8月20日にいそのえいたろう氏の『性鬼伝』をご紹介しました。
この本では男芸者の真沙緒姐さん、キャンディキャンディの塩崎雄三氏をルポしています。
そして、いそのえいたろう氏は戦後の日本女装史をまとめています。
私はこの『性鬼伝』を軽い風俗ものと考え、amazonで取り寄せましたが、女装については専門外であるいその氏がこれだけ詳しく女装風俗史をまとめていたことは嬉しい驚きでした。
ニューハーフ、オカマ、ゲイ、ホモと男好きの世界は覆い隠すべくもなくいまや堂々と独り歩きの感がある。
おそらくこうした男の欲望世界は潜在的なものを含めると二百万人、いや三百万人、いやもっと実数は上をゆくだろう。現在、ニューハーフの専門雑誌は『シーメール白書』
『シーメルラブGOLD』『ニューハーフクラブ』と三誌が五万邦市場を狙い撃つ。ホモ系では『薔薇族』『サムソン』『アドン』『ザ・ゲイ』のうち今年に入って二誌が廃刊したとはいえホモ雑誌の市場は、十万邦を超す。女装専門誌は『くいIん』『ひまわり』と同人誌的色彩が濃く、部数的には五、六千部と低調だ。
女装の歴史を撒っていくと日本の女装の黎明期とは一体、どこなのか興味深い。
古くは江戸時代には夜鷹といって立ちんぼの娼婦の中に女装した男がいた、という記述がある。頭に頭巾や手ぬぐいをかむり着物を隆と着こなし、女姿で立ちつくし、ねえ、遊んでおくれよ、と行きかう男に声をかけて薦をひいた上で多分、素股のような処理作業をしていたのであろう。
江戸時代に女装の趣味が栄えたとしても一向に不思議ではない。一説には船影かの世界には、その手のある人たちがいたのもうなずけるところだ。
明治、大正に入って女装趣味の人はSMの世界にまぎれこんでいたようだ。
団鬼六氏の著作『外道の群れ』という文中にはかなり詳細に女装趣味の人が描かれている。
「女装倒錯というのは一般的にオカマと同様におもわれがちだが、それとはまったく異質なものである。一種のナルシズムにつながるだろう。女装した自分に自分が酔いしびれて恋愛感情まで抱き、また性愛の感情として女装した自分をみつめることが出来る。
この世で一番、好きなのは女装化した自分であって、自分を自分の永遠の恋人と見なしてしまうのだ。対象が自分だから愛情の裏切りもなければ心変りもない。
恋い焦れる対象が自分自身という点では塩崎雄三も同類だ。
女装の歴史は昭和二十年代の前半、東京・新宿や大阪・ミナミには立ちんぼの娼婦の中にその種の人たちが潜んでいたようだ。
女装のメークから衣裳の着こなしを娼婦に教えてもらっていたI群がいたようである。いわばプロ娼婦の妹分のような形で客をとっていたかもしれないし、そういう恰好をすることを楽しんでいたのであろう。
確たる歴史的資料がないから推測の域を出ないが、こうした系譜の流れをくんだものが昭和四十年代の前半、東京・新宿の三光町花園街に誕生した「富貴クラブ」だ。鎌田意好という中年紳士が女装専門店のパイオニアとされている。但し、オカマやホモもSMもOKという、やや男色家の傾向も兼ねそなえていたから単純な女装だけではなかった。当時の関係者によれば先輩が初心者に。手ほどきをする〃という男色の世界であったようだ。
鎌田意好なる人物は、自らは女装をせず、御意見番的存在として「キミはオバケだ。もっとおしとやかに」などと助言することで悦に入り、そうした趣味の人たちをそばにおくことを好む。はべらせ趣味でもあったようだ。
当時としては画期的な「富貴クラブ」は大いにはやり、従業員も全員、その趣味の人だった。
その従業員の中にいた当時三十八歳の絶世の美女、加茂梢という人物が枝分かれして女装一本の店を昭和四十二年に新宿三光町十四ノ四九、現在のゴールデン街、花園町に開店した。バー「ふき」これが女装専門の店として歴史的なてヘージを刻むのである。『風俗奇譚』の昭和四十二年四月号に開店広告が認められる。この人物は読売新聞社の輪転機をまわす職人だったが周囲へのフレコミは、新聞記者を吹聴していたそうだ。
「富貴」をもじった「ふき」の店名のことで鎌田意好とモメたあと、店名を「梢」に変更し、昭和四十七年に閉店するが、この時期、大阪・阿倍野には「唄子の店」が華々しく開店していた。『風俗奇譚』への開店広告は昭和四十三年十月号に現住所として大阪市阿倍野区共立通り一-十-十八とある。ホモと女装とSMの会という主旨。オーナー店主は、堺市の鉄工所の御曹子で年齢五十代前半の細身の体に着流しを好み、着流し女装として人気を博したとか。
この人物を中心にして女装趣味の輪は大きく広がりをみせた。「唄子の店」へ出入りするマニアは急増した。そうした人に躾やマナーから化粧、着つけを厳しく指導したのが通称、唄子だった。この唄子の店の従業員はバラエティーに富んだ個性派が多くいた。
レズ担当、ホモ担当、女装担当の係がいて後に独立した店で今日にも至るのが「ローマン」(大阪・梅田茶屋町)はホモ担当の軍服姿の四郎さんが昭和五十四年に開店させた。
レズ担当だった北玲子さんはミナミに「北」を開店、ホモ系では池田某が南森町に「バラトーク」を開店。名古屋には美島弥生さんの「美しま」と、唄子系の人材は昭和・平成と今日の女装の系譜を受け継ぐ主力となった。
東京勢は「富貴」の元従業員たちが独立した形のものでは「ジュネ」や「和」「嬢」がその系譜につながり、現在も活況がつづく。
出所 『性鬼伝』いそのえいたろう著 1997年 徳間文庫
この本では男芸者の真沙緒姐さん、キャンディキャンディの塩崎雄三氏をルポしています。
そして、いそのえいたろう氏は戦後の日本女装史をまとめています。
私はこの『性鬼伝』を軽い風俗ものと考え、amazonで取り寄せましたが、女装については専門外であるいその氏がこれだけ詳しく女装風俗史をまとめていたことは嬉しい驚きでした。
ニューハーフ、オカマ、ゲイ、ホモと男好きの世界は覆い隠すべくもなくいまや堂々と独り歩きの感がある。
おそらくこうした男の欲望世界は潜在的なものを含めると二百万人、いや三百万人、いやもっと実数は上をゆくだろう。現在、ニューハーフの専門雑誌は『シーメール白書』
『シーメルラブGOLD』『ニューハーフクラブ』と三誌が五万邦市場を狙い撃つ。ホモ系では『薔薇族』『サムソン』『アドン』『ザ・ゲイ』のうち今年に入って二誌が廃刊したとはいえホモ雑誌の市場は、十万邦を超す。女装専門誌は『くいIん』『ひまわり』と同人誌的色彩が濃く、部数的には五、六千部と低調だ。
女装の歴史を撒っていくと日本の女装の黎明期とは一体、どこなのか興味深い。
古くは江戸時代には夜鷹といって立ちんぼの娼婦の中に女装した男がいた、という記述がある。頭に頭巾や手ぬぐいをかむり着物を隆と着こなし、女姿で立ちつくし、ねえ、遊んでおくれよ、と行きかう男に声をかけて薦をひいた上で多分、素股のような処理作業をしていたのであろう。
江戸時代に女装の趣味が栄えたとしても一向に不思議ではない。一説には船影かの世界には、その手のある人たちがいたのもうなずけるところだ。
明治、大正に入って女装趣味の人はSMの世界にまぎれこんでいたようだ。
団鬼六氏の著作『外道の群れ』という文中にはかなり詳細に女装趣味の人が描かれている。
「女装倒錯というのは一般的にオカマと同様におもわれがちだが、それとはまったく異質なものである。一種のナルシズムにつながるだろう。女装した自分に自分が酔いしびれて恋愛感情まで抱き、また性愛の感情として女装した自分をみつめることが出来る。
この世で一番、好きなのは女装化した自分であって、自分を自分の永遠の恋人と見なしてしまうのだ。対象が自分だから愛情の裏切りもなければ心変りもない。
恋い焦れる対象が自分自身という点では塩崎雄三も同類だ。
女装の歴史は昭和二十年代の前半、東京・新宿や大阪・ミナミには立ちんぼの娼婦の中にその種の人たちが潜んでいたようだ。
女装のメークから衣裳の着こなしを娼婦に教えてもらっていたI群がいたようである。いわばプロ娼婦の妹分のような形で客をとっていたかもしれないし、そういう恰好をすることを楽しんでいたのであろう。
確たる歴史的資料がないから推測の域を出ないが、こうした系譜の流れをくんだものが昭和四十年代の前半、東京・新宿の三光町花園街に誕生した「富貴クラブ」だ。鎌田意好という中年紳士が女装専門店のパイオニアとされている。但し、オカマやホモもSMもOKという、やや男色家の傾向も兼ねそなえていたから単純な女装だけではなかった。当時の関係者によれば先輩が初心者に。手ほどきをする〃という男色の世界であったようだ。
鎌田意好なる人物は、自らは女装をせず、御意見番的存在として「キミはオバケだ。もっとおしとやかに」などと助言することで悦に入り、そうした趣味の人たちをそばにおくことを好む。はべらせ趣味でもあったようだ。
当時としては画期的な「富貴クラブ」は大いにはやり、従業員も全員、その趣味の人だった。
その従業員の中にいた当時三十八歳の絶世の美女、加茂梢という人物が枝分かれして女装一本の店を昭和四十二年に新宿三光町十四ノ四九、現在のゴールデン街、花園町に開店した。バー「ふき」これが女装専門の店として歴史的なてヘージを刻むのである。『風俗奇譚』の昭和四十二年四月号に開店広告が認められる。この人物は読売新聞社の輪転機をまわす職人だったが周囲へのフレコミは、新聞記者を吹聴していたそうだ。
「富貴」をもじった「ふき」の店名のことで鎌田意好とモメたあと、店名を「梢」に変更し、昭和四十七年に閉店するが、この時期、大阪・阿倍野には「唄子の店」が華々しく開店していた。『風俗奇譚』への開店広告は昭和四十三年十月号に現住所として大阪市阿倍野区共立通り一-十-十八とある。ホモと女装とSMの会という主旨。オーナー店主は、堺市の鉄工所の御曹子で年齢五十代前半の細身の体に着流しを好み、着流し女装として人気を博したとか。
この人物を中心にして女装趣味の輪は大きく広がりをみせた。「唄子の店」へ出入りするマニアは急増した。そうした人に躾やマナーから化粧、着つけを厳しく指導したのが通称、唄子だった。この唄子の店の従業員はバラエティーに富んだ個性派が多くいた。
レズ担当、ホモ担当、女装担当の係がいて後に独立した店で今日にも至るのが「ローマン」(大阪・梅田茶屋町)はホモ担当の軍服姿の四郎さんが昭和五十四年に開店させた。
レズ担当だった北玲子さんはミナミに「北」を開店、ホモ系では池田某が南森町に「バラトーク」を開店。名古屋には美島弥生さんの「美しま」と、唄子系の人材は昭和・平成と今日の女装の系譜を受け継ぐ主力となった。
東京勢は「富貴」の元従業員たちが独立した形のものでは「ジュネ」や「和」「嬢」がその系譜につながり、現在も活況がつづく。
出所 『性鬼伝』いそのえいたろう著 1997年 徳間文庫