小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

国家の役割を合理的に考えよう(SSKシリーズその11)

2014年10月15日 20時44分49秒 | エッセイ
国家の役割を合理的に考えよう(SSKシリーズその11)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2012年5月発表】
 四十代のノンフィクション・ライターとの会話。彼はさまざまな中国人たちと会ってきたらしい。

「自国の本土に侵入されて地上戦を強いられたことの屈辱は私たちには想像できないと思うんです。今度の取材でそれをとても感じました」
「日本だってアメリカの大空襲で本土を滅茶苦茶にされたし原爆まで落とされたじゃないか」
「でも本土での地上戦はやってないでしょう」
「そんなに違いますかね。あなたは敗れた日本人の屈辱を十分に想像しましたか」
「それはしましたよ。でもその前に日本は中国に土足で踏み込んでるじゃないですか」
「私も中国に対しては明白な侵略行為だったと思っていますよ。でもとっくに国家賠償も済んでいるし、数え切れないくらい謝罪をしてきたよね。中国が反日意識を明確に示すようになったのは、東京裁判よりもずっと後のことで、国情が安定して国力が増大してきてからのことだよ」
「でもそれだけ水に流せない怨念の根拠があるということじゃないですか」
「私が言いたいのは、いつまで日本は謝らなきゃいけないんですかってことですよ」
「ずっと謝りつづけるべきだと思います」

 私はこれ以上議論しても無駄だと思って話題を変えた。
 この人は別に「左翼」ではない。また私自身も「保守論客」ではないし、この人個人を批判する気もない。
 それよりも現在この人が四十代であるということが妙に引っかかる。粗雑な世代論に還元しては他の四十代の人たちに失礼なので、四十代の一部、と言いなおしておこう。その一部の人たちが成人したころ、ちょうど中国や韓国は日本の繁栄何するものぞと猛追を仕掛けてきた。一連の反日攻勢はまさにその時期に始まる。
 この人(たち)が想像力を欠落させ視野狭窄に陥っている原因は、大雑把にいって三つある。
 一つはいま述べたように、中韓の反日攻勢は彼らの国情に見合った意図的なものだということ。北京やソウルは国益のために民心を巧みに利用してきたのである。同じ時代に青春期を送った善意の日本人は歴史を見る枠組みが固定化されて、その事実が見えなくなっているのではないか。
 二つに、この人(たち)は中国人の痛みに触れたという実体験だけを根拠に、複雑な歴史的経緯を単純化している。「経験主義」の弊害である。
 最後に、これが最も重要なのだが、この人(たち)は、国家と国家の関係を個人と個人の関係からのアナロジーで解釈している。人を傷つけたと自覚したとき、私たちはその疚しさをいつまでも引きずる。「ずっと謝りつづける」という態度が誠実さの証しとなるゆえんである。
 しかし国家が取る態度のいかんには、内部に抱える膨大な国民の利害に対する重い責任が付着している。自国民にとって不利益となる他国の攻勢に対しては、断固として自国民の利益を守る選択をすべきなのである。国家間の関係を個人の関係と同一視して過剰な誠実さを示すことは、情緒的・排他的なナショナリズムに身をゆだねるのとじつは心理構造として同じなのだ。国家理性とは何か。よくよく深慮してほしいものである。