越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国根小屋城(魚沼郡)についての疑問

2013-12-15 15:42:46 | 雑考

 
 越後国魚沼郡堀内(堀之内)地域内にあった根小屋城は、別名を真名板(俎板)平城といい、同地域の宇賀地から起こった宇賀地氏が築き、戦国期には多功肥後守、次いで宇佐美駿河守定満が拠ったと伝わり、かつて城跡の麓に残っていた地名「うすん屋敷」の「うすん」は宇駿ではないかと考えられている。また文書では、文和3年(1354)に「宇加(賀)地城」、天文20年(1551)に「真板倉」として所見され、城主と伝わる多功肥後守と宇佐美定満についても、それぞれ天文年間の初期と後期に堀内地域の領主として所見される。

 ところが、宇佐美定満が根小屋城主であったと考えられる天文年間の後期に、事実上の越後国主である長尾景虎が、堀内地域の隣郷小千谷の領主である平子孫太郎の要望に応じて、多功小三郎(肥後守の子であろう)の遺族が領有していた宇賀地・多功屋敷(堀内)を、あっさりと平子に与えてしまい、宇佐美定満は多功小三郎遺族のため、景虎に再考を嘆願しているのである。それゆえ、天文年間の後期に至っても多功氏が宇賀地・堀内を領有していたのは明らかであり、こうなると根小屋城主は多功と宇佐美で重複してしまう。

 これは両者が根小屋城を共同で管理していたのだろうか、それとも片方は堀内地域内の別の城を要害としていたのだろうか。

※ 宇賀地氏は、越後国蒲原郡加地荘に地頭として入部した佐々木加地氏の一族という説がある。

※ 多功小三郎は、天文17年の長尾晴景と景虎の兄弟間の抗争に際し、宇佐美定満に同調して景虎を支持するも戦死したらしい。


『越後入廣瀬村編年史 中世』◆『日本歴史地名大系第十五巻 新潟県の地名』(平凡社) ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』17号 宇佐美定満書状(写)、18号 本庄実乃書状(写)、21号 金子尚綱書状(写)、51号 宇佐美定満書状(写)、61号 加地定次書状(写)、96・100号 宇佐美定満書状(写)、231号 長尾景虎書状(写)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする