1956年のベストセラーに『異性ノイローゼ』があります。
著者は精神科医の加藤正明氏。
このなかで、加藤先生はさまざまな性のカタチについて書かれています。
同性愛、フェティズム、そして服装倒錯です。
服装倒錯というのは、ドイツの性科学者ヒルシュフェルトが名づけたもので・異性の服装をしたり、異性のような表現をすることに、性的な満足をするもののことである。
ひろく考えれば、花見や余興の仮装だの、しろうと芝居などで男役になったり、女形になったりしたがるものにも、こういう傾向があると言えよう。
かつてフランスの外交官でシュヴァリェ・ド・エオンという男かいた。何年ものあいだ女装して外交官をやっていたという変り者である。このエオンから性心理学者工リスは、服装倒錯にエオニズムという名をつけた。あとで述べるように、原始民族にも、女装の男性がちゃんとみとめられていて、特別な役割をもっているものがある。
こういう女装の男性は、中世紀にも、祭のときにー役演じていた。ちかごろの日本でも、このエオン氏にひげをとらないような女装があらわれている。もっとも、これが職業のためともなればべつの話だろう。だが、そういう職業が成り立つというのは、女装したくてもできない人がたくさんいて、それにアッピールして人気があるからかもしれない。逆の、男装の麗人のぱあいだって、同じことだろう。
私は終戦後一年ほど、シャムに留められていた経験がある。この期間に、よく兵隊さんの芝居を見せてもらった。ところが驚いたことに、女形になりたがる兵隊さんがむやみに多くて、だれを選んだらよいかと、それが苦労のタネということになった。この競争のなかでー人、演技といい、服装といい、ダンゼン他を圧した名女形かいた。彼の人気ときたら、まったく大変なもので、そこらの女の子など、まるで足もとにも寄れないくらいだった。
戦前の宝塚の男装の麗人の人気は、戦後はいささか、扇雀ブームにお株をとられた形である。それは彼、中村扇雀が、たんなる男性ではなく、「女性になった男性」であるところにその人気の根元がある。つまり自己愛的な段階にある女性は、彼のなかに自分の同化できる要素を発見して、うっとりとしてしまうのであろう。したがって・みずから異性の服装をすることにつよくひかれるものは異性に恋した自分じしんにかぎりない愛着を感ずる自己愛者であることは、きわめてハッキリしている。なかには、それが、同性愛的な要素や、露出症的な要素をもつこともあるにしても、根本的なものは、この自己愛である。
しかし、これを、子どもがお父さんの洋服を着て、パパになって喜ぶのとくらべてみると、だいぶちがう。子どもは、父に変貌した自分じしんに誇りを感じ、子どもに共通の、おとなへの劣等感をおぎなうことができる。しかも、このぱあいには、もともと子どもは将来はおとなになりうるものなのであって、それはやがて現実におこりうろことなのである。
ところが、人間が異性になりうるという可能性には、まずまったく現実性がない。したがって、そこに存在している女性のような男性も、男性のような女性も、いずれも現実にありうる姿ではない。つまり、愛している自分の性と、愛されている自分の性とが、そこに同時に存在し、一人二役をかねているところに、服装倒錯の特徴がある。これは手のこんだ自己変の一種である。
また、それは異性の衣服、化粧品、髪かたちなどへの愛着という点では、フェティシズムであるが、このフェティシズム自体が自己愛の変形、つまり、物体におきかえられた自己愛だと考えられるのである。
たいぶ旧聞にぞくするが、いわゆる「性の転換」が続いてあらわれ、女性になったG・Iなどが、もの珍らしく報道された。ご当人はもともと、女性だったのであって、なにも性が変ったわけではないのだが、この記事を読んで「性の転換」が自由自在にできるのかと思って、医者を訪れた、あわてものの青年もあったのである。
従来の「よくぞ男に生まれけり」という鉄則がこわれてきたことが、近ごろ男性の女性化などといわれてよく問題になる。それは男性の権力がおとろえ、女性が解放されてきたためだといる人がある。たとえば、私の知人の女性がアメリカにいって、さいきんよこした手紙のなかに、「アメリカでもっとも大切にきれるのは「第一に金、第二に女性、次が動物で、その次が男性です。」と書いてあった。たしかに、そういうー面が男性の女性化をひきおこしていると言えるかもしれない。じっさいにわれわれを訪れて「性の転換」を望むものは、それよりも、前に挙げたように、異性に変貌した自分じしんの姿につよい愛着をもつ、一種の自己愛からおこっているのである。
また脱線したようだ。話をもとにもどそう。
フェティシズムも、服装倒錯も、その愛着の対象になる物体、体のー部、あるいは、異性の衣服など、いずれも異性の代用や象徴としての役割を果すというよりも、むしろ、その根元には、つよい自己愛があって、仮の性対象としてフェティッシュを選びだしたり、一人で両性をかねるという意味をもっているのである。
だが、ひろい意味でいえば、このフェティシズム傾向と、服装倒錯は、多かれ少なかれ、だれもが秘めている傾向である。恋人に死なれた不幸な男にとっては、彼女のかたみは、彼の傷ついた心を癒すのに役だつであろうし、戦地の兵隊は、芝居や余興で女装することによって、満たされない愛情のはけ口を見いだすことができたといえる。
こういう、有効な、一時的なフェティシズムや服装倒錯は、それなりに同情できる、ほほえましいものをもっている。だが、まえにあげた人びとのように、こういう性の満足の方法が、ただ一つの方法となってしまって、正しく向けられるはずの異性への愛とならず、自己愛の段階にとどまってしまうぱあいは、これを矯正していかなければならない。この点は、まえにナルチシズムの章で述べたことをもうー度、思いおこしていただければ、よくわかると思う。
「異性ノイローゼ」(加藤正明著) 光文社・カッパブックス昭和31年より引用
こういう性の満足の方法が、ただ一つの方法となってしまって、正しく向けられるはずの異性への愛とならず、自己愛の段階にとどまってしまうぱあいは、これを矯正していかなければならない。
66年前の時代においては、異性の愛が「正しく」異性装も矯正の対象という認識でありました。
著者は精神科医の加藤正明氏。
このなかで、加藤先生はさまざまな性のカタチについて書かれています。
同性愛、フェティズム、そして服装倒錯です。
服装倒錯というのは、ドイツの性科学者ヒルシュフェルトが名づけたもので・異性の服装をしたり、異性のような表現をすることに、性的な満足をするもののことである。
ひろく考えれば、花見や余興の仮装だの、しろうと芝居などで男役になったり、女形になったりしたがるものにも、こういう傾向があると言えよう。
かつてフランスの外交官でシュヴァリェ・ド・エオンという男かいた。何年ものあいだ女装して外交官をやっていたという変り者である。このエオンから性心理学者工リスは、服装倒錯にエオニズムという名をつけた。あとで述べるように、原始民族にも、女装の男性がちゃんとみとめられていて、特別な役割をもっているものがある。
こういう女装の男性は、中世紀にも、祭のときにー役演じていた。ちかごろの日本でも、このエオン氏にひげをとらないような女装があらわれている。もっとも、これが職業のためともなればべつの話だろう。だが、そういう職業が成り立つというのは、女装したくてもできない人がたくさんいて、それにアッピールして人気があるからかもしれない。逆の、男装の麗人のぱあいだって、同じことだろう。
私は終戦後一年ほど、シャムに留められていた経験がある。この期間に、よく兵隊さんの芝居を見せてもらった。ところが驚いたことに、女形になりたがる兵隊さんがむやみに多くて、だれを選んだらよいかと、それが苦労のタネということになった。この競争のなかでー人、演技といい、服装といい、ダンゼン他を圧した名女形かいた。彼の人気ときたら、まったく大変なもので、そこらの女の子など、まるで足もとにも寄れないくらいだった。
戦前の宝塚の男装の麗人の人気は、戦後はいささか、扇雀ブームにお株をとられた形である。それは彼、中村扇雀が、たんなる男性ではなく、「女性になった男性」であるところにその人気の根元がある。つまり自己愛的な段階にある女性は、彼のなかに自分の同化できる要素を発見して、うっとりとしてしまうのであろう。したがって・みずから異性の服装をすることにつよくひかれるものは異性に恋した自分じしんにかぎりない愛着を感ずる自己愛者であることは、きわめてハッキリしている。なかには、それが、同性愛的な要素や、露出症的な要素をもつこともあるにしても、根本的なものは、この自己愛である。
しかし、これを、子どもがお父さんの洋服を着て、パパになって喜ぶのとくらべてみると、だいぶちがう。子どもは、父に変貌した自分じしんに誇りを感じ、子どもに共通の、おとなへの劣等感をおぎなうことができる。しかも、このぱあいには、もともと子どもは将来はおとなになりうるものなのであって、それはやがて現実におこりうろことなのである。
ところが、人間が異性になりうるという可能性には、まずまったく現実性がない。したがって、そこに存在している女性のような男性も、男性のような女性も、いずれも現実にありうる姿ではない。つまり、愛している自分の性と、愛されている自分の性とが、そこに同時に存在し、一人二役をかねているところに、服装倒錯の特徴がある。これは手のこんだ自己変の一種である。
また、それは異性の衣服、化粧品、髪かたちなどへの愛着という点では、フェティシズムであるが、このフェティシズム自体が自己愛の変形、つまり、物体におきかえられた自己愛だと考えられるのである。
たいぶ旧聞にぞくするが、いわゆる「性の転換」が続いてあらわれ、女性になったG・Iなどが、もの珍らしく報道された。ご当人はもともと、女性だったのであって、なにも性が変ったわけではないのだが、この記事を読んで「性の転換」が自由自在にできるのかと思って、医者を訪れた、あわてものの青年もあったのである。
従来の「よくぞ男に生まれけり」という鉄則がこわれてきたことが、近ごろ男性の女性化などといわれてよく問題になる。それは男性の権力がおとろえ、女性が解放されてきたためだといる人がある。たとえば、私の知人の女性がアメリカにいって、さいきんよこした手紙のなかに、「アメリカでもっとも大切にきれるのは「第一に金、第二に女性、次が動物で、その次が男性です。」と書いてあった。たしかに、そういうー面が男性の女性化をひきおこしていると言えるかもしれない。じっさいにわれわれを訪れて「性の転換」を望むものは、それよりも、前に挙げたように、異性に変貌した自分じしんの姿につよい愛着をもつ、一種の自己愛からおこっているのである。
また脱線したようだ。話をもとにもどそう。
フェティシズムも、服装倒錯も、その愛着の対象になる物体、体のー部、あるいは、異性の衣服など、いずれも異性の代用や象徴としての役割を果すというよりも、むしろ、その根元には、つよい自己愛があって、仮の性対象としてフェティッシュを選びだしたり、一人で両性をかねるという意味をもっているのである。
だが、ひろい意味でいえば、このフェティシズム傾向と、服装倒錯は、多かれ少なかれ、だれもが秘めている傾向である。恋人に死なれた不幸な男にとっては、彼女のかたみは、彼の傷ついた心を癒すのに役だつであろうし、戦地の兵隊は、芝居や余興で女装することによって、満たされない愛情のはけ口を見いだすことができたといえる。
こういう、有効な、一時的なフェティシズムや服装倒錯は、それなりに同情できる、ほほえましいものをもっている。だが、まえにあげた人びとのように、こういう性の満足の方法が、ただ一つの方法となってしまって、正しく向けられるはずの異性への愛とならず、自己愛の段階にとどまってしまうぱあいは、これを矯正していかなければならない。この点は、まえにナルチシズムの章で述べたことをもうー度、思いおこしていただければ、よくわかると思う。
「異性ノイローゼ」(加藤正明著) 光文社・カッパブックス昭和31年より引用
こういう性の満足の方法が、ただ一つの方法となってしまって、正しく向けられるはずの異性への愛とならず、自己愛の段階にとどまってしまうぱあいは、これを矯正していかなければならない。
66年前の時代においては、異性の愛が「正しく」異性装も矯正の対象という認識でありました。