・吉江長資、そして景憲の五人が越後国長尾家の年寄衆を構成していた。


 斎藤下野守朝信(さいとうしもつけのかみとものぶ)
 仮名は小三郎を称した。永禄2年に越後国長尾景虎が大名の家格を得ると、長尾遠江守藤景・柿崎和泉守景家・北条丹後守高広、そして朝信の四人が越後国長尾家の年寄衆に任ぜられ、制令発布などの文書に署名する。越後国刈羽郡の赤田城主。


 北条丹後守高広(きたじょうたんごのかみたかひろ)
 仮名は弥五郎を称した。のちに安芸守を称する。大江姓毛利一族。北条・安田の両毛利氏の当主を兼ねた大江五郎広春(毛利丹後守)から北条氏の名跡を継いだ。越後国長尾景虎が永禄2年に大名の家格を得ると、長尾遠江守藤景・斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家、そして高広の四人が年寄衆に任ぜられ、制令発布などの文書に署名する。越後国刈羽郡の北条城主。


 安田越中守景元(やすだえっちゅうのかみかげもと)
 幼名は百丸、仮名は弥八郎を称した。大江姓毛利一族。大江広春から安田氏の名跡を継いだ。妻は北条安芸守輔広(号祖栄)の娘。越後国刈羽郡の安田城主。


 安田弥九郎(やすだやくろう)
 実名は景広と伝わる。幼名は松若丸を称した。のちに和泉守を称したと伝わる。安田越中守景元の嗣子。越後国刈羽郡の安田城主。


 琵琶嶋 某(びわじま)
 弥七郎広員を名乗ったか。刈羽郡の国衆であった柏崎氏が長尾為景によって琵琶嶋城を得るところとなり、琵琶嶋氏を名乗ったと伝わる。越後国刈羽郡の琵琶嶋城主。


 甘糟近江守長重(あまかすおうみのかみながしげ)
 源姓新田田中一族とも源姓土水一族とも伝わる。弘治3年に越前国朝倉家の許へ使者として派遣された甘糟平内左衛門尉は前身か。越後国山東(西古志)郡の桝形城主か。


 大関 某(おおぜき)
 阿波守盛憲を名乗ったか。


 大崎筑前守(おおさきちくぜんのかみ)
 実名は泰継と伝わる。越後国魚沼郡の大崎城主か。


 計見出雲守(けみいづものかみ)
 実名は堯元と伝わる。初めは雅楽助を称するか。越後国刈羽郡の畔屋城主か。


 小国 某(おぐに)
 のちの刑部少輔か。源姓小国一族。越後国蒲原郡の天神山城主。


 山岸隼人佑(やまぎしはやとのすけ)
 実名は光重と伝わる。越後国蒲原郡の黒滝城主。嫡男の山岸宮内少輔秀能は越後国一宮弥彦神社の戸内職を兼ねる。次男は越後国長尾景虎の肝煎りで上郡国衆の村山氏を継いだ。


 飯田与七郎(いいだよしちろう)
 実名不詳。上杉定実・長尾為景期に見える飯田小次郎の次代か。上杉輝虎期に旗本衆・山吉氏の同心となる。


 伊与部 某(いよべ)
 実名、通称は不詳。上杉定実・長尾為景期に見える伊与部伴四郎顕資の次代か。のちに旗本衆・山吉氏の同心となるか。


 志駄千代松(しだちよまつ)
 のちに源四郎義時を名乗ったと伝わる。父は志駄源四郎。越後国山東(西古志)郡の夏戸城主。


 力丸中務少輔(りきまるなかつかさのしょう)
 実名は慶忠と伝わる。大江姓那波一族か。越後国山東(西古志)郡の根小屋城主。


 善根 某(ぜごん)
 実名、通称は不詳。大江姓毛利一族。越後国刈羽郡の善根城主。


 青海川図書助(おうみがわずしょのすけ)
 実名不詳。幼名は梅千代を称した。越後国刈羽郡の青海川城主。


 平子孫太郎(たいらくまごたろう)
 実名は房長、房政などと定まらない。長尾晴景と景虎の兄弟抗争においては景虎に味方したので、新守護代となった景虎に嘆願し、かつて所領の一部であった西古志(山東)郡山俣の地などの回復に努めている(『上越市史 上杉氏文書集』22~24号)。上杉輝虎期にはに若狭守を称する。平姓三浦一族か。越後国魚沼郡の薭生城主。


 宇佐駿河守美定満(うさみするがのかみさだみつ)
 仮名は平八郎であろう。越後守護代長尾為景に滅ぼされた宇佐美弥七郎房忠の一族で、上杉一家の上条播磨守定憲(はじめ憲定。弥五郎)に拾われたらしい。「定」の一字は上条定憲から付与されたのであろう。上条氏には、淡路守(十郎)家・美濃守家・弾正少輔家、そして播磨守(弥五郎)家があり、定満は美濃守家と弾正少輔家との関わりが深い。藤原姓工藤伊東一族とも平姓大見氏とも伝わる。越後国魚沼郡の真板平城主か。


 多功 某(たこう)
 実名、通称は不詳。父の多功小三郎は、長尾景虎の支持基盤である小千谷・堀内・波多岐・妻有地域のうち、堀内地域の領主の一人であった。長尾晴景と景虎の兄弟抗争において、やはり堀内地域の領主である宇佐美駿河守定満に同調して景虎に味方したが戦死してしまうと、遺領は平子孫太郎に与えられるところとなり、宇佐美定満が景虎に再考を願い出ていた(『上越市史 上杉氏文書集』96・100号)。藤原姓宇都宮一族か。


 金沢 某(かなざわ)
 実名、通称は不詳。


 河治 某(かわぢ)
 実名、通称は不詳。


 加治式部少輔定次(かぢしきぶのしょうさだつぐ)
 源姓佐々木加地一族か。越後国魚沼郡堀内地域の城館に拠る。


 福王寺兵部少輔(ふくおうじひょうぶのしょう)
 仮名は彦八郎を称した。実名は重綱とも孝重ともいわれる。上野国白井長尾氏の出身で、福王寺掃部助(彦八郎。実名は友重か)の名跡を継いだとされる。源姓佐々木加地一族か。のちに旗本衆を経て上田衆(上田長尾氏の同名・同心・被官集団)に転属するか。越後国魚沼郡の下倉山城主。


 江口式部丞(えぐちしきぶのじょう)
 仮名は藤五郎、実名は親広と伝わる。のちに安芸守を称するか。藤原姓安達一族か。越後国魚沼郡の平地山城主。


 大沢 某(おおさわ)
 実名、通称は不詳。父は大沢伊豆守か。越後国魚沼郡の大沢城主。


 上野中務丞家成(うえのなかつかさのじょういえなり)
 仮名は源六を称した。源姓新田大井田一族。越後国魚沼郡の節黒城主。


 中条玄蕃允(ちゅうじょうげんばのじょう)
 実名不詳。源姓新田田中一族。一族に中条左近将監がいる。のちに上田衆(上田長尾氏の同名・同心・被官集団)に組み込まれる。越後国魚沼郡の大井田城主か。


 鳥山 某(とりやま)
 実名不詳。官途名は大炊助か。源姓新田里見一族。越後国魚沼郡の市之沢城主か。


 下平修理亮(しもだいらしゅりのすけ)
 実名は吉長とされているが、永禄2年に勘助吉長の発給文言が残るので、天文23年に隣郷の上野家成と土地相論をした修理亮と、上杉輝虎期の永禄7年に輝虎の姉婿である上田長尾政景と刃傷沙汰を起こして相討ちしたと伝わる下平修理亮(これ以前に下平氏は、輝虎の肝煎りで上田長尾氏の同心に配されていたと思われる)は、親子二代であった可能性があり、吉長は後者の実名なのかもしれない。ただし、吉長の発給文書は要検討とされているので、同一人物の可能性も排除できない。上杉定実・長尾為景期に起こった天文の乱において、下平次郎太郎(実名は久長と伝わる)は敵方の上田長尾勢の攻撃を受けて戦死している。越後国魚沼郡の千手城主。法名は吉法元長禅定門と伝わる。


 上郡国衆(もとは越後守護上杉家(前上杉氏)の譜代衆・外様衆)

 長尾小四郎景直(ながおこしろうかげなお)
 越後国の長尾氏の一つである御屋敷長尾氏。父は長尾為景(景虎の父)の弟(一峰源統)であり、母は長尾為景の娘(秀琳永種)であるから、恐らく母は後妻であろう。


 長尾源五(ながおげんご)
 実名不詳。仮名は源五郎とも。越後国の長尾氏の一つであろう。永禄3年8年から翌4年7月にかけて越後国長尾景虎(永禄4年3月からは山内上杉政虎)が挙行した関東遠征時には桃井右馬助義孝・長尾小四郎景直・黒川竹福丸・(のちの四郎次郎平政)・柿崎和泉守景家、そして源五の5人が越府の留守将に任ぜられている。


 大熊備前守朝秀(おおくまびぜんのかみともひで)
 仮名は彦次郎を称した。奉行衆(三奉行)。公銭方。父は大熊備前守政秀(彦次郎。新左衛門尉)。越後国頸城郡の箕冠城主。同じ三奉行の本庄新左衛門入道宗緩(俗名は実乃)と対立し、甲州武田家に通じて反乱を起こしたが、景虎の軍勢に迎撃されて敗北すると、落ち延びて武田晴信に仕えた。


 柿崎和泉守景家(かきざきいずみのかみかげいえ)
 仮名は弥次郎を称したか。官途名は中務を称した。平姓大見一族。永禄2年に越後国長尾景虎が大名の家格を得ると、長尾遠江守藤景・斎藤下野守朝信・北条丹後守高広、そして景家の4人が越後国長尾家の年寄衆に任ぜられ、制令発布などの文書に署名する。越後国頸城郡の柿崎城主。


 柿崎平次郎(かきざきへいじろう)
 実名不詳。柿崎和泉守景家の長男。時期は不明であるが早世したらしい。


 諏訪部 某(すわべ)
 実名、通称は不詳。


 諸越 某(もろこし)
 実名、通称は不詳。謙信期の諸越彦七郎(実名は盛秀、次いで秀満か)の父か。越後小黒一族の本家。


 小黒 某(こぐろ)
 実名、通称は不詳。


 窪宗左衛門尉(くぼそうざえもんのじょう)
 実名不詳。越後国頸城郡の直峰(嶺)城の城衆か。


 山田帯刀左衛門尉(やまだたちはき(たてわき)ざえもんのじょう)
 実名不詳。仮名は彦三郎を称した。越後国頸城郡の直峰(嶺)城の城衆か。


 針生藤兵衛尉(はりゅうとうびょうえのじょう)
 実名は久吉か。越後国頸城郡の犬伏城の城衆か。


 阿佐美彦六(あさみひころく)
 実名は定を通字とする。


 真砂惣右衛門尉(まさごそうえもんのじょう)
 実名、通称は不詳。


 村山与七郎(むらやまよしちろう)
 実名は義信か。のちに安芸守を称するか。父は村上中務丞(実名は直義か)。源姓村山一族。越後国頸城郡の徳合城主。


 村山善左衛門尉慶綱(むらやまぜんざえもんのじょうよしつな)
 父兄は山岸隼人佑と同宮内少輔秀能。景虎から村山与七郎の名跡を与えられた。もとは景虎の近習であったか。

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長尾景虎(号宗心)期の越後衆一覧 【1】

2013-12-10 22:49:47 | 長尾景虎(宗心)期の越後衆


 一家衆(もとは越後長尾一族、同じく越後守護上杉家(前上杉氏)の一族)

 長尾右京亮景信(ながおうきょうのすけかげのぶ)
 仮名は十郎を称したと伝わる。越後国長尾氏(平姓鎌倉氏)のひとつである古志長尾氏。天文22年に古志郡内の相論を裁定するなど、古志郡司としての活動が見られる長尾景憲と同一人物の可能性がある。父は古志長尾豊前守房景(小宝士丸。弥四郎)。越後国古志郡の栖吉城主。


 桃井右馬助義孝(もものいうまのすけよしたか)
 永禄4年には伊豆守を称する。先代も伊豆守義孝を名乗った。源姓足利桃井一族。越後国頸城郡の鳥(富)坂城主と伝わる。


 山本寺伊予守定長(さんぽうじいよのかみさだなが)
 越後守護上杉家(藤原姓上杉氏)の一族。越後国頸城郡の不動山城主。


 上条 頼房(じょうじょう よりふさ)
 仮名は惣五郎か。越後国守護上杉家の一族。上条播磨守定憲(弥五郎)の後継者。天文22年10月12日に「春日山平三」(上洛中の長尾景虎と考えられている)から高野山清浄心院に「上椙頼房」の供養が依頼されている。天文21年に自身の逆修供養を高野山清浄心院に依頼した「鵜河庄上条上サマ
」こと明印月窓は妻と思われる。越後国刈羽郡の上条(黒滝)城主。

 上条 某(じょうじょう)
 実名、通称は不詳。越後守護上杉家の一族。上条上杉頼房の後継者である。長尾為景の娘で、景虎の姉である小少将(法名は光室妙智大姉)を妻に迎えたと思われる。越後国刈羽郡の上条(黒滝)城主。


 山浦 某(やまうら)
 実名、通称は不詳。越後守護上杉家の一族。越後国蒲原郡の笹岡城主。



 奥郡国衆(阿賀北の外様衆)

 中条越前守(なかじょうえちぜんのかみ)
 実名は房資、次いで景資であろう。仮名は弥三郎を称した。平姓三浦和田一族。越後国蒲原郡の鳥坂城主。


 黒川下野守(くろかわしもつけのかみ)
 実名は平実であろう。仮名は四郎次郎を称した。平姓三浦和田一族。父は黒川四郎右兵衛尉清実(四郎次郎)。越後国蒲原郡の黒川城主。


 黒川竹福丸(くろかわたけふくまる)
 のちに四郎次郎平政と名乗る。平姓三浦和田一族。越後国蒲原郡の黒川城主。


 本庄弥次郎繁長(ほんじょうやじろうしげなが)
 幼名は千代猪丸を称した。平姓秩父本庄一族。越後国瀬波(岩船)郡の村上城主。


 色部弥三郎勝長(いろべやさぶろうかつなが)
 のちに修理進を称する。平姓秩父本庄一族。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主)


 小河右衛門佐長資(おがわえもんのすけながすけ)
 平姓秩父本庄一族。本庄弥次郎繁長の叔父。越後国瀬波(岩船)郡の小河城主。


 鮎川岳椿斎元張(あゆかわがくちんさいげんちょう)
 摂津守清長を名乗った。平姓秩父本庄一族。越後国瀬波(岩船)郡の大葉沢城主。


 大川 某(おおかわ)
 駿河守忠秀を名乗ったと伝わる。平姓秩父本庄一族。越後国瀬波(岩船)郡の藤懸(府屋)城主。


 加地 某(かぢ)
 越後国守護上杉定実(号玄清)・同国守護代長尾為景(絞竹庵張恕)期の享禄4年に見える加地安芸守春綱あるいはその次代か。源姓佐々木加地一族。越後国蒲原郡の加地城主。


 新発田尾張守忠敦(しばたおわりのかみただあつ)
 仮名は源次郎を称した。源姓佐々木加地一族。越後国蒲原郡の新発田城主。


 五十公野 某(いじみの)
 新発田五十公野輔親の後継者にあたる弥三郎景家か。佐々木加地一族。越後国蒲原郡の五十公野城主。


 竹俣三河守慶綱(たけのまたみかわのかみよしつな)
 官途名は太郎左衛門尉を称したと伝わる。源姓佐々木加地一族。越後国蒲原郡の竹俣城主。


 水原 某(すいばら)
 仮名は小太郎か、壱岐守隆家を名乗ったか。平姓大見一族。父は水原伊勢守政家か。越後国蒲原郡の水原城主。


 安田治部少輔長秀(やすだぢぶのしょうながひで)
 安田弥太郎実秀の後身であろう。平姓大見一族。父は安田但馬守か。妻は上田長尾越前守房長の娘(長尾六郎政景の妹)と伝わるが年代的に無理がある。実際は長尾房長の妹か。天文10年に嫡男の弥太郎を失っている。越後国蒲原郡の安田城主。


 下条 某(げじょう)
 薩摩守実頼を名乗ったと伝わる。平姓大見一族。越後国蒲原郡の下条城主。


 荒川 某(あらかわ)
 伊豆守長実を名乗ったか。藤原姓波多野河村一族。越後国蒲原郡の荒川城主。


 垂水 某(たるみ)
 のちの源次郎か。藤原姓波多野河村一族。越後国蒲原郡の垂水城主。



 中郡国衆(阿賀南の外様衆)

 菅名 某(すがな)
 但馬守重国を名乗ったか。藤原姓信夫佐藤一族。越後国蒲原郡の菅名城主。


 菅名 某(すがな)
 のちの源三か。菅名但馬守重国の嗣子か。藤原姓信夫佐藤一族。越後国蒲原郡の菅名城主。


 母躰孫太郎宗資(もたいまごたろうむねすけ)
 源姓平賀金津一族。越後国蒲原郡の護摩堂城主か。


 平賀 某(ひらが)
 のちの左京亮重資か。源姓平賀金津一族。越後国蒲原郡の護摩堂城主。


 新津 某(にいつ)
 上杉定実・長尾為景期の大永6年に見える新津上総介景資あるいはその次代であろう。源姓平賀金津一族。越後国蒲原郡の新津城主。


 城織部佑景茂(じょうおりべのすけかげもち)
 父は城次郎左衛門尉貞茂と伝わる。平姓城一族。越後国蒲原郡の木越城主と伝わる。改易されて甲州武田氏に仕えたのちは、和泉守を称し、意庵を号する。


 新発田宮内少輔(しばたくないのしょう)
 源姓佐々木加地一族。神洞の新発田出雲守の次代に当たる。越後国蒲原郡の神洞城主か。



 奥郡国衆(もとは越後守護上杉家の譜代衆)

 石川 某(いしかわ)
 上杉定実・長尾為景期の永正18年に見える石川新九郎景重あるいはその次代であろう。平姓三浦一族か。景重は石川新五郎(斎藤下野守昌信の子)の後継者。越後国蒲原郡の石川城主と伝わる。


 千坂対馬守(ちさかつしまのかみ)
 上杉定実・長尾為景期の永正年間に見える千坂藤右衛門尉景長の後身か。千坂景長の世子と伝わる千坂対馬守景親(はじめ朝儀を名乗ったか)の可能性もあろうが、間に一代を挟む可能性もあろう。藤原姓首藤一族か。越後国蒲原郡の鉢盛城主と伝わる。

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越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄13年3月】

2013-12-09 12:41:25 | 上杉輝虎の年代記

永禄13年(1570)3月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【41歳】


5日、同盟交渉中の相手である北条相模守氏康・北条左京大夫氏政父子へ宛てて条書を発し、覚、一、三郎殿(氏康の末男。久野北条三郎。武蔵国橘樹郡の小机領を管掌する)の御支度が整うまでの間、氏邦(藤田新太郎氏邦。氏康の五男。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管掌する)を(下野国佐野陣へ証人として)寄越されるのかどうか、これについて、柿崎父子(柿崎和泉守景家・同左衛門大夫。準一家に相当する重臣)のどちらか一人を(証人として)御所望のこと、あれこれ考えあぐねていたのでは、つまりは他意を抱いているように捉えられかねないこと、ここまできたら、氏邦が(佐野に)在陣している間に、鉢形まで(柿崎左衛門大夫を)差し越すつもりであること、一、氏邦と柿崎の息子を取り替えられてから、(越後国上杉家は)西上州(甲州武田信玄)へ手切れ(越・甲和与の破談)を通告されて、柿崎の息子は(鉢形に)置かれたまま、三郎方を氏邦と取り替えて寄越されたいとの要望を承ったからには、柿崎の息子は末代まで相府小田原に留め置かれるつもりであること、そのような手順を取るのであれば、三郎方の養子入りは徒労に終わってしまう恐れがあるのではないかと思われ、(北条)御父子に御支障がないにおいては、氏邦と柿崎の息子を取り替えられ、(甲州武田)信玄に対して(輝虎が)手切れを通告する以前に、御当陣で三郎方を氏邦と取り換えられてほしいこと、それならば、御父子の御真実は紛れもないものであること、詳細は篠窪(治部。北条家中)と須田(弥兵衛尉。輝虎旗本)が説明すること、愚老のめい(姪)を(三郎に)娶わせる約束については、いささかも違える考えはないこと、この補足として、柿崎の息子は、当陣にて氏邦と取り替えられ、なおかつ三郎方を寄越してくれれば、愚老にとって来世まで面目が施されること、以上、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』888号「北条相模守殿・北条左京大夫殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


同日、越中国魚津城(新川郡)の城衆の番替えに伴い、該当者の三名が帰国するため、諸領主が彼らの通行を妨げることがないように手配するところとなり、越中国代官を任せている河田豊前守長親(魚津城の城代でもある)が過書を発し、番替えの者三人、(越後国頸城郡)府内へ弐人、藪神へ壱人を下し、諸役所が保証するものであること、よって、前記した通りであること、これを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』889号「所々 領主中」宛河田「豊前守」長親判物写)。


8日、相州北条氏康から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城将である河田伯耆守重親(大身の旗本衆)へ宛てて条書が発せられ、覚、一、新太郎(藤田氏邦)と替わるため、柿崎左衛門大夫方が(相府へ)御越しになるわけで、本望であること、この補足として、(氏邦迎えの)御乗物一両を月内に(佐野陣へ)送らせるので、(柿崎左衛門大夫が)相府に御着きになるまでは(氏邦を)逗留させてほしく、(氏康の)愚存はこの一点に尽きること、一、(北条)父子はいよいよ(輝虎と)浮沈を共にする無二の間柄となるため、誓句をもって申し入れること、同じくは、血判を据える際に見届ける証
人を寄越してもらいたく、その眼前で誓詞に身血を染めて渡しておくこと、また、このたび未来永劫の御誓句を給わるための案文を送っておくこと、一、武・上の面々(武蔵・上野両国の国衆)には、後日に禍根を残さないように、(帰属関係を)いよいよ定め置かれるのが肝心であること、一、房・相和融の交渉状況については、先頃に申し入れたこと、かならず(房州との間を)御策媒(調停)されるのが適切であること、一、先だって太石惣介方(大石芳綱。輝虎旗本)に申し届けた通り、西上州の御戦陣については、このたび(越後国上杉軍は)御労兵であり、(武田領の)村々を制圧するのは難儀と思われるので、次回の御戦陣に期待していること、ただし、御思案(作戦の概要)のところは、早々に承りたいこと、この補足として、駿州の処置のこと、以上、これらの条々を申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』891号「河田伯耆守殿」宛 北条氏康条書案)。


9日、常陸国太田の佐竹義重の客将である太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。佐竹氏から常陸国新治郡の片野城を任されていた)の許へと再派遣した大石右衛門尉(輝虎旗本)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、先だって太田美濃守かたへ内密の輝虎書中を送ったところ、(道誉は)東方の味方中に開示し、その写しが(巡り巡って)由信かた(由良成繁)から河田伯耆守かた(重親)へ届いたこと、なるほど美濃守への信頼は失われたこと、あのように手を分けて申し遣わしたのは、一つには、味方中を離反させたくない意趣から、一つには、美濃守に再起してもらいたいとの真意から、申し届けたところ、あの通りにひろげ物にしておくとは、前日に言い含めた件をも、様子によって申し聞かせるべきこと、今後のためなので、しっかりと問い詰めるべきこと、今日の申刻(午後4時前後)に沼田から書状写(由良成繁が河田重親へ届けた輝虎が太田道誉に送った内密の書状の写し)を持たせた飛脚に、(大石右衛門尉を)追い駆けさせたこと、ひとえに美濃守の所行は天罰に値するものであること、今日までは(道誉を)頼もしく思っていたが、この先は諦めて放っておかれること、よって、このところをまずは源太方(梶原政景。太田道誉の子)に申し聞かせるべきこと、なお、めでたく万事が調ったあかつきに、また申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、彼の意趣をくれぐれも大美父子に言い聞かせ、誓詞なりとも差し出させて覚悟を見届け、その本心を明らかにさせるべきこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』892号「大石右衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a4】)。


同日、相州北条氏政(左京大夫)から書状が発せられ、(証人として)藤田新大郎(氏邦)を(越陣へ)参陣させるのに伴い、柿崎方(左衛門大夫)を寄越されるそうであり、当然ながら本望至極であること、このうえは、なお未来永劫に越・相両国が浮沈を共にしていくため、遠山左衛門尉(実名は康光。氏康の側近。小田原衆)をもって愚意の委細を申し届けること、よくよく御聞きになって承知されて、御同意を得られれば、大慶であること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』893号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。

13日、相州北条氏政(左京大夫)から書状が発せられ、あらためて飛脚をもって申し届けること、よって、西上州へ向ってもらいたいところ、御労兵であるから、大勝負はどうかと思われ、来る七月の大調儀(戦陣)の提案した書状を披読してもらうため、(合否の判断となる)筋目を余さず申し届けたこと、しかし、申し越した通りでは、(藤田氏邦へ)西上州への大調儀を明言されたそうであり、誠に本望大慶であること、拙者(北条氏政)においても、内々に彼の御調儀を心懸け、人衆等を集めたので、近日中に打ち出て、敵地に向かって地利を取り立てるつもりであること、条目で明言された通り、来月上旬中に西上州に御馬を立てられるにおいては、ますます満足であること、委細は御知らせにより、その旨を得るべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』895号「山内殿」宛北条「氏政」書状写)。


同日、山吉豊守(輝虎の最側近)・河田重親(上野国沼田(倉内)城の城将)が、相府小田原に滞在中の進藤隼人佑家清へ宛てて条書を発し、一、須弥(須田弥兵衛尉)へ遠左(氏康側近の遠山康光)から申し含められたところでは、13日に遠左が参陣し、(藤田)氏邦は14日に着陣すると言っていたこと、由信(由良成繁)の書中には17日であると言って寄越していること、今この時に何を言ってきたとしても、(輝虎は北条父子の)御表裏ではないかと考えられていること、一、西上州(甲州武田家)へこのうえは、子細を申し届けること、一、(輝虎は)厩橋へ納馬されること、この事情を惣軍へ申し聞かせ、南・越御一和が成就したと申されること、いよいよ御分別(越・相一和と越・甲和与のどちらを取るかの分かれ目)に至ると考えられており、当陣(佐野陣)を払われたあとには、(甲州武田)信玄に申し合わす旨があるかも知れないこと、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』896号「進隼 参御陣下」宛山吉「豊守」・河田「重親」連署条書写)。


この頃、遅くとも22日以前に下野国安蘇郡佐野荘の佐野陣(唐沢山城攻め)を撤収し、上野国佐位郡(西荘)の
赤堀領における五目牛の地に移陣していた(『上越市史 上杉氏文書集一』981号)。


26日、相州北条氏康・同氏政父子から条書が発せられ、一、このたび宝印を翻され、(相州北条父子が)望んだ案文通りの誓詞に、招き寄せられた遠左(氏康側近の遠山左衛門尉康光)の眼前で御血判を据えてもらい、誠にありがたく、満足していること、一、三郎は来る5日に、風雨が吹き荒れようとも、当地小田原を発足致すつもりであること、この補足として、彼の日程は巷間に広く知れ渡っているため、これに乗じた(甲州武田)信玄が出張してくる事態を心配に思っていること、つまりは、利根川端までは此方(相州北条家)の送衆に警固を厳重に申し付けること、向こう岸から引き渡す手筈を整えているので、倉内(沼田)衆・厩橋衆に堅く堅く警固を仰せ付けられるのが専一であること、一、相・房一和については、先段に申し届けた通り、御作意(意図)に背かずに交渉を進めること、なお、その様子を書中で露わにすること、その際には彼の国へ御使いを差し向けられ、絶え間なく取り計られて御落着へと導かれるのが専一であること、一、初秋の御手立て(戦陣の段取り)について、色々と御相談し合っていくのは、誠に本望の極みであること、ただし、ただ今は御労兵の頃合いといい、御帰国する時機と推量されるので、(在国中の)信玄への対策を講じられるのが大切であると考えること、爰元(北条父子)の存分については進藤方(隼人佑家清。旗本衆)と垪和(刑部丞康忠。氏政の側近)の両口に申し付けたので、(武田に対する)御備えの様子の詳しい御返答を待ち入ること、一、(先頃に)愚老父子が呈した条書のなかで、武・上の面々(武蔵・上野国衆)について、後日に禍根を残さないように、いよいよ(帰属関係を)定めるとは、そのような子細は御聞き入れになっていないそうであること、爰元(北条父子)は重要視して左衛門尉(遠山康光)に言い含めたこと、(輝虎の)上聞に達しなかったところは、左衛門尉の失態であるの明白であること、しかしながら、御奏者の挨拶(応答)によれば、この件に二つ三つ言い立てる事柄があるそうであり、(北条父子が武・上国衆の帰属の件を)そのままに物事を進めた旨について、申し開きを致すこと、武・上の(懸案となる)二字の所を指しては、忍(武蔵国衆の成田氏)と松山(同上田氏)は大途(関東の秩序)に御別儀はないとはいえ、一度は越府(輝虎)御退治を蒙るべきとの趣には、深く思い詰めていること、越・相両国が御骨肉に仰せ合わされるからには、(越後国上杉家と)並んで相州も(松山の上田を)退治するべきとのこと、そうなった時には、(上田は)信玄へ申し寄せる以外になく、(甲州武田家に)出仕すると申していること、(上田が)信玄と三度でも五度でも通交に及べば、信玄の計策に乗ってしまうのは、必然であること、信玄に内通するのを阻止するには、越府がまず御誓詞を調え、忍と松山から証人を取られてから、細かな御誓句を申し入れるべきであること、垪和(康忠)はこの口に通じており、同前の考えであること、一、新太郎(藤田氏邦)の所への御条書に露わにされた通りでは、愚老父子が表裏を心の奥底で抱いているではないかと、仰せを受けたこと、すでにこのたび以前の誓句を見直し、ただの一ヶ条をも(疎かにすることなく)無二無三に申し合わるものと、宝印を翻して血判をもって申し上げたからには、虚偽などは、どうして弄するであろうか、およそ以前の誓句のうちから、一点たりとも心の底から捻じ曲げる考えはないこと、御不審な点があれば、何度でも御糾明に預かりたいこと、とりわけ、実子両人(氏邦と三郎)を渡し申し上げる事実は、誠に大山よりも高く、大海よりも深いと心に留めているところを、それでもなお愚(北条父子)への疑心を振り払えないと思われるのならば、万策尽きて、どうにもしようがない思いであること、このうえにも、あるいは妄言を触れ回る輩が現れたり、あるいは御意に合わない事態が生じるであろうこと、その時は即座に問い合わせてもらい、(互いに)多くの言葉を費やすのが肝心であろうこと、さて御入魂を申し合わせたからには、互いに道理を外れてはならないので、その道理に(疑問があるに)おいては、遠慮なく問い合わせるつもりであること、(当方に)不届きがあれば、何度でも御糾明してもらいたく、これこそがこのたび御血判を取り交わした趣旨であること、一、このたび三郎が参る道中の諸事万端については、由信(由良信濃守成繁)に手配を仰せ付けられるのが肝心と考えていること、以上、これらの条々を申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』900号「山内殿」宛北条「氏康」・北条「氏政」連署条書)。



〔越・相同盟を巡る関東・前奥の諸氏との関係の変化〕

3月5日、下総国結城の結城晴朝(左衛門督)から、後藤左京亮勝元(輝虎旗本)へ宛てて書状が発せられ、このたび使者をもって条々を承ったこと、誠にありがたく祝着の極みであること、南方(相州北条家)へ仰せ談じた筋目をもって、五野目(五目石であろう)へ御陣を移されたものか、(下野国小山の小山)高朝・秀綱父子と一同して、御当方(越後国上杉家)奔走するべきであると、承ったこと、当然ながらそれを理解したこと、かならず使いをもって申し届けるにより、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』683号「後藤左京亮勝元」宛結城「晴朝」書状写)。


当文書は、『謙信公御書集』などでは永禄12年に置かれているが、その頃、輝虎は越後国村上陣の真っただ中で、どこぞへ移陣するような状況になく、越・相同盟の期間中(交渉中も含め)に輝虎が春中に移陣するような状況であったのは永禄13年だけであり、そうなると書中に、下野国佐野から上野国五目石への移陣するつもりでいた様子が窺えることや、『上越市史 上杉氏文書集一』890号によれば、後藤左京亮勝元と須田弥兵衛尉が使者として佐野陣から上野国新田金山城へ遣わされており、その後、須田は進藤隼人佑家清と相府小田原へ向かったが、後藤はこれに同行しておらず、別の任務に当たっていたようなので、単独で見えても矛盾がないことから、当年の発給文書として引用した。


15日、陸奥国白河の結城義親(七郎)へ宛てて、初信となる書状を発し、今まで申し交わしてこなかったとはいえ、(それでもこのたび)一翰を馳せた意趣は、(常陸国太田の)佐竹義重とは長年にわたって相談し合う間柄でありながら、このたびの同陣の申し合わせにおいて、まったく言行不一致の態度を取り、兼ねてよりの入魂を違えたこと、されば、(白河義親は下野国烏山の)那須資胤とは格別に懇意にしているそうなので、輝虎についても今後は(佐竹ではなく、白河と)申し合わせていきたいこと、御同意してもらえれば、本望であること、(奥州会津の蘆名)盛氏父子との関係も、おろそかにするなど考えられないこと、なお、(詳細は関東代官の)北条丹後守(高広)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』503号「白川七郎殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a3】)。


当文書は、諸史料集において、永禄9年に仮定されていたり、翌10年に比定されていたりするが、前者の時期には、輝虎と佐竹義重は協議したうえで、2月の佐竹勢による常陸国小田城攻略に続き、3月の輝虎による総州経略(佐竹義重自身は小田の戦後処理を見越して参陣は免除され、代官の率いる佐竹衆が参陣した)が催されており、佐竹義重と同陣を巡って対立するような状況にはなかったこと、後者の時期には、関東代官を任されていた北条高広が相州北条・甲州武田陣営に寝返っていたことから、どちらも該当しないので、別の年次にほかならず、それは永禄12年6月の越・相一和の成立により、これに反対する佐竹が輝虎の度重なる同陣要請に応じようとせず、両者が手切れした当年の発給文書となろう。


22日、このたび帰参を認めた上野国衆の赤堀上野介(上野国佐位郡の赤堀城を本拠とする)へ宛てて証状を発し、再三にわたり、(山内上杉家の)譜代としての筋目を頼りにするほかないと申し越し、殊に誓詞を寄越したのは、またぞろ神妙であること、これについて、(上野国佐位郡の)波志江郷・蓮村・小保方郷・田部井村・国定村、(同新田郡の)鹿田村を出し置くこと、しかしながら、(同上野国群馬郡の)厩橋領・惣社領・白井領のうちに(前記した郷村が)あった場合には、これを除くものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』899号「赤堀上野介殿」宛上杉「輝虎」安堵状【花押a4】)。


28日、常陸国太田の佐竹義重(次郎)の一家衆である佐竹北 義斯(又七郎)から、取次の柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、それ以来(この上旬に協議が不調に終わってから)、互いに一致した課題がなかったにより、申し承らなかったこと、不本意であること、よって、(輝虎は)上州に今なお御在陣し、御陣労は限りなく、ただただ案じられること、されば、輝虎に対し申し上げられ、義重が異心を抱いてはいない意趣を示したところ、世間の風聞によれば、(輝虎は義重に対し)御恨み言に及ばれているそうであり、ひとえに嘆かわしい状況であると思われること、こうした趣旨を御説明するため、使僧を差し越されて申し述べられるので、御聞きになって御理解してもらえれば、御懇切は(義重はもとより)自分(北 義斯)においても畏み入ること、つまるところ方々(柿崎・山吉)の御手並みに懸かっていること、北丹(北条丹後守高広)と相談し合って、(輝虎の)御上聞に達せられるのが肝心であること、詳細は(使僧の)策首座の口上に申し含めたので、(この紙面は)省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』901号「柿崎和泉守殿・山吉孫次郎殿」宛佐竹北「義斯」書状写)。



一方でこの間、同盟関係にある相州北条氏康・同氏政父子は、輝虎の許へ養子として北条三郎(氏康末男)を送り出すにあたり、各所へ連絡を取り合う。

3月4日、相州北条氏政(左京大夫)が、上野国衆の由良信濃守成繁へ宛てて返状を発し、輝虎から、(由良成繁へ使者をもって)筋目を承知された回答が寄せられ、(由良が寄越した使者の)大沢下総守をもって承った条々は、それを理解したこと、なおもって越・相一和を思い詰めているので、早々に落着するように御奔走してほしいこと、委細は下総守の口上のうちにあること、紙面は省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』682号「由良信濃守殿」宛北条「氏政」書状写)。


当文書は、諸史料集では永禄12年に置かれているが、次の890号文書との兼ね合いからして、朱書きされている通り、「元亀元年」(永禄13年)の発給文書であろう。


5日、相州北条氏康(相模守)が、由良信濃守成繁へ宛てて返状を発し、(越後国上杉家が)後藤左京亮(勝元)・須田弥兵衛尉をもって仰せ出だされたのに伴い、(由良成繁から使者の)大沢下総守を差し越され、このたび唯一無二の入魂を取り成すにおいて、適切な趣の意見に預かったこと、いかにも愚意と同前であること、(輝虎との交渉の)真実の様子を詳しく申し届けること、息子の三郎は、この五日から六日のうちに番明けとなるはずであったこと、そうではあったが、(予定を早めて)昨日に迎えの者を遣わしたこと、(上杉家へ引き渡す)支度が整うまでの間は、新太郎(藤田氏邦)を彼の陣下へ差し越す約束を定めたこと、なお、様子は(大沢)下総守の口上のうちにあること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』890号「由良信濃守殿」宛北条「氏康」書状写)。

16日、相州北条氏政(左京大夫)が、兄弟衆の藤田氏邦新太郎(氏康の五男。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管轄する)へ宛てて返状を発し、10日の注進状を披読したこと、よって、遠左(遠山康光。氏康の側近)を早速にも(輝虎の陣中へ)罷り立たせるべきところ、(久野北条)三郎の越山については、(三郎が)あれこれ悩み渋っていたので、繰り返し助言に及んで納得させ、今日遠左は罷り立ったこと、彼の者(遠山)が(輝虎の許へ)参陣するからには、万事が落着するであろうこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1392号「新太郎殿」宛北条「氏政」書状)。

26日、相州北条氏政(左京大夫)が、兄弟衆の北条源三氏照(氏康の三男。武蔵国多西郡を中心とした由井領を管轄する)へ宛てて返状を発し、26日の一札が同日申刻(午後四時前後)に到来したこと、(輝虎の陣中へ派遣された)垪和(康忠。氏政の側近)かたへ申し越された筋目は、当然であると考えていること、とりわけ、(氏照は)御煩いゆえ、今日は御参府できないのではないか、先書で露わにした通り、(久野北条)三郎送衆の物主(越後国上杉家へ三郎を引き渡す責任者)であるのだから、日数はないので、此方(相府小田原)へ御越しは無用であること、委細は近藤(綱秀。氏照の側近)の口上に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1396号「源三殿」宛北条「氏政」書状)。



同じく、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、3月5日、西上野先方衆の浦野新八郎へ宛てて書状を発し、昨年(10月6日)の相州三増坂(中郡)において、親父(民部左衛門尉)が格別の戦功を励んで討死にしたのは、類い稀な忠節であること、今後は父民部左衛門尉の時のように、(浦野新八郎を)懇切に処遇すること、よって、香典として緞子(紋織物)五反を贈ること、委細は永昌和尚が御演説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1519号「浦野新八郎殿」宛武田「信玄」書状写)。

17日、西上野先方衆の小幡一党である小幡弁丸(のちに信定を名乗る。小幡弾正左衛門尉信高の嫡男)へ宛てて書状を発し、(昨年12月6日の)駿州蒲原(庵原郡)において、弾正左衛門尉(上野国甘楽郡の国嶺城を本拠とする小幡上総介信実の弟)の討死は、無双の戦功であること、されば、父の存生時のように、知行といい、被官といい、永代にわたって保証すること、いよいよ相続して忠節を励むのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1521号「小幡弁丸殿」宛武田「信玄」判物)。

19日、常陸国太田の佐竹義重(次郎)の使者である江間対馬守(実名は重氏か)へ宛てて証状を発し、たびたび使者として往還は祝着であること、されば、武州の静謐を遂げたうえで、彼の国において相当の地一所を(謝礼として)宛行うこと、つまりは、(佐竹)義重と唯一無二の御入魂の間柄となるように、奔走するのが肝心であること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編三』1523号「江間対馬(守)殿」宛武田「信玄」判物)。

20日、西上野先方衆の原孫次郎(漆原氏。永禄9年に滅亡した箕輪長野氏の旧臣)へ宛てて、自筆の書状を発し、取り急ぎ一筆を染めたこと、南・北和融(越・相一和)が落着し、これについて、(越後国上杉家は)厩橋(上野国群馬郡)から河西(利根川西岸)に向かって取出(城砦)を築くようであること、そうなった時には、またとない出馬をして一戦を遂げ、当家の興亡を定めるつもりであること、各々の支度が肝心であること、努めて油断してはならないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1525号「原 孫次郎殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』(東京堂出版)

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