越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

長尾景虎(号宗心)期の越後衆一覧 【2】

2013-12-11 22:49:15 | 長尾景虎(宗心)期の越後衆


 中郡国衆(もとは越後守護上杉家(前上杉氏)の譜代衆・外様衆)

 長尾越前守政景(ながおえちぜんのかみまさかげ)
 仮名は六郎を称した。越後国の長尾氏(平姓鎌倉氏)の一つである上田長尾氏。越後国長尾景虎の姉婿。越後国魚沼郡の坂戸城主。


 長尾遠江守藤景(ながおとおとうみのかみふじかげ)
 越後国の長尾氏の一つである下田長尾氏。越後国長尾景虎が永禄2年に大名の家格を得ると、斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条丹後守高広、そして藤景の四人が越後国長尾家の年寄衆に任ぜられ、制令発布などのの文書に署名する。越後国蒲原郡の下田(高)城主。


 長尾 景繁(ながお かげしげ)
 通称不詳。天文20年に山東郡内の庄屋に過所状を発給しているので、山東郡を地盤とする長尾氏か。弘治3年には本庄宗緩(実乃)・長尾景憲・直江実綱・吉江長資、そして景繁の五人で越後国長尾家の年寄衆を構成していた。


 長尾 景憲(ながお かげのり)
 通称不詳。天文20年に古志郡内の守門神社と諏方神社の相論を裁定していることから、古志郡司であったと思われる。古志長尾右京亮景信の前身か。弘治3年には本庄宗緩・長尾景繁・直江実綱・吉江長資、そして景憲の五人が越後国長尾家の年寄衆を構成していた。


 斎藤下野守朝信(さいとうしもつけのかみとものぶ)
 仮名は小三郎を称した。永禄2年に越後国長尾景虎が大名の家格を得ると、長尾遠江守藤景・柿崎和泉守景家・北条丹後守高広、そして朝信の四人が越後国長尾家の年寄衆に任ぜられ、制令発布などの文書に署名する。越後国刈羽郡の赤田城主。


 北条丹後守高広(きたじょうたんごのかみたかひろ)
 仮名は弥五郎を称した。のちに安芸守を称する。大江姓毛利一族。北条・安田の両毛利氏の当主を兼ねた大江五郎広春(毛利丹後守)から北条氏の名跡を継いだ。越後国長尾景虎が永禄2年に大名の家格を得ると、長尾遠江守藤景・斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家、そして高広の四人が年寄衆に任ぜられ、制令発布などの文書に署名する。越後国刈羽郡の北条城主。


 安田越中守景元(やすだえっちゅうのかみかげもと)
 幼名は百丸、仮名は弥八郎を称した。大江姓毛利一族。大江広春から安田氏の名跡を継いだ。妻は北条安芸守輔広(号祖栄)の娘。越後国刈羽郡の安田城主。


 安田弥九郎(やすだやくろう)
 実名は景広と伝わる。幼名は松若丸を称した。のちに和泉守を称したと伝わる。安田越中守景元の嗣子。越後国刈羽郡の安田城主。


 琵琶嶋 某(びわじま)
 弥七郎広員を名乗ったか。刈羽郡の国衆であった柏崎氏が長尾為景によって琵琶嶋城を得るところとなり、琵琶嶋氏を名乗ったと伝わる。越後国刈羽郡の琵琶嶋城主。


 甘糟近江守長重(あまかすおうみのかみながしげ)
 源姓新田田中一族とも源姓土水一族とも伝わる。弘治3年に越前国朝倉家の許へ使者として派遣された甘糟平内左衛門尉は前身か。越後国山東(西古志)郡の桝形城主か。


 大関 某(おおぜき)
 阿波守盛憲を名乗ったか。


 大崎筑前守(おおさきちくぜんのかみ)
 実名は泰継と伝わる。越後国魚沼郡の大崎城主か。


 計見出雲守(けみいづものかみ)
 実名は堯元と伝わる。初めは雅楽助を称するか。越後国刈羽郡の畔屋城主か。


 小国 某(おぐに)
 のちの刑部少輔か。源姓小国一族。越後国蒲原郡の天神山城主。


 山岸隼人佑(やまぎしはやとのすけ)
 実名は光重と伝わる。越後国蒲原郡の黒滝城主。嫡男の山岸宮内少輔秀能は越後国一宮弥彦神社の戸内職を兼ねる。次男は越後国長尾景虎の肝煎りで上郡国衆の村山氏を継いだ。


 飯田与七郎(いいだよしちろう)
 実名不詳。上杉定実・長尾為景期に見える飯田小次郎の次代か。上杉輝虎期に旗本衆・山吉氏の同心となる。


 伊与部 某(いよべ)
 実名、通称は不詳。上杉定実・長尾為景期に見える伊与部伴四郎顕資の次代か。のちに旗本衆・山吉氏の同心となるか。


 志駄千代松(しだちよまつ)
 のちに源四郎義時を名乗ったと伝わる。父は志駄源四郎。越後国山東(西古志)郡の夏戸城主。


 力丸中務少輔(りきまるなかつかさのしょう)
 実名は慶忠と伝わる。大江姓那波一族か。越後国山東(西古志)郡の根小屋城主。


 善根 某(ぜごん)
 実名、通称は不詳。大江姓毛利一族。越後国刈羽郡の善根城主。


 青海川図書助(おうみがわずしょのすけ)
 実名不詳。幼名は梅千代を称した。越後国刈羽郡の青海川城主。


 平子孫太郎(たいらくまごたろう)
 実名は房長、房政などと定まらない。長尾晴景と景虎の兄弟抗争においては景虎に味方したので、新守護代となった景虎に嘆願し、かつて所領の一部であった西古志(山東)郡山俣の地などの回復に努めている(『上越市史 上杉氏文書集』22~24号)。上杉輝虎期にはに若狭守を称する。平姓三浦一族か。越後国魚沼郡の薭生城主。


 宇佐駿河守美定満(うさみするがのかみさだみつ)
 仮名は平八郎であろう。越後守護代長尾為景に滅ぼされた宇佐美弥七郎房忠の一族で、上杉一家の上条播磨守定憲(はじめ憲定。弥五郎)に拾われたらしい。「定」の一字は上条定憲から付与されたのであろう。上条氏には、淡路守(十郎)家・美濃守家・弾正少輔家、そして播磨守(弥五郎)家があり、定満は美濃守家と弾正少輔家との関わりが深い。藤原姓工藤伊東一族とも平姓大見氏とも伝わる。越後国魚沼郡の真板平城主か。


 多功 某(たこう)
 実名、通称は不詳。父の多功小三郎は、長尾景虎の支持基盤である小千谷・堀内・波多岐・妻有地域のうち、堀内地域の領主の一人であった。長尾晴景と景虎の兄弟抗争において、やはり堀内地域の領主である宇佐美駿河守定満に同調して景虎に味方したが戦死してしまうと、遺領は平子孫太郎に与えられるところとなり、宇佐美定満が景虎に再考を願い出ていた(『上越市史 上杉氏文書集』96・100号)。藤原姓宇都宮一族か。


 金沢 某(かなざわ)
 実名、通称は不詳。


 河治 某(かわぢ)
 実名、通称は不詳。


 加治式部少輔定次(かぢしきぶのしょうさだつぐ)
 源姓佐々木加地一族か。越後国魚沼郡堀内地域の城館に拠る。


 福王寺兵部少輔(ふくおうじひょうぶのしょう)
 仮名は彦八郎を称した。実名は重綱とも孝重ともいわれる。上野国白井長尾氏の出身で、福王寺掃部助(彦八郎。実名は友重か)の名跡を継いだとされる。源姓佐々木加地一族か。のちに旗本衆を経て上田衆(上田長尾氏の同名・同心・被官集団)に転属するか。越後国魚沼郡の下倉山城主。


 江口式部丞(えぐちしきぶのじょう)
 仮名は藤五郎、実名は親広と伝わる。のちに安芸守を称するか。藤原姓安達一族か。越後国魚沼郡の平地山城主。


 大沢 某(おおさわ)
 実名、通称は不詳。父は大沢伊豆守か。越後国魚沼郡の大沢城主。


 上野中務丞家成(うえのなかつかさのじょういえなり)
 仮名は源六を称した。源姓新田大井田一族。越後国魚沼郡の節黒城主。


 中条玄蕃允(ちゅうじょうげんばのじょう)
 実名不詳。源姓新田田中一族。一族に中条左近将監がいる。のちに上田衆(上田長尾氏の同名・同心・被官集団)に組み込まれる。越後国魚沼郡の大井田城主か。


 鳥山 某(とりやま)
 実名不詳。官途名は大炊助か。源姓新田里見一族。越後国魚沼郡の市之沢城主か。


 下平修理亮(しもだいらしゅりのすけ)
 実名は吉長とされているが、永禄2年に勘助吉長の発給文言が残るので、天文23年に隣郷の上野家成と土地相論をした修理亮と、上杉輝虎期の永禄7年に輝虎の姉婿である上田長尾政景と刃傷沙汰を起こして相討ちしたと伝わる下平修理亮(これ以前に下平氏は、輝虎の肝煎りで上田長尾氏の同心に配されていたと思われる)は、親子二代であった可能性があり、吉長は後者の実名なのかもしれない。ただし、吉長の発給文書は要検討とされているので、同一人物の可能性も排除できない。上杉定実・長尾為景期に起こった天文の乱において、下平次郎太郎(実名は久長と伝わる)は敵方の上田長尾勢の攻撃を受けて戦死している。越後国魚沼郡の千手城主。法名は吉法元長禅定門と伝わる。


 上郡国衆(もとは越後守護上杉家(前上杉氏)の譜代衆・外様衆)

 長尾小四郎景直(ながおこしろうかげなお)
 越後国の長尾氏の一つである御屋敷長尾氏。父は長尾為景(景虎の父)の弟(一峰源統)であり、母は長尾為景の娘(秀琳永種)であるから、恐らく母は後妻であろう。


 長尾源五(ながおげんご)
 実名不詳。仮名は源五郎とも。越後国の長尾氏の一つであろう。永禄3年8年から翌4年7月にかけて越後国長尾景虎(永禄4年3月からは山内上杉政虎)が挙行した関東遠征時には桃井右馬助義孝・長尾小四郎景直・黒川竹福丸・(のちの四郎次郎平政)・柿崎和泉守景家、そして源五の5人が越府の留守将に任ぜられている。


 大熊備前守朝秀(おおくまびぜんのかみともひで)
 仮名は彦次郎を称した。奉行衆(三奉行)。公銭方。父は大熊備前守政秀(彦次郎。新左衛門尉)。越後国頸城郡の箕冠城主。同じ三奉行の本庄新左衛門入道宗緩(俗名は実乃)と対立し、甲州武田家に通じて反乱を起こしたが、景虎の軍勢に迎撃されて敗北すると、落ち延びて武田晴信に仕えた。


 柿崎和泉守景家(かきざきいずみのかみかげいえ)
 仮名は弥次郎を称したか。官途名は中務を称した。平姓大見一族。永禄2年に越後国長尾景虎が大名の家格を得ると、長尾遠江守藤景・斎藤下野守朝信・北条丹後守高広、そして景家の4人が越後国長尾家の年寄衆に任ぜられ、制令発布などの文書に署名する。越後国頸城郡の柿崎城主。


 柿崎平次郎(かきざきへいじろう)
 実名不詳。柿崎和泉守景家の長男。時期は不明であるが早世したらしい。


 諏訪部 某(すわべ)
 実名、通称は不詳。


 諸越 某(もろこし)
 実名、通称は不詳。謙信期の諸越彦七郎(実名は盛秀、次いで秀満か)の父か。越後小黒一族の本家。


 小黒 某(こぐろ)
 実名、通称は不詳。


 窪宗左衛門尉(くぼそうざえもんのじょう)
 実名不詳。越後国頸城郡の直峰(嶺)城の城衆か。


 山田帯刀左衛門尉(やまだたちはき(たてわき)ざえもんのじょう)
 実名不詳。仮名は彦三郎を称した。越後国頸城郡の直峰(嶺)城の城衆か。


 針生藤兵衛尉(はりゅうとうびょうえのじょう)
 実名は久吉か。越後国頸城郡の犬伏城の城衆か。


 阿佐美彦六(あさみひころく)
 実名は定を通字とする。


 真砂惣右衛門尉(まさごそうえもんのじょう)
 実名、通称は不詳。


 村山与七郎(むらやまよしちろう)
 実名は義信か。のちに安芸守を称するか。父は村上中務丞(実名は直義か)。源姓村山一族。越後国頸城郡の徳合城主。


 村山善左衛門尉慶綱(むらやまぜんざえもんのじょうよしつな)
 父兄は山岸隼人佑と同宮内少輔秀能。景虎から村山与七郎の名跡を与えられた。もとは景虎の近習であったか。

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