越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

長尾景虎(号宗心)期の越後衆一覧 【3】

2013-12-12 22:37:52 | 長尾景虎(宗心)期の越後衆


 旗本衆(もとは越後国守護上杉家(前上杉氏)の譜代衆、同じく越後国守護代長尾家の譜代衆)

 本庄新左衛門尉実乃(ほんじょうしんざえもんじょうさねゆき)
 天文22年末頃までは庄の名字を用いることが多かった(『上越市史 上杉氏文書集一』19・20・24・53・98・100号)。実名の読みは『越後入広瀬村編年史』の考えによる。天文23年3月から翌24年2月の間に入道して宗緩と号する。上杉輝虎期には美作入道を称している(『上越市史 上杉氏文書集一』347号)。越後国古志郡栃尾城の城主で、天文12年8月頃に景虎を栃尾城に迎える以前は、古志長尾氏の与力であったろう。妻は北条毛利氏の娘らしい(『上越市史 上杉氏文書集一』543号)。弘治2年8月に、もとは越後国守護上杉家の譜代家臣であった奉行人の大熊備前守朝秀が越後国長尾家から離反し、甲州武田家の家臣となってしまうまでのは、小林新右兵衛尉宗吉を加えた三人で奉行衆を構成していた(『上越市史 上杉氏文書集一』24・37・53・98・100・107・109・122号)。ただし、小林については、直江神五郎実綱あるいは新保八郎四郎長重との交代制であった(『上越市史 上杉氏文書集一』100・234号、前者は天文18年、後者は同20年の文書となる。弘治3年10月には長尾景繁・同景憲・直江実綱・吉江長資と五奉行を構成した(『上越市史 上杉氏文書集一』155号)。それから永禄3年5月までの間に隠居し、世子の本庄玖介に家督を譲っている(『上越市史 上杉氏文書集一』206号)。次男の本庄清七郎(実名は綱秀か)は景虎の小姓を務めるという。


 本庄玖介(ほんじょうきゅうすけ)
 実名不詳。本庄新左衛門入道宗緩の世子であり、上杉輝虎期の永禄10年4月に見える本庄新左衛門尉(『上越市史 上杉氏文書集一』506号、年次は永禄10年となる)の前身であろう。遅くとも永禄3年5月までには栃尾衆を率いる立場となっており、宇野左馬允の補佐を受けている(『上越市史 上杉氏文書集一』206号)。越後国古志郡栃尾城の城主。


 山吉恕称軒政応(やまよしじょしょうけんせいおう)
 実名は政久。仮名は孫四郎、受領名は丹波守。丹波入道。父は山吉四郎右兵衛尉正綱(『新潟県史 資料編5』2882・2883号)であろう。実名については、「政」の字は「正」の字と紛らわしい事例があるそうなので、「政綱」の可能性もあろう。平姓池一族と伝わる。越後国蒲原郡司。越後国蒲原郡三条城の城主。永正16年4月19日に「山吉孫四郎政久」(『新潟県史 資料編3』451号)、大永7年5月25日に「山吉丹波守政久」(同前452号)、天文21年6月18日には「山吉丹波入道政応」(『上越市史 上杉氏文書集一』81号)、同年7月16日には「恕称軒政応」(『上越市史 上杉氏文書集一』92号)と見え、同年4月3日に「政応」(『新潟県史 資料編5
』2666号)と見えるので、これ以前に入道したことになる。天文21年6月頃より蒲原郡司の立場から揚北衆の中条氏と黒川氏の間の抗争を調停している(『上越市史 上杉氏文書集』81・83・84号)、それから12月初めの間に体調を崩したようで、家督を嫡男の孫四郎に譲っている(『上越市史 上杉氏文書集』99号)。次男(のちの山吉孫次郎豊守)は景虎の小姓を務めたという。翌22年7月20日に死去しており、その供養を一族の山吉但馬守(孫右衛門尉景盛の後身か)が高野山清浄心院に依頼している。法名は月清政応(高野山清浄心院「越後過去名簿」)。

 山吉孫四郎(やまよしまごしろう)
 「越後三条山吉家伝記之写」(『三条市史 資料編 第二巻』)に所収されている天文22年前後と思しき証状を被官の西海枝右馬助と同又八郎のそれぞれへ発給している「景久」に当たるであろう。山吉恕称軒政応(丹波守政久)の世子である。越後国蒲原郡司。越後国蒲原郡三条城の城主。天文21年12月以前に父から家督と蒲原郡司を譲られ、外様衆間の抗争の調停を引き継いだ(『上越市史 上杉氏文書集一』99号)。永禄元年9月22日に早世しており、その供養が高野山清浄心院に六貫五百文で依頼されている。法名は香雲宗清禅定門(高野山清浄心院「越後過去名簿」)。


 吉江中務丞忠景(よしえなかつかさのじょうただかげ)
 上杉輝虎期の永禄9年12月下旬に輝虎から佐渡守を与えられる(『上越市史 上杉氏文書集一』544号)。もとは越後国守護上杉家の譜代衆で、屋形上杉定実(号玄清)の側近であった(『上越市史 上杉氏文書集一』20号)。米沢上杉家中の吉江氏の系図によって、古志長尾氏被官系の吉江氏である織部佑景資の叔父として記されている吉江佐渡守信清に当たると考えられているが、系図は明らかに誤っており、両吉江氏は同根ではあっても、はやくに分かれている。平姓大河戸一族と伝わる。越後国蒲原郡吉江城の城主か。


 直江与右兵衛尉実綱(なおえよびょうえのじょうさねつな)
 仮名は神五郎(『上越市史 上杉氏文書集一』98号)。天文21年10月から天文24年正月の間に与右兵衛尉を称する(『上越市史 上杉氏文書集一』121・122号)。のちに大和守政綱、景綱を名乗る。越後国守護上杉家の譜代衆・直江掃部入道酒椿(『上越市史 上杉氏文書集一』7・8・119号 ● 高野山清浄心院「越後過去名簿」)の世子である。本庄実乃・大熊朝秀・小林宗吉で構成された奉行衆のうち、時に小林と替わり、直江実綱か新保長重のどちらかが三奉行に列する場合があった(『上越市史 上杉氏文書集一』98・100・234号)。その新保とは花押形が酷似している(『武州文書』)。神姓諏方一族と伝わる。越後国山東(西古志)郡の与板城主。景虎の第一次関東遠征に際し、吉江織部佑景資・荻原掃部助と共に、越府留守将の桃井右馬助義孝・黒川竹福丸・柿崎和泉守景家・長尾小四郎景直・同源五たちに対する旗本検見(監察)を務めている(『上越市史 上杉氏文書集一』211号)。翌4年2月に景虎から関東陣へ呼び寄せられる(『上越市史 上杉氏文書集一』253号)。


 松本河内守(まつもとかわちのかみ)
 実名不詳。天文18年11月、河内守が領有する西古志(山東)郡山俣の地は、長尾晴景と景虎兄弟抗争時に景虎方に味方して功績のあった小千谷の平子孫太郎の旧領(天文の乱時に没収されたらしい)であり、景虎は平子の懇望を受けて、河内守に平子へ引き渡すように申し渡したが、河内守は受け入れなかった(『上越市史 上杉氏文書集一』22・23・24号)。先祖は信濃国筑摩郡松本の地から移ってきたと伝わる。越後国山東(西古志)郡の小木(荻)城主。


 松本大学助(まつもとだいがくのすけ)
 実名は忠繁と伝わる。上杉輝虎期に見える松本石見守景繁は、この大学助の前身か、次代に当たるであろう。松本河内守の世子であるならば、越後国山東(西古志)郡の小木(荻)城主となる。


 小林新右兵衛尉宗吉(こばやししんびょうえのじょうむねよし)
 もとは越後国守護上杉家の譜代衆か。本庄実乃・大熊朝秀の三人で奉行衆(三奉行)を構成した。ただし、時に小林宗吉だけは、直江実綱か新保長重のどちらかと交替する場合があった。天文20年7月に母(孝如妙忠)が死去しており、その供養を高野山清浄心院に依頼している。


 新保八郎四郎長重(しんぼはちろうしろうながしげ)
 越後国守護上杉定実(号玄清)・同国守護代長尾為景父子期に、長尾政権の奉行として黒田和泉守秀忠と並ぶ実力者であった新保勘解由左衛門尉景重(初めは吉田孫左衛門尉景重を名乗っていた)の次代に当たる。新保景重・黒田秀忠以前の両氏は、もともと越後国上杉家譜代の重臣であった。恐らく長重は景重の息子であろう。実名の「長」の一字は晴景か景虎から頂戴したものと思われる。本庄実乃・大熊朝秀・小林宗吉の三人で構成された奉行衆のうち、時に小林と替わり、新保長重か直江実綱のどちらかが三奉行に列する場合があった。同輩の直江とは花押形が酷似している。時期は不明であるが早世しており、景虎(上杉輝虎)はその死を悼んで供養を長尾家の菩提寺である林泉寺に頼んだ。法名は不識光珎禅定門。

 下条新右衛門尉茂勝(げじょうしんえもんのじょうもちかつ・しげかつ)
 もとは古志長尾氏の被官である。長尾晴景と景虎の兄弟抗争が起こり、上杉定実の調停によって弟の景虎が守護代長尾家の当主となった直後から出頭人として見える。


 吉江木工助茂高(よしえもくのすけもちたか・しげたか)
 もとは古志長尾氏の被官である。出頭人。平姓大河戸一族と伝わる。時期は不明であるが、景虎(上杉輝虎)はその死を悼んで供養を林泉寺に頼んだ。法名は覚阿弥陀仏。


 吉江織部佑景資(よしえおりべのすけかげすけ)
 初名は長資。仮名は与橘か。吉江木工助茂高の世子である。景虎から越後国長尾家にゆかりの「長」、続けて「景」の一字を与えられており、直江大和守景綱と同様、二度に亘って偏諱を頂戴した側近家臣である。公銭方。景虎の第一次関東遠征に際し、直江与右兵衛尉実綱・荻原掃部助と共に、越府留守将たちに対する旗本検見(監察)を務めている。


 庄田惣左衛門尉定賢(しょうだそうざえもんのじょうさだかた)
 もとは古志長尾氏の被官であった。公銭方。天文21年春に関東管領山内上杉憲政(憲当。号成悦)が相州北条氏康の攻勢に屈し、景虎を頼って越後国に逃げ込み、同年秋に関東復帰を図ると、景虎の命により、小千谷の平子孫太郎らと共に加勢として憲政に同行する。


 村田次郎右衛門尉(むらたじろうえもんのじょう)
 実名不詳。系図では、上杉輝虎期の村田忠右衛門尉秀頼に連なる次郎左衛門尉が載っており、村田秀頼の父祖のように見えるが、越後衆たちの系図には別系の同名を混ぜ合わせてしまっているものが幾つも見受けられ、輝虎の次代である上杉景勝期に秀頼(大隅守)と次郎左衛門尉が別々に見えるので、両村田氏は同根であったとしても別系の可能性がある。


 小越平左衛門尉(おごしへいざえもんのじょう)
 実名不詳。もとは古志長尾氏の被官である。


 平林 某(ひらばやし)
 通称・実名不詳。

 山田修理亮長秀(やまだしゅりのすけながひで)
 初めは多飯地(大石か)氏であったと伝わる。もとは古志長尾氏の被官か。上杉輝虎期には年寄衆の河田豊前守長親の重臣として見える。


 高梨 某(たかなし)
 上杉輝虎の近臣に高梨修理亮がいるので、その前身となる人物がいたはずである。この高梨氏は信濃国衆の高梨氏からはやくに分かれたものであり、上杉定実・長尾為景期には越後国衆の高梨駿河守がいたので、駿河守の子か孫に当たるか。


 荻原掃部助(おぎわらかもんのすけ)
 実名不詳。上杉政虎期の永禄4年10月には伊賀守を称している。長尾為景の功臣であった山村若狭守(藤三)の次男という伝承がある。天文22年5月8日に親族が死去しており、その供養を高野山清浄心院に依頼している。頸城郡の上郷に本領を有していたらしい。永禄2年に景虎が将軍警護のためと称した上洛に同行している。翌年に景虎が挙行した第一次関東遠征に際し、直江与右兵衛尉実綱・吉江織部佑景資と共に、越府留守将たちに対する旗本検見(監察)を務めている。


 新保清右衛門尉秀種(しんぼせいえもんのじょうひでたね)
 永禄3年5月10日に父(感林道久禅定門)が死去しており、その供養を高野山清浄心院に依頼している。


 三潴出羽守長政(みづまでわのかみながまさ)
 先祖は筑後国三潴郡三潴荘から移ってきたと伝わる。越後国蒲原郡の中目城主である。天文22年8月朔日に母(傑叟莫公大姉)が死去しており、その供養を高野山清浄心院に依頼している。


 楡井又三郎(にれいまたさぶろう)
 のちの治部少輔であろう。源姓村上一族か。もとは越後国守護上杉家の譜代衆である。越後国魚沼郡の桐沢城主か。天文23年5月12日に親族(齢松妙壽)の十三回忌供養を高野山清浄心院に依頼している。


 大石右馬允(おおいしうまのじょう)
 実名不詳。越後由来の大石氏か。永禄2年(12月8日か)に死去し、遺族によって供養が高野山清浄心院に依頼されており、時期は分からないが、景虎(上杉輝虎)も供養を林泉寺に頼んだ。法名は笑山常喜禅定門。


 大石源助(おおいしげんすけ)
 実名不詳。大石右馬允の嗣子。この源助ものちに右馬允を称する。


 船見宮内少輔(ふなみくないのしょう)
 実名不詳。越中国新川郡船見の地に由来する船見氏か。越後国守護上杉定実(号玄清)・同国守護代長尾景虎期の天文18年12月に「内之御座敷番」を仰せ付けられ、中里小六郎を責任者とする三番組に配されている。永禄年間に死去したか。上杉輝虎が供養を林泉寺に頼んだ「ふなみ」(華翁道雪禅定門)は、恐らくこの宮内少輔であろう。


 鹿嶋彦九郎(かしまひこくろう)
 実名不詳。越後国守護上杉定実・同国守護代長尾晴景期の天文16年正月12日に親族が死去しており、その供養を高野山清浄心院に依頼している。春日山在住であるから、景虎の旗本と考えて相違あるまい。天文18年12月に「内之御座敷番」を仰せ付けられ、於木次郎四郎を責任者とする六番組に配されている。上杉謙信期の鹿嶋蔵人は彦九郎の前身か次代に当たるか。


 河村孫六(かわむらまごろく)
 実名不詳。天文17年8月に母が、同じく9月には妻が高野山清浄心院に逆修供養を依頼している。春日山在住というから、景虎の旗本と考えて相違あるまい。上杉謙信期の河村孫六郎は次代であろう。


 鰺坂与次(あじさかよじ)
 先祖は筑後国御井郡鰺坂荘から移ってきたと伝わる。天文22年6月8日に母が死去しており、その供養を高野山清浄心院に依頼している。


 小嶋 某(こじま)
 上杉謙信の近臣に小嶋某がいるので、その前身となる人物がいたはずである。天文22年7月23日に重阿弥、同年11月27日に衆一房の供養を高野山清浄心院に依頼している小嶋弥三は、府内に本領を有しているから、景虎の旗本であろう。上杉定実・長尾為景期の永正年間半ばに古志長尾氏の与力であった小嶋源三郎重隆がおり、景虎は一時期、古志長尾氏を継いでいたことと、古志長尾氏の関係者には時衆信者が多いことからして、弥三は小嶋重隆に連なる人物と思われるが、謙信期の小嶋某の前身であるのかは分からない。


 梅津宗三(うめづそうぞう)
 天文22年11月16日に自身の逆修供養を高野山清浄心院に依頼している。その時の法名は軏山宗光。時期は分からないが、上杉輝虎はその死を悼んで供養を林泉寺に頼んだ。智光宗円禅定門。


 本田右近允(ほんだうこんのじょう)
 実名は長定・重政と定まらない。長定の方が正しければ、「長」の一字は景虎から頂戴したのであろう。景虎が山内上杉家を継いで上杉政虎と名を改めたのちの永禄4年9月11日、前日に行われた信濃国川中嶋の戦いにおける馬廻としての働きを評価されて感状を賜ることになる。天文22年8月12日に死去した関係者の供養を高野山清浄心院に依頼している府内の本田新助は右近允の前身か。


 小林左京進(こばやしさきょうしん・さきょうのじょう)
 もとは越後国守護上杉家の譜代衆であろうから、天文19年の主家断絶に伴い、
景虎の旗本衆に配されたと思われる。天文22年11月16日に関係者(妙心)の逆修供養を高野山清浄心院に依頼している。


 蔵田宗六(くらたそうろく)
 天文23年2月17日に関係者(快月清雲)の供養を高野山清浄心院に依頼しており、府内在住というから、景虎の旗本に相違あるまい。伊勢神宮の御師であり、府内代官・蔵奉行を務める蔵田五郎左衛門尉の一族であろう。宗六は、上杉輝虎期に見える蔵田兵部左衛門尉の前身に当たるか。


 宇津江藤左衛門尉(うつえとうざえもんのじょう)
 天文23年2月19日に関係者(明西)の供養を高野山清浄心院に依頼している。謙信期の宇津江若狭守(藤右衛門尉)の前身か父に当たるか。もし、若狹守の前身であるならば、歴代が藤左衛門尉と藤右衛門尉を交互に称したか、誤記したかのどちらかであろう。


 山下修理入道(やましたしゅりにゅうどう・すりにゅうどう)
 永禄3年5月10日に自身の逆修供養をしている。法名は在中光珎禅定門。府内在住というから、景虎の旗本に相違あるまい。謙信期に見える山下某の父に当たるか。


 野島平次左衛門尉(のじまへいじざえもんのじょう)
 実名不詳。越後奥郡国衆・色部氏や出羽国大浦の大宝寺氏の許への使者を務めた。


 若林 某(わかばやし)
 上杉謙信期に見える若林九郎左衛門尉家吉の祖父か父のどちらかに当たるであろう。


 山村右京亮(やまむらうきょうのすけ)
 仮名は藤三。実名は重信とも繁信とも伝わる。父の若狭守(藤三。実名は信重か)は長尾為景の諸戦に従い、特に永正16年冬の北陸遠征で高名を挙げた。その父が天文初年に戦死すると、当時は藤三を称していた右京亮が跡目を継ぎ、越後国天文の乱における同5年4月の頸城郡夷守郷三分一原の戦いで軍功を挙げた。右京亮には二人の弟がいて、それぞれ越後国長尾家の旗本衆に属する荻原氏と堀江氏を継いだという伝承がある。山村氏は初代の安信が南北朝期に京都から刀工の城州信国を招いて師事し、自らも作刀するようになり、以後の当主もそれに倣ったという。越後国頸城郡の青木城主と伝わる。


 諏方 某(すわ)
 上杉輝虎期に見える左近允か。


 相浦 某(あいうら)
 上杉謙信期の相浦主計助の祖父か父のどちらかに当たるであろう。


 荻田掃部助(おぎたかもんのすけ)
 天文20年8月8日に自身の逆修供養を高野山清浄心院に依頼している。法名は明慶善男子。春日山在住というから、景虎の旗本に相違あるまい。近江国北郡の出身と伝わる荻田氏であれば、後年、上杉輝虎が林泉寺に供養を依頼した荻田与三左衛門尉(法名は日山道慧禅定門)の前代に当たるか。


 鋳物師屋 某(いもじや)
 公銭方。越後国守護上杉家の時代に信濃国から移るか。


 富永 某(とみなが)
 上杉謙信期の富永清右兵衛尉(実名は長綱か)の父か。公銭方。


 塚本 某(つかもと)
 後年、上杉輝虎が塚本の母(円窓昌仲大姉)の供養を林泉寺に依頼しており、塚本母子は景虎と親しい間柄であったらしい。


 林 某(はやし)
 上杉輝虎期によく使者を務めた林平右衛門尉がおり、その前身となる人物がいたはずである。


 吉田 某(よしだ)
 のちの美濃守。長尾為景・晴景父子の被官に、越後国頸城郡の直峰城に拠ったとされる吉田周防入道英忠(父は能政)がおり、英忠には源右衛門尉兼政と孫左衛門尉重政(孫七郎)の子がいた。この二人のどちらかが美濃守の前身に当たるか。


 神余隼人入道(かなまりはやとにゅうどう)
 法号不詳。実名は実綱を名乗った。仮名は小次郎、官途名は隼人佑を称した。父は神余越前守昌綱。越後国守護上杉家の京都雑掌を務めていたが、天文末年頃に京都を引き払った。忌部姓神余一族。先祖は安房国安房郡神余郷から出たという。


 神余小次郎(かなまりこじろう)
 実名不詳。のちに隼人佑を称する。神余隼人入道の嗣子。


 金津新右兵衛尉(かなづしんびょうえのじょう)
 実名は弘雅と伝わる。景虎の乳母夫と伝わる。源姓平賀金津一族。


 河田九郎左衛門尉長親(かわだくろうざえもんのじょうながちか)
 のちに豊前守を称する。江州六角佐々木氏の旧臣と伝わる。藤原姓伊東一族か。景虎から越後国長尾家に縁の「長」の一字を頂戴した。小姓衆を経て出頭人となった。


 鰺坂清介長実(あじさかせいすけながざね)
 江州六角佐々木氏の旧臣と伝わる。景虎から越後国長尾家に縁の「長」の一字を頂戴し、鰺坂与次の名跡を継いだか。小姓衆を経て出頭人となるか。


 吉江喜四郎資賢(よしえきしろうすけかた)
 江州六角佐々木氏の旧臣と伝わる。景虎側近の吉江氏の一族に列し、吉江織部佑景資から一字を与えられた。小姓衆を経て出頭人となるか。


 河隅三郎左衛門尉忠清(かわすみさぶろうざえもんのじょうただきよ)
 越後守護代長尾家と古志長尾氏の被官に河隅氏がいて、どちらから出たのかは分からない。天文18年12月に河隅藤七が「内之御座敷番」を仰せ付けられ、寺内新八を責任者とする四番組に配されており、この藤七は河隅忠清の前身かもしれない。

 飯田藤六(いいだとうろく)
 天文18年12月に「内之御座敷番」を仰せ付けられ、吉水小太郎を責任者とする五番組に配されている。この藤六は、上杉輝虎の飯田孫右衛門尉長家の前身かもしれない。

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