越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉輝虎(政虎)期の越後衆一覧 【1】

2013-12-22 17:05:34 | 上杉輝虎(政虎)期の越後衆


 一家衆

 上杉十郎(うえすぎじゅうろう)
 実名は景満と伝わる。上杉輝虎期に、輝虎以外では唯一、上杉名字を名乗ることを許された人物である。父は古志長尾右京亮景信。長尾景信は元亀元年6月2日に57歳で死去したと伝わる。


 山本寺伊予守定長(さんぽうじいよのかみさだなが)
 前代の山本寺陸奥守定種(又四郎)は、上条播磨守定憲(憲定。弥五郎)と協力して長尾為景と戦った。母は為景の妹(法名は異天玄忠大姉)か。妻は外様衆・小河右衛門佐長資(長尾景虎期の天文22年に甥の本庄弥次郎繁長によって自害させられ、本庄氏の実権を取り返された)の娘と伝わる。越後国頸城郡の不動山城主。


 桃井伊豆守義孝(もものいいずのかみよしたか)
 官途名は右馬助を称した。上杉定実・長尾為景期の享禄4年にみえる桃井伊豆守義孝の世子であろうから、父と同じ義孝と名付けられ、永禄4年の初めには伊豆守を称している。越後国頸城郡の鳥(富)坂城主と伝わる。永禄9年秋に外様衆の加地安芸守と共に信濃国水内郡の飯山城に在番した。


 山浦 某(やまうら)
 実名、通称は不詳。この頃の山浦氏をとして、主税入道頼親と源五頼長を伝えるものもあるが、どちらも当事の文書では確認できない。越後国蒲原郡の笹岡城主。


 上条 某(じょうじょう)
 天文22年に死去した上条惣五郎頼房と、元亀年間から活動が見られる上条弥五郎政繁(能州畠山義続(号悳祐)の末男といい、輝虎の肝煎りによって上杉上条家に入嗣した)の間に上条家の当主であった人物。永禄8年に鵜川荘柏崎鯨波の妙智寺に土地を寄進した「小せうしゃう(小少将)」は、「じゃうてうのかみさま(上条の上様。法名は光妙智大姉)」と呼称された輝虎の姉であり、上条某の妻であったと思われる。この人物は早世してしまったようなので、小少将がしばらく家政を取り仕切っていた可能性があろう。越後国刈羽郡の上条(黒滝)城主。


 琵琶嶋 某(びわじま)
 上杉謙信期に元亀4年に琵琶嶋弥七郎が見えるから、すでに輝虎期には活動していた可能性がある。弥七郎の実名は政勝であろう。関東三長尾氏の一つである白井長尾氏の出身で弥七郎景通を名乗ったと伝えるものもあるが、当事の文書では確認できない。越後国刈羽郡の琵琶嶋城主。



 奥郡国衆(阿賀北の外様衆)

 中条越前守(なかじょうえちぜんのかみ)
 実名は房資、次いで上杉輝虎から越後国長尾家に縁の「景」の一字を与えられて景資に改めたようである。仮名は弥三郎を称した。父は中条弾正忠。祖父の中条越前守藤資(弥三郎。弾正左衛門尉)は長尾為景と縁戚関係にあったが、どのような続き柄であったのかは分からない。妻は信濃衆・高梨刑部大輔政頼(長尾景虎期に、甲州武田信玄の信濃国侵攻により、中野領を失なって越後国に亡命した。永禄3年には世子の源太に代わっている)の娘(輝虎の養女)と伝わる。永禄4年9月の甲州武田軍との信濃国川中嶋合戦において部将としての勲功を挙げた。越後国蒲原郡の鳥坂城主。


 黒川四郎次郎平政(くろかわしろうじろうひらまさ)
 幼名は竹福丸を称した。永禄10年に元服している。父は黒川下野守(実名は平実であろう)。越後国蒲原郡の黒川城主。


 本庄弥次郎繁長(ほんじょうやじろうしげなが)
 幼名は千代猪丸を称した。雨順斎全長。父は本庄大和守房長(対馬守)。妻は古志長尾右京亮景信の娘と伝わる。越後国瀬波(岩船)郡の村上城主。甲州武田・相州北条陣営に通じて反乱を起こすが失敗に終わり、出家して越後国瀬波(岩船)郡の猿沢城に蟄居するとともに、嫡男の千代丸を人質として越府に差し出した。千代丸は、おそらく謙信期に元服し、謙信から山内上杉家に縁の「顕」の一字を賜り、新六郎顕長と名乗る。


 色部修理進勝長(いろべ しゅりのじょう(しん) かつなが)
 仮名は弥三郎を称した。父は色部遠江守憲長(弥三郎)。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主。永禄4年9月の甲州武田軍との信濃国川中嶋合戦と同7年2月の下野国佐野唐沢山城攻略において部将としての勲功を挙げた。永禄10年春から同年冬までの間、旗本衆の荻原伊賀守と共に、旗本衆の吉江佐渡守忠景を筆頭とする唐沢山城衆への加勢として下野国安蘇郡の唐沢山城に在番した。同族である本庄弥次郎繁長が起こした反乱の最中の永禄12年正月10日に陣没した。


 色部弥三郎顕長(いろべやさぶろうあきなが)
 幼名は虎黒丸を称した。色部修理進勝長の世子。永禄7年12月に上杉輝虎から山内上杉家に縁の「顕」の一字を賜った。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主。


 鮎川孫次郎盛長(あゆかわまごじろうもりなが)
 幼名は市黒丸を称した。父は鮎川摂津守清長(号元張)。越後国瀬波(岩船)郡の大葉沢城主。反乱を起こした同族の本庄弥次郎繁長に居城を奪われると、上杉輝虎の命を受けて旗本衆の三潴左近大夫(実名は長能か)と越後国瀬波(岩船)郡の庄厳(笹平)城に拠り、本庄繁長が拠る越後国瀬波(岩船)郡の村上城に対抗した。


 大川三郎次郎長秀(おおかわさぶろうじろうながひで)
 父は大川駿河守忠秀と伝わる。越後国瀬波(岩船)郡の藤懸(府屋)城主。反乱を起こした同族の本庄弥次郎繁長に同調した弟ふたり(孫太郎・藤七郎)によって、一時は居城を占拠された。


 加地安芸守(かぢあきのかみ)
 実名不詳。上杉定実・長尾為景期の享禄4年にみえる加地安芸守春綱の次代であろう。越後国蒲原郡の加地城主。永禄9年秋に一家衆の桃井伊豆守義孝と共に信濃国水内郡の飯山城に在番した。


 加地彦次郎(かぢひこじろう)
 実名は知綱と伝わる。天正3年には安芸守を称している。加地安芸守の世子。上杉輝虎が永禄9年冬に挙行した関東遠征において、同輩の水原蔵人丞・竹俣三河守慶綱、輝虎旗本の富所隼人佑・松木内匠助(この両名は軍監)らと共に遊軍として上・越国境に配備され、翌10年正月に輝虎から関東へ急行するように命じられた。越後国蒲原郡の加地城主。


 新発田尾張守忠敦(しばたおわりのかみただあつ)
 仮名は源次郎を称した。父は上杉定実・長尾為景期に見える新発田源次郎能敦(尾張守を称したか)であろう。越後国蒲原郡の新発田城主。


 新発田右衛門大夫(しばたえもんのだいぶ)
 実名は綱成と伝わる。のちの五十公野右衛門尉重家。父は新発田源次郎能敦の次代である新発田伯耆守綱貞(能敦と綱貞は兄弟の可能性がある)。上杉輝虎(長尾景虎)の小姓を務めたと伝わる。永禄8年冬から同11年冬までの間、旗本衆の松本石見守景繁を筆頭とする沼田城衆の一員として上野国利根郡の沼田城に在番した。


 五十公野玄蕃允(いじみのげんばのじょう)
 上杉定実・長尾為景期の享禄4年にみえる五十公野弥三郎景家と同一人物か。あるいは景家の次代か。越後国蒲原郡の五十公野城主。永禄9年春から翌10年冬までの間、旗本衆の吉江佐渡守忠景と共に下野国安蘇郡の唐沢山城に在番した。その在任中に出奔して相州北条軍に捕らえられてしまうが、すぐに解放されると、望み通りに奥州会津経由で本領に帰った。


 竹俣三河守慶綱(たけのまたみかわのかみよしつな)
 官途名は太郎左衛門尉を称したか。父は竹俣三河守為綱か。竹俣氏は、長尾為景・同晴景父子期に筑後守清綱(式部丞)-筑後守昌綱-式部丞と続いたが、式部丞は天文の乱において進退を誤って長尾父子の怒りを買い、当主が筑後守系から三河守系に代えられたようであり、為綱は式部丞と同時期に文書で確認されるので、実在した人物ではあるが、慶綱との親子関係と三河守の通称は系図でしか確認できず、為綱と式部丞は同一人物という可能性がある。その場合、式部丞の後を受けたのは慶綱となろう。上杉輝虎が永禄9年冬に挙行した関東遠征において、同輩の水原蔵人丞・加地彦次郎、輝虎旗本の富所隼人佑・松木内匠助(この両名は軍監)らと共に遊軍として上・越国境に配備され、翌10年正月に輝虎から関東へ急行するように命じられた。
越後国蒲原郡の竹俣城主。

 水原蔵人丞(すいばらくらんど(くろうど)のじょう)
 実名は実家と伝わる。父は水原壱岐守隆家と伝わるが、この人物は当事の文書では確認できない。上杉輝虎が永禄9年冬に挙行した関東遠征において、同輩の竹俣三河守慶綱・加地彦次郎、輝虎旗本の富所隼人佑・松木内匠助(両名は軍監)らと共に遊軍として上・越国境に配備され、翌10年正月に輝虎から関東へ急行するように命じられた。越後国蒲原郡の水原城主。


 安田治部少輔(やすだぢぶのしょう)
 この時期の治部少輔は、上杉定実と長尾為景・同晴景父子期にみえる長秀とも、すでに世子(通称は新太郎あるいは新八郎か。実名は有重と伝わるが疑わしい)に代替わりしているともいわれ、どちらなのか、よく分からない。越後国蒲原郡の安田城主。永禄4年9月の甲州武田軍との信濃国川中嶋合戦において部将としての勲功を挙げた。


 下条 某(げじょう)
 謙信期の天正3年の初めから下条采女正忠親が見えるので、すでに上杉輝虎期には活動していた可能性がある。忠親は旗本衆・河田豊前守長親の長弟。越後国蒲原郡の下条城主。


 荒川 某(あらかわ)
 謙信期の天正3年の初めに荒川弥次郎が見えるので、すでに上杉輝虎期には活動していた可能性がある。父は荒川伊豆守長実か。越後国蒲原郡の荒川城主。


 垂水源次郎(たるみげんじろう)
 永禄4年9月の甲州武田軍との信濃国川中嶋合戦において部将としての勲功を挙げた。越後国蒲原郡の垂水城主。



 中郡国衆(阿賀南の外様衆)

 菅名 某(すがな)
 上杉謙信期の天正3年の初めに菅名源三が見えるので、すでに上杉輝虎期には活動していた可能性がある。越後国蒲原郡の菅名城主。


 村松山城守(むらまつやましろのかみ)
 実名不詳。越後国蒲原郡の村松城主か。


 平賀左京亮重資(ひらがさきょうのすけしげすけ)
 仮名は助四郎であろう。父は平賀左京進為資と伝わるが、この人物は文書では確認できない。越後国蒲原郡の護摩堂城主。


 新津 某(にいつ)
 上杉謙信期の元亀4年4月に新津大膳亮(実名は資相か)が見えるので、すでに上杉輝虎期には活動していた可能性がある。上杉定実・長尾為景期の大永6年に見える新津上総介景資の次代か。越後国蒲原郡の新津城主。

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