越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉輝虎(政虎)期の越後衆一覧 【3】

2013-12-24 11:59:28 | 上杉輝虎(政虎)期の越後衆

 旗本衆

 直江大和守景綱(なおえやまとのかみかげつな)
 初名は実綱、次いで政綱を名乗った。仮名は神五郎、官途名は与右兵衛尉を称した。直江掃部入道酒椿の名跡を継いだ。輝虎から二度に亘って一字を賜った。妻は山吉丹波守政久(号政応)の娘か。年寄衆。河田豊前守長親と奉書に連署したのに始まり、時には柿崎和泉守景家、山吉孫次郎豊守、鯵坂清介長実らと年寄三人衆を構成した。柿崎景家と共に駿州今川家、河田長親と共に将軍家、関白近衛家、河州畠山家との間の取次を務めた。単独では能登畠山家、越前国朝倉家、尾州織田家との間の取次を務めた。越後国山東(西古志)郡の与板城主。外様衆・本庄弥次郎繁長の反乱に際し、輝虎の着陣まで譜代衆の柿崎景家と共に越後国瀬波(岩船)郡の村上城攻囲軍の主将を務めた。


 山吉孫次郎豊守(やまよしまごじろうとよもり)
 山吉丹波守政久(号政応)の次男で、早世した兄の名跡を継いだ。年寄衆。河田豊前守長親と奉書に連署したり、時には柿崎和泉守景家、直江大和守景綱(政綱)、鯵坂清介長実らと年寄三人衆を構成した。越後国蒲原郡の三条城主。


 河田豊前守長親(かわだぶぜんのかみながちか)
 官途名は九郎左衛門尉を称した。父は河田伊豆守(実名は憲親、元親と定まらない。謙信期に見える河田実清軒の前身か)。年寄衆。直江大和守実綱(政綱。景綱)、次いで北条丹後守高広、山吉孫次郎豊守らと奉書に連署した。直江政綱と共に将軍家、河州畠山家、山吉豊守と共に常陸国衆の佐竹氏の客将である太田氏との間の取次を務めた。単独では飛州姉小路三木家、沼田城代として関東味方中との間の取次を務めた。越後国古志郡の栖吉城主か。上野国利根郡の沼田城代を経て越中国新川郡の魚津城代となった。


 鰺坂清介長実(あじさかせいすけながざね)
 上杉謙信期の天正4年11月には備中守を称する。年寄衆。時には直江大和守政綱、山吉孫次郎豊守らと年寄三人衆を構成した。


 吉江織部佑景資(よしえおりべのすけかげすけ)
 初名は長資を名乗った。仮名は与橘を称したか。妻は河田窓隣軒喜楽の娘か。年寄衆。


 松本石見守景繁(まつもといわみのかみかげしげ)
 輝虎から越後国長尾家に縁の一字を賜ったか。永禄4年9月の甲州武田軍との信濃国川中嶋合戦において部将としての勲功を挙げた松本大学助(実名は忠繁か)の後身か。越後国山東(西古志)郡の小木(荻)城主。永禄9年冬から同12年夏までの間、上野国利根郡の沼田城将を務めた。その花押形は、関東代官で上野国厩橋城代の譜代衆・北条丹後守高広が用いた花押の影響が見て取れる。


 河田伯耆守重親(かわだほうきのかみしげちか)
 仮名は新四郎を称したか。河田豊前守長親の叔父。松本石見守景繁を筆頭とする沼田城衆の一員として上野国利根郡の沼田城に在番し、松本景繁が城将を退任すると、輝虎から後任に指名された。


 本庄新左衛門尉(ほんじょうしんざえもんのじょう)
 実名不詳。仮名は玖介であろう。父は本庄新左衛門尉実乃(新左衛門入道・美作入道。号宗緩)。越後国古志郡の栃尾城主。


 本庄清七郎(ほんじょうせいしちろう)
 実名は綱秀と伝わる。本庄実乃の次男で、早世した兄の名跡を継いだ。越後国古志郡の栃尾城主。


 金津新右兵衛尉(かなづしんびょうえのじょう)
 実名は弘雅と伝わる。輝虎の乳母夫と伝わっており、輝虎にとって、本庄美作入道宗緩・吉江中務丞忠景と並び、心情を吐露できる老将であったことからすると、信憑性は高い。輝虎の関東在陣中、越府留守将に対する旗本検見衆の一員であったりした。


 吉江佐渡守忠景(よしえさどのかみただかげ)
 官途名は中務丞を称した。越後国蒲原郡の吉江城主か。輝虎にとって、本庄美作入道宗緩・金津新右兵衛尉と並び、心情を吐露できる老将であった。輝虎の関東在陣中、越府留守将に対する旗本検見衆の一員であったりした。永禄9年春から同10年冬までの間、下野国安蘇郡の唐沢山城将を務めた。


 吉江喜四郎資賢(よしえきしろうすけかた)
 のちに信景を名乗る。


 荻原伊賀守(おぎわらいがのかみ)
 実名不詳。官途名は掃部助を称した。輝虎の関東在陣中に直江大和守政綱と共に越府留守将に対する旗本検見をよく務めたりした。永禄10年春から同年冬までの間、外様衆の色部修理進勝長と共に、吉江佐渡守忠景を筆頭とする唐沢山城衆の増援として下野国安蘇郡の唐沢山城に在番した。


 三潴出羽守長政(みづまでわのかみながまさ)
 母は外様衆・新発田氏の娘か。越後国蒲原郡の中目城主。


 三潴左近大夫(みづまさこんのだいぶ)
 実名は長能と伝わる。三潴出羽守長政の世子。反乱を起こした外様衆の本庄弥次郎繁長が同族の鮎川孫次郎盛長の居城を奪取すると、輝虎の命を受けて鮎川盛長と越後国瀬波(岩船)郡の庄厳(笹平)城に拠り、本庄繁長の拠る越後国瀬波(岩船)郡の村上城に対抗した。


 河田窓隣軒喜楽(かわだそうりんけんきらく)
 河田対馬守貞政の後身で、信濃衆・高梨氏の旧臣であろう。


 河田対馬守吉久(かわだつしまのかみよしひさ)
 上杉謙信期の元亀3年から見えるので、おそらく上杉輝虎期には活動していたであろう。河田窓隣軒喜楽の世子。


 小中大蔵丞(こなかおおくらのじょう)
 実名は光清か。もとは上野国利根郡根利の地衆。上杉輝虎が永禄6年冬から翌7年春にかけて挙行した関東遠征において、越府留守将に対する旗本検見衆の一員であった。永禄10年夏頃から松本石見守景繁を筆頭とする上野国利根郡の沼田城の城衆として見える。譜代衆・北条毛利氏の一族である北条右衛門尉親富(源八郎。長門守)の子か孫に娘が嫁いだ。


 小中彦右兵衛尉(こなかひこびょうえのじょう)
 実名は清職か。小中大蔵丞(光清か)の弟。永禄12年3月に病身の兄の許へ派遣された。


 堀江駿河守(ほりえするがのかみ)
 実名は宗親と伝わる。長尾為景の功臣であった山村若狭守(藤三)の三男という伝承がある。この堀江氏は越前国から移ってきた可能性がある。上杉輝虎による永禄7年秋から冬にかけての信濃国川中嶋陣では、戦線が膠着状態に入ったことから同国飯山城まで後退した輝虎の指示を受け、岩船藤左衛門尉と共に最前線の陣城に拠って、甲州武田軍の動向を注視し、冬に輝虎が帰陣すると、さらに指示を受けて、しばらく飯山地域に留まり、横目として甲州武田軍の動向を注視し続けた。


 楡井治部少輔(にれいぢぶのしょう)
 実名は光親と伝わる。仮名は又三郎であろう。父は天文11年8月28日に死去した修理亮(信高静賢居士)であろう。越後国魚沼郡の桐沢城主と伝わる。


 河隅三郎左衛門尉忠清(かわすみさぶろうざえもんのじょうただきよ)
 奉行衆。長尾景虎期に見える河隅藤七の後身か。


 飯田孫右衛門尉長家(いいだまごえもんのじょうながいえ)
 奉行衆。長尾景虎期に見える飯田藤六の後身か。


 五十嵐 盛惟(いからし・いがらし もりこれ・もりただ)
 官途名は主計助か。もとは古志長尾氏の被官。奉行衆。


 庄田隼人佑(しょうだはやとのすけ)
 実名は秀直と伝わる。もとは古志長尾氏の被官。


 本田右近允(ほんだうこんのじょう)
 実名は長定と伝わる。永禄4年の信濃国川中嶋合戦において勲功を挙げた。上杉輝虎が永禄6年冬から翌7年夏にかけて挙行した関東遠征において、越府留守将に対する旗本検見衆の一員であった。


 高梨修理亮(たかなししゅりのすけ)
 実名不詳。上杉輝虎が永禄6年冬から翌7年夏にかけて挙行した輝虎の関東遠征において、越府留守将に対する旗本検見衆の一員であった。


 吉江民部少輔(よしえみんぶのしょう)
 実名は景淳と伝わる。吉江佐渡守忠景の一族か。上杉輝虎が永禄6年冬から翌7年夏にかけて挙行した関東遠征において、越府留守将に対する旗本検見衆の一員であった。


 吉江玄蕃允(よしえげんばのじょう)
 実名は景利と伝わる。吉江忠景の一族か。永禄9年の越中陣において勲功を挙げた。


 小野主計助(おのかずえのすけ)
 実名不詳。上杉輝虎が永禄10年秋に信濃国川中嶋へ出馬したなかで、譜代衆の斎藤下野守朝信、信濃衆の赤見六郎左衛門尉と共に越後国頸城郡の祢知城の城衆を務めていた。そのほか、関東在陣中の輝虎の指示を受け、越府の留守将である上田長尾越前守政景の許への使者を務めたり、信濃国へ出馬する輝虎の指示を受け、輝虎から上野国西郡での在陣を求められた関東代官の北条丹後守高広と関東味方中たちに対する遣使を務めたりした。


 行方六右衛門尉(なめかたろくえもんのじょう)
 実名は兼刑と伝わる。横目を務めた。


 開発中務丞(かいほつなかつかさのじょう)
 実名不詳。仮名は三介を称した。常陸国太田の佐竹氏の許への使者を務めた。


 林平右衛門尉(はやしへいえもんのじょう)
 実名不詳。越前国朝倉家、武蔵国衆・河田谷(木戸)氏、上野国衆・倉賀野氏の許への使者を務めた。


 楠川左京亮将綱(くすがわさきょうのすけまさつな・ゆきつな)
 源姓佐々木加地一族と考えられている。上田長尾越前守政景が急逝したあとの一時期、上田衆に対する検見を務めた。永禄7年2月の下野国佐野唐沢山城攻めにおいて上田衆と共に勲功を挙げている。


 草間出羽守(くさまでわのかみ)
 実名不詳。信濃衆・高梨氏の旧臣。越前国朝倉家、飛州姉小路三木家、武蔵国衆・成田氏、下野国衆・小山氏の許への使者を務めた。


 岩船藤左衛門尉(いわふねとうざえもんのじょう)
 実名は忠秀と伝わる。信濃衆・高梨氏の旧臣。上杉輝虎が永禄6年冬から翌7年夏にかけて挙行した関東遠征において、越府留守将に対する旗本検見衆の一員であった。輝虎による永禄7年秋から冬にかけての甲州武田軍との信濃国川中嶋陣では、膠着状態に入って同国飯山城まで後退した輝虎の指示を受け、堀江駿河守と共に前線の陣城に拠って甲州武田軍の動向を注視し、冬に輝虎が帰陣すると、さらに指示を受けて、しばらく飯山地域に留まり、横目として武田軍の動向を注視し続けた。


 岩井大和守(いわいやまとのかみ)
 実名は能歳と伝わる。信濃衆・高梨氏の旧臣。


 岩井備中守昌能(いわいびっちゅうのかみまさよし)
 信濃衆・高梨氏の旧臣。岩井大和守(能歳か)の弟と伝わる。上杉輝虎が永禄7年秋に挙行する信濃国川中嶋陣に先んじて、同年4月に譜代衆の安田惣八郎顕元と共に信濃国水内郡の飯山地域に在陣を命じられた。


 大瀧新兵衛尉(おおたきしんびょうえのじょう)
 実名は信安と伝わる。信濃衆・高梨氏の旧臣。


 羽田六介(はたろくすけ)
 実名不詳。信濃国出身と伝わる。


 岡田但馬守(おかだたじまのかみ)
 実名は重堯と伝わる。信濃国出身で、輝虎の実父である越後守護代長尾為景に仕えたという。永禄4年9月の甲州武田軍との信濃国川中嶋合戦において勲功を挙げた。


 蔵田兵部左衛門尉(くらたひょうぶざえもんのじょう)
 実名は正綱と伝わる。府内代官・蔵田五郎左衛門尉の一族。


 諏方左近允(すわさこんのじょう)
 実名不詳。上杉輝虎から永禄11年初頭、譜代衆の山岸隼人佑(実名は光重か)と共に、松本石見守景繁を筆頭とする沼田城衆への加勢として上野国利根郡の沼田城に在陣を命じられた。


 萩原主膳允(はぎわらしゅぜんのじょう)
 実名不詳。苗字は荻原の可能性がある。下野国衆・那須氏の許への使者を務めた。


 吉田美濃入道(よしだみのにゅうどう)
 法号不詳。受領名は美濃守を称した。信濃衆・高梨氏の旧臣か。奥州会津の蘆名家の許への使者を務めた。


 香西治部少輔(こうざいぢぶのしょう)
 実名不詳。房州里見家の許への使者を務めた。


 黒江修理進(くろえしゅりのじょう)
 実名不詳。出羽国檜山の安東氏の許への使者を務めた。


 真壁越中守(まかべえっちゅうのかみ)
 実名不詳。羽州米沢の伊達家に従属する出羽国衆・上郡山氏の許への使者を務めた。


 富所隼人佐(とみどころはやとのすけ)
 実名は重則と伝わる。のちに伯耆守を称するか。松木内匠助(秀朝か)と横目や作事奉行を務めた。源姓高松一族と伝わる。


 松木内匠助(まつきたくみのすけ)
 実名は秀朝と伝わる。富所隼人佐(実名は重則か)と横目や作事奉行を務めた。信濃国水内郡の出身で、本姓が泉氏と伝わるから、甲州武田家に敗れて本領を失った信濃国衆の高梨氏の旧臣であろう。


 蓼沼藤五郎泰重(たでぬまとうごろうやすしげ)
 下野国衆・佐野氏の旧臣と伝わる。


 大石右衛門尉(おおいしえもんのじょう)
 実名不詳。常陸国太田の佐竹氏の許への使者を務めた。


 大石右馬允(おおいしうまのじょう)
 実名不詳。仮名は源助を称した。下総国関宿の簗田氏の許への使者を務めた。


 楡井修理亮親忠(にれいしゅりのすけちかただ)
 楡井治部少輔(実名は光親か)の嗣子。


 後藤左京亮勝元(ごとうさきょうのすけかつもと)
 仮名は新六を称したか。羽州米沢の伊達家、奥州会津の蘆名家、下総国結城の結城氏の許への使者を務めた。


 進藤隼人佑家清(しんどうはやとのすけいえきよ)
 相州北条家、出羽国大浦の大宝寺氏の許への使者を務めた。


 大石惣介芳綱(おおいしそうすけよしつな)
 輝虎の養父である山内上杉光徹(憲政)の旧臣。相州北条家の許への使者を務めた。藤原姓宇都宮一族か。


 大石小次郎(おおいしこじろう)
 大石惣介芳綱の兄。


 大石藤右衛門尉(おおいしとうえもんのじょう)
 仮名は与三郎、実名は綱高と伝わる。大石惣介芳綱の兄か。


 堀江玄蕃允(ほりえげんばのじょう)
 実名不詳。堀江駿河守の嗣子か。相州北条家の許への使者を務めた。のちに上杉三郎景虎の直臣団に配属されている。


 須田弥兵衛尉(すだやびょうえのじょう)
 実名不詳。相州北条家の許への使者を務めた。


 小林土佐守(こばやしとさのかみ)
 実名不詳。相州北条家の許への使者を務めた。


 鶴木 某(つるき)
 実名、通称は不詳。苗字は弦木とも。相州北条家の許への使者を務めた。


 渡辺城左衛門尉(わたなべじょうざえもんのじょう)
 実名不詳。のちに越中守を称するか。もとは古志長尾氏の被官か。


 太田九右衛門尉(おおたきゅうえもんのじょう)
 実名は信能と伝わる。のちに式部少輔を称する。父は太田式部少輔資信という。譜代衆・長尾小四郎景直の配下から転属したと伝わる。


 神余隼人佑(かなまりはやとのすけ)
 実名不詳。仮名は小次郎を称した。父は神余隼人佑実綱(越前守昌綱の世子)。この神余実綱には天文元年に当時7才の男児がおり、これが隼人佑であれば、大永6年頃に生まれたことになる。もとは在京雑掌を務めていた。嫡男に神余小次郎親綱がいる。


 新保清右衛門尉秀種(しんぼせいえもんのじょうひでたね)
 越前国朝倉家の許への使者を務めた。


 村田忠右衛門尉秀頼(むらたちゅうえもんのじょうひでより)
 源姓新田岩松一族。


 毛利名左衛門尉秀広(もうりなざえもんのじょうひでひろ)
 大江姓安田毛利一族。

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