永正4年8月に越後守護代長尾為景は、主君の越後守護上杉房能を討ち滅ぼしたところ、同年11月に越後奥郡国衆の本庄輔長(三河入道)・色部昌長・竹俣清綱らが反乱を起こしたので、これらを与党の越後奥郡国衆の中条藤資らに鎮圧させた。ところが、翌永正5年5月に本庄輔長・色部昌長らが再挙すると、越後各地で反為景派が一斉に蜂起し、色部昌長が関東管領山内上杉顕定(号可諄。房能の兄)に支援を求める事態へと発展した。
すると長尾為景は、越後国上杉家の譜代衆である長尾長景・斎藤昌信・毛利新左衛門尉・宇佐美房忠、越後奥郡国衆の中条藤資・安田但馬守、越後国蔵王堂城衆・同三条城衆・同護摩堂城衆らを味方につけ、越後国上杉家の一族衆である八条修理亮・同左衛門尉・上条定憲、同譜代衆の上田長尾顕吉(山内上杉家の越後に於ける代官でもある)・古志長尾房景・桃井讃岐守・石川駿河守(駿河入道)・平子牛法師・発智六郎右衛門尉・毛利広春・山吉孫次郎(孫四郎であろう)、越後奥郡国衆の本庄輔長・色部昌長・竹俣清綱ら反抗勢力に立ち向かい、永正6年の初夏には、これら反為景方の求めに応じた山内上杉憲房が越後に侵攻してきたので、味方につけた信濃国衆の小笠原長棟・市川甲斐守・泉信濃介・高梨政盛らを頼み、魚沼郡妻有荘の地で迎撃して勝利を得た。
しかし、同年7月、その報復のために自ら軍勢を率いて越後に攻め込んできた山内上杉顕定により、信濃勢が蹴散らされて戦線が崩壊したことから、推戴する新守護の上杉定実を連れて越中へと逃亡した。
こうして越府を制圧した上杉顕定・憲房父子ではあったが、越後の統治は思うように進まなかったばかりか、長尾為景の盛り返しに加え、関東に於ける相州伊勢宗瑞と叛臣・長尾景春の動向に苦慮するところとなり、永正7年2月、山吉孫五郎(孫四郎であろう)に対して、戦忠を尽くせば恩賞は望みのままであることを、再三に亘って示すなど、必死に陣営の引き締めを図っている。結局、同年6月12日に越後国刈羽郡椎谷の為景本陣の攻撃に失敗し、為景軍の猛反撃を受けて敗走すると、同20日に越後国魚沼郡長森原の地で補足された顕定は戦死してしまい、辛くも難を逃れた憲房は上州へと去っている。
このように、越後国上杉家の蒲原郡司及び、越後国蒲原郡三条城主の山吉孫四郎は、反為景陣営に属していたことが分かる。山吉氏といえば、かって蒲原郡司であった長尾氏の譜代家臣で、その長尾氏が守護代として上府したのに替わり、郡司職と三条城主を引き継いだと伝わっていることから、つねに山吉氏は守護代長尾家に忠節を尽くしていた印象が強く、この事実に気が付いた時は意外に感じた。しかし、考えてみれば山吉氏とて独立した領主であり、一旦戦乱が起これば、自らの存続を図って、反為景派に属することは至極当然な対応であった。そして、興味深いことに、三条城代の山吉能盛らは、当主の山吉孫四郎に同調せず、為景を支持したのである。こうした府内に常駐する当主と城代らの対応が分かれる事態は、上杉謙信没後の御館の乱に於いても顕著な現象であった。
こうして分裂した山吉氏であったが、城代以下の功績によるものなのか、山吉孫四郎の寝返りが効果的だったからなのか、これまで通りの体制で山吉氏の存続が認められている。ただし、永正16年に初見される山吉孫四郎政久(丹波守。丹波入道。恕称軒政応)と同一人物であるのかは分からない。
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