越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄13年3月】

2013-12-09 12:41:25 | 上杉輝虎の年代記

永禄13年(1570)3月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【41歳】


5日、同盟交渉中の相手である北条相模守氏康・北条左京大夫氏政父子へ宛てて条書を発し、覚、一、三郎殿(氏康の末男。久野北条三郎。武蔵国橘樹郡の小机領を管掌する)の御支度が整うまでの間、氏邦(藤田新太郎氏邦。氏康の五男。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管掌する)を(下野国佐野陣へ証人として)寄越されるのかどうか、これについて、柿崎父子(柿崎和泉守景家・同左衛門大夫。準一家に相当する重臣)のどちらか一人を(証人として)御所望のこと、あれこれ考えあぐねていたのでは、つまりは他意を抱いているように捉えられかねないこと、ここまできたら、氏邦が(佐野に)在陣している間に、鉢形まで(柿崎左衛門大夫を)差し越すつもりであること、一、氏邦と柿崎の息子を取り替えられてから、(越後国上杉家は)西上州(甲州武田信玄)へ手切れ(越・甲和与の破談)を通告されて、柿崎の息子は(鉢形に)置かれたまま、三郎方を氏邦と取り替えて寄越されたいとの要望を承ったからには、柿崎の息子は末代まで相府小田原に留め置かれるつもりであること、そのような手順を取るのであれば、三郎方の養子入りは徒労に終わってしまう恐れがあるのではないかと思われ、(北条)御父子に御支障がないにおいては、氏邦と柿崎の息子を取り替えられ、(甲州武田)信玄に対して(輝虎が)手切れを通告する以前に、御当陣で三郎方を氏邦と取り換えられてほしいこと、それならば、御父子の御真実は紛れもないものであること、詳細は篠窪(治部。北条家中)と須田(弥兵衛尉。輝虎旗本)が説明すること、愚老のめい(姪)を(三郎に)娶わせる約束については、いささかも違える考えはないこと、この補足として、柿崎の息子は、当陣にて氏邦と取り替えられ、なおかつ三郎方を寄越してくれれば、愚老にとって来世まで面目が施されること、以上、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』888号「北条相模守殿・北条左京大夫殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


同日、越中国魚津城(新川郡)の城衆の番替えに伴い、該当者の三名が帰国するため、諸領主が彼らの通行を妨げることがないように手配するところとなり、越中国代官を任せている河田豊前守長親(魚津城の城代でもある)が過書を発し、番替えの者三人、(越後国頸城郡)府内へ弐人、藪神へ壱人を下し、諸役所が保証するものであること、よって、前記した通りであること、これを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』889号「所々 領主中」宛河田「豊前守」長親判物写)。


8日、相州北条氏康から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城将である河田伯耆守重親(大身の旗本衆)へ宛てて条書が発せられ、覚、一、新太郎(藤田氏邦)と替わるため、柿崎左衛門大夫方が(相府へ)御越しになるわけで、本望であること、この補足として、(氏邦迎えの)御乗物一両を月内に(佐野陣へ)送らせるので、(柿崎左衛門大夫が)相府に御着きになるまでは(氏邦を)逗留させてほしく、(氏康の)愚存はこの一点に尽きること、一、(北条)父子はいよいよ(輝虎と)浮沈を共にする無二の間柄となるため、誓句をもって申し入れること、同じくは、血判を据える際に見届ける証
人を寄越してもらいたく、その眼前で誓詞に身血を染めて渡しておくこと、また、このたび未来永劫の御誓句を給わるための案文を送っておくこと、一、武・上の面々(武蔵・上野両国の国衆)には、後日に禍根を残さないように、(帰属関係を)いよいよ定め置かれるのが肝心であること、一、房・相和融の交渉状況については、先頃に申し入れたこと、かならず(房州との間を)御策媒(調停)されるのが適切であること、一、先だって太石惣介方(大石芳綱。輝虎旗本)に申し届けた通り、西上州の御戦陣については、このたび(越後国上杉軍は)御労兵であり、(武田領の)村々を制圧するのは難儀と思われるので、次回の御戦陣に期待していること、ただし、御思案(作戦の概要)のところは、早々に承りたいこと、この補足として、駿州の処置のこと、以上、これらの条々を申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』891号「河田伯耆守殿」宛 北条氏康条書案)。


9日、常陸国太田の佐竹義重の客将である太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。佐竹氏から常陸国新治郡の片野城を任されていた)の許へと再派遣した大石右衛門尉(輝虎旗本)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、先だって太田美濃守かたへ内密の輝虎書中を送ったところ、(道誉は)東方の味方中に開示し、その写しが(巡り巡って)由信かた(由良成繁)から河田伯耆守かた(重親)へ届いたこと、なるほど美濃守への信頼は失われたこと、あのように手を分けて申し遣わしたのは、一つには、味方中を離反させたくない意趣から、一つには、美濃守に再起してもらいたいとの真意から、申し届けたところ、あの通りにひろげ物にしておくとは、前日に言い含めた件をも、様子によって申し聞かせるべきこと、今後のためなので、しっかりと問い詰めるべきこと、今日の申刻(午後4時前後)に沼田から書状写(由良成繁が河田重親へ届けた輝虎が太田道誉に送った内密の書状の写し)を持たせた飛脚に、(大石右衛門尉を)追い駆けさせたこと、ひとえに美濃守の所行は天罰に値するものであること、今日までは(道誉を)頼もしく思っていたが、この先は諦めて放っておかれること、よって、このところをまずは源太方(梶原政景。太田道誉の子)に申し聞かせるべきこと、なお、めでたく万事が調ったあかつきに、また申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、彼の意趣をくれぐれも大美父子に言い聞かせ、誓詞なりとも差し出させて覚悟を見届け、その本心を明らかにさせるべきこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』892号「大石右衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a4】)。


同日、相州北条氏政(左京大夫)から書状が発せられ、(証人として)藤田新大郎(氏邦)を(越陣へ)参陣させるのに伴い、柿崎方(左衛門大夫)を寄越されるそうであり、当然ながら本望至極であること、このうえは、なお未来永劫に越・相両国が浮沈を共にしていくため、遠山左衛門尉(実名は康光。氏康の側近。小田原衆)をもって愚意の委細を申し届けること、よくよく御聞きになって承知されて、御同意を得られれば、大慶であること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』893号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。

13日、相州北条氏政(左京大夫)から書状が発せられ、あらためて飛脚をもって申し届けること、よって、西上州へ向ってもらいたいところ、御労兵であるから、大勝負はどうかと思われ、来る七月の大調儀(戦陣)の提案した書状を披読してもらうため、(合否の判断となる)筋目を余さず申し届けたこと、しかし、申し越した通りでは、(藤田氏邦へ)西上州への大調儀を明言されたそうであり、誠に本望大慶であること、拙者(北条氏政)においても、内々に彼の御調儀を心懸け、人衆等を集めたので、近日中に打ち出て、敵地に向かって地利を取り立てるつもりであること、条目で明言された通り、来月上旬中に西上州に御馬を立てられるにおいては、ますます満足であること、委細は御知らせにより、その旨を得るべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』895号「山内殿」宛北条「氏政」書状写)。


同日、山吉豊守(輝虎の最側近)・河田重親(上野国沼田(倉内)城の城将)が、相府小田原に滞在中の進藤隼人佑家清へ宛てて条書を発し、一、須弥(須田弥兵衛尉)へ遠左(氏康側近の遠山康光)から申し含められたところでは、13日に遠左が参陣し、(藤田)氏邦は14日に着陣すると言っていたこと、由信(由良成繁)の書中には17日であると言って寄越していること、今この時に何を言ってきたとしても、(輝虎は北条父子の)御表裏ではないかと考えられていること、一、西上州(甲州武田家)へこのうえは、子細を申し届けること、一、(輝虎は)厩橋へ納馬されること、この事情を惣軍へ申し聞かせ、南・越御一和が成就したと申されること、いよいよ御分別(越・相一和と越・甲和与のどちらを取るかの分かれ目)に至ると考えられており、当陣(佐野陣)を払われたあとには、(甲州武田)信玄に申し合わす旨があるかも知れないこと、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』896号「進隼 参御陣下」宛山吉「豊守」・河田「重親」連署条書写)。


この頃、遅くとも22日以前に下野国安蘇郡佐野荘の佐野陣(唐沢山城攻め)を撤収し、上野国佐位郡(西荘)の
赤堀領における五目牛の地に移陣していた(『上越市史 上杉氏文書集一』981号)。


26日、相州北条氏康・同氏政父子から条書が発せられ、一、このたび宝印を翻され、(相州北条父子が)望んだ案文通りの誓詞に、招き寄せられた遠左(氏康側近の遠山左衛門尉康光)の眼前で御血判を据えてもらい、誠にありがたく、満足していること、一、三郎は来る5日に、風雨が吹き荒れようとも、当地小田原を発足致すつもりであること、この補足として、彼の日程は巷間に広く知れ渡っているため、これに乗じた(甲州武田)信玄が出張してくる事態を心配に思っていること、つまりは、利根川端までは此方(相州北条家)の送衆に警固を厳重に申し付けること、向こう岸から引き渡す手筈を整えているので、倉内(沼田)衆・厩橋衆に堅く堅く警固を仰せ付けられるのが専一であること、一、相・房一和については、先段に申し届けた通り、御作意(意図)に背かずに交渉を進めること、なお、その様子を書中で露わにすること、その際には彼の国へ御使いを差し向けられ、絶え間なく取り計られて御落着へと導かれるのが専一であること、一、初秋の御手立て(戦陣の段取り)について、色々と御相談し合っていくのは、誠に本望の極みであること、ただし、ただ今は御労兵の頃合いといい、御帰国する時機と推量されるので、(在国中の)信玄への対策を講じられるのが大切であると考えること、爰元(北条父子)の存分については進藤方(隼人佑家清。旗本衆)と垪和(刑部丞康忠。氏政の側近)の両口に申し付けたので、(武田に対する)御備えの様子の詳しい御返答を待ち入ること、一、(先頃に)愚老父子が呈した条書のなかで、武・上の面々(武蔵・上野国衆)について、後日に禍根を残さないように、いよいよ(帰属関係を)定めるとは、そのような子細は御聞き入れになっていないそうであること、爰元(北条父子)は重要視して左衛門尉(遠山康光)に言い含めたこと、(輝虎の)上聞に達しなかったところは、左衛門尉の失態であるの明白であること、しかしながら、御奏者の挨拶(応答)によれば、この件に二つ三つ言い立てる事柄があるそうであり、(北条父子が武・上国衆の帰属の件を)そのままに物事を進めた旨について、申し開きを致すこと、武・上の(懸案となる)二字の所を指しては、忍(武蔵国衆の成田氏)と松山(同上田氏)は大途(関東の秩序)に御別儀はないとはいえ、一度は越府(輝虎)御退治を蒙るべきとの趣には、深く思い詰めていること、越・相両国が御骨肉に仰せ合わされるからには、(越後国上杉家と)並んで相州も(松山の上田を)退治するべきとのこと、そうなった時には、(上田は)信玄へ申し寄せる以外になく、(甲州武田家に)出仕すると申していること、(上田が)信玄と三度でも五度でも通交に及べば、信玄の計策に乗ってしまうのは、必然であること、信玄に内通するのを阻止するには、越府がまず御誓詞を調え、忍と松山から証人を取られてから、細かな御誓句を申し入れるべきであること、垪和(康忠)はこの口に通じており、同前の考えであること、一、新太郎(藤田氏邦)の所への御条書に露わにされた通りでは、愚老父子が表裏を心の奥底で抱いているではないかと、仰せを受けたこと、すでにこのたび以前の誓句を見直し、ただの一ヶ条をも(疎かにすることなく)無二無三に申し合わるものと、宝印を翻して血判をもって申し上げたからには、虚偽などは、どうして弄するであろうか、およそ以前の誓句のうちから、一点たりとも心の底から捻じ曲げる考えはないこと、御不審な点があれば、何度でも御糾明に預かりたいこと、とりわけ、実子両人(氏邦と三郎)を渡し申し上げる事実は、誠に大山よりも高く、大海よりも深いと心に留めているところを、それでもなお愚(北条父子)への疑心を振り払えないと思われるのならば、万策尽きて、どうにもしようがない思いであること、このうえにも、あるいは妄言を触れ回る輩が現れたり、あるいは御意に合わない事態が生じるであろうこと、その時は即座に問い合わせてもらい、(互いに)多くの言葉を費やすのが肝心であろうこと、さて御入魂を申し合わせたからには、互いに道理を外れてはならないので、その道理に(疑問があるに)おいては、遠慮なく問い合わせるつもりであること、(当方に)不届きがあれば、何度でも御糾明してもらいたく、これこそがこのたび御血判を取り交わした趣旨であること、一、このたび三郎が参る道中の諸事万端については、由信(由良信濃守成繁)に手配を仰せ付けられるのが肝心と考えていること、以上、これらの条々を申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』900号「山内殿」宛北条「氏康」・北条「氏政」連署条書)。



〔越・相同盟を巡る関東・前奥の諸氏との関係の変化〕

3月5日、下総国結城の結城晴朝(左衛門督)から、後藤左京亮勝元(輝虎旗本)へ宛てて書状が発せられ、このたび使者をもって条々を承ったこと、誠にありがたく祝着の極みであること、南方(相州北条家)へ仰せ談じた筋目をもって、五野目(五目石であろう)へ御陣を移されたものか、(下野国小山の小山)高朝・秀綱父子と一同して、御当方(越後国上杉家)奔走するべきであると、承ったこと、当然ながらそれを理解したこと、かならず使いをもって申し届けるにより、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』683号「後藤左京亮勝元」宛結城「晴朝」書状写)。


当文書は、『謙信公御書集』などでは永禄12年に置かれているが、その頃、輝虎は越後国村上陣の真っただ中で、どこぞへ移陣するような状況になく、越・相同盟の期間中(交渉中も含め)に輝虎が春中に移陣するような状況であったのは永禄13年だけであり、そうなると書中に、下野国佐野から上野国五目石への移陣するつもりでいた様子が窺えることや、『上越市史 上杉氏文書集一』890号によれば、後藤左京亮勝元と須田弥兵衛尉が使者として佐野陣から上野国新田金山城へ遣わされており、その後、須田は進藤隼人佑家清と相府小田原へ向かったが、後藤はこれに同行しておらず、別の任務に当たっていたようなので、単独で見えても矛盾がないことから、当年の発給文書として引用した。


15日、陸奥国白河の結城義親(七郎)へ宛てて、初信となる書状を発し、今まで申し交わしてこなかったとはいえ、(それでもこのたび)一翰を馳せた意趣は、(常陸国太田の)佐竹義重とは長年にわたって相談し合う間柄でありながら、このたびの同陣の申し合わせにおいて、まったく言行不一致の態度を取り、兼ねてよりの入魂を違えたこと、されば、(白河義親は下野国烏山の)那須資胤とは格別に懇意にしているそうなので、輝虎についても今後は(佐竹ではなく、白河と)申し合わせていきたいこと、御同意してもらえれば、本望であること、(奥州会津の蘆名)盛氏父子との関係も、おろそかにするなど考えられないこと、なお、(詳細は関東代官の)北条丹後守(高広)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』503号「白川七郎殿」宛上杉「輝虎」書状写【花押a3】)。


当文書は、諸史料集において、永禄9年に仮定されていたり、翌10年に比定されていたりするが、前者の時期には、輝虎と佐竹義重は協議したうえで、2月の佐竹勢による常陸国小田城攻略に続き、3月の輝虎による総州経略(佐竹義重自身は小田の戦後処理を見越して参陣は免除され、代官の率いる佐竹衆が参陣した)が催されており、佐竹義重と同陣を巡って対立するような状況にはなかったこと、後者の時期には、関東代官を任されていた北条高広が相州北条・甲州武田陣営に寝返っていたことから、どちらも該当しないので、別の年次にほかならず、それは永禄12年6月の越・相一和の成立により、これに反対する佐竹が輝虎の度重なる同陣要請に応じようとせず、両者が手切れした当年の発給文書となろう。


22日、このたび帰参を認めた上野国衆の赤堀上野介(上野国佐位郡の赤堀城を本拠とする)へ宛てて証状を発し、再三にわたり、(山内上杉家の)譜代としての筋目を頼りにするほかないと申し越し、殊に誓詞を寄越したのは、またぞろ神妙であること、これについて、(上野国佐位郡の)波志江郷・蓮村・小保方郷・田部井村・国定村、(同新田郡の)鹿田村を出し置くこと、しかしながら、(同上野国群馬郡の)厩橋領・惣社領・白井領のうちに(前記した郷村が)あった場合には、これを除くものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』899号「赤堀上野介殿」宛上杉「輝虎」安堵状【花押a4】)。


28日、常陸国太田の佐竹義重(次郎)の一家衆である佐竹北 義斯(又七郎)から、取次の柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、それ以来(この上旬に協議が不調に終わってから)、互いに一致した課題がなかったにより、申し承らなかったこと、不本意であること、よって、(輝虎は)上州に今なお御在陣し、御陣労は限りなく、ただただ案じられること、されば、輝虎に対し申し上げられ、義重が異心を抱いてはいない意趣を示したところ、世間の風聞によれば、(輝虎は義重に対し)御恨み言に及ばれているそうであり、ひとえに嘆かわしい状況であると思われること、こうした趣旨を御説明するため、使僧を差し越されて申し述べられるので、御聞きになって御理解してもらえれば、御懇切は(義重はもとより)自分(北 義斯)においても畏み入ること、つまるところ方々(柿崎・山吉)の御手並みに懸かっていること、北丹(北条丹後守高広)と相談し合って、(輝虎の)御上聞に達せられるのが肝心であること、詳細は(使僧の)策首座の口上に申し含めたので、(この紙面は)省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』901号「柿崎和泉守殿・山吉孫次郎殿」宛佐竹北「義斯」書状写)。



一方でこの間、同盟関係にある相州北条氏康・同氏政父子は、輝虎の許へ養子として北条三郎(氏康末男)を送り出すにあたり、各所へ連絡を取り合う。

3月4日、相州北条氏政(左京大夫)が、上野国衆の由良信濃守成繁へ宛てて返状を発し、輝虎から、(由良成繁へ使者をもって)筋目を承知された回答が寄せられ、(由良が寄越した使者の)大沢下総守をもって承った条々は、それを理解したこと、なおもって越・相一和を思い詰めているので、早々に落着するように御奔走してほしいこと、委細は下総守の口上のうちにあること、紙面は省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』682号「由良信濃守殿」宛北条「氏政」書状写)。


当文書は、諸史料集では永禄12年に置かれているが、次の890号文書との兼ね合いからして、朱書きされている通り、「元亀元年」(永禄13年)の発給文書であろう。


5日、相州北条氏康(相模守)が、由良信濃守成繁へ宛てて返状を発し、(越後国上杉家が)後藤左京亮(勝元)・須田弥兵衛尉をもって仰せ出だされたのに伴い、(由良成繁から使者の)大沢下総守を差し越され、このたび唯一無二の入魂を取り成すにおいて、適切な趣の意見に預かったこと、いかにも愚意と同前であること、(輝虎との交渉の)真実の様子を詳しく申し届けること、息子の三郎は、この五日から六日のうちに番明けとなるはずであったこと、そうではあったが、(予定を早めて)昨日に迎えの者を遣わしたこと、(上杉家へ引き渡す)支度が整うまでの間は、新太郎(藤田氏邦)を彼の陣下へ差し越す約束を定めたこと、なお、様子は(大沢)下総守の口上のうちにあること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』890号「由良信濃守殿」宛北条「氏康」書状写)。

16日、相州北条氏政(左京大夫)が、兄弟衆の藤田氏邦新太郎(氏康の五男。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管轄する)へ宛てて返状を発し、10日の注進状を披読したこと、よって、遠左(遠山康光。氏康の側近)を早速にも(輝虎の陣中へ)罷り立たせるべきところ、(久野北条)三郎の越山については、(三郎が)あれこれ悩み渋っていたので、繰り返し助言に及んで納得させ、今日遠左は罷り立ったこと、彼の者(遠山)が(輝虎の許へ)参陣するからには、万事が落着するであろうこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1392号「新太郎殿」宛北条「氏政」書状)。

26日、相州北条氏政(左京大夫)が、兄弟衆の北条源三氏照(氏康の三男。武蔵国多西郡を中心とした由井領を管轄する)へ宛てて返状を発し、26日の一札が同日申刻(午後四時前後)に到来したこと、(輝虎の陣中へ派遣された)垪和(康忠。氏政の側近)かたへ申し越された筋目は、当然であると考えていること、とりわけ、(氏照は)御煩いゆえ、今日は御参府できないのではないか、先書で露わにした通り、(久野北条)三郎送衆の物主(越後国上杉家へ三郎を引き渡す責任者)であるのだから、日数はないので、此方(相府小田原)へ御越しは無用であること、委細は近藤(綱秀。氏照の側近)の口上に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1396号「源三殿」宛北条「氏政」書状)。



同じく、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、3月5日、西上野先方衆の浦野新八郎へ宛てて書状を発し、昨年(10月6日)の相州三増坂(中郡)において、親父(民部左衛門尉)が格別の戦功を励んで討死にしたのは、類い稀な忠節であること、今後は父民部左衛門尉の時のように、(浦野新八郎を)懇切に処遇すること、よって、香典として緞子(紋織物)五反を贈ること、委細は永昌和尚が御演説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1519号「浦野新八郎殿」宛武田「信玄」書状写)。

17日、西上野先方衆の小幡一党である小幡弁丸(のちに信定を名乗る。小幡弾正左衛門尉信高の嫡男)へ宛てて書状を発し、(昨年12月6日の)駿州蒲原(庵原郡)において、弾正左衛門尉(上野国甘楽郡の国嶺城を本拠とする小幡上総介信実の弟)の討死は、無双の戦功であること、されば、父の存生時のように、知行といい、被官といい、永代にわたって保証すること、いよいよ相続して忠節を励むのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1521号「小幡弁丸殿」宛武田「信玄」判物)。

19日、常陸国太田の佐竹義重(次郎)の使者である江間対馬守(実名は重氏か)へ宛てて証状を発し、たびたび使者として往還は祝着であること、されば、武州の静謐を遂げたうえで、彼の国において相当の地一所を(謝礼として)宛行うこと、つまりは、(佐竹)義重と唯一無二の御入魂の間柄となるように、奔走するのが肝心であること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編三』1523号「江間対馬(守)殿」宛武田「信玄」判物)。

20日、西上野先方衆の原孫次郎(漆原氏。永禄9年に滅亡した箕輪長野氏の旧臣)へ宛てて、自筆の書状を発し、取り急ぎ一筆を染めたこと、南・北和融(越・相一和)が落着し、これについて、(越後国上杉家は)厩橋(上野国群馬郡)から河西(利根川西岸)に向かって取出(城砦)を築くようであること、そうなった時には、またとない出馬をして一戦を遂げ、当家の興亡を定めるつもりであること、各々の支度が肝心であること、努めて油断してはならないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1525号「原 孫次郎殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』(東京堂出版)

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